大洋ボート

シリアナ(2005/アメリカ)

シリアナ シリアナ
ジョージ・クルーニー (2006/07/14)
ワーナー・ホーム・ビデオ

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 原油を産出するペルシャ湾岸の某国。王の引退にともなう王位継承をめぐって王の子の兄弟が争う。兄は反米的、弟は親米的という図式で、そこにアメリカが陰謀もいとわずに介入する、という話。出演はCIA中東担当職員にジョージ・クルーニー、兄の王子の相談役の金融アナリストにマット・デイモン。

 「アメリカに石油を売っても、高い航空機を買わされたりで、国の近代化に使うことができない。この国の近代化と民主化を実現するために、私はアメリカとは距離をとりたい。」そんな意味のことを兄の王子が、マット・デイモンに言う。そういうことは大いに言いうるのだろうな、と私は思った。民主主義の世界的先導役を自認するアメリカに対する痛烈な批判だ。だがそれは、映画としてよりは、原作、シナリオの功績だろう。他にも、アメリカの複数の石油会社やその顧問弁護士、さらにその右腕など、登場人物が多く、利害関係が錯綜していて、とても細部までは掌握しきれない。まあ、二回見ればなんとか全体像がつかめるのかなあ、とは思うが、劇場鑑賞となるべく条件を一致させたいので、それはやらないでおきます。字幕を追うことの煩雑さにぶちあたる一品にはちがいない。

 映画をささえているのは、主演のジョージ・クルーニーのまっすぐな視線と落ち着きだろうか。

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女が階段を上る時(1960/日本)

女が階段を上る時 女が階段を上る時
高峰秀子 (2005/08/26)
東宝

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 高峯秀子は銀座のバーの雇われママ。ヘアスタイルも和服も地味で、客の勧誘にもそれほど熱心ではない。つまり、水商売の世界を内心嫌っていて、半歩引いた構えをとる。身持ちが堅いのだ。だが生計を立てるためには店を繁盛させなければならないし、反面、常連客の誘惑にやすやすと乗るわけにもいかない。そこにジレンマがある……。出演者は、常連客の男たちに森雅之、中村雁治郎、加東大介、小沢栄太郎ら。店のマネージャーが仲代達矢、ホステスに団令子ら。以前高峯の店にいて今は独立して店を持っているのが淡路恵子、という面々。当時若かった仲代や団もふくめて手練れで、ゆったりした気分で見ることができる。

 水商売の経営の舞台裏も描かれるが、面白いのはやはり高峯秀子をとりまく男性たちの欲望のありようだろう。上辺はゆったりとしているものの、高峯の肉体をあわよくばと狙っている。金にものを言わせたり、嘘をついたりとさまざまだ。手段はともかく、そりゃそうだろう、と私は思う。会社の金であれ、ポケットマネーであれ、常連になって高額な飲み代を支払わされるだけなら、いくら美人でももの足りない気分にもなるだろう。森雅之言うところの「凡夫」の性(さが)だ。酒場とは、所詮そういうところなのかもしれない。ネタバラシは避けるが、小沢栄太郎や加東大介のおもしろいこと、それに、ちょっと病的なこと……。そんな客たちも含めて、周囲の人たちに対して高峯秀子はてきぱきしているが、例によって意識的に表情を抑制している。他の成瀬巳喜男監督作品でも同様の高峯を見ることができるが、本作のような登場人物の多い場合、その表情のとぼしさが周囲の人物像のそれぞれの個性を引き立てる役割も果たすようだ。また、高峯は愁嘆場になって一気に感情を吐露するが、これも他の成瀬作品の彼女と同じだ。

 ただ水商売の世界に生きる女の肖像としては食い足りない気がする。別のタイプの女性もいるのだ。貞操観念がうすく欲望や恋心に翻弄されながらも、水をえた魚のように、その世界で生き生きとした表情を見せる女性もいる。たとえば『女は二度生まれる』の若尾文子のように。私は映画の素材としては後者の方が好きだが。

 セットも工夫されている。酒場の風景など、カウンターの向こうに酒瓶が並べられてあってさらにテーブル席があってと、どんな映画でも似たり寄ったりで本作も例外ではない。だが、題名にもあるように、本作は小路から二階の店に通じる階段をわざわざこしらえた。和服の裾を気にするのか、気だるいのか、ゆっくりと歩み上る高峯秀子。また普通のテンポで上がるときもある。こういう何気ない場面が、映画に現実味をあたえている。
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ホテル・ルワンダ(2004/カナダ・イギリスその他)

ホテル・ルワンダ プレミアム・エディション ホテル・ルワンダ プレミアム・エディション
ドン・チードル (2006/08/25)
ジェネオン エンタテインメント

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 アフリカはとおい。北米、ヨーロッパ、アジアに比べて私達の関心は低い。人的、経済的交流もそれらの地域に比較して少ないのだろう。未開、貧困、紛争といったおおざっぱなイメージでとらえてしまいがちである。また、こういう意識格差が私達日本人に一般的であるならば、新聞等による情報格差もごく自然に生まれてくるものだろう。例えば、アメリカでの9,11テロは私達にとって衝撃であったし、それにつれてアメリカは無論、世界も日本も政治的にあわただしく動かねばならなかった。だが同じ規模の、あるいはそれ以上の大殺戮事件がアフリカで起きても、私達は9,11事件と同じ驚きはもたないし、ジャーナリズムも大きくは取り上げない。世界の国の動きも鈍い。恥じ入るかどうかはともかく、感性的環境としてアフリカがとおいのは事実だ。

 この映画は、そういうアフリカで1994年に起きたルワンダ内戦を背景にしている。結果的に総数100万人もの死者を出した世界大戦規模の内戦だった。主人公は外国資本のホテルの 支配人のドン・チードルで、客層も白人が主で、彼自身もルワンダ国内ではめぐまれた地位にあるのだろう。そんななかフツ族からなる政府軍と民兵がツチ族を皆殺しにせんとして大挙押し寄せてくる。ドン・チードルはフツ族だが、彼の妻はツチ族だ。ツチ族にかぎらず、ツチ族をかばったフツ族の人間も標的にされる、という。とくに統制のない民兵組織はおそろしい。無防備、無抵抗のツチ族の人を鉈(ナタ)でなんらためらいなく惨殺する。切羽詰まった彼は英雄的におおぜいの同胞をホテルにかくまう。

 ドン・チードルは気丈にふるまう。人的繋がりを最大限利用する。政府軍の将軍に金品を与えたり、民兵と関係のある商人から情報を収集したり、また平和維持軍のキャップのニック・ノルディ(ものすごく善人に見える)に救援を求めたりと。金も知恵も使う。そういうことで何回かある危機を回避する。また、いたましいが家族には自殺の準備をしておくように勧める。惨殺よりもその方が、いい死に方だと思うからだ。ただ、このあたりはドン・チードルは映画的ヒーローの範囲内だ。それが崩れる場面がこの映画の白眉といえる。

 自動車での移動中に道ばたに横たわる累々たる死骸を目撃してからだ。それ以前に彼は、白人ジャーナリストが撮った殺戮場面の映像を見ているが、その眼で直接に大量の屍を見るのははじめてなのだ。ホテルの更衣室について彼は着替える。何事もなかったと、みずからに言い聞かせるようにネクタイを結ぶドン・チードル。気丈にふるまうかに見える。だが内心の動揺によって、何回やってもうまく結べない。ついに堰を切ったようにくずおれて号泣してしまう。押し寄せてくる恐怖と悲しみが、彼を鷲づかみにしてしまったのだ。このときほど、私達は主人公を身近に感じることはない。

 ホテル支配人だから、ドン・チードルは平和も贅沢も他の同国人よりも知りえている。つまりその分だけ先進国に近く、同じ分だけ、ルワンダの惨状と死からとおいのだ。主人公のこの立ち位置が、アフリカの小国の内戦を描いたこの映画を、私達に理解しやすくしていると思える。死は情報であり、どんなにとおくとも想像の対象である。だが急迫してくる死は、そういうものとはまるでちがう。持ちきれないほどの感覚であり、肉体のふるえなのだろう。この映画はそれを教えてくれる。アフリカのとおさは、この映画を見ても変わらないのかもしれないが、束の間、私達は死の形相には近づく。 

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裸電球

パリッと割れる裸電球
生命のように あちこちで生まれては割れ
林全体をかざる

ぽかんとあけた口で 天を仰いで
ああ あのときの空
硝子の内側のざらざらに焼き付ける
焼き付けられる
霧雨に濡れる家
それがどうしたんだ 反吐だ!

ため息のように 遵法精神
じっとりとした体液を吐き出す
ギザギザの線の個性
プライドの牙城
「仰げば尊し」
盛り上がった球状が たちまち水平になる
互いに見ず知らずだったあの頃にもどる
破片の絨毯

    21:59 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

球体

階段でうごめくもの
伸縮自在の球体
表面は粘着質 そのくせ
水を汗のようにうっすらとにじませている
どうやらふたつあって からみあっている

板でからみあうもの
伸縮自在の球体ふたつ
棒にもひとしいほそい板が
階段のスペースにはりわたされて
つつっ と滑り 落っこちそうになり
団子状になって
なりふりかまわず板にへばりつく
伸縮自在の球体ふたつ

窓にぴったり顔を寄せて覗く
巨大なシーツ
巨大クラゲ

    23:13 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

テキサス・チェーンソー ビギニング

 正視できない場面が、最初から最後までふんだんに盛り込まれている。長い柄のハンマーを使っての撲殺、チェーンソーによる生体切断など。絶叫が響き、血しぶきが飛ぶ。映像技術も音響もよくできている。退屈はしない。しかし、見終わったあとで何が残るのだろうか。

 状況説明はいたって簡単。若井男女のペア二組計四人が、ドライヴ旅行の途中でテキサスのさびれた田舎の町に寄る。そこで殺人鬼の一家!に監禁される、というもの。ベトナム戦争の徴兵忌避問題が出てくるから、一九七〇年前後の時代だろう。

 映画は美男美女を映す。また自然の壮大な景色も堪能させてくれる。その反面というか、恐怖と残酷性を拡大して見せることにかけても、たいへんすぐれた器である。そのことを、このテの映画は証明してみせてくれる。映像技術の進歩もさることながら、やはりこのテの映画に対する観客層の一定の需要があるからこそ、それに見合った本数がつくられるのだろう。劇場というよりも見せ物小屋という言い方がこういう映画にはふさわしい。

 
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父親たちの星条旗

 英雄としてあつかわれるアメリカ軍の若い兵士三人。硫黄島上陸作戦に参戦し、無事帰国を果たした彼等だったが、擂り鉢山と呼ばれる島の山に勝利の印としてアメリカ国旗をかざしたメムバーでもあった。この時の報道写真が全米で評判を呼ぶことになる。

 冒頭は平地での夜戦。米日の兵が互いに穴に身をひそめて睨みあっている。衛生兵である青年は、同僚の制止を振りきって負傷兵が横たわる穴へ駆けていく。重傷と一目でわかる腹部の傷の手当てをして「お前は絶対助かる、待っていてくれ。きっと助けに行く。」と約束し、元気づける。そのとき夜空にいっせいに照明弾があがる。だがその場所は戦場ではなく、観衆で埋め尽くされたスタジアムだ。ほんの短い時間を経てそれはわかる。スポットライトの当たる雛壇に三人が立ち、スタジアムであること、平和な場所であることを呑みこんで、私は照明弾の祝福と歓迎がたまらなく素敵に映る。ああ、よかった。だがまもなく、これで果たしていいんだろうか、戦場のなまなましさは置き去りにされてしまうのか、三人の兵士はどう思うのだろうか、という懐疑が頭をもたげてくる。そして、映画の進行につれて私のこの懐疑(異和感)は、そのまま兵士三人の彼等自身の英雄扱いされる境遇への異和感であることが見えてくる。

 スタジアムや式典やパーティに引っぱり出される三人の帰国後の行動と、硫黄島の戦闘を中心とした過ぎし戦争の日々が交互に映される。クリント・イーストウッド監督の戦争観は、戦争とは人がおおぜい死ぬこと、負傷すること、ということに尽きる。赴いた仲間全員が帰還できない、殺したり、殺されたり、またそれを目撃して脳裏に刻み込まされてしまう、ということだろう。身体能力や勇気の差が生死を分けるのではなく、敵の弾に当たるか当たらないかという偶然によって分けられてしまう、個人の能力など戦場においてはたかが知れている。血と死の映像が、戦場を駆け這いずりまわった運動量が、そしてそれらが精神にもたらした負荷が、言葉以前に肉体の記憶として残る。

 青年兵士たちは自分たちが英雄ではないことを知っている。「死んだ仲間こそ真の英雄だ。」と堂々とスピーチするくらいだから。増発国債の宣伝のために、操り人形のようにあちこちに引きずり回され歓呼に対して笑顔でこたえるが、はたしてこういう生き方でいいのか、という疑念に絶えずつきまとわれる。ドキッとする映像がある。星条旗を支えもった兵士六人をかたどった白い菓子が三人の前に運ばれてくる。その上にかけられるストロベリーソースが血よりも深い赤色で、兵士をして戦場へフラッシュバックさせずにはおかない。

