大洋ボート

白痴(6)

 エパンチン家の人びとが引っ越していった翌日か翌々日に、モスクワ発の列車で、レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵がペテルブルグへやってきた、彼を停車場に出迎えたものは誰もなかったのに、公爵が車を出るとき、その列車で到着した人びとを取り囲む群衆のなかから突然、誰かの怪しい燃えるような二つの眼が、ちらりと注がれたように公爵には思われた。(p428) 

のちにわかるが「怪しい燃えるような二つの眼」とは、じつはロゴージンその人のものだ。ムイシュキンは彼自身では判然とはしないが、例の察知力がここでは彼の自覚を追いぬいてはたらいている。彼はそののち何回となく、同じ眼をロゴージン宅を訪ねる前後に周囲に見つけてしまう。ロゴージンはムイシュキンを殺そうとして、あるいはそれをためらいながら尾行していることが後にわかる。だがムイシュキンには本能にも近いと読者に思わせる善の思想がある。彼は関係する人に憎まれることをした覚えはない。すべてはよかれと思ってなした行動であり、もし憎まれるのならば誤解であり、誤解を解く用意もある。だが「二つの眼」はそういうムイシュキンの思想を突きぬけてくるように執拗で根深い。たしかにロゴージンにとってはムイシュキンは恋敵にあたり、消してしまえば、ナスターシャが手に入れやすくなると考えても無理はない。だがムイシュキンは彼等二人が幸福な結婚生活ができれば喜ばしいと思っている。気弱なのではない、人の幸福を第一に願うのがムイシュキンであり、そういう彼であることはロゴージンも知っているはずなのに。モスクワ?でもペテルブルグへ帰ってきてからも、そういう話し合いを二人は持っている。にもかかわらず、ロゴージンはムイシュキンに燃えるような憎しみを抱くかに見える。ムイシュキンにはその理由がわからない。わかるということはその殺意の存在を認めることになるから、わかりたくはない。だが彼の嗅覚のような察知力は彼の本能にも近い思想を裏切る方向にはたらく。ついにここでムイシュキンは彼の思想と察知力とのあいだで分裂に陥ることになる。ために自己嫌悪と「憂愁」がつのってきて彼を苦しめることになる。だがやはり、信じるために、信じたくない事象を無視しようとしながら、彼はロゴージンに近づく。

 ロゴージン宅を去ってから投宿しているホテルまでの帰路もまた彼のロゴージンへの接近の過程だ。彼の察知はロゴージンが近づきつつあることを感覚するが、帰路のコースを変更したりはしない、つまり逃げないのだ。この間の描写はさすがに白熱する。ロゴージン宅で見たのと同じナイフを売店で見るのも夢幻的だが、彼の察知にとっては真実であり、そういう真実味に読者は少し距離をとりながらもはらはらして読まされる。読者は、ムイシュキンの肉体の一部に小さくなって宿り、彼についていき、彼の視線をとおした風景と夢幻だけが見える。彼のなかでどんな想いが起こり消えるのか、そのとき読者にはわからない。第一読んでいる最中はロゴージンの殺意さえ読者にとっては明瞭ではない。ドストエフスキーが故意にぼかして引き延ばす書き方に終始するからだ。だからこの「ぼかし」は、ムイシュキンの内面とロゴージンの殺意とのに両方にかかっている。小説でしかなしえない「ぼかし」で興味をながびかせるための技巧だが、ムイシュキンの自分自身を理解したくないという心性ともぴったりかさなって、この長編のなかでも薄気味悪い印象を強く残す。ふりかえると、彼にはロゴージンの影がくっきりと見えていながらも逃げない。殺意を信じたくない、ということは殺意への無抵抗をぎりぎりまで維持しようとする。また同時進行的に、てんかんの発作の予感が彼を苦しめる。外部への恐怖と無抵抗がその記憶を残したまま、内部に対する同量の恐怖と無力に変わる。やがて忍耐の限界を超えたように、彼は発作に襲われて倒れる。私の書き方は唐突だが、小説ではたいへん巧妙に連続的な過程として書かれている……。ドストエフスキーはみずからの罹病体験から、てんかんに思想的意義を付与しているが、立ち入る余裕がない。そういう方面の素養がないと、うっかりしたことを書いてしまいそうだ。ただ小説からは、自己嫌悪と憂愁それに恐怖がムイシュキンのなかで鬱積した果てに起こりうる病理現象として理解できるばかりだ。ともかくもロゴージンはホテルの階段の踊り場の身を隠せる場所で、ナイフをふりかざしてムイシュキンを待ちかまえているのである。

 前後するが、ムイシュキンが訪ねたときのロゴージン邸のたたずまいを作者はこう書いている。

 その家はどす黒い緑色に塗られた、少しも飾りのない、陰気な感じのする大きな三階建てであった。前世紀の終わりに建てられたこの種の家は、きわめて少数であったが、移り変わりのはげしいペテルブルグにありながらも、このあたりの街ではまったく旧態依然として残っていた。これらの家は壁が厚く、窓が少なく、とても頑丈に建てられている。一階の窓にはときどき格子がはまっている。多くの場合、一階は両替屋になっている。上は、両替屋の厄介になっているスコペエツ(訳注 禁欲を旨とする宗派の人びと)が借りている。外見から見ても中へはいってみても、何だか愛想がなくてかさかさしており、いつも物陰へ姿を潜めようとでもしているような感じがする。(上巻p461)

 ドストエフスキーの小説には会話や独白、手紙のたぐいが非常に多く占めている。それだけ風景や人物、事物に対するいわゆる客観描写が少ない。少ない分だけ読者は見落としがちになる。が、引用した部分は引っかかるものがある。無学なため、何ら解釈を提示することはできないが……。ロゴージンはこの「どす黒い緑色に塗られた」「陰気な感じのする家」の二階を借りているのだが、彼自身はスコペエツ派には属していない。彼の父も同じだったが、ただ父はその宗派の人を尊敬していたと、ロゴージンは語る。ここは、この長編小説全般にわたってムイシュキンの口を借りてドストエフスキーが展開する宗教批判、無神論批判とつながりがあるようにも思える。仄めかし程度で、作者はふかくは立ち入らないが、記憶にとどめておいてよいところかもしれない。一階が両替屋なのも何故だろう。そういえばエパンチン、トーツキイ、それにガヴリーラの妹の結婚相手であるプチーツィンらは、両替屋ではないが同じ金融業である金貸しを副業または本業として営んでいる。またレーベジェフ、ガブリーラその他、金への執着が旺盛ながらそこからあぶれた人たちや貧乏人も多く登場する。作者はその一人ひとりには好意的であったりそうでなかったりと一様ではないのだが、拝金主義そのものに対してはやはり批判的である。つまりこの小説には宗教と金にまつわる話がてんこ盛りにあって、その雑駁性のなかにムイシュキンはじめ主要な人物が島のように浮かんでいる。そしてロゴージンの住居のたたずまいも、ロゴージンに関する宗教と金にまつわる何らかの暗示を読者にあたえようとするようにも読めるのだが……。寄り道をしたのかもしれない。


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白痴(5)

 ナスターシャとはどんな女性なのだろうか。成長期に貞操を破壊されてぐれてしまい、遊び仲間を連れて遊び呆けて憂さを晴らしている、とりすました人に挑戦的で意地悪で、という人物像が浮かぶ。それはまちがいではなく、現在の女性像においても容易に見つけだせそうだ。だがそれだけではない。自殺願望に強くつらぬかれた人なのだ、彼女は。この小説全編を読んでしまえばそれはわかるが、ここまで(上巻400ページほどの範囲)では作者によって仄めかされる程度だ。19世紀ロシアのこの時代のみならず、それほどとおくない過去においても、女性のある部分においては、貞操観念が宗教的意識の抑圧ともからみあって如何にも強固な時代であったと考えられる。だからそれが破壊をこうむった後の女性の精神の風景は、現在ではちょっと想像しにくい。その時代においても、外部から様子をうかがう程度の観察しかできなかったのではないか。ドストエフスキーも右に同じかもしれない。だから、あらあらしさの向こう側には、そういう意味で、意外と類型的な女性像しか浮かび上がらない気がする。むしろ、そういうナスターシャのような女性像をぶつけることによって、ムイシュキンに起こる混乱をこそ作者は描き出したかったのではないか。

 ナスターシャの遊蕩的なふるまいは一過程に過ぎない。そういう彼女自身の内実をムイシュキンは知らないと、ナスターシャは見なす。ひとかたでない好感を抱きながら「世間知らずの坊や」とムイシュキンを揶揄する。だが読者はムイシュキンが半分くらいは、ナスターシャのそういう内実を見抜いていることが見て取れる、ただ、彼は彼の思想によって自殺願望などというものを認めたくはないのだろう。ナスターシャがロゴージンとともに自宅を出ていく際のムイシュキンと一同に向けて放つ捨てぜりふ。

「(前略)ねえ、あたしだってあなたみたいな人を夢見なかったわけじゃないのよ。あなたの言うとおりよ。あたしがまだ田舎のあの人のところに養われて、五年間もまったくのひとりぼっちで暮らしていたころ、あたしはよくあなたみたいな人を夢見ていたんだわ。よくよく考えて考えぬいて夢に描いてみると、正直で、人がよくて、親切で、そしてやっぱり少し間の抜けた人を想像したの。そんな人がいきなりやってきて『ナスターシャ・フィリポヴナ、あなたには罪はありませんよ、私はあなたを尊敬しています』と言うのよ。ええ、よくそんな空想に苦しめられて、気が変になりそうになることもあったわ……そんなところへあの人がやってきて、毎年二月ずつ泊まっていって、あたしに汚らわしい、恥ずかしい、腹の立つようなみだらなことをして帰っていったんです。――あたしは何べんも池へ身を投げようと思ったんですけれど、怖気づいてできなかったんです。さあ、今度こそ……ロゴージン、用意はいいの?」(p392~393)
 
 ナスターシャが田舎で空想した人はムイシュキンにぴったりかさなる。イエスに罪の無化を、許しを請うようではないか。だが空想のなかのその人は、イエスほどの権威も厳格さもない、宗教的指導者として集団も組まない、もっと隣人に近いやさしい人となりの持ち主だ。もっと秘やかなものだ。そしてナスターシャはそういう空想と願いをみずからの手で滅却しようとする。これは聖書に記された「再生」や「復活」への信仰を、親近感を抱きながらあえて捨て去ろうとすることに通じる。ここでも私はイエスの「地獄において身のみを滅ぼす人をおそれるな。身をも魂をも滅ぼす人をおそれなさい。」という言葉を思い出す。このイエスの言葉は難解だが、ナスターシャの志向はそのひとつの表れではないかと受け取れなくはない。またここまで書くと「さあ、今度こそ……」という彼女の言葉が、おもわず漏らした自殺の決意表明であることがわかるが、目だたない。ドストエフスキーが読者を引っぱり、興味をつなぎとめるために(読者を誤解させるために)、あえてこういう小さいセリフにとどめたのだろう。私も引用するまでは気がつかなかった。結局、ナスターシャはそういう自身の強固な志向にムイシュキンを巻き込みたくないという思いでいっぱいだ。それで、たいして好きでもなさそうなあらくれ男のロゴージンとともに遊行をつづけることになるのだが、ロゴージンという男は、これはこれでまた見せかけとは大きく食いちがう……。

 以上が第一編まで(全体の3分の1ほど)のあらすじであり、ムイシュキンとナスターシャの人物像に関する私の解釈である。この後も両者は接近と離別をくり返すことになる。結婚話が両者に、またナスターシャとロゴージンの間にも持ち上がっては消えるという展開がある。さらにはムイシュキンをめぐるナスターシャとアグリーラのつばぜり合いもある。ナスターシャがアグリーラに結婚相手としてムイシュキンを勧める手紙を何通も書く。これはムイシュキンを思っての真心から発されたのだが、アグリーラはわからないから、ナスターシャを自己陶酔があまりに強く、ムイシュキンに薄情だとなじることから勃発する。アグリーラは二十歳で、ムイシュキンの人物像にはミーハー的だが理解力はあり、あこがれてもいるが、ナスターシャに対しては理解が表面的だ……。だがムイシュキンとナスターシャの人物像の基本構図はずっと変わらないので、このあとのあらすじは追わないことにする。少しつけくわえておくと、第一編の舞台はペテルブルグで、ナスターシャの自宅での一件以来、彼女とロゴージンはモスクワ方面へ姿を消し、ムイシュキンもその後を追った。そして半年後、彼等は舞い戻ってくるのだが、主な舞台はペテルブルグの郊外の別荘地パーヴロフスクである。季節が夏に移行するからだ。エパンチン家の別荘があり、またレーベジェフという人物の別荘をムイシュキンが借り受けて暮らすことになる。だがその前に、ペテルブルグに帰ってまもなく、ムイシュキンはパルヒョン・ロゴージンを訪ねる。ここはこの長編小説では落としてはならない重要な部分だ。

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白痴(4)

 ナスターシャもまた、ムイシュキンと同じように幼児期に両親と死別した生い立ちの人である。トーツキイというエパンチン家とも交際のあるプチプル階級の男に援助してもらって育ったが、これが悪い男で、十代半ばにもなると彼女を性的な慰み者にしてしまった。この点ではムイシュキンがスイスで出会った娘さんと同じ運命を刻まれた。このことが彼女に「底深い影」を落とすことになる。成人してペテルブルグに居を移すが、やはりトーツキイの金銭的援助を甘受する。だが彼に対してはきわめて反抗的で、彼が別の女性とねんごろになろうとするとその現場へ押しかけていく。また、トーツキイの彼女とのあわよくば結婚を、という望みにも知らん顔だし、トーツキイの援助をいつでも捨ててしまえる用意もある。そんなナスターシャだが、みずからをあばずれと呼んではばからない。美貌と小遣い銭くらいの金が惹きつけるのか、素性の怪しげな男女どもが彼女に吸い寄せられるように集まって来て、彼女はいつも彼等をつれて遊びまわっている。エパンチン家の人々はじめ、それが外部からよくわかり、ある人たちにとっては悪評判だ。そこでトーツキイは、ナスターシャをおとなしくさせようとして、また身辺からとおざけようとして、エパンチンと組んである青年と結婚させようとお膳立てをする。青年はガブリーラ(ガーニャ)・アルダリオノヴィチといって、出世のためには手段を選ばない野心家であり、またムイシュキンが一時的に下宿することになるイヴォルギン将軍家の長男である。有力者の紹介で結婚を果たすことが、この時代でも出世の糸口になるのだろうか、またトーツキイがナスターシャに持参金を持たせることもガブリーラは知っている。彼はそれ以前はエパンチン家の三女アグラーヤとの結婚を望んだのだが、トーツキイらの話に乗って切り替えたのだ。そしてそういう諸々の事情をナスターシャは情報網によって、ことごとく知り尽くしている。彼女ははなから結婚話にのるつもりはないのだが、それは隠して最後の返事をするからと言ってガブリーラを自宅に招いて、さんざん愚弄する挙に出る。この愚弄ぶりを作者は、ナスターシャを借りて、力を込めてうんざりするほどに長々と書く。ガーニャのモデルになった人物がドストエフスキーの近くにいて、その人物をよほど憎んでいたかのような書きっぷりだ。小心者で姑息で煮え切らないという人物像だが、それほど読み物として面白くはない。そこには彼女の取り巻き連はじめトーツキイ、エパンチンらも招待されて同席することになる。ナスターシャの「名の日の祝い」にあたるパーティだ。彼女にとっては、ガブリーラのプロポーズへの拒絶をこういう場所で宣言することが、トーツキイやエパンチン(彼もまたナスターシャに下心を持っている)らへの訣別の宣言にもつながる、という思いもある。そして、この小説の主人公ムイシュキン公爵もその場にいる。

 彼はその場でナスターシャにはじめて出会ったのではなく、イヴォルギン邸に不意に訪ねてきた彼女をすでに目にしていた。そこではたいして話し込むこともなかったが、彼女とガブリーラとの結婚話を知った。ガブリーラとは話をし、事情を知ったので結婚の見込みがないことを彼に忠告した。父のイヴォルギンは飲んだくれで駄法螺吹きで家族の厄介者だが、ナスターシャは彼を愚弄した。また結婚に反対する母や妹とガブリーラとの対立をかえって煽ることもした。その一部始終をムイシュキンは見ていたからだ。だが欲ボケでガブリーラは耳にはいらない。またそれ以上にムイシュキンは、写真からえたくだんの「底深い影」の印象をより深め、より確信するにいたった。ナスターシャのはげしい人柄からして何かとんでもないことが起きるにちがいないと危惧をつのらせて、招待されてもいないのに駆けつけた。彼をイヴォルギン邸の召使いだとナスターシャは誤解していたくらいだ。参加者のくだらない話がつづくなか、ナスターシャはムイシュキンに好印象をもって会話を交わす。だがそれも束の間、そこへパルヒョン・ロゴージンという男が、あらくれ男たちをしたがえて乱入してくる。彼はどこかでナスターシャを見てひと目惚れしたのだ。その後彼女とは、グループ交際という状態にまで発展して、ついにその夜、ガヴリーラに対抗して彼もまたプロポーズするにいたる。おまけにトーツキイの予定する持参金の額を上回る現金まで用意して来た。冗談めかしてナスターシャが口に出した金額を馬鹿正直にそろえたのだ。そしてナスターシャはロゴージンの勝利を宣言する。「私をロゴージンがせりおとした」と。そして落胆するガヴリーラに対して、ロゴージンが用意した金をそっくりくれてやろうとする。ただし普通のやり方ではなく、彼女一流の気性の激しい、意地悪なやりかただ。金に対する執着がとかく評判のガブリーラだから、それを試そうとするかのように、包装した現金を暖炉に投げ入れて、やけどをしてでも彼みずからの手でつかみとらせようとするのだ。ガヴリーラは動揺きわまって失神してしまうのだが……。だがこの場面と前後して、ムイシュキンもまた、まるでおろおろしながら、ナスターシャにプロポーズしてしまうのだ。

 周囲の人々もそして読者も、ナスターシャの振る舞いは乱暴狼藉以外の何ものでもないと受け取るにちがいない。だがムイシュキンはまったく意想外のことをナスターシャに叫ぶ。いちいち翻訳文どおりではないが、あなたほど純潔な人はいない、あなたはロゴージンの情夫なんかではない、ロゴージンの元へ走ろうとするのはあなたの発作だ、あなたは尊敬に値する人で、あなたは私に名誉をあたえることのできる人だ、等々。うろたえた様子に染まりながらも、確信を持って言葉を吐き出す。どうしたことだろう。目の前のナスターシャを見ながら、普通の男性ならとてもこんな言葉は思いつかないし、吐くこともできない。これはムイシュキンの以前からの主観にうつったナスターシャに向けられた言葉だ。美しい女は何をしても美しく見える、行動はまちがっていても心はきっときれいだ、というたぐいの呆けた恋愛感情(ガヴリーラがそれに当たる)とは異質だ。だが表面的には瓜ふたつで紙一重の差しかない。それにしても、彼が言う、あなたは私に名誉をあたえられるとの言葉はあまりにも破天荒だ。強烈さをこめて気を引こうとしているのだ。また、ガブリーラに対するいじめを止めさせようとする動機も無論かねている。だがムイシュキンはナスターシャに無条件に隷属したがっているのではない。

 唐突だが私はここで「貧しい人や、罪人こそ幸福者だ」と言ったイエス・キリストを連想する。ムイシュキンにとってナスターシャはこの世で一番「虐げられた人」であり、彼が憐れみを持って接しなければならない、そして「虐げられた人」は決して悪人ではない。また重要なことだが、永遠につづく罪もない。これは彼の思想であり、イエスとも通じる性質のものだ。ムイシュキンはうつくしい自然を眺めるように健康な生活をおくることが、その条件をあたえることが「虐げられた人々」を解放すると素朴に考える。イエスのようにみずからの権威で病や罪を癒したりゆるしたりはできないのだ。またムイシュキンの察知(洞察)では「と同時に、なんとなく人を信じやすいような、おどろくほど飾り気のない素朴さといったものがあった。」という気質もとらえられている。ムイシュキンの言葉がつうじる人として、彼はナスターシャを見なしている。そこまで彼が理解を及ぼすことができることが小説的フィクションであるにせよ。

 だが同時に、前に書いたここと一見矛盾するが、私はムイシュキンが恋愛感情のまっただ中にいる気もする。恋愛感情とはわけのわからないものだ。書いたように奉仕とエゴイズムがいっしょくたになったものだが、それ以前にわけのわからないものではないか。混乱に輪をかけるが、別の見方も私にはある。作者と読者の情熱の質がいつも同じとはかぎらない。作者の情熱についていこうとすると、読者はともすれば自分の得意な情熱をいつのまにか引っ張り出しているのではないか。情熱の質の個人差など早急に変わるものではない。私は理解をせずに、私の恋愛感情をムイシュキンに投影するに過ぎないのか。それとも恋愛と奉仕の感情をわけることに、私はこだわりすぎるのかもしれない。

 恋愛感情そのものは、ムイシュキンにとっては美ではないのかもしれない。だがナスターシャの放散する美「このまばゆいばかりの美しさ」は、まちがいなく美であり、その美はまたムイシュキンが賞賛してやまない自然の風景の美と、美としてつながっている。ムイシュキンが頼りにするものだ。両者の美がまったく同一とはいえないが、また美がナスターシャのすべてでもないが、ムイシュキンは同一だと見なしたくて堪えるのかもしれない。美にひれ伏すことが彼の思想なのだし、美=真=善なのだから。ともかくも、ごった煮のような彼のそういう世界をすべてをナスターシャにぶつけることによって、恋愛という雑駁な意識の世界そのものからとびでようとする、みずからのなかで強引にねじ伏せようとする、忘れようとする。そして彼の願いと行いは必ずやナスターシャの心に届く、ナスターシャを救うことができる、という思いが洞察とともに賭けられている。私はそんな風にムイシュキンを理解したい。

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白痴(3)

 ムイシュキンは幼いときに両親と死別し、親戚の人によって育てられた。ずっとてんかんを患っており、最初に書いたとおり二〇代に医師の指導によってスイスで療養した。そして二六歳になって小康状態のまま故国ロシアのペテルブルグに帰ってくる。身よりのない彼だが、たったひとり遠縁の人がいてその人を頼って訪問する。エパンチン将軍家の夫人リザヴェータ(エリザヴェータ・プロコフィエヴナ)ある。エパンチン家は中産階級というところか。結婚前の娘さんアレクサンドラ、アデライータ、アグラーヤの三人がいて、ムイシュキン公爵は華やかな雰囲気に包まれる。そこで今まで書いたような死刑囚やら病気の娘さんやらの話をえんえんと披露して人気をえる。後のことだが、ムイシュキンに育ての親にあたる人からの高額な遺産が入ることが判明して、リザヴェータは娘の結婚相手の候補としても彼に目につけるようになる。だが反対にそういう落ちこぼれ的な人々を熱っぽく擁護する彼を題名のように「白痴」と影で呼ぶ人も出てくる。そして重要なことだが、ムイシュキンはこの小説のヒロインとなるナスターシャ・フィリッポヴナをこの家ではじめて写真!で対面することになる。ひとめそれを見て彼は衝撃を受ける。誰しもが認める美人ではあるが、底深い影がある。見過ごせないほどの不幸を背負っていて、それは彼の「憐れみの心」をいたく刺激するが、同時に早くも彼の自信を喪失させるほどの不幸だ。二度目に写真を手にしたときの彼の印象。

 彼はその顔のなかに秘められていて、さきほど自分の心を打ったあるものの謎をなんとしても解きたいような気がした。さきほどの印象はあれからずっと彼の心を去らなかったので、彼はいま急いで再び何ものかを確かめようとしているみたいであった。その美しさのためばかりでなく、さらに何かしらあるもののために世のつねのものとも思われぬその顔は、前よりもいっそう力強く彼の感動を誘った。まるで量り知れぬ矜持と、ほとんど憎悪に近い侮辱の色が、その顔にあらわれているように思われた。と同時に、なんとなく人を信じやすいような、おどろくほど飾り気のない素朴さといったものがあった。この二つのもののコントラストは、この面影を見る人の胸に一種のあわれみの情とさえ言えるものを呼びおこすように思われた。このまばゆいばかりの美しさは、見るに耐えがたいようにさえ感じられる。(p179)

 私が「底深い影」と言い換えた内容とは「まるで量り知れぬ矜持と、ほとんど憎悪に近い侮辱の色」が顔に表れていることに当たる。読者はここで引きこまれると同時に突き放される。写真をとっくり眺めただけでここまで洞察しうる人がはたしているのだろうか、と。顔の写真を見て私たちは何らかの印象を持つことができ、その人柄を明るいだの暗いだの、素直そうだの屈折してそうだの、さまざまに推察してみることができるが、当たっているのか外れているのかは自信が持てない。まずは正確無比な洞察が可能な人はいないと考えた方が無難だろう。だが、それを前提としたうえで、ムイシュキンは特異な察知能力を持っていることを私たちは知り、それが小説的虚構であることを呑みこんだうえで、彼の察知はたぶん外れないであろうこともそれまでの小説の流れから知らされるのだ。彼の主観にうつったたとえばナスターシャが、即ナスターシャの客観的な像であるという前提でこの小説は成立する。

 ナスターシャは、写真で対面したこのときからムイシュキンにとっては、彼の周りの一番不幸な人として彼の心に刻み止められる。のみならずそれは不幸な出来事と思われるものに対する彼女の一種の「力」の具現化であり、「力」による対抗なのだ。おしひがれそうになっている自身をそれでもって支えている。「まるで量り知れぬ矜持と、ほとんど憎悪に近い侮辱の色」というムイシュキンの印象が、私が言う「力」にあたる。それは彼がスイスのうつくしい自然の奥に見いだそうとして十分には見極められなかった「力」とは近接しているものの異なった、いわばマイナスの力の発現だが、その力の発現量が彼をおどろかせ、彼を圧倒する。彼女への劣等意識さえ植えつける。「なんとなく人を信じやすいような、おどろくほど飾り気のない素朴さ」とは「力」の制圧をいまだ被らずにのこされた部分で、そことの対比でかえって「力」の発現がきわだたせられているのだ。そういう彼女に「あわれみの情」を起こさせるのは、見る者すべてではなく、無論ムイシュキンがもっとも鋭敏にそれを起こす。さらにそのうえにナスターシャの「まばゆいばかりの美しさ」である。彼はおそらくは混乱するであろうし、恋愛本能があるとしてそれを刺激せずにはおかないのだろう。

 恋愛感情に奉仕の気持ちがあることは誰でも体験から知っている。それを上乗せするのか、最初から内在的に含まれているのかは問わないにせよ。また、奉仕以外の気持ちとしては何があるのだろう。美しさに触れたい、独占したい、独占することによって幸福を勝ち取りたい、という切なさをともなった気持ちではないか。だが私たちは後者の部分を相手の異性に見せまいとして、前者の気持ちをこそわかってもらいたいとふるまうのではないだろうか。後者には図々しさがある。性衝動もある、狩猟行動に似たところもある。異性(女性)にとっては、剥き出されたそれは容易に拒絶の対象たりうるだろう。だからこそ私たちは奉仕を異性に対して押し出すのだ。プロポーズ(結婚申し込み)とは、異性に奉仕の気持ちをいくらかでも納得してもらってからでなければ切り出せないものだし、プロポーズ自体にも「一生面倒をみる」という奉仕の気持ちが無論含まれている。悪い見方をすれば、独占欲をおしかくしながらそれを実現しようとするものである。だがムイシュキンの場合は事情はまったく逆である。彼は独占欲とはまったく無縁の人として描かれる。自分の身の回りの最も不幸に見える人を放置することができない、なんとかしてやりたい、そしてそれを担う者は自分しかいない、という気持ちが彼をナスターシャに向かわせる。そうすることが彼の担うべき運命であり、思想的課題だと彼がとらえるからだ。後にもふれるが、ここへきて彼は自然のうつくしい風景から自然に生まれ出たうつくしさを帯びた人ではなく、そういう風に自己規定する人であることが見て取れる。これがムイシュキンによるムイシュキンの思想だ。ムイシュキン一人のためでなく、目に見える範囲での全体のためだと彼が考える思想だ。そうしてナスターシャという女性に対して彼の使命を果たさせる環境が、制度としての結婚であり、それを彼女が受け入れることなのだ。結婚という形式が同じでも、利己的な欲望を隠蔽するための口実ではない。だから彼女が幸福になれることが見きわめられれば、自分との結婚には彼はこだわらず、よろこんで放棄する用意がある。無論彼も生身の人であることは変わりがない。ある女性とベンチで腰掛けることを想像して顔を赤らめるのだから。

