ヘミングウェイ「兵士の故郷」
06/24/2006 (Sat)
青年が兵役を終えて、故郷と実家に数年ぶりに帰ってくる。クレブスは戦地でのみずからの行いに秘かに誇りを抱いていた。それを町の人々と語り合いたいと願っていたが、相手がいない。また、そうでなくても久しぶりの家庭と故郷には、どこかしらしっくりとこない感覚がある。父母はすこし年をとった。逆に青年はすこし逞しくなったのであろうか、だが、そういうみずからをもてあます気配が伝わってくる。母は母で、息子を兵役帰りの男として丁重に遇するが、なるべく早く彼に就職してもらいたい、結婚してもらいたいという望みをかくそうとはしない。息子クレブスにもそれはわかっている。図書館へ行ったり遊んだりと、疲れを癒すためにもぶらぶらするが、そう長期間それができるものでもないことも自覚している。いつまでも息子ではいられないのだ。一方、彼と同年代の異性は、少し見ないうちに、見ちがえるようにうつくしくなった。だが彼は、近づくことをためらう。みずからの責任観念の脆弱さに照らして、彼女たちの存在をもてあましてしまうのだ……。
クレブスは自己の主張を頑固として押し通すタイプではない。自分と同じ考えの持ち主が身近にいることを、つい期待してしまう。だから無意識のうちに話し相手に迎合してしまって嘘までついてしまい、あとになって後悔し、嫌になってしまう。戦争ならば、人々はいたずらに誇張された話を喜ぶのだった。残酷さや笑いが露わになっているような話を。それも、兵士の帰還がピークを過ぎた頃に彼が帰ってきて、町の人々が戦争に関する話題に食傷していたことも、原因として加わっているからだが。
(前略)自分が嘘を語ったことによって、戦争で体験したすべてのことに対する嫌悪感が生じたのだ。振り返るたびに心が爽やかにすみわたってくるように感じられたあの日々、男としてなすべき唯一のことを、そこから逃げることなく、ごく自然に、やすやすとやってのけたあの遙かな日々は、いまや澄み切った貴重な心象風景ではなくなって、自然に消失してしまったのだった。
胸襟をひらいて語り合うことによって、おぼろげにあった誇りがよりいっそう明らかになる、この短編には書かれていないが、クレブス自身軍隊生活においての兵同士の語らいによってそれを体感したのではないかと、私には思える。だからこそ故郷の人々の反応は意外であったのだが、クレブスには自分の方が「正しい」のだとする自信がにわかには持てない。どちらかというと、そうにちがいないというおぼろげな自信だ。やがて彼も就職などによって、故郷やそれにつながる世間に入っていかなければならない立場だからだ。それら全体を敵に回すような覚悟は急ごしらえにはできるわけもない。それにしても、意欲を喪失させるものが、故郷や世間には十分にある。そこでクレブスは、みずからが参加した戦争(第一次世界大戦)に関する本を読んで、勉強しなおそうとする。みずからを言葉として自立させなければならないのだ。そうでないなