麦の穂を揺らす風
12/05/2006 (Tue)
1921年、アイルランド共和国はイギリスからの独立を勝ち取った。だがアイルランド島の北部地方は独立が認められず、一定限度の自治権を与えられたのみだった。それまで一緒になって戦っていた独立派は、徹底抗戦派と自治権賛同派に分裂する。テロリストと自治警察の対立という構図にさまがわりする。映画はその前後の数年間を、徹底好戦派のキリアン・マーフィー(デミアン)を中心にして描く。
青年が抜き差しならない政治抗争に何故のめり込んでいくのか。ひとつは彼よりも年少の青年が、取り調べのために奇襲をかけにきたイギリス軍に口答えをして、リンチによって殺害されたからだ。もうひとつはイギリス軍の乗車を果敢に拒否する鉄道の運転手や車掌の勇姿を見たからだ。被害感情と連帯感だ。しかもそれを直接眼に焼き付けたからだ。客観的に見ればどうだろうか、どちらにも暴力は存在するのではないか、というたぐいの自問はこの際無力だ。青年のなかで増幅する被害感情と仲間意識は大きい。キリアン・マーフィーはもう逃げられない、と思うのだろう。燃えたぎるものがあるのだろう。しかも彼は医学生としてさらなる医学の修得のためにロンドンに赴こうとしていたときであり、戦う最中の仲間からも祝福を受けていた、医者として磨きをかけてからでも戦うことは可能だったのだ……。私はリキんで書いているのかもしれないが、ケン・ローチ監督のこのあたりの描き方は、じつに自然であって過剰さがない。
この後も映画は内戦の過程を死者の頻出を主に描いてすすむが、私の印象に残った場面は、キリアン・マーフィーが、地元の富裕層の中年男性と十代の青年を密告者として処刑するところだ。それは戦いにとっては「鉄の規律」かもしれないが、彼は「何が何だかわからなくなった。」と直後に恋人につぶやく。(字幕の正確な再現ではないかもしれない)たぶんこれは、人殺しに手を染めることによって、誰でもが持っているし彼も持っている共通の繊細さ、自由、というべきものを喪失してしまったことのぶっきらぼうな告白ではないかと思う。彼もまた、銃撃戦のような正当防衛的要素があるならともかく、拘束された無力な人間を心底では殺したくはないのだ。殺すことが正当だと観念的に認識するのだとしても、みずからがそれを実践することはやはり彼を大いに変容させるにちがいない。戦いの熱さに「穢れ」がくわわるのだろうか。「俺は殺した」という重い意識が生涯つきまとうのか。何とも言えないが、わけのわからない無気味さに拘束されるのだろう。
そんなキリアン・マーフィーが以後守り抜こうとするものは、じつに単純剛直で、戦いつづけることだ。死んだ仲間、生きて戦う仲間を決して裏切らないことだ。「鉄の規律」というよりも義理なのだ。そして、この義理の意識が彼のなかでは唯一抽象的な生につながっている。抽象的な生というのは敵の死、そして天寿を全うできないであろうと予感させる彼自身の生がふくまれているからだ。被害、加害感情も、連帯意識もすべてこの義理に収斂する。といっても、こういうことは、この映画からのみ得られた感想ではなく、戦争や抗争を描いた色んな著作や映画から私なりに授かった見取り図ではあるが。
ケン・ローチ監督ははたしてこんなキリアン・マーフィーを正当だと主張するのだろうか。そう考えてもいいのかもしれないが、それではイギリスとの和睦に賛成した彼の兄は正当ではないのだろうか。彼もまた正当だとケン・ローチは主張したいはずだ。ここでは言葉の問題で、双方の立場がともに必然であった、やむにやまれぬ状況だった、とケン・ローチ監督は主張するのだと思う。そして何よりも長い年月にわたる内戦の過程で死なねばならなかった人たちへの鎮魂の思いがある。内戦が正しかったのではない。地元での出来事だから、ケン・ローチにも何らかの政治的見解があるのかもしれないが、それはこの映画では見いだすことができない。また、内戦の引き金となる政治的差別の問題にも深くは立ち入ってはいない。それらは本作が説明しようとする内容ではない。現在表面的には沈静化したかにみえる内戦だからこそ、狭い政治的立場をはなれて、多くの人を死に至らしめた内戦を全体としてとらえ返してみようという意欲が、ぶれることなくようやく結実したのかもしれない。
記し忘れてはならないのは、アイルランドの山や丘の眼に染みこむような緑だ。すこし冷たいであろうがやさしく吹き渡る風だ。ケン・ローチはほとんど全編にわたってこの風景を撮る。内戦と同じ比重をこめて鑑賞者に見てもらう。この風景が何とも穏やかで、変わることのない美しさを絶えず湧き出すかに見える。だが自然の風景そのものは人間に向かって語ることができない。その意味では自然は無力だ。問題は、人間が自然から何を認識するかにかかっている。自然に美しさを見いだすのみでなく、人間の歴史をわずかに越えるものを、「愚行」を繰り返させないものを、その美しさをヒントにして見いだすことができないのか。つきつめれば宗教的心情の糧として、人間は繰り込むことができないのか。それであってこその自然の美ではないのか。人間は人間よりも偉大なものを凝視することができるはずだ。そういう自他に対する願いを、このアイルランドの風景にケン・ローチはこめたのではないか。
