大洋ボート

ヘミングウェイ「蝶々と戦車」

 冗談は好きな方だ。複数の人のいる場でのかた苦しい雰囲気をやわらげるときには役に立つし、仲のよい男女や友人同士なら、さらにその仲のよさを冗談を言い合って持続することができる。また、真面目な論を、意外な方向から光を当ててわかりやすくするときにも役に立ちそうだ。もっとも、私が自在にそういう具合に冗談を駆使できるというのではない。人様が心地よさそうに冗談を引き出しから取り出して見せる姿を見て、その能力をうらやましがるだけだ。また、冗談の範囲を少し広げて、いたずらを加えて考えてもよい。だが、ここからは私の体験もまじえての観察だが、当然ながら、冗談はタイミングがむつかしい。また、あまりなれなれしく口にするのも禁物だ。冗談ばかり立て続けにしゃべると、お笑い芸人でもないかぎり胡散臭い目で見られる、ということもあるだろう。もっとも、しかつめらしく構えてしまうと、出るべき冗談も出なくなってしまいそうで、冗談には失敗がつきまとう運命が刻まれている、ということになろうか。

 冗談をよく口にする人は目立ちたがり屋かもしれない。私の若い頃がそうだった。同じくして支持する思想の話をしかつめらしくすると、誰もが似たり寄ったりの内容になってしまうし、その咀嚼の度合いにおいて、私は他の人よりも劣っている、という自覚があった。だが私は、よく話しあったある特定の仲間の輪から離れたくなかったので、冗談を頻発した。その意志表明であったし、傲慢不遜であったが、仲間もそういう私の気持はわかってくれていたと思う。真面目な意見で劣るなら、せめて冗談でもって優ってやろう、雰囲気づくりをしてやろう、目立ってやろう、という一種強引な、若い時代に特有な猥雑な身構えであり、実践だった。うまくやれたとは思えないし、正当な態度であったとも思えないが……。

 この短編を読んで、その当時の私自身のことを思い出させられた。さて、私のことはともかく、この短編に登場するのは、病気で戦えなくなった共和国軍の兵士だ。彼が戦いに参加する唯一の残された手段が冗談(いたずら)、ということだ。冗談(いたずら)によって兵士たちを喜ばせようとした。少なくとも彼はそういう思いこみに支配されたようだ。だが彼の意図に反して、誰にも彼の「参加の意志」は理解されずに、彼は文字通り葬られることになる。

 1937年のスペインのマドリード。フランコ軍によって包囲されて共和国派は重苦しい雰囲気に支配されていた。「私」(ヘミングウェイとおぼしき人)はある日の夕刻、ホテルへ帰途の途中に「チコーテ」という馴染みの酒場に立ち寄る。(この酒場の名は、スペイン内戦を舞台にした他の短編にも出てくる)立錐の余地のないほどの混雑で、「私」ははやくも後悔の念に支配される。兵士をはじめ、外国から来たジャーナリストや共和国派の応援者などでごったがえしていて、歌声や話し声で喧噪につつまれている。そんななか、「私」は初対面らしい人たちと互いに聞き取りにくい会話をつつけるのだが、例の男がそのとき目に飛び込んでくる。

 そのとき、それがはじまったのである。主役は、茶色いスーツに白いシャツ、それに黒いタイという出立ちの民間人で、やや高い額から髪を真うしろになでつけていた。それまでテーブルからテーブルへとまわってはおどけていたその男が、ウェイターの一人をいきなり水鉄砲で撃ったのだ。だれもが笑い声をあげた。が、グラスをたくさんのせたトレイを運んでいた当のウェイターだけは別だった。彼は怒っていた。

 病み上がりの男はウェイターの怒りが本物であることを見抜けずに、別のウェイターにも同じく水鉄砲を撃ってしまう。たまりかねた客のなかの三人の兵士が彼を暴力ずくで制止するが、なお男の勢いはやまず、彼らにも水鉄砲をぶっ放してしまい、逆に本物の銃で射殺される、という結末になる。混乱を意図的に起こそうとしている、不穏分子とでも「誤解」された結果だ。過剰反応ともいえる。まもなく、騒ぎを聞いた警官隊がやってくるが、犯人は入れちがいに店から脱出する。出来事としてはこれだけだが、「私」は気になって翌日の昼間「チコーテ」を訪れる。すると支配人やウェイターは、昨日とは一転して、例の男にしんみりした同情を寄せていることがわかる。

