父親たちの星条旗
11/10/2006 (Fri)
英雄としてあつかわれるアメリカ軍の若い兵士三人。硫黄島上陸作戦に参戦し、無事帰国を果たした彼等だったが、擂り鉢山と呼ばれる島の山に勝利の印としてアメリカ国旗をかざしたメムバーでもあった。この時の報道写真が全米で評判を呼ぶことになる。
冒頭は平地での夜戦。米日の兵が互いに穴に身をひそめて睨みあっている。衛生兵である青年は、同僚の制止を振りきって負傷兵が横たわる穴へ駆けていく。重傷と一目でわかる腹部の傷の手当てをして「お前は絶対助かる、待っていてくれ。きっと助けに行く。」と約束し、元気づける。そのとき夜空にいっせいに照明弾があがる。だがその場所は戦場ではなく、観衆で埋め尽くされたスタジアムだ。ほんの短い時間を経てそれはわかる。スポットライトの当たる雛壇に三人が立ち、スタジアムであること、平和な場所であることを呑みこんで、私は照明弾の祝福と歓迎がたまらなく素敵に映る。ああ、よかった。だがまもなく、これで果たしていいんだろうか、戦場のなまなましさは置き去りにされてしまうのか、三人の兵士はどう思うのだろうか、という懐疑が頭をもたげてくる。そして、映画の進行につれて私のこの懐疑(異和感)は、そのまま兵士三人の彼等自身の英雄扱いされる境遇への異和感であることが見えてくる。
スタジアムや式典やパーティに引っぱり出される三人の帰国後の行動と、硫黄島の戦闘を中心とした過ぎし戦争の日々が交互に映される。クリント・イーストウッド監督の戦争観は、戦争とは人がおおぜい死ぬこと、負傷すること、ということに尽きる。赴いた仲間全員が帰還できない、殺したり、殺されたり、またそれを目撃して脳裏に刻み込まされてしまう、ということだろう。身体能力や勇気の差が生死を分けるのではなく、敵の弾に当たるか当たらないかという偶然によって分けられてしまう、個人の能力など戦場においてはたかが知れている。血と死の映像が、戦場を駆け這いずりまわった運動量が、そしてそれらが精神にもたらした負荷が、言葉以前に肉体の記憶として残る。
青年兵士たちは自分たちが英雄ではないことを知っている。「死んだ仲間こそ真の英雄だ。」と堂々とスピーチするくらいだから。増発国債の宣伝のために、操り人形のようにあちこちに引きずり回され歓呼に対して笑顔でこたえるが、はたしてこういう生き方でいいのか、という疑念に絶えずつきまとわれる。ドキッとする映像がある。星条旗を支えもった兵士六人をかたどった白い菓子が三人の前に運ばれてくる。その上にかけられるストロベリーソースが血よりも深い赤色で、兵士をして戦場へフラッシュバックさせずにはおかない。
敗残者としての自責にもっとも苦しめられるのが、三人のうちのネイティブ・アメリカン出身の青年。彼はまず事実へのこだわりを見せる。星条旗は実は硫黄島に二回、兵士たちによって掲げられた。報道写真は二回目のもので、彼は一回目の星条旗こそが記念されるべきだと主張する。また他の二人のなかには一回目に参加しなかった兵が含まれていてたいそう不満だ。だがそういう几帳面さは、しだいに彼自身への刃となってはね返ってくる。彼もやはり戦場における彼自身の無力、ひいては敗北にまみれる。「俺は恐くて逃げまわってばかりいた」と。「内なる過去」が生涯にわたって彼を責めさいなむ。そして案の定というか、目の前の現実や仕事に対する意欲、気力を喪失してしまう。私はこの青年に同情を禁じえなかった。
冒頭は平地での夜戦。米日の兵が互いに穴に身をひそめて睨みあっている。衛生兵である青年は、同僚の制止を振りきって負傷兵が横たわる穴へ駆けていく。重傷と一目でわかる腹部の傷の手当てをして「お前は絶対助かる、待っていてくれ。きっと助けに行く。」と約束し、元気づける。そのとき夜空にいっせいに照明弾があがる。だがその場所は戦場ではなく、観衆で埋め尽くされたスタジアムだ。ほんの短い時間を経てそれはわかる。スポットライトの当たる雛壇に三人が立ち、スタジアムであること、平和な場所であることを呑みこんで、私は照明弾の祝福と歓迎がたまらなく素敵に映る。ああ、よかった。だがまもなく、これで果たしていいんだろうか、戦場のなまなましさは置き去りにされてしまうのか、三人の兵士はどう思うのだろうか、という懐疑が頭をもたげてくる。そして、映画の進行につれて私のこの懐疑(異和感)は、そのまま兵士三人の彼等自身の英雄扱いされる境遇への異和感であることが見えてくる。
スタジアムや式典やパーティに引っぱり出される三人の帰国後の行動と、硫黄島の戦闘を中心とした過ぎし戦争の日々が交互に映される。クリント・イーストウッド監督の戦争観は、戦争とは人がおおぜい死ぬこと、負傷すること、ということに尽きる。赴いた仲間全員が帰還できない、殺したり、殺されたり、またそれを目撃して脳裏に刻み込まされてしまう、ということだろう。身体能力や勇気の差が生死を分けるのではなく、敵の弾に当たるか当たらないかという偶然によって分けられてしまう、個人の能力など戦場においてはたかが知れている。血と死の映像が、戦場を駆け這いずりまわった運動量が、そしてそれらが精神にもたらした負荷が、言葉以前に肉体の記憶として残る。
青年兵士たちは自分たちが英雄ではないことを知っている。「死んだ仲間こそ真の英雄だ。」と堂々とスピーチするくらいだから。増発国債の宣伝のために、操り人形のようにあちこちに引きずり回され歓呼に対して笑顔でこたえるが、はたしてこういう生き方でいいのか、という疑念に絶えずつきまとわれる。ドキッとする映像がある。星条旗を支えもった兵士六人をかたどった白い菓子が三人の前に運ばれてくる。その上にかけられるストロベリーソースが血よりも深い赤色で、兵士をして戦場へフラッシュバックさせずにはおかない。
敗残者としての自責にもっとも苦しめられるのが、三人のうちのネイティブ・アメリカン出身の青年。彼はまず事実へのこだわりを見せる。星条旗は実は硫黄島に二回、兵士たちによって掲げられた。報道写真は二回目のもので、彼は一回目の星条旗こそが記念されるべきだと主張する。また他の二人のなかには一回目に参加しなかった兵が含まれていてたいそう不満だ。だがそういう几帳面さは、しだいに彼自身への刃となってはね返ってくる。彼もやはり戦場における彼自身の無力、ひいては敗北にまみれる。「俺は恐くて逃げまわってばかりいた」と。「内なる過去」が生涯にわたって彼を責めさいなむ。そして案の定というか、目の前の現実や仕事に対する意欲、気力を喪失してしまう。私はこの青年に同情を禁じえなかった。
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