大洋ボート

堀井憲一郎『若者殺しの時代』

 若者文化という領域がある。私の年代で覚えているのは、ビートルズやフォークソングなどの音楽だ。レコードは当然売れたし、エレキギターや普通のギターなどの楽器も売れた。日本の音楽界も影響を受けて、グループサウンズやフォークグループが多数生まれた。若い人たちのジーパンと長髪のスタイルも流行った。60年代のことである。私個人は、60年代後半は政治運動にのめり込んだ方なので、音楽方面にはさして関心を寄せなかったが、とくにそこに違和感を覚えた記憶もない。大いに難癖を付けたのは大人たちだった。

 ちょっとついていけないな、と感じたのは少し後の70年代中頃あたりで、キャンディーズやピンクレディといった女性グループ歌手に男の子が大声をはりあげて声援を送る姿だった。テレビで見た客席の彼らは、自分たちで作ったハッピをそろって着たり、鉢巻きをしたりしていた。私たちの世代はコンサート会場では、少なくとも女性アイドルに対してはもっと静かだったと記憶している。古いが、園マリが順番がきて歌い始めると、それまで男性アイドルに金切り声をあげていた女性客がなりをひそめ、その代わりにといっても若い男性客が声援を盛り上げることはなく、集中の気配を漂わせる静けさが不気味なほど支配していたものだ……。かわって、キャンディーズやピンクレディを取り囲む男子への私の感覚は、若者が夢中になっている姿を傍から眺めたときには、まずは異様に映るという一般論の範囲の出来事なのだろうか。私も70年代のその頃は、まだ20代だったのだが。若者はいつでも新しい、ということだろうか。ともあれ、若い年代をターゲットにしたポピュラー音楽は、その後も担い手を交替させ享受者も入れ替わらせながら、現在に至るまで隆盛をつづけているのだが。
                
 おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいているだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、「若いおとな」とはまったくちがう別個の「若者」という新しいカテゴリーが発見され、「若者」に向けての商品が売られ、「若者」は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけれど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、とにかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。 
 
こう書く堀井は1958年生まれ。80年代がおおよそ堀井の20代にあたり、「若者」としてのリアルタイムであったわけで、被害者的観点にあえてたつことによって、そのころの「若者文化」のあらたな勃興をスケッチしている。私は80年代はおおよそ30代なので、とっくに若者ではなくなっていた。当事者意識も当然なかった。また、テレビドラマやアニメや漫画など、私には知らないことが多すぎるのだが。このころには若者層をターゲットにした商品は音楽以外の領域からも頻出していたらしい。今ではすっかり定着したらしい、若い恋人同士のクリスマスイヴにおけるシティ・ホテルでの宿泊は、堀井によると雑誌「アンアン」の1983年12月号での提案が火付け役になった、という。それまではクリスマスといえば、男女ペアのどちらかの住まいで、手料理とワインで祝うのがパターンだった。また70年代から80年代前半にかけて流行った、女性からの手編みのセーター、マフラーのプレゼントも、シティ・ホテル宿泊が定着しだしたころからめっきり減ってしまったともいう。バレンタインデーのチョコレートプレゼントも、起源は60年代初めらしいが、80年代前半に「義理チョコ」と名付けられたものが販売されてから、一気に売れ行きが伸びた、という。また、女性客の要望を入れてラヴホテルから回転ベッドが消え、けばけばしいインテリアがシティ・ホテル並の地味なものに変化した、という。70年代の日活や東映の映画で回転ベッドなるものはよく見たが、それも含めて、ここに挙げたいちいちの事情を私はまったく知らなかったので、面白かった。

 この時代以降、グループ交際も含めて、若い男性が同世代の女性により多くの金銭を支払わなければならなくなったのだ。(可愛い女性にかぎるのかもしれないが)それだけ若い女性の金銭的価値が上がった、ということだ。それは今日に至るも不変だ。高価なプレゼントもしなければならない。アッシー、メッシーなどという若い男性に対する侮蔑的な言葉が流行ったのは90年代だろうか。カッコいい男を演じて女性を引きつける時代ではなくなり、男はひたすら消費させられた。堀井は嘆く。

 80年代は若者にとって、わけがわからないまま、何かが変わっていった時期だった。
 個人的な記憶によると、1984年はおしゃれなことをはじめた年で、1985年は遊びに金をかけてもいいんだと気づいた年で、1986年と1987年に遊びにかけるお金をおそるおそるではあるが増やしていって、1988年にはもうこのあたりが限度だろうとおもったんだけど周りを見るとまだ天井じゃない感じがして、そのまま遊びほうけて、そのあとはそのままやけになって使いつづけた、(以下略)


 若者とは変わりたい存在なのだろうか。子供が若者になったとき、はじめて時代のブームに接することになる。変わりたい若者はブームの渦中に身を投じて興奮を味わう。身体を動かし金銭を投入する。ポピュラー音楽なら享受の実感があるのかもしれない。だが変わるといっても、個人としての器量がそう急激にあがるものではない。ブームの側が押し上げてくれるのでもない。風景が変わるとしてもだ。変わりたいという願望には何処か軽薄さがある。だからというべきか、変わりたいという欲求の裏側には「変わりたくない」「変われない」という芯の部分が実はあるのかもしれず、それを自覚してしまえばいいのだ。私の若い頃にはできなかったことだが、2番目に引用した文を読めば、堀井の80年代の若い頃には半分くらいはそれができていた、と思う。堀井が変わりたいと思ったかどうかはわからないが、とりあえずは時代の流行についていった、ということだろう。「若者の価値の高さ」に疑問を抱きながら。

 90年代にはいるとワープロと携帯電話が出現した。堀井はこの頃には若者を卒業しているが、これらの機器の文化と生活にあたえた影響も急ぎ足で論じている。ワープロによってはミステリー小説がやたら長くなった。ああ、そうだな。携帯は個人の秘密の空間をやたら狭めた。私は携帯を持っていないが、やはり、そうかもしれないな、という感じはする。最後の方は「若者論」ではなしに文化論、日本論になっている。大ざっぱだが、時代に巻き込まれるな、逃げろ、という提案だ。ニートというわけではなく、おどけた調子で、伝統文化を身につけろと提案している。私の先の言い方にならえば「変わりたくない」という座標軸づくりのための処方箋だと捉えられる。私には自信のあることは言えないが、「不変のもの」は「伝統」なるものと通じているのかもしれない。

           講談社現代新書 2006年4月初版
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三浦展『下流社会』

 「下流社会」とは著者の造語。主に収入によるのだが、生活水準を上、中、下と分けて、「中の下」と下を合わせた層を「下流 」と名付ける。もっとも、各個人がいずれの群に属するかは、その人の自己査定によるもので、客観的な基準があって、それが当てはめられているわけではない。だからズレが当然生じてくる。例えば、この本の中でインタビューに答えているある人は、自己を「中の中」と規定するが、年収は二百万を越える程度。この本の全体の内容からすればその額では「下」に属すると考えられる。はっきり記されていないものの、年収三百~四百万円程度を著者は「中の下」と呼ぶようであり、社会的な評価もだいたいそれと同じくらいかな、と思う。そんな自己査定のズレも含めたアンケート調査による「下流社会」、とりわけ団塊ジュニア世代(著者によると1970~1974,もしくは1971~1975年生まれの人を指す。現在の年齢に当てはめると三十代前半)の「下流社会」の生活意識の考察を目指したのが本書である。

 リストラの進行や派遣会社の法的権能の拡大によって、就業者の全世代にわたっていわゆる非正規社員が増大した。その結果、「中」から「中の下」や「下」に自己査定を変更せざるをえない人が多く出現した。中流層の大きい部分が収入を減らし、「一億層中流意識」が崩れ去った。また高校や大学の新卒者が正規社員になれないといった事態も部分的に常態化する結果となった。ここまでは経済環境の悪化、変化によって説明され、異論をはさむ余地はない。さらにそれに加えて三浦は、団塊ジュニア世代の「下」に属する人たちが過剰に「自分らしさ」をもとめることが、かえって「下」からの上昇を阻む結果をもたらしている、と説く。だが、三浦のこの説には、言葉が未整理なところがあって気になる。

 「欲求調査」によると、団塊ジュニアの男性で「生活の中で大事にしていること」として「個性・自分らしさ」を挙げた者は、階層意識が「上」の者では25.0%なのに「下」の者では41.7%いる。同様に「自立・自己実現」も「上」は16.7%だが、「下」は29.2%である。
 (略)
 なぜそうなるのか?「自分らしさ」や「自己実現」を求める者は、仕事においても自分らしく働こうとする。しかしそれで高収入を得ることは難しいので、低収入となる。よって生活水準が低下する。そういう悪いスパイラルにはまっているのではないかと推測される。(P157~158)


 ここでは「自分らしさ」が、マイペースや自分勝手、わがまま、とい風に見なされている。別のところでは、のんびり生きることや、ひとりぼっちを好むことが団塊ジュニア「下流」の「自分らしさ」とされている。さらに三浦は他の著書を引用しながら、彼らのコミニュケーション能力の不足を指摘する。また、パソコン・インターネット、携帯電話、テレビゲームなどの趣味はいずれの層にも好まれているが、「下流」においてもっともそれらを挙げる人数が多いともいう。

 だが、ちょっと待てよ、と言いたくなる。「自分らしさ」という概念ほど、おそろしく幅広い受け取り方をされる概念はない。「自分らしさ」は誰でも実現してみたいと願うのではないか。団塊ジュニアの「上」層が「生活の中で大事にしていること」として挙げた「ゆとり」「仲間・人間関係」「創造性」「活動的・アクティブ」という項目も、その人にとって「自分らしさ」の発露と受け止められても、まったく自然なことだ。事実として、彼らの親の世代に当たる団塊世代の「上」層では「自分らしさ」を挙げた人が、同世代の「下」よりも多いという結果が出ている。これについては三浦は、別の説明をしているが、省略する。また三浦自身が「自分らしさ」の解釈多義性についても語っているカ所もあるので、混乱をみずから認めるようでもある。

 もう一つ指摘したいことは、こちらの方が私にとってはより重要なのだが、アンケート調査によるこの程度の考察や感想では、従来言われてきたことを出るものではないということだ。フリーターは夢見がちでなまけ者というイメージを、すっかり踏襲してしまっている。それが間違っているとはいえないにしても、フリーターや「下流生活者」は今後絶対数として存在しつづけるのだから、もっとちがった人間の顔に出会えるはずだ。せめて、フリーターの労働実態に重点を置いたアンケート調査でもしてもらわなければ。
                 光文社新書 2005年9月初版
    23:21 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

ユナイテッド93

 9,11テロで4番目に墜落した旅客機が舞台。複数の犯人によってハイジャックされたことを知った乗客たちは、携帯電話による地上との交信で、世界貿易センタービルや国防省に、同じくハイジャックされた飛行機が突入、炎上したことを知らされる。ここからが見どころだ。ひとにぎりの乗客たちが犯人に果敢かつ壮絶な戦いを挑む。

 まったく正しい疑いようのない理由が土台としてある。何処か巨大施設への突入目指して飛行する機を、何としてでも阻止しなければならない。自分たちの生命を救うためでもあるが、そんなことを忘れるくらい夢中になって乗客のグループは犯人に体当たりしていく。犯人が憎くて憎くてたまらない。だからこそ、あらかたの目算を立てて、体力と精魂のありったけを放出して戦うのだ。怒号が、絶叫がぶつかりあう。血が飛ぶ。生活とは、暴力行使へのためらいによって成り立っている一面があるが、彼らはここでこそ、それを見事に放棄する。

 この熱さ、この感覚は久しぶりだ。
           OS劇場
    23:07 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

日曜日

 酷暑がつづく。私が今思い出しているのは蝉しぐれだ。最近は、日曜日ごとに実家の一角の私専用の部屋に、読書のために赴くのだが、そのたびに公園を通過する。下町の公園としては、かなり規模が大きくて、野球用のグラウンドが二面ある。また、ゲートボール用のものも一面あり、その他の場所は当然というか、緑地帯になっている。楠、欅、桜などの比較的樹齢の若い木々が生い茂っている。先だっての日曜日には、この夏一番のいきおいで蝉が鳴き出した。多数の蝉が合唱すると、鳴くというよりも滾る、というにふさわしいけたたましさだ。空の盤面に黒いおはじき玉のようにおびただしくばらまかれた葉の群をまぶしく見上げるながら、そのシャワーを気持ちよく浴びることができた。その道は数分で通過してしまう距離だが、心地よさは残った。

 自動車の音、テレビの音、そして私が仕事で操作している旋盤の音、私の周りにはこのように人為の音(騒音)でまみれている。そうしたなかで天然の音響はやはり根本的にちがう。普段蝉の声を耳にする人には何でもないことだろうが、私にはちょっとした清涼剤である。

 日曜日の公園には、先に書いたようにグラウンドが二面あるので、少年野球をしに来る子供やそのお母さんがたで賑やかで活気がある。別の言葉であらわせば、解放感を感じ取ることができる。そうした風景を横目にしながら通りすぎることも心地のいいものだ。
Genre : 日記 日記
    00:06 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ヘミングウェイ「何を見ても何かを思い出す」

 父と息子の関係はむつかしい。父は彼の父(彼の息子からは祖父に当たる人)に子供時代に大事なことを教わった、また庇護してくれ、あたたかく包み込んでくれた、という思い出を抱いている。これはヘミングウェイの子供時代に題材をとった彼の他の短編を読めばわかることで、だからこそ父は、かつての彼の父のような役割を息子に対して自分も担わなければならないと思う。そして実際にやってみる。小説の執筆を、射撃を彼は息子に教える。英才教育、というのではない。距離をとることを、息子の自発性を重んじることを忘れないように心がけて。やっている最中はおどろくほどうまく行く。大げさだが、天にも昇る気持だ。 