 さも重大な秘密を明かすかのように、支配人がテーブルに身を寄せた。
「あの水鉄砲にはですな」彼は言った。「あの男、オー・デ・コロンを詰めてたんです。可哀相に」
「それほど悪趣味な冗談でもなかったでしょう?」そのウェイターが言った。
「あの男はただ浮かれて騒いでいただけなんです。まともに腹を立てることはなかったんですよ」支配人が言った。「可哀相に」
「なるほど」私は言った。「要するに、みんなを楽しませてやろうとしたんだろう」
「そういうことです」支配人が言った。「じつにもって、不幸な誤解だったわけです」


 死者の心情のこまやかなところなど、誰にもわからないものかもしれない。だが外国人よりも、同国人の同じ陣営で戦っている者としての同情で、見えてくるものがあるのではないか。そして、それを観察し首肯するのが外国の作家であり、その作家的想像力が梃子になる、ということになる。作家は、暗闇に錘を垂らすように死んだ男と、彼をとりまく社会的雰囲気に思いを巡らせる。また、支配人は「私」が作家であることを知っているからこそ、彼に話す。この出来事を書いてくれと頼む。このように、ここでは作家と死者とのつながりが直接的でなく、支配人をはさんで間接的であり、そのことが死者の像をより浮かびあがらせるのに効果的にはたらいているのではないか、と思う。「オー・デ・コロン」という小道具が、不思議に死者に親近感をもたせる。また読者は、二人の会話によって、死者の事件直前の行動を少しは知り、運の悪さも知らされる。ウェイターに水鉄砲を使ったのは、酔ったうえでの思いつきだったこと、別の場所でそれを使用するつもりだったこと、つまり計画性はなかったこと、を知ることになる。「思いつき」も、冗談(いたずら)の特性だ。

 ひとりの死者に立ち止まることによって、スペイン内戦や、もっと普遍的な人同士の異様な緊迫状態といったものが伝わってくるすぐれた短編だ。題名の「蝶々と戦車」は、次のような支配人の言葉からとられている。

「いいですか」と支配人。「これは実際珍しい話なんですよ。つまり、彼の陽気さが、戦争の深刻さとぶつかったんですよ。さながら蝶々みたいに──」
「ああ、たしかに蝶々みたいだったな」私は言った。「蝶々に似すぎてたよ」


  新潮文庫『蝶々と戦車・何を見ても何かを思い出す』高見浩訳

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ヘミングウェイ「世界の首都」

 舞台は1930年代なかばのスペインの首都マドリード。パコという少年は貧しい村の出身で、ルアルカというペンションでボーイをしている。彼は闘牛士になってみたいという夢を抱いているが、このルアルカは闘牛のシーズンともなれば「二流闘牛士」の常宿となった。安くて食事がうまい上に、闘牛士としての体面を保つにはほどよいランクだった。だが作者によれば、彼らはもはや「一流」には這い上がれない連中である。病気であったり、盛りを過ぎてしまったり、臆病であったりするためだ。そのほか、僧侶や商売人、パコの姉のメイドなどが登場する。スペイン内戦の時代ということもあって、ペンションを出入りする人々をとおしての街の活気がよく描写されている。

 ここで私がとりあげるのは「死と暴力」としての闘牛に対する少年パコと「二流闘牛士」の姿勢のちがいだ。前回紹介した「身を横たえて」の着目点に則せば、記憶と空想が見事にそれぞれの人に分裂した状態で描かれる。角に刺されて負傷したマタドール(闘牛士)は、そのときの記憶が頭からはなれず、プレー中牛の角を正視することができなくなってしまう。

 自分の輝かしき日々を、彼はまだ覚えている。それはわずか三年前のことなのだ。(略)彼は下に向けた鋭い剣の切っ先に沿って視線をすべらせ、牛の両肩のあいだの隆起の一点に的をしぼった。埃まみれの短い毛に蔽われた、黒い瘤のような肉。その下には、木の柵にぶつけて鋭くそげた二本の角が生えていた。止めを刺そうとして踏みこむと、その角はぐいっとさがった。彼は左の腕を低くさげて肩をつきだし,柄頭(つかがしら)を掌にあてて押しこんだ。すると、さながら固いバターの塊を突きさすように、なめらかに剣が沈んでいった。最初は左側にかけた体重を、彼は脚から移して下腹部にかけた。その瞬間、雄牛が頭をふりあげ、角が彼の体に突き刺さって見えなくなったのである。二回、角に突きあげられてから、ようやく人々が彼の体を引き離した。それでいまも、ごく稀に、止めの一突きをくれようと思い切って踏みこむことがあっても、彼は牛の角を正視することができないのだ。

 このときの体験が彼(臆病なマタドール)のなかにトラウマを形成した。彼にとって闘牛は、もはや輝かしい未来を象徴するものではないし、勇猛心を発揮するする場所でもない。生活を維持するための職業として、しがみつくよりほかないものなのだ。また体面であり、恐怖に対するやせ我慢なのかもしれない。だが、そうばかりでもなく。私は、彼はやはり何処かで起死回生を夢見ているように思いたくなる……。「角が彼の体に突き刺さって見えなくなったのである。」の「見えなくなった」はマタドールの視線にいつのまにか読者をひきさらっていて、迫力がある。また「牛の角を正視することができないのだ。」もトラウマを直截に反映していて不気味だ。私は闘牛のことはまったく知らないが、プロ野球では、頭部にはげしいデッドボールをくらったある選手のことは覚えている。入院して数ヶ月後に復帰したとき、彼は、以前よりもホームベースから足ひとつくらいとおのいてしか、バッターボックスに立てなかった。こわくて、ボールを最後まで見切る集中力が回復しなかったのだろうか。その例よりも、ここにとりあげた闘牛の例の方が深刻だが。

 記憶はすべての過去に平等に働くのではない。また事実のこまかい羅列でもない。とくにこの闘牛士にとっては、世界によって打撃をあたえられて引き返さざるをえなかった場面、呆けてしまって何が何だかわからなくなってしまった場面、人生から快適さをうばったそういうものを、何回もふりかえるものとしてある。人は人生をやりなおすことはできないが、やりなおしたいという願いは、ときとして切実だ。またその場面は、一種解きがたい謎としてもある。そういう人生の一場面にせめて感覚的に均衡をとりたいがために、ときとして攻勢的姿勢をとるために、記憶はある。しかも即座に呼び戻すことのできる映像としてある。激痛といった呼び戻せない、あるいは呼び戻したくない底なしの感覚は、この映像に付随してあって、引き剥がすことができないのだろう。

 このマタドールは記憶のなかにとどのつまり、何を見るのだろう。勝利の直前にまでおしすすめたときの「牛の角」ではない。彼の肉体に深く食い込んで「見えなくなった角」だ。そして、記憶のなかでもやはりそれは「見えない」、正視することがたぶんできないのだ彼は。そのことが、負傷後の競技のさなかにも「牛の角を正視することができない」ことにつながっている。痛々しい。

 だがそのことは、逆説的にではあるが、彼の誇りにもなっている。望みどおりの職業について、修羅場をくぐってきた、普通人には味わえない体験をしたという誇りだ。「臆病なマタドール」は、彼の部屋にベッドメイキングに来たメイドのパコの姉に言い寄って断られた。彼は「淫売」と彼女に吐き捨てる。引用した部分のつづきはこうなっている。

そんな自分が──と彼は思った──牛と闘う前にどんな気持を味わうものか、どこの淫売にわかるというのだ? 自分を嘲笑する連中は、いったいどれほどの体験を経てきているというのだ? 連中はみんな淫売じゃないか。淫売のことしか知らないくせに。

 これに対して、パコ少年はどうだろうか。同じペンションのキッチンで働くエンリケという少年を相手に、思い立って闘牛の訓練をはじめる。エンリケに椅子の足に包丁を二本くくりつけたものをもたせ、自分はエプロンを広げて仕草をまねるのだ。その直前にエンリケが「牛に対する恐怖心」について指摘するが、パコは自分にはそれはないと強がってみせる。

