硫黄島からの手紙
12/20/2006 (Wed)
『父親たちの星条旗』につづく硫黄島二部作の二作目。『父親』では戦場と生き残った兵士たちの戦後の苦労を描いた。残酷体験としての戦争がいかに彼等を悩ますか、という視点がもっぱらだった。それに対してこの『手紙』の方は戦場にはるかに重点が置かれている。日本兵はよくたたかった、ということだ。渡辺謙(栗林中将)と副官たちとの間で、持久戦か早期玉砕かをめぐっての意見の対立がある。だがどちらも力強くたたかったのだ。今年公開された日本の戦争映画でも『男たちの大和』『紙屋悦子の青春』などでも、せいいっぱい決死の戦いに突入していった私達の先輩たちの姿が描かれていて、作品自体の出来映えはともかく、そのことに対しては納得できる。そしてまたより重要なことだが、この映画は日本兵の大部分|が死に絶えた戦場の地獄絵図ばかりを描くのではない。一見そう見えて巧みに現在的視点が導入されている。渡辺謙の駐米時代や伊原剛志(西)のオリンピック出場の過去もあるが、それよりも太い柱は、下級兵の二宮和也が現在からタイムスリップしてきたような存在としての役割を担っていることだ。
私達は過去の事実として戦争を知っている。だが当然ながら実際に戦場に赴いたことはないし、時代の思潮を無意識に担ったこともない。切実さをともなわないで、「あっ、こういうことがあったんだ」と歴史教科書の一ページに眼を止めるくらいの認識で済ますこともある。私達のありのままの姿であり、平和な現在に生きる以上仕方のないことではないか。そういうのんびりした気分を二宮和也は担っている。妊娠した妻を残しながら、召集令状を渡されて戦争に駆り出されるのは面白くない、死ぬのも当然いやだ、という私達の現在を代表する気分であり、主張だ。彼は「本体に合流するように」という渡辺謙の無線連絡を聞いていて、自決を命ずる直属の上官に抗弁する。当時の軍隊の上下関係のきびしい内部で二宮のような直訴が可能であったか、いささか疑問だが、それはともかく、よく言えばそんな二宮は素直であり、悪く言えばなれなれしい。言葉づかいも今風の若者そのもの。同僚が手榴弾でつぎつぎに壮絶な自決をするところを目の当たりにしても、感情の動きが鈍い。というか抑えている。泣いたり憤激したりしない。芝居が下手なのか。いや、そうではない。その鈍さは歴史教科書にそそぐ眼差しと似通っているように私には見えた。どう反応すれないいのかわからないのだ。現在の空気だ。これはクリント・イーストウッド監督の演出意図に基づくのではないだろうか。
『男たちの大和』のように戦闘意欲あふれる兵ばかりを集めて描くと、どうしても絵空事めいて見えてくる。引いてしまう。戦争からとおざかってしまったからだ。(それ自体は悪いことではない)だからこそ、現在的な空気を持つ二宮のような若者を戦場に登場させて、渡辺謙に代表される勇壮な軍人、兵士たちとを相互対比的に描こうとしたのだろうし、結果は奥行きのある構図ができあがり成功したと思う。
最後に二宮和也は一転して、死にものぐるいでアメリカ兵に抗議する。アメリカ兵がある人の愛用していた遺品を簒奪したからだ。彼はその人や仲間から危機を助けられてもして、ようやく生き残った。そして捕虜としての扱いを受けようかというときに、その簒奪行為を目の当たりにしてしまった。そのときにまさに思い出したように、かけがえのないものがこみあげてくるのだ。戦場における人同士のつながり、愛情だ。遺品の簒奪は、それに対する許しがたい侮辱に映ったのだ。だがその抵抗はスコップを振り回すのみの貧弱さだ。武器を既に奪われているとはいえ。それまで後ろからついていってたたかった彼の、この期に及んでの「思い出したような抵抗」が、私には如何にも現在の青年にふさわしく映った。「タイムスリップ」してきたからこそ、理解が遅れるのだ。たたかいが引き継がれるのだ。
この二宮和也の最後のシーンは、私達が過ぎ去った戦争の死者に対してとるべき態度を教えてくれるのかもしれない。魂同士の触れあいは簡単にはいかないが、彼等が愛着をこめて扱った品物や書き残した言葉、それらは後々までも丁重に扱って引き継いでいかねばならないと。それが最低限の礼節ではないかと。
私達は過去の事実として戦争を知っている。だが当然ながら実際に戦場に赴いたことはないし、時代の思潮を無意識に担ったこともない。切実さをともなわないで、「あっ、こういうことがあったんだ」と歴史教科書の一ページに眼を止めるくらいの認識で済ますこともある。私達のありのままの姿であり、平和な現在に生きる以上仕方のないことではないか。そういうのんびりした気分を二宮和也は担っている。妊娠した妻を残しながら、召集令状を渡されて戦争に駆り出されるのは面白くない、死ぬのも当然いやだ、という私達の現在を代表する気分であり、主張だ。彼は「本体に合流するように」という渡辺謙の無線連絡を聞いていて、自決を命ずる直属の上官に抗弁する。当時の軍隊の上下関係のきびしい内部で二宮のような直訴が可能であったか、いささか疑問だが、それはともかく、よく言えばそんな二宮は素直であり、悪く言えばなれなれしい。言葉づかいも今風の若者そのもの。同僚が手榴弾でつぎつぎに壮絶な自決をするところを目の当たりにしても、感情の動きが鈍い。というか抑えている。泣いたり憤激したりしない。芝居が下手なのか。いや、そうではない。その鈍さは歴史教科書にそそぐ眼差しと似通っているように私には見えた。どう反応すれないいのかわからないのだ。現在の空気だ。これはクリント・イーストウッド監督の演出意図に基づくのではないだろうか。
『男たちの大和』のように戦闘意欲あふれる兵ばかりを集めて描くと、どうしても絵空事めいて見えてくる。引いてしまう。戦争からとおざかってしまったからだ。(それ自体は悪いことではない)だからこそ、現在的な空気を持つ二宮のような若者を戦場に登場させて、渡辺謙に代表される勇壮な軍人、兵士たちとを相互対比的に描こうとしたのだろうし、結果は奥行きのある構図ができあがり成功したと思う。
最後に二宮和也は一転して、死にものぐるいでアメリカ兵に抗議する。アメリカ兵がある人の愛用していた遺品を簒奪したからだ。彼はその人や仲間から危機を助けられてもして、ようやく生き残った。そして捕虜としての扱いを受けようかというときに、その簒奪行為を目の当たりにしてしまった。そのときにまさに思い出したように、かけがえのないものがこみあげてくるのだ。戦場における人同士のつながり、愛情だ。遺品の簒奪は、それに対する許しがたい侮辱に映ったのだ。だがその抵抗はスコップを振り回すのみの貧弱さだ。武器を既に奪われているとはいえ。それまで後ろからついていってたたかった彼の、この期に及んでの「思い出したような抵抗」が、私には如何にも現在の青年にふさわしく映った。「タイムスリップ」してきたからこそ、理解が遅れるのだ。たたかいが引き継がれるのだ。
この二宮和也の最後のシーンは、私達が過ぎ去った戦争の死者に対してとるべき態度を教えてくれるのかもしれない。魂同士の触れあいは簡単にはいかないが、彼等が愛着をこめて扱った品物や書き残した言葉、それらは後々までも丁重に扱って引き継いでいかねばならないと。それが最低限の礼節ではないかと。
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