大洋ボート

ヘンダーソン夫人の贈り物

 未亡人となったジュディ・デンチ(ヘンダーソン夫人)が、その後の人生をどうやって暮らそうかと思い悩む。すでに未亡人となった友人は編み物などの趣味をすすめるが、性分に合わない。そこで無謀にも閉鎖になった劇場を買い取ることになる。富裕層ならではの贅沢だ。ショウビジネスの プロであるボブ・ホスキンスを支配人として雇い入れ、歌と踊りにヌードをまじえたレビューを連日公演するまでにこぎつける。1937年にはじまり、第二次大戦まっただ中の時代まで公演はつづけられる。舞台はロンドン。

 死に赴こうとする兵士たちで埋め尽くされた客席。その歓声と、舞台のダンサーやヌーディストとの一体感は『フラガール』を思わせる。ジュディ・デンチやボブ・ホスキンス、それに舞台に立つ人々は得意の絶頂であり、誇らかだ。連日の空襲もものかは。これを定着させただけでも価値はあるが、この映画はそれにだけとどまらない。ジュディ・デンチの甘い甘い夢が奥底にキラリと光るのが、いい。彼女は第一次大戦で息子を喪ってしまった。その遺品にはヌード写真がはさまれてあった。死んだ息子のような若者にヌードを見せてやりたい、という望みがかなえられる。また支配人のボブ・ホスキンスとの運営をめぐる確執。彼女自身の淡い恋。これには不意をつかれる。恋を忘れかけたヌーディストにファンの若い兵を紹介したりと、余計なこともする。

 このようにジュディ・デンチのなかに大きな欲望と小さな秘やかな欲望が同居することが、映画の構図そのものとなっていて、奥行きを見事につくっている。アニメと写真をまじえたオープニング・クレジットも楽しい。年末に上質のエンターティエメントを見ることができて、ちょっといい気分になった。

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ひまわりの種

 ひまわりの種が食用として販売されていることを知った。私の奥さんは元中国人で、中国の物品を専門にあつかっている店によく行くが、そこで買ってきた。殻付きのまま、乾燥させて炒ったもので、長さが2センチ、幅が5ミリ、厚みが2ミリというくらいが平均的な大きさだ。殻は香ばしい独特の香りがあるが、無論、それは剥かなければならない。妻は食べなれているからだろう、器用に爪を立ててテンポよくはがして口に入れていく。私はそれができない。私の利き手は左で、二ヶ月前に仕事中にあやまって人差し指の先を骨折してしまったのだ。通院は一月で済んだが、まだ爪が半分ほどしか生えていないし、指先全体が物に強くふれるとピリピリする感覚がとれないでいる。だが爪と指の感覚が元に復したとしても、妻のようにできるかどうかはわからない。私は奥歯を使って殻をくだいたのだが、殻の端っこに歯を当てなければならず、何回かは失敗した。そうでないと華奢な実がくずれてしまう。

 長男もやはり元中国人で、これまた子供のころから食べなれていた風で、やはり次から次へ口に運んでいく。彼の方は前歯で殻の端っこをくだく式だ。それを見て私はいやなことを思い出した。一年前にパスタを作っていて、ゆで加減を確かめるために前歯で噛んだとき、かたい芯がまだ大部分残っていて、そのために歯がポロっと欠けてしまったのだ。現在は差し歯で、差し歯ならやってみても大丈夫かもしれないが、やる気がしない。息子よ、そのやり方は年をとったらやめといた方がいい。

 さて、その味だが、落花生に似ている。殻についていた香ばしさはない。もっとも食してみるとはじめてではなく、味といい形といい、殻をむいた状態でミックスナッツのなかに入っていたことを思い出した。今回それがひまわりの種であることがわかったという次第。
Genre : 日記 日記
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硫黄島からの手紙

 『父親たちの星条旗』につづく硫黄島二部作の二作目。『父親』では戦場と生き残った兵士たちの戦後の苦労を描いた。残酷体験としての戦争がいかに彼等を悩ますか、という視点がもっぱらだった。それに対してこの『手紙』の方は戦場にはるかに重点が置かれている。日本兵はよくたたかった、ということだ。渡辺謙(栗林中将)と副官たちとの間で、持久戦か早期玉砕かをめぐっての意見の対立がある。だがどちらも力強くたたかったのだ。今年公開された日本の戦争映画でも『男たちの大和』『紙屋悦子の青春』などでも、せいいっぱい決死の戦いに突入していった私達の先輩たちの姿が描かれていて、作品自体の出来映えはともかく、そのことに対しては納得できる。そしてまたより重要なことだが、この映画は日本兵の大部分|が死に絶えた戦場の地獄絵図ばかりを描くのではない。一見そう見えて巧みに現在的視点が導入されている。渡辺謙の駐米時代や伊原剛志(西)のオリンピック出場の過去もあるが、それよりも太い柱は、下級兵の二宮和也が現在からタイムスリップしてきたような存在としての役割を担っていることだ。

 私達は過去の事実として戦争を知っている。だが当然ながら実際に戦場に赴いたことはないし、時代の思潮を無意識に担ったこともない。切実さをともなわないで、「あっ、こういうことがあったんだ」と歴史教科書の一ページに眼を止めるくらいの認識で済ますこともある。私達のありのままの姿であり、平和な現在に生きる以上仕方のないことではないか。そういうのんびりした気分を二宮和也は担っている。妊娠した妻を残しながら、召集令状を渡されて戦争に駆り出されるのは面白くない、死ぬのも当然いやだ、という私達の現在を代表する気分であり、主張だ。彼は「本体に合流するように」という渡辺謙の無線連絡を聞いていて、自決を命ずる直属の上官に抗弁する。当時の軍隊の上下関係のきびしい内部で二宮のような直訴が可能であったか、いささか疑問だが、それはともかく、よく言えばそんな二宮は素直であり、悪く言えばなれなれしい。言葉づかいも今風の若者そのもの。同僚が手榴弾でつぎつぎに壮絶な自決をするところを目の当たりにしても、感情の動きが鈍い。というか抑えている。泣いたり憤激したりしない。芝居が下手なのか。いや、そうではない。その鈍さは歴史教科書にそそぐ眼差しと似通っているように私には見えた。どう反応すれないいのかわからないのだ。現在の空気だ。これはクリント・イーストウッド監督の演出意図に基づくのではないだろうか。

 『男たちの大和』のように戦闘意欲あふれる兵ばかりを集めて描くと、どうしても絵空事めいて見えてくる。引いてしまう。戦争からとおざかってしまったからだ。(それ自体は悪いことではない)だからこそ、現在的な空気を持つ二宮のような若者を戦場に登場させて、渡辺謙に代表される勇壮な軍人、兵士たちとを相互対比的に描こうとしたのだろうし、結果は奥行きのある構図ができあがり成功したと思う。

 最後に二宮和也は一転して、死にものぐるいでアメリカ兵に抗議する。アメリカ兵がある人の愛用していた遺品を簒奪したからだ。彼はその人や仲間から危機を助けられてもして、ようやく生き残った。そして捕虜としての扱いを受けようかというときに、その簒奪行為を目の当たりにしてしまった。そのときにまさに思い出したように、かけがえのないものがこみあげてくるのだ。戦場における人同士のつながり、愛情だ。遺品の簒奪は、それに対する許しがたい侮辱に映ったのだ。だがその抵抗はスコップを振り回すのみの貧弱さだ。武器を既に奪われているとはいえ。それまで後ろからついていってたたかった彼の、この期に及んでの「思い出したような抵抗」が、私には如何にも現在の青年にふさわしく映った。「タイムスリップ」してきたからこそ、理解が遅れるのだ。たたかいが引き継がれるのだ。

 この二宮和也の最後のシーンは、私達が過ぎ去った戦争の死者に対してとるべき態度を教えてくれるのかもしれない。魂同士の触れあいは簡単にはいかないが、彼等が愛着をこめて扱った品物や書き残した言葉、それらは後々までも丁重に扱って引き継いでいかねばならないと。それが最低限の礼節ではないかと。



    22:46 | Trackback : 6 | Comment : 1 | Top

テンプレート

 デビュー以来使用していたテンプレートのレイアウトが壊れた。「最新記事」「最新コメント」などを列記したサイドの欄が下の方へずり落ちてしまった。鉄棒を捕まえていた両腕がしびれてはなれてしまったみたいだ。原因は私には不明だ。(当然ながら修復方法も不明)シンプルで少々野暮ったいデザインだったが、読みやすく、結構気にいっていた。そこで、FC2の公式テンプレート集を物色して、今使用中のものにたどりついた。こんなものかとも思うが、熱帯地方であろう海の風景はうつくしすぎて、私や記事内容には似合わない気もする。途中下車になるかもしれない。(「大洋ボート」という題名には似合うのだろう)

 ほかにも候補のテンプレートがいくつかあるが、カスタマイズが十分にできない。フォントを大きくしたいのと、背景色を変えたい希望があるが、マニュアルを読んでスタイルシートの数値を変更しても狙い通りにならない。にわか勉強のせいだ。現在のは本文、題名など、いくつかの部分をフォントを大きくすることに〈成功〉!した。こんなことをやっていると、たちまち時間が過ぎる。
Genre : 日記 日記
    01:10 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

麦の穂を揺らす風

 1921年、アイルランド共和国はイギリスからの独立を勝ち取った。だがアイルランド島の北部地方は独立が認められず、一定限度の自治権を与えられたのみだった。それまで一緒になって戦っていた独立派は、徹底抗戦派と自治権賛同派に分裂する。テロリストと自治警察の対立という構図にさまがわりする。映画はその前後の数年間を、徹底好戦派のキリアン・マーフィー(デミアン)を中心にして描く。

 青年が抜き差しならない政治抗争に何故のめり込んでいくのか。ひとつは彼よりも年少の青年が、取り調べのために奇襲をかけにきたイギリス軍に口答えをして、リンチによって殺害されたからだ。もうひとつはイギリス軍の乗車を果敢に拒否する鉄道の運転手や車掌の勇姿を見たからだ。被害感情と連帯感だ。しかもそれを直接眼に焼き付けたからだ。客観的に見ればどうだろうか、どちらにも暴力は存在するのではないか、というたぐいの自問はこの際無力だ。青年のなかで増幅する被害感情と仲間意識は大きい。キリアン・マーフィーはもう逃げられない、と思うのだろう。燃えたぎるものがあるのだろう。しかも彼は医学生としてさらなる医学の修得のためにロンドンに赴こうとしていたときであり、戦う最中の仲間からも祝福を受けていた、医者として磨きをかけてからでも戦うことは可能だったのだ……。私はリキんで書いているのかもしれないが、ケン・ローチ監督のこのあたりの描き方は、じつに自然であって過剰さがない。

 この後も映画は内戦の過程を死者の頻出を主に描いてすすむが、私の印象に残った場面は、キリアン・マーフィーが、地元の富裕層の中年男性と十代の青年を密告者として処刑するところだ。それは戦いにとっては「鉄の規律」かもしれないが、彼は「何が何だかわからなくなった。」と直後に恋人につぶやく。(字幕の正確な再現ではないかもしれない)たぶんこれは、人殺しに手を染めることによって、誰でもが持っているし彼も持っている共通の繊細さ、自由、というべきものを喪失してしまったことのぶっきらぼうな告白ではないかと思う。彼もまた、銃撃戦のような正当防衛的要素があるならともかく、拘束された無力な人間を心底では殺したくはないのだ。殺すことが正当だと観念的に認識するのだとしても、みずからがそれを実践することはやはり彼を大いに変容させるにちがいない。戦いの熱さに「穢れ」がくわわるのだろうか。「俺は殺した」という重い意識が生涯つきまとうのか。何とも言えないが、わけのわからない無気味さに拘束されるのだろう。

 そんなキリアン・マーフィーが以後守り抜こうとするものは、じつに単純剛直で、戦いつづけることだ。死んだ仲間、生きて戦う仲間を決して裏切らないことだ。「鉄の規律」というよりも義理なのだ。そして、この義理の意識が彼のなかでは唯一抽象的な生につながっている。抽象的な生というのは敵の死、そして天寿を全うできないであろうと予感させる彼自身の生がふくまれているからだ。被害、加害感情も、連帯意識もすべてこの義理に収斂する。といっても、こういうことは、この映画からのみ得られた感想ではなく、戦争や抗争を描いた色んな著作や映画から私なりに授かった見取り図ではあるが。

 ケン・ローチ監督ははたしてこんなキリアン・マーフィーを正当だと主張するのだろうか。そう考えてもいいのかもしれないが、それではイギリスとの和睦に賛成した彼の兄は正当ではないのだろうか。彼もまた正当だとケン・ローチは主張したいはずだ。ここでは言葉の問題で、双方の立場がともに必然であった、やむにやまれぬ状況だった、とケン・ローチ監督は主張するのだと思う。そして何よりも長い年月にわたる内戦の過程で死なねばならなかった人たちへの鎮魂の思いがある。内戦が正しかったのではない。地元での出来事だから、ケン・ローチにも何らかの政治的見解があるのかもしれないが、それはこの映画では見いだすことができない。また、内戦の引き金となる政治的差別の問題にも深くは立ち入ってはいない。それらは本作が説明しようとする内容ではない。現在表面的には沈静化したかにみえる内戦だからこそ、狭い政治的立場をはなれて、多くの人を死に至らしめた内戦を全体としてとらえ返してみようという意欲が、ぶれることなくようやく結実したのかもしれない。