 彼は恋愛本能に対しては幼い。そしてそれを独立させて発展させるするのではなく、奉仕の行動と思想に夢中になることによって、そういう方面のことをしだいに忘れ、置いてきぼりにする。私はそう読むしかない。そんなことが人間として偽善なしに、混じり気なしに可能なのか、という問いはここでは無効で、小説という器を利用してドストエフスキーが巧みにつくってしまった人間像だ。作者のムイシュキンのそんな人間像に対する愛着ぶり、苦心惨憺の彫逐ぶりを、読者はなかば酔うようにして見まもるしかない。また、ムイシュキンのナスターシャへの異常な接近ぶりが、周囲の人に誤解を生み、「白痴」という陰口が定着することも彼は重々承知しているが、夢中になってしまうのだ。
 
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オーロラ

 某国の王女オーロラ(マルゴ・シャトリエ)はバレーが好き。だがこの国では王の命令によって踊りが禁止されている。おりしも財政難で、王はオーロラを嫁がせてその危機を乗り越えようとする。結婚相手の王子の国に援助してもらうためだ。だがオーロラはまだ若く、結婚する気はない。

 バレーとダンスを見せる映画で、見合いの場である舞踏会(この場にかぎっては踊りが許されている)では、訪れた王子が自国のダンスを紹介するくだりがある。また幻想シーンではオーロラのバレーがふんだんに楽しめる。しかし音楽がいかにももっさりしていて平凡で、たいへん耳障りだ。そのために踊りの世界に入り込めない気がした。

 印象にのこったのは「ジパンゴ」国のダンス。王子がちょんまげで着物を着ていたので、古い時代の日本を意識したのだろう。ダンスは前衛舞踊そのもの。半裸の女性が最後の静止のとき、悲しみをきわだたせた表情を訴えかけていた。
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白痴(2)

 ムイシュキンはスイス在住のおり、貧しいうえ病気がちの十代後半の少女を見事に救った経験がある。マリーという少女は結局は死んでしまうが、これは彼の自慢だ。すがすがしい体験だ。彼女の母は自宅を利用してちっぽけな売店を営むが、それだけでは足りず、少女は近所の家の手伝いなど日雇い労働に出される身だった。すでにその時には肺病を患っていたが、外国人の商人にたぶらかされて誘拐された。一週間後に彼女はぼろぼろの身なりで帰ってくるが、それ以後、大人や子供、そして彼女の母までも加わった形で、村中の人々にいじめられる。その商人に肉体をもてあそばれたことを全員がなじるのだ。教会の牧師でさえ加担する。今日では強制的性行為の被害者が、加害者そっちのけで非難されることは奇異に受け取られるかもしれないが、ついこのあいだまではそういう傾向が公の場でも大いにあったし、今でも隠微な場ではそういう会話は流れるものだ。──そのなかでたったひとり同情を寄せるのがムイシュキンで、子供と遊ぶのが好きな彼は、子供たちをたしなめる。やがて子供たちも彼に同調するようになり、食料やら身の回りのものやらすこしずつではあるが、マリーに持っていく。少女もムイシュキン同様、いつのまにか村の子供たちの人気者になるのだが、病気の進行はやまない。たのまれもしないのに牛飼いの仕事を買って出る……。記憶にとどめておくべきは、彼はわざわざ、女性として好きだから大事にするわけではないと、少女にはっきり断っていることだ。そのうえで接吻をする。少女は美人ではない、と彼はわざわざ断って語る。少女はそんなムイシュキンや子供たちに取り巻かれ幸福を真に実感しながら、臨終する。

 この体験はムイシュキンに「憐れみの心」(恋心ではない)をもって人に接すれば、また具体的に行動すれば、必ずその人は幸福になり、周囲の人も同じ気分を分かち合うことができる、という自信を植え付ける。たとえ貧乏であっても死んでしまっても、だ。善行をほどこせば、ほどこされた相手はかならず善意や愛情を触発され、ひとかたならない満足をうる、ということだ。逆に言えば、ムイシュキンにとって悪人と呼ぶべき人はこの世には存在しない、彼の善意に反逆する人はいない。その存在の可能性をさえ信じたくない。

 ところで、ムイシュキンには生活の維持(仕事)に費やすべき時間が、療養という理由で免除されている。地域のしがらみとも隔たった立場に身を置ける。また、ロシアに帰還したあと明らかになるが、亡くなった近親者からの十分な額の遺産がもたらされることが判明する。つまり二四時間すべてを使って、善意や「憐れみの心」について心を砕き、行動につくことができる。そういう条件が保障されている。これは一見、仕事や家族にとりまかれて大部分の時間をそこで過ごし、そこでしかない、相も変わらない同じような不快や失敗にまみれる私達の日常に比べれば羨ましい気も湧いてくる。いつてんかん病が再発するかもしれないという不安をのぞいては。だがこれは、私たちが自身の日常を気に入っているのかいないのか、適度な妥協が成立しているのか、それともいやでいやでたまらないのか、ということに対応して、ムイシュキンに対する私たちの羨望の度合いもちがってくるのだろう。また闇雲にムイシュキン的ロマンをもとめる切迫した感情が、おそらくは若さが私たちにどれだけあるのか、という問題でもある。そうだ、私たちが日常をくり返すことをゆるされた存在ならば、彼はそうではない。彼の「憐れみの心」はたんに自己満足的に終わるのではない。殉教と言うにふさわしいほどに彼はそこに徹底する。運命であるかのように後退することをまるで知らないのだ。帰る場所がない。強いてあるとすれば自然の風景ということになる。

 私たちはまた、生活の維持のために醜い姿をさらすこともある。人の情けにぶら下がる反面、平気で薄情にもなれる。人の面倒をそれほどはみられない。何よりも金に執着する面は否定できない。私たちが自身の生活上の存在を、決して座り心地のよいものではないことを、恥がつきまとうことを知っている。「憐れみの心」にあこがれながらもそれに忠実なばかりではいられないのだ。この小説で例をあげればガヴリーラやレーベジェフという人物が、そういう醜さをさらに拡大させた見本だ。そうすると、ムイシュキンは、私たちやこれらの人物の生活像をちょうど反転させてドストエフスキーがつくりあげた、つまり両者がセットとしても見なすことのできる人物像ということもできるようだ。彼が上澄み液ならば、私たちや彼等はその下の液であり澱なのだ。そしてムイシュキンは生活をくり返すようにはくり返さない。私たちの不快や失敗は、喉元過ぎれば熱さを忘れる式の処方でほとんどのりこえられる。だが、彼は不快と失敗には脆い。手なづけてくり返すためのマニュアルがない。「憐れみの心」を実現するために、まるで坂道を転げ落ちていく。彼が信奉する世界観と現実とはちがう。その裂け目と彼がこうむる打撃とを私たちは見ることになる。

 ムイシュキンは幼い。それは私たちが若さのなかに忘れてきた幼さではないか。淡い夢にひたった時間を思い起こさせるのだが、彼は一個の人としてそれを引き受けるので、核心部分に淡さはあるにせよ、それを決して現実の困難に溶解はさせない。彼の発する「憐れみの心」についていきながら、私たちは知らず知らずに彼に対してこそ一番「憐れみ」をふりむけてしまう。私達は果たして彼と同質の「憐れみの心」をどれくらい胚胎しているのか、どたんばになってそれを果たして実行することができるのか、という自問は当然ながら私たち読者にもつきつけられるのだが、それもおろそかにしてしまうくらいだ。

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白痴(1)

白痴 (上巻) 白痴 (上巻)
木村 浩、ドストエフスキー 他 (1970/12)
新潮社

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 ムイシュキン公爵は無類の善意の人である。その善意は彼の語る美にもとづいている。それは彼が持病のてんかんのために四年間療養生活を送ったスイスの自然に満ちた村のうつくしい風景である。また、そこで接しやがて彼も慕われることになる子供たちの純朴さである。そういううつくしさや純朴さが、彼を洗い、彼の善意を混じり気のないものにする。最初に彼の善意があって、その意識せざる投影を風景や子供たちに彼は見たのかもしれない。また善意を力強く且つうつくしく保障する根源をそれらに見いだすべく、引っぱってきたかったのかもしれない。だが読者は、ムイシュキンがまるでそういううつくしさから奇跡のように生まれ出て来た存在であるかのように最初は読んでみたくなる。作者ドストエフスキーもまた、はじまりの部分においては、そういう読ませ方を意図するようだ。自然=美=善意、という等式に私達は吸い寄せられる。

 ムイシュキンの善意とは絶望や困窮に陥った人々に対してとりわけ向けられる。だまって見過ごせないという「憐れみの心」だ。たとえば彼の語る死刑執行直前の死刑囚の話。頭巾をかむせられて断頭台に上がろうとする死刑囚に、神父が十字架を接吻させる。わけがわからなくなって何回も何回も接吻する死刑囚。ちょっとした挿話だが、震えが伝わってくる気がする。そしてムイシュキンの聞き語りによれば、死の直前に近づけば近づくほど「生」が凝縮して光芒を強烈に放って輝くというのだ。絶望のどんづまりにあってこそ、生きたいと切に思う。生きる歓喜を魂は彼方に見据えて想像する。ムイシュキンはまるでそういう死刑囚を羨むように生き生きと語って私達を魅了する。死刑囚に勿論同情を寄せるのだろうし、明瞭に書かれてはいないが、おそらくは死刑制度には反対だろう。また彼等の犯罪内容にはふれることはないし、彼等への憎しみもまったく語りのなかには存在しない。だが、そんなことよりも重要なのは、死刑囚の生への渇望がムイシュキンの自然崇拝に結びつけられていることだろう。目に見える自然もそうだが、死刑囚のエピソードも援用して、力強い、新しい生を彼は見いだしたがっている。ムイシュキンの死刑囚への「憐れみの心」は硬直的ではなく、こういう具合に羨望や愛しさとも混じり合う。またドストエフスキーはかつて社会主義のグループに所属したことがあり、その際、事件に連座させられて死刑判決を下されたものの、執行直前になって特赦を受けたという体験がある。識者によればその体験が死刑囚の挿話としてほとんどそのまま語られているという。

 死刑囚は死刑執行の三分前に思考と想像力を凝縮させ、全開させる。もはや三分後には自分は死ぬ。だが死、ということでは必ずしもなく、自分はどこかへ行く、何かに生まれ変わる、というように幻想は野放図に拡大して、死の認識さえ隠れるくらいにまで彼を支配する。それを構図として是が否とも明瞭化したい、「説明」したいという欲望が極大化する。だがそれでも、それはやはり「死」の世界そのもの以外にはありえない、死を否定しきれないという「嫌悪の情」も同時に高じてくる。

いま自分はこのように存在し生きているのに、三分後にはもう何かあるものになる、つまり、誰かにか、何かにか、なるのだ。これはそもそもなぜだろう、この問題をできるだけ早く、はっきりと自分に説明したかったのです。誰かになるとすれば誰になるのか、そしてそれはどこなのであろう? これだけのことをすっかり、この二分間に解決しようとしたのです! そこからほど遠からぬところに教会があって、その金色の屋根の頂が明るい日光にきらきらと輝いていたそうです。男はおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反射して輝く日光をながめながら、その光線から眼を離すことができなかったと言っていました。この光線こそ自分の新しい自然であり、あと三分たったら、何らかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気がしたそうです……いまにも訪れるであろうこの新しい未知の世界と、それに対する嫌悪の情は、まったく空恐ろしいものでした。(p133)

 そして男は、もし死なないとしたら自分の生は無限の輝きを放つだろうし、一分たりとも無駄にはしないだろう、そこにはめくるめき歓喜と創造の生が横たわっているという確信をえる、しかしその確信は持ちきれないほどの憤懣と同時に訪れる。勿論、生が不可能だからで「もう、一刻も早く銃殺してもらいたい気持ち」になると言う……。これはドストエフスキーの体験に直接基づいているが、読者にはどうしても実感が追いついていかない部分で仕方のないところだ。また作者自身も、実感を取りもどすにはそれ相当のエネルギーが必要であっただろう。私が指摘したいのは、このような死刑囚の話がムイシュキンの自然崇拝と結びつけられている、共通項として語られているということだ。それも眼に見える固有の風景そのままをつぶさに語って賞賛するのではない。まさに風景がムイシュキンにもたらず謎、彼にあたかも啓示をあたえるかのように、彼に執着を起こさせる風景の彼方に見える風景だ。無論、ムイシュキンは死刑囚ではないので、嫌悪や憤懣をともなってそれを眺めるのではない。問題解決の糸口が、風景の彼方に横たわっているかのように見えるという点で、死刑囚と彼は共通しているので、そんな彼だから、死刑囚に真に同情的なのだ。

はるか頂上の岩の上には中世紀の古いお城の廃墟があって、眼下には私の住んでいる村が、かすかにながめられます。太陽はさんさんと明るく輝いて、空は青く、しいんとこわいような静けさなんです。そんなときですね、私がどこかへ行きたいという気持ちになったのは。もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いていって、あの地平線と空が接している向こうがわまで行けたら、そこにはありとあらゆる謎がすっかり解けてしまって、ここで私たちが生活しているのよりも千倍も力強い、わきたっているような、新しい生活を発見することができるのだ、と思われてなりませんでした。それから私はしょっちゅうナポリのような大きな町を空想していました。そこには宮殿が立ちならんでいて、ざわめきとどよめきと生活があるのです……(p129)

 おそらくはロシアよりも過ごしやすく静寂もあるのだろうスイスの田舎の自然の恵みを受けて、ムイシュキンは身体の状態が回復していくのを実感する。ときおりは住居からそれほどとおくない場所へ散歩に出かける。山に登ったときの描写だが、引用された部分の直前の部分をふくめても、他の作家ならもっと自然の風景を細密に書き込むのかもしれない、そんな思いがわいてくる。手つかずの自然がのこされているという点だけがあっさりと記されていて、私たちが実感できる「うつくしさ」とさして変わらない、むしろ何の変哲もない自然ということでいいのだろう。そして何度も書くが、自然そのものの礼賛ではなく「新しい生活」を夢見心地ながらにその奥に見つけたがっているムイシュキンをここに見るのだ。引用した部分だけでは明らかではないが、それはムイシュキン個人のみの「新しさ」やましてや健康にとどまるものではない。人の生のありようがもし間違っていて、それを人の手で正したいならば、その根拠たりうるものを、風景の彼方に彼は見いだしたがっている。それを最初に発見すべきなのは無論彼であらねばならぬ、という自覚の元に語るのだ。そうしたうえで彼が降りたつべき町が「ナポリ」であるが、ナポリでなければならないことはなく、これから行くであろうロシア、また単に未来だと解釈してようのだろう。

 そのときの彼は二十代前半、もっぱら療養に専念していて、これから人生がはじまろうとする頃だ。広大な沃野が眼の前に展開する気にもなれるのだろう。また死刑囚の語る「貴重な一分間」をも彼は受け継ごうとする気負いもあるのだろう。

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葬儀

 生前一度もお目にかかったことのない方のご葬儀に何回か参列したことがある。仕事の上でつき合いがある人の親族の方のご葬儀である。仕事の関係者に義理を欠くことをおそれてのことで、祀られるご本人よりもその方の方を強く意識する場合が多い。不謹慎なことだが、哀悼の意を表するというよりも、そこに参列しなければという気持ちがより多くを占めるものだ。ご親族一同がそろって参列するなか、私は後ろの方のたとえばパイプ椅子に神妙にして座る。そのときは私は、群のなかの一員だと既に思ってしまっている。その位置から御遺影をとおくに拝見する。だが、たとえば僧侶のお経が読まれるなか、焼香の段階になって、順番にしたがって線香台と祭壇の前に、御遺影の近くに赴くことになる。そのときに微妙な変化が私のなかで起こってしまう。

 葬儀とはやはり一対一の対面の場がかならず設けられているもので、決して一人と「群のなかの一員」の関係がすべてを占めるのではない、むしろ前者こそが葬儀の本質に値する部分なのだ。そのことにあわてて気づかされる。そしてお相手がご逝去された方だという認識も徹底してもいない。御遺影は無論生前に撮られた写真だから、また堂々とした身構えに見えて「初めまして、よろしく」と声にこそ出さないが、そんな心構えになってしまう。「初対面 」だから「お前、何しに来たんだ」と御遺影から睨まれているような気がするものである。だがやはり、そういう挨拶ではふさわしくないと当然ながら思い直して、「やすらかにお眠りください」という祈念の気持ちに切り替えようとはするのだが、時間はすでに線香を少量ずつ何回に分けてたし終わり合掌の段階まで来てしまっている。切り替えたあとの気持ちがどっしりとしたものになる時間的余裕がないのだ。せめて、丁寧さと哀悼の意をこめてふかぶかとこうべを下げるのだが、ぎこちない感覚がどうしても残ってしまう。
    23:47 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

にがい記憶

 高校2年のときである。私はその頃過激派の活動家だった。仲間は10人ほどいただろうか。何かきっかけがあれば「デモに行かないか」と人によく声をかけていた。大部分の人間は私の誘いには乗らなかったし、乗っても1回デモに参加したきりで、あとは相手にしないことが常だった。そんななかで私は1年後輩の知人を学内で発見した。同じ中学で私が2年のときに生徒会活動を一緒にした仲間だった。2年の後期のことだから、2学期のまんなかから3学期までの期間だったと思う。生徒会活動といってもクラブ活動のようには毎日はない。何かの行事や打ち合わせのたびに顔を合わせていた。記憶は曖昧だが、平均して週に一度くらいの顔合わせだっただろうか。3年になってからは私も彼も、生徒会とは無縁になったので、何か一緒になってする、ということはまったくなかった。

 その彼が同じ高校へ進学してきたのである。仲間になってくれるかもしれない、と私は思い、彼を喫茶店に誘って機関誌に書いてあるようなことを一方的に語った。そしてもう一度会おう、ということで彼もしぶしぶうなずいた様子でその場は別れたのである。だが1週間くらいのちに彼は電車に飛びこんで自殺してしまったのである。知ったのは新聞記事からで、関係者の話として三派系の先輩高校生からの誘いを苦にしていたことが原因ではないかとの指摘があった。先輩とは私のことにちがいなかったが、まったく信じられない思いだった。まさにあっけにとられた。

 そのときの私はどう考えたのか。原因をつくったのはたしかに私だったが、私には責任はない、という風に結論づけた。奇妙な言い方かもしれないが。私は彼の以前にも以後にも何十人という人(主に高校生)に声をかけてまわったのであるから、それを自殺に結びつけられて責任をとらされることには強い抵抗感があった。しかも彼と話し込んだのは一回きりだ。(記憶にまちがいがなければ)彼はあまりにも脆弱だったのだ。原因の根本はそこにあり、その見方は今も変わらない……。だがわりきれないものはずっと尾を引いている。ときどき彼のことを思い出すことがあるが、酒を飲んで感傷的になると「おれが殺してしまったのか?」との思いがつのることもある。だが素に戻るとやはり責任をとろうという気持ちには正直にはなれない。責任を背負おうとすることに私は私の内部に欺瞞を見てしまうのだ。客観的に見ても私には彼の自殺の責任はないとおもうのだが。

 今、悔やまれることがあるとすれば、彼の葬儀に出席しなかったことである。彼の遺族から非難されることを当時はおそれたからだろう。(彼の同級生に事情を聴きに行くこともしなかった)また、それ以前に哀悼ということの大事さを、当時の私はまったくわかっていなかったからでもあるだろう。私は彼を意識からとおざけた。隆盛だった学生運動の流れに乗り遅れまいとして、前へ前へと進んでいった。エネルギーに満ちた頃であり、立ち止まることをおそれたからである。つまりは私は、彼の問題以前に、若さなどということが理由にはなりえない、がさつで未成熟な人間であった。それはやはり今もにがい。



    22:42 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ダーウィンの悪夢

 広大なヴィクトリア湖の湖面に輸送機の影が映る。青い青い空のような湖面。そしてカメラが上方を向くとその飛行機の白い姿が映し出される。つづいて管制塔での様子。着陸しようとしている輸送機とやりとりをする黒人の管制官。ヴーンとうなりながらガラス窓の室内をとびまわる虻がいる。新聞紙でたたき殺そうとして何回目かでしとげる男。それと前後して窓の外、虻よりも巨大騒音を響かせる飛行機の巨体が空港に滑走してくる。真面目なドキュメンタリーだが、この冒頭のシーンが鮮やかに印象に残る。ちょっとしたユーモアであり、監督の余裕を感じさせる。映画理論では、無関係な二つのものを交互に映すと二つの間でつながりができるという。たしかに輸送機と湖は映画の内容を見るかぎり深くつながっている。また虻のように飛行機は簡単にはたたき殺せない、とくにタンザニアの経済にとっては。しかし、そこまで意味づけなくても冒頭では、単にこの「つながり」(連関)だけを意識すればいいのだ。しかつめらしくはなく興味をもたせてくれる。そして映画の本題であるヴィクトリア湖畔におけるひとつの魚をめぐる世界経済規模の連関の問題にはいっていけばいい。

 60年代の前半、誰かがナイルパーチという外来種の稚魚をバケツ1杯分湖に放流した。これが猛烈に繁殖し在来種の魚を激減させるほどまでになり、湖の生態系をいちじるしく変えてしまった。ところがこの魚が食用になることがわかるとヨーロッパ先進諸国が目を付けた。現地に加工工場をつくり飛行場も整備した。現地の人々もムアンザというその町に続々と集まる。漁や好景気に沸く町での雇用をもとめてのことだ。だが加工工場がすべての人々を雇い入れられるわけもない。特にあぶれた女性は売春に走る。その結果エイズが蔓延して死亡者も頻出する。孤児たちはストリートチルドレンとなる。だいたいがこういう連関の図式である。白人の工場経営者、パイロットはじめ、現地人のさまざまな職業の男性、売春婦、孤児などへの粘り強いインタビューでこの地域の、ひいてはアフリカの惨状があぶりだされてくる。