 敗残者としての自責にもっとも苦しめられるのが、三人のうちのネイティブ・アメリカン出身の青年。彼はまず事実へのこだわりを見せる。星条旗は実は硫黄島に二回、兵士たちによって掲げられた。報道写真は二回目のもので、彼は一回目の星条旗こそが記念されるべきだと主張する。また他の二人のなかには一回目に参加しなかった兵が含まれていてたいそう不満だ。だがそういう几帳面さは、しだいに彼自身への刃となってはね返ってくる。彼もやはり戦場における彼自身の無力、ひいては敗北にまみれる。「俺は恐くて逃げまわってばかりいた」と。「内なる過去」が生涯にわたって彼を責めさいなむ。そして案の定というか、目の前の現実や仕事に対する意欲、気力を喪失してしまう。私はこの青年に同情を禁じえなかった。

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きれいなおかあさん(2001/中国)

きれいなおかあさん きれいなおかあさん
コン・リー (2003/11/27)
ハピネット・ピクチャーズ

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 コン・リーが障害を持った子の母の役。子供は難聴で補聴器が欠かせないうえ、話すことも不自由だ。養護学校ではなく、普通の小学校へ入学させようとするが、受け入れてもらえない。既に夫と離婚し、子供との接触の時間をもつために外資系企業を退職し、新聞配達に家政婦にと、ときには子供をつれて駆け回るコン・リー。

 障害を持つ子供が主人公にしては、この映画はずいぶんと明るい。それはコン・リーの好演によるところが大きいのだろう。喜怒哀楽の表現が自然で力強い、土の匂いがする。なおかつ気品がある。だがもっと時代的な背景があるのではないか。文化大革命の時代の政治色に収斂される表現や思考から、ここへきてようやく掛け値なしに解放されたように思える。そのことが、この映画をおおう自由の気風だと思う。コン・リーが本の不法販売に手を染めるのも、あながち「自由」と無関係ではないだろう。子供のためなら、やりたいことをやっていいのだ。それにカメラワークも軽快だ。人がはげしく動く場面では、携帯カメラに替わっていて、これが無理がない。

 映画的な表現として印象に残った場面を記しておく。離婚した父の死を子供に伝えようとするコン・リーだが、子供が「死」の意味をのみこめない。戦争の絵をひらいて倒れた兵隊を示す。その際、絵そのものは画面に映らない。コン・リーはそれを「死」だと教えるが、子供は血の赤色に注目して、元気いっぱいに「赤!」と口に出す。困ったコン・リーだが、次に食糧にする生きた海老を持ってくる。海老が足をもぐもぐ動かす。それを見せたうえで、今度はゆでて動かなくなった海老を持ってきて、生きた海老との対比で「死」を理解させようとする。だがゆでた海老は赤いので子供はやはり「赤!」としっかりした声で答える。子供にはにわかに理解できない世界がある。
 
    23:57 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

16ブロック

 刑事のブルース・ウィルスが拘留中の黒人青年モス・デフを裁判所まで護送することになる。青年を証言者として出廷させるためだった。だが途中で青年とブルース・ウィルスは正体不明の複数の狙撃者に命を狙われることになる……。題名の「」16ブロック」とは警察署と裁判所とのほんの短い距離のことだそうだ。具体的な数値は不明。

 ブルース・ウィルスが仕事に疲れきったうえアルコール好きという刑事像をよく出している。こんな味の出せる俳優だとは知らなかった。同僚刑事のデビッド・モースもウィルスを向こうに回しての堂々たる役者ぶりだ。またリチャード・ドナー監督が出演者同士の会話を結構重視しているんだなあ、とも思った。

 しかし私が引き込まれ満足したのは、やはりアクションの部分だ。ブルース・ウィルスと青年はいつの間にかニューヨーク市警全体を敵に回すハメになるが(その事情は省略)、この大捕物が面白い。例えば、銃撃音がしてその直後にやられる人物が映されるが、これが鑑賞者の目算とはちがう人物に命中してしまっている。そして何故そうなったのかは映像的に即座に理解できる仕組みになっている。この一瞬のズレが快感だ。同様の場面が何回か出てくる。レストランの店員が残飯入れの金属の箱の蓋をおもいっきり閉じると、おびえて銃口を向けるウィルス。ここも好きだ。それにあのバスジャック……。

 「信ジラレナーイ」場面も数えられるが映画全体には響かない。映像と話の流れがスムースで小気味よい。警察アクションとしては『マイアミ・バイス』よりも上出来だ。
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