 記し忘れてはならないのは、アイルランドの山や丘の眼に染みこむような緑だ。すこし冷たいであろうがやさしく吹き渡る風だ。ケン・ローチはほとんど全編にわたってこの風景を撮る。内戦と同じ比重をこめて鑑賞者に見てもらう。この風景が何とも穏やかで、変わることのない美しさを絶えず湧き出すかに見える。だが自然の風景そのものは人間に向かって語ることができない。その意味では自然は無力だ。問題は、人間が自然から何を認識するかにかかっている。自然に美しさを見いだすのみでなく、人間の歴史をわずかに越えるものを、「愚行」を繰り返させないものを、その美しさをヒントにして見いだすことができないのか。つきつめれば宗教的心情の糧として、人間は繰り込むことができないのか。それであってこその自然の美ではないのか。人間は人間よりも偉大なものを凝視することができるはずだ。そういう自他に対する願いを、このアイルランドの風景にケン・ローチはこめたのではないか。 



 
    23:47 | Trackback : 6 | Comment : 2 | Top

社長洋行記(1962/日本)

社長洋行記 正・続篇 社長洋行記 正・続篇
森繁久弥 (2005/02/25)
東宝

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 貼り薬の会社がアジアに販路をひろげるため、社長以下数人が香港に出張するまでの話。社長に森繁久弥、部下に加東大介、小林桂樹、三木のり平ら。東京と香港の両方にレストランを持つ女性が新珠三千代 。1960年代に堅実な人気を誇ったシリーズの初期の一本。

 このシリーズは子供の頃、何本かは劇場で見た。当時の印象としては、宴会が好きでよくドジを踏む三木のり平がたまらなく面白かった。今見てもさすがに面白いが、そちらよりも森繁と小林のやりとりが、何とも言えないおかしさがあった。娘さんに「できちゃった婚」(相手の青年は売れない芸術家!)をされて愚痴ることしきりの森繁が、小林を誘ってはしご酒。身体や頭を触られ、からまれて困惑する小林だが、いきなり「社長、ぼくは、ほんとはお嬢さんが好きだったんですよ。」とやってしまう。小林と娘のやりとりの場面は、映画にはまったくないので、鑑賞者にとっても大変唐突である。はたして真情の吐露なのか、いや、万が一そういう気持ちが小林にあったとしても、ここでそれを告白すること自体、やはり異様ではないか。だが森繁の反応を見て鑑賞者は納得する。「何故、それをもっとはやく言ってくれなかったんだ、きみの方がよっぽどふさわしいじゃないか。残念なことをしたなあ。」と大感激してしまうのだ。ここまで書くとわかるだろう。真実か嘘かは不明だが、小林がそれをいったことで二人の人間関係は一気に濃密になってしまうのだ。小林の社長への同情が森繁の胸を打ったのだ。前にもましてじゃれ合うように身体をさわり合う二人。まるで落語の世界。

 これはサラリーマンの世渡りに必要欠くべからざる人情の表現なのだろう。仕事はできないよりもできた方がいいが、それだけでも居心地がどことなく悪い。そこで身体をすり寄せ合うような一体感と相互の同情が、サラリーマンの集団のもうひとつの支えになりうる、ということだろう。こういうことはさすがに子供の目にはわからない。まあ、終身雇用が常態だったころの古さが染みこんでいるのかもしれないが。それと娘の「できちゃった婚」に泣く父親という設定も、当時の映画としては新しいのではないか。娘さんの縁談に気をもむ一連の小津安二郎監督作品の父親像に対するパロディにもなっている気がする。

 もう一つ気づいたことは森繁の眼鏡。アクションスターのサングラスでもなく、喜劇役者のまんまる眼鏡でもない、ごく普通の眼鏡だが、主役の人がこれを使用することによって森繁ばかりではなく、映画全体までも雰囲気が変化したように思う。ちょっとおおげさだが。森繁もそのほかの日本の主役俳優も、やたら眉間の皺が目立つ。これを隠して明るさをもたらしたように思う。

 なお、本作には続編があり、話がつながっているそうだが、私は見ていません。
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