 父の役割は家に金を運んでくること、少なくとも古典的にはそうだ。あとは家で一緒にいるということだ。小言をいったり、笑いあったり、遊んだりは自然の成り行きだ。それ以上に父が「父」という立場を意識するときは、この短編の例のように自分の得意な分野にかぎって教えることだろうか。また、その時間ほど父は子供(息子)を意識することは他にはないだろう。父にも仕事やつきあいや母(妻)との関係やその他雑多な時間があるが、それらに加えて、子供とそういう具合に接するという新たな時間が生まれる。「父親ごっこ」「家族ごっこ」である。意地悪に見ると、その時間のなかでしか子供を知ることができなくなる、という事態に陥ることにもなりかねない。

 一方、子供にとって父とはどういう存在なのだろうか。厳めしさのなかに頼もしさや親しみを見いだすことができる存在なのだろうか。それとも疎ましいだけの、いずれは反抗せずにはおれない存在なのだろうか。この短編では息子は前者に見える。もっとも、作者は息子を独自に客観描写することはなく、あくまで父から眺められた息子の姿としてそうだ、ということだが。父が有名な作家であることがプレッシャーになるのか、彼は父の指導を忠実に守る。それどころか、父も驚くほどに創作や射撃で上達してみせる。「いい子」ぶるのかもしれないが、その結果は「父と子」という意識のぎこちなさを忘れさせるくらいの喜びを二人にもたらす。

 息子にとってもまた、父と過ごす時間は、雑多な時間の中では特別なのかもしれない。大げさにいえば、その時間だけ彼は彼でなくなるのかもしれない。だが、そんなことを父は知るよしもない。父と接する時以外の息子の姿など、知らないのだ。

 息子は、父が教えるのをやめてから射撃の腕を落とす。大人と互して国際大会にも出場したこともあったのに。小説を発表して表彰されたこともあるが、それにもからくりがあった。いや、息子という人間がそれどころではないくらいのていたらくであることを、月日がたてばたつほど父は知らされる。ヘミングウェイは、例によって感情表現を切りつめた文体で押しとおすが、つらさは確実に伝わってくる。と同時に人生の不可思議さを見せつけられる思いがする。

 結局、息子は終始一貫だめな男だったのだということを、いま、父親は思い知らされた。それは実は、これまでも昔を振り返るにつけ胸に去来した思いだった。あの射撃の訓練が何の足しにもならなかったと悟るのは、悲しい極みだった。

 高見浩の巻末解説によると、この短編は、その続編ともいうべき「本土からの吉報」とともに、ヘミングウェイの三男がモデルだそうである。両編とも彼の生前には発表されなかった。

     新潮文庫『蝶々と戦車・何を見ても何かを思い出す』高見浩訳

    23:18 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ディセント

 酷暑にふさわしい上出来のホラー映画。六人の女性探検家が巨大洞窟に挑むが、前代未聞の怪物に遭遇する。

 洞窟といっても、原野にむき出しになった垂直状で、ロッククライミングの方法で彼女たちは降下していく。枝のように無数の穴が開いているが、出口のあてはない。むしろ、それを発見するのが探検の目的であるのだが……。

 当然画面は暗く、灯りはヘルメットにつけた電灯や照明弾や、蛍光塗料を塗った棒しかない。ちょっと退屈しかけたときに、全身真っ白なぬるぬるした皮膚の怪物がとおくに一瞬映る。このとき、鑑賞者の目が覚める。

 黒一色のなかに純白の生物が一瞬映ることのなんともいえないおぞましさ。怪物は獰猛な肉食性動物。このあとは一気呵成の展開。血しぶきが飛び、血の海にのたうちまわる女性たちと怪物との闘争の地獄絵図となる。

 コマ落とし(早送り)が実に効果的だ。怪物の動きが想像を裏切って早く、おそろしく、これが快感でもあるのだ。怪物の姿をとっくりと見る時間がないのもいい。また、洞窟内とはいえ、後半部では画面が比較的明るくなって見やすくなるのもいい。これらの画面構成においては、映画的セオリーがまもられている。

 仲間同士の「誤爆」がある。主人公が死に臨んで、幼くして死んだ娘の幻を到来させる場面もある。作り手が、単に映画を怪物との闘争にのみ終わらせることなく、幅を持たせようとしていることの意図の表れだが、十分に成功している。
                        テアトル梅田
***

 ということで、今回から映画感想文もはじめました。映画は劇場で見るのがベスト、映像といい音響といい、その魅力を最大限に発揮するのが劇場です。しかし私には、劇場へ足を運ぶだけの十分な時間がない。そのため、やむをえず、DVDによるテレビでの鑑賞をもまじえての感想文となります。またDVDは劇場にかけられることの滅多にない古い作品に接する機会も提供してくれるので、そちらの方面でも利用したいと思います。
    22:35 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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