 「いや、ぼくはこわがらないよ」パコは言った。彼はもう数え切れないくらい、空想の闘牛場で牛と闘ってきたのだ。そう、もう数えきれないくらい、彼は牛の角を見てきた。牛の濡れた鼻を、ひくつく耳を見てきた。牛は頭をさげ、蹄を蹴たてて突進してくる。そのとき、彼はケープを振って、猛々しい巨体をやりすごすのだ。牛が再度突進してくると、彼はまたケープを振る。二度、三度、四度、五度。最後に得意のメディア・ベロニカを披露すると、牛は彼の周囲をぐるっとまわる。そこで彼は、肩をそびやかして引揚げるのだ。闘牛服の金の飾りには、すれすれのパスの名残りの 牛の毛がひっかかっている。牛は呆けたように突っ立っている。そして観客は万雷の拍手を送ってくれるのである。そうとも、ぼくはこわがりはしない。ほかの連中はこわがるだろうけど、ぼくはちがう。絶対にこわがりはしない。万が一こわくなったとしても、なんとかやり通せるはずだ。

 空想とはじつに単純だ。マタドールでもプロ野球選手でもいい、実際に見てあこがれる人物像に自分を置き換えればいいだけの話だ。くだんのマタドールの記憶とはちがって選択可能なものだ。それにマタドールもたぶん少年時には、まったく同じような空想に耽ったにちがいない。夢を見る、知識をえる、闘志をかきたてる、トレーニングをやってみる、そういう積み重ねが、少年に必然性を背負い込ませたと思わせるのだ。やがての実際の行動への移行によって、空想が見事に現実化されるか、現実によって浸食されるかは、だれにもわからない。

 闘牛が暴力的世界だとするならば、そこに参加したいとうずうずしている者にとっては暴力と恐怖は、ともすれば軽視される。自分の技量や暴力の方がまさると信じ込みたいがためだ。冷静な想像力を持つ者はそのうぬぼれをおそれるし、相手にする世界の暴力をもおそれる。だが「おそれ」とあこがれが、少年のなかで同居することは稀だ。あこがれによってしか、闘志も知識も鍛錬も生み出すことができないのかもしれない。私の問題意識にひきよせれば、暴力的世界への想像力は、被虐性よりも嗜虐性に、より引きつけられるのかもしれない。はじめから被虐性に想いをつめこむことは、外部的な強制力でもないかぎり、むつかしい。誰も背負いたがらないのではないか。

 パコとエンリケのトレーニングが、どうなったかについては書かない。

     新潮文庫『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪』 高見浩訳

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ヘミングウェイ「身を横たえて」

 戦争のさなかにあって、戦争を意識しないで済むひとときがある。それも努力や工夫の結果ではない。逆に戦死をおそれ、その瞬間に対処しようとするための不眠によるものだ。最前線の後方7キロの位置で、ニック中尉は副官とともに宿営所の蚕室で身を横たえている。だがその間、目の前の戦場ばかりに意識が集中されるのではない。いつしか思いは故郷や家族や知人や女性におよんで、夢うつつの境遇にさまよいこんでしまう。たのしい思い出が、可能性としての死を、ごく自然に忘れさせてしまうのだ。軍隊生活という隔離された状況の中で、こういう風に過去に思いを馳せさせるのは、何もニックにかぎらない。大部分の兵がそうだろうし、ヘミングウェイがはじめて小説に書いたのでもない。だがこの短編はそういう心の動きを肩肘張らずに、ごくあっさりと、つまりはありふれたことのように記されていて、たいへん好ましい。