 アフリカの貧しい国においては国家なんて名ばかりなのだろう。支配者が自分の周りのわずかな支持者を守ることくらいの力しか持たないのだろう。庶民を統制しようとすれば軍隊を動員するしかないのかもしれない。庶民は庶民で職や食をえようとすれば自分たちでつかむしかない。そこで無秩序な人口の移動と集中が起こる。ナイルパーチによる生活や経済の激変は、何もナイルパーチ一つの問題ではないのだろう。形を変えたナイルパーチ同様の問題が、アフリカの他の地域でも起きているのだろう。それもこの映画は暗示している。よほど大規模で恒久的な援助を先進国側がしないかぎり、アフリカの惨状はつづくのだろうし、どうやらそれも不可能に近い。また、援助を受け取る窓口が、それを独占してしまうという問題もある……。映画の政治経済的な内容面からの感想だ。

 インタビュアーは監督の担当かどうかは知らないが、根気よくかつ柔軟で、手慣れた様子がうかがえる。警戒気味だった人々もしだいにうち解けてきて、普段着の顔を見せる。白人たちは、生活のめどがたっているためか余裕がある。それでもインタビュアーの真摯な姿勢に押されてか、感傷的になって、現地の惨状も認めざるをえなくなる。最初は秘密にしていたことも口にのぼらせる。彼等のせいいっぱいの良心であろうが、職責を全うすることで家族を養うことしかできない、一にも二にもそれが大事で、それ以上のことは個人にとってはどうすることもできないとの嘆きも伝わってくる。また現地人はインタビュアーから同情を寄せられていること、自分たちが決して幸福とはいえないことを自分たちで知っている。親しい人の死にはさすがに顔を曇らせるが、それ以外の受け答えではむしろ淡々としていてある種たくましさすら感じさせる。夜警の男は、給料がいいので軍隊に入りたい、敵を多く殺したいと一点の疑念もなく望みを語る……。彼等は俳優ではないから自分の顔をそれほど意識しないだろうし、表情も押さえ気味だが、それにもまして強く感じ取れたことは、カメラを前にした人の表情とは何とさまざまで、無限にも近いのだろうかということだ。映画の内容にも匹敵するくらいの幻惑性が伝わってきた。

 映像的に強烈だったカ所をふたつ記しておこう。ナイルパーチは現地の人たちにとっては高価で口にはいることはない。はいるのは加工後の残骸である。集積場に骨と頭とわずかな肉が付着した残骸が大量に運ばれてくる。組んだ木に干すのだが、さばききれず地面にどんどん放置されていき、足の踏み場もない。それでも順番につぎつぎと木の上に手で上げられるが、地面の残骸にはウジがうようよたかっている。管理する女性の足下にも。そういう残骸でさえも金がないと手には入らない。子供がくすねていくのだろうが、やはり不衛生で病気の原因にもなると推察される。その女性の片方の眼はつぶれている。残骸から発生するアンモニアガスのせいだそうだ。もうひとつは子供に蔓延する中毒症状。魚の梱包材のプラスチックを盗んできて燃やすのだ。すると快感をともなう揮発性の有毒ガスが発生する。これを子供たちは取り囲んで吸引するのだ。見たところ、小学生の年齢にあたるのだろう。日本の例を出せばシンナーや接着剤に類似する物質なのだろう。死に至ることも少なくないらしく、衝撃的だ。

    23:50 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

兄妹バラバラ殺人事件

 先ほどテレビを見ていましたが、くだんの事件の被害者の知人にあたる人が、彼女が「白黒をはっきりつけたがる」人だと評していた。彼女の属していた劇団の指導者だそうです。「白黒」、それは何だろうか。正しいものとわるいもの、美しいものと醜いもの、社会的に立派な人と劣っている人、……ほかにも考えられそうですが、そんなところでしょうか。つまりは「白黒」とは二分法のことで、誰でもが、そういう二分法のなかで優位の側に立ちたいと願うのでしょうが、世の中それだけではない。同じ空間のなかで色んな人がいて、そういうごった煮のなかの自分も一人だという自覚も持たなければならない。 一緒に生きていかなければならない、ということだろうと、思います。面白いか面白くないか、という二分法もあるが、面白いだけでは世の中はできていない。好き嫌いはあって当たり前なんでしょうが、それをゴリ押しすべきではない。家族というせまい空間でもまったく同じことがいえるだろうと思います。なんだかまとまりのない感想になりましたが。

>彼女たちを見ていると、最も危険なものは、無自覚であると思わされる。
(山下晴代さん)http://blogs.yahoo.co.jp/vraifleurbleu39

そうですね。
自分を知るためには、自分のことだけを考えても答えは出ない。世の中や家族のなかの自分であるわけで、そういう群のなかの自分という視点を逃してはならない。自分を客観視する、ということです。まあ、若いときは誰でも傲慢なもので、私も例外ではなかったけれど。

(コメント欄に貼り付けようとしたが、字数制限のため入らなかった。結果、私のブログを使用しました。)

  追記
若い世代のあいだでこういういたましい事件が、年に何回かあるいは十回以上か周期的に起こる。兄妹姉妹殺し、親殺し、友人殺し、である。(自殺も入れてもいいだろう)たぶん連鎖反応であろうが、大部分の若い人たちにおいては、その連鎖反応を無意識的にこうむりつつも最悪の結果には至らないで済んでいるのだろう。エネルギーがそこまで鬱積しないか、ほかの若い人の最悪の例がいい薬になるのだろう。しかし、やってしまった人たちにはそういう幸運がはたらかないのだ。何故か、偶然か、もしくは環境がぐいぐい締め付けるように一方的に追いつめてしまうのだと思う。おそろしい時代だ。規範意識が希薄になっていることは、たしかなようだが。


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2006年の映画ベスト

あけましておめでとうございます。

今日は2006年公開の映画をふりかえりたいと思います。
去年劇場に足を運んで見た映画は30本弱でしょうか。
なかなか劇場に行く機会が持てないので映画好きの皆さんには気が引けますが、
私の見た範囲でのベストを記しておきます。

 (1)父親たちの星条旗、硫黄島からの手紙
 (2)
 (3)麦の穂を揺らす風
 (4)フラガール
 (5)ある子供
 (6)カミュなんて知らない
 
(1)は二部作とした結果です。どちらが1位でもかまわない。「父親」のほうが映像的にはすぐれていたか。例の血だけが浮き出て、そのほかの一切がモノクロに近いという画面作り。ストーリーが3人の兵士の戦後を追うことが負担で、駆け足気味だったか。また、白人二人が私には区別がつきにくかった。「硫黄島」は話は分かりやすいが、「父親」からそのまま引き継いだ映像が、すぐれていても、途中でちょっと飽きてくる。しかし両者ともスケールが大きい。

(3)も(1)に劣らず完成度が高い。主人公の兄が拷問を受けて耐える絶叫が、同じ家屋に収用された主人公はじめ仲間に聴こえてきて、はげましのために愛唱歌を歌う。あそこがいいのだろう。しかし私は苛烈なために腰を引いてしまった。(4)は町(地域)をあげての一体感が素晴らしかった。(5)(6)は人間なんて放っておけばロクなもんじゃないという思想がある。しかしながら(5)はそこからの再生、自助志向も描いている。(6)はそのまま思想をゴロンと投げ出した感じ。(5)(6)とも1位にははいれそうもないが、好きな作品だ。

■ところで、当ブログの説明文は「本と映画の感想文」となっていますが、ここ数ヶ月本の方をさぼった結果になっています。本は読んでいなくはないので、いずれ再開するつもりです。 
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