青年が抜き差しならない政治抗争に何故のめり込んでいくのか。ひとつは彼よりも年少の青年が、取り調べのために奇襲をかけにきたイギリス軍に口答えをして、リンチによって殺害されたからだ。もうひとつはイギリス軍の乗車を果敢に拒否する鉄道の運転手や車掌の勇姿を見たからだ。被害感情と連帯感だ。しかもそれを直接眼に焼き付けたからだ。客観的に見ればどうだろうか、どちらにも暴力は存在するのではないか、というたぐいの自問はこの際無力だ。青年のなかで増幅する被害感情と仲間意識は大きい。キリアン・マーフィーはもう逃げられない、と思うのだろう。燃えたぎるものがあるのだろう。しかも彼は医学生としてさらなる医学の修得のためにロンドンに赴こうとしていたときであり、戦う最中の仲間からも祝福を受けていた、医者として磨きをかけてからでも戦うことは可能だったのだ……。私はリキんで書いているのかもしれないが、ケン・ローチ監督のこのあたりの描き方は、じつに自然であって過剰さがない。
この後も映画は内戦の過程を死者の頻出を主に描いてすすむが、私の印象に残った場面は、キリアン・マーフィーが、地元の富裕層の中年男性と十代の青年を密告者として処刑するところだ。それは戦いにとっては「鉄の規律」かもしれないが、彼は「何が何だかわからなくなった。」と直後に恋人につぶやく。(字幕の正確な再現ではないかもしれない)たぶんこれは、人殺しに手を染めることによって、誰でもが持っているし彼も持っている共通の繊細さ、自由、というべきものを喪失してしまったことのぶっきらぼうな告白ではないかと思う。彼もまた、銃撃戦のような正当防衛的要素があるならともかく、拘束された無力な人間を心底では殺したくはないのだ。殺すことが正当だと観念的に認識するのだとしても、みずからがそれを実践することはやはり彼を大いに変容させるにちがいない。戦いの熱さに「穢れ」がくわわるのだろうか。「俺は殺した」という重い意識が生涯つきまとうのか。何とも言えないが、わけのわからない無気味さに拘束されるのだろう。
そんなキリアン・マーフィーが以後守り抜こうとするものは、じつに単純剛直で、戦いつづけることだ。死んだ仲間、生きて戦う仲間を決して裏切らないことだ。「鉄の規律」というよりも義理なのだ。そして、この義理の意識が彼のなかでは唯一抽象的な生につながっている。抽象的な生というのは敵の死、そして天寿を全うできないであろうと予感させる彼自身の生がふくまれているからだ。被害、加害感情も、連帯意識もすべてこの義理に収斂する。といっても、こういうことは、この映画からのみ得られた感想ではなく、戦争や抗争を描いた色んな著作や映画から私なりに授かった見取り図ではあるが。
ケン・ローチ監督ははたしてこんなキリアン・マーフィーを正当だと主張するのだろうか。そう考えてもいいのかもしれないが、それではイギリスとの和睦に賛成した彼の兄は正当ではないのだろうか。彼もまた正当だとケン・ローチは主張したいはずだ。ここでは言葉の問題で、双方の立場がともに必然であった、やむにやまれぬ状況だった、とケン・ローチ監督は主張するのだと思う。そして何よりも長い年月にわたる内戦の過程で死なねばならなかった人たちへの鎮魂の思いがある。内戦が正しかったのではない。地元での出来事だから、ケン・ローチにも何らかの政治的見解があるのかもしれないが、それはこの映画では見いだすことができない。また、内戦の引き金となる政治的差別の問題にも深くは立ち入ってはいない。それらは本作が説明しようとする内容ではない。現在表面的には沈静化したかにみえる内戦だからこそ、狭い政治的立場をはなれて、多くの人を死に至らしめた内戦を全体としてとらえ返してみようという意欲が、ぶれることなくようやく結実したのかもしれない。
記し忘れてはならないのは、アイルランドの山や丘の眼に染みこむような緑だ。すこし冷たいであろうがやさしく吹き渡る風だ。ケン・ローチはほとんど全編にわたってこの風景を撮る。内戦と同じ比重をこめて鑑賞者に見てもらう。この風景が何とも穏やかで、変わることのない美しさを絶えず湧き出すかに見える。だが自然の風景そのものは人間に向かって語ることができない。その意味では自然は無力だ。問題は、人間が自然から何を認識するかにかかっている。自然に美しさを見いだすのみでなく、人間の歴史をわずかに越えるものを、「愚行」を繰り返させないものを、その美しさをヒントにして見いだすことができないのか。つきつめれば宗教的心情の糧として、人間は繰り込むことができないのか。それであってこその自然の美ではないのか。人間は人間よりも偉大なものを凝視することができるはずだ。そういう自他に対する願いを、このアイルランドの風景にケン・ローチはこめたのではないか。
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