 まず描写は、蚕の桑の葉を食べる音や、蚕が葉の上にぽとりと落ちる音からはじまる。蚕室に一晩中それは聞こえたというが、どんな音だか私にはわからない。ただ、蚕が多くいれば、それほど小さい音ではないだろうことくらいは察しがつきそうだ。「最前線の後方7キロ」の物音もその気になれば、耳を澄ませられるはずだが、そんなことはしない。蚕室の音が「戦場の日常」からの隔離効果をもたらすのかもしれない。ニックの回想は子供時代の鱒釣りが好みだ。内容は秀作「二つの心臓の大きな川」ともかさなる。川の地形、釣りの成果、いろいろな餌を付近から調達して試したこと、などだ。一晩で四つも五つもの川で釣ったこともあったし、同じ川の上流と下流を往復したこともあった。そして、読者にとってそれにもまして好ましいのは、ニックがごく自然に「空想の川」をつくりあげてしまうことだ。

(前略)また、頭の中で空想の川を作りあげてしまう晩もあった。それらの川のいくつかはワクワクするほど素晴らしく、まるで目を覚ましながら夢を見ているような心地だった。それら空想の川のなかにはいまも覚えているものがあって、実際にそこで釣りをしたような気もしている。空想の川が、現実に知っている川とごっちゃになっているのだ。それら空想の川すべてにぼくは名前をつけ、汽車に乗って出かけた。ときには頭の中で何マイルも歩いた末にたどり着いた。

 ささやかだが爽快だ。記憶をたどるのは義務からではなく、気儘とたのしさに促されてのことだから、そこに空想が入り込めば、なおたのしいし面白い。夢うつつにとって空想は飛躍ではなく、地続きなのだ。さらに「いまも覚えている」の「いま」は、唐突だが心地よい。、戦場からとおのいた時点でのニックの「いま」であり、さらに作者ヘミングウェイがこの短編を執筆している時点でもあるのだろう。作者と作者自身をモデルにした主人公とが、このとき幸運にも、たのしさにおいてドッキングしているのだ。ちょっと大げさだが……。そうならば「空想の川」は戦地でのかけがえのない思い出としてヘミングウェイの中に(ニックの中にも)定着したのである。戦場を忘れたひとときの夢見心地がまた記憶と化す。人生の豊かさとは、こういう積み重ねができることではないだろうか。

 眠らない夜の記憶の喚起、「思い出し」は鱒釣りばかりではない。出会った人々のことを思いだして、それらの人々のために「祈り」を捧げるのだが、もっとも祈りにとって座りのいいのは、やはり父母のことらしい。幼児の頃の一番古い記憶は、彼ら二人しか登場しないからだ。たよりない幼児の自身をまもってくれるかにみえる両親の記憶は、通常あたたかいものにちがいない。ニックは結局はこの二人のために祈ることになる。感謝がごく自然に湧いてくるのだろう。「祈り」の長い言葉をときには忘れる、というのも如何にも夢うつつで自由で、共感できる。そういうときには祈りを断念して、他の雑多なことを気儘に思いうかべるのだが。

 ニックは中尉の身分だから、あるいは小隊規模の指揮官なのかもしれないが、他の登場人物はジョンという副官一人。この男は独身のニックにしきりに結婚を勧める。ニックは乗り気でないがおかまいなしだ。こういう人は今の時代にもたくさんいる。だが揶揄してはいけない。死ぬかもしれないという心配など、実際の内心はともかく、おくびにも出さないところがいいのだ。生きて行こう、という前向きの姿勢が表れていて、ニックをも引っぱらずにはおかないように見える。
     新潮文庫「われらの時代・男だけの世界」 高見浩訳 
    22:14 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ワン!

 近所の道を歩いていた。その道は一方通行で、私は車の進行方向とは逆向きに、道の右側を歩いていたのである。ワゴンカーがゆっくり走行してきて、すれちがいざま、耳元で、けたたましく「ワン!」と、やられた。「びっくりしたなあ。」と私は思わず、口に出してしまった。助手席にお犬様が乗っていたらしく、ふりかえると、助手席のウィンドウだけが開けられていた。他のウィンドウにはうすいシールが貼られていて、中を見とおすことはできなかった。だから、どんなお犬様だったかはわからない。ともかく、無礼な犬だ。

 私はどうも犬との相性が悪いのかもしれない。道で飼い主に導かれて散歩する犬とすれちがった際にも、よく飛びかかられそうになる。飼い主が当然気を利かせてくれて、紐をぐいと引っぱってくれるので、噛みつかれたことはないが……。
Genre : 日記 日記
    23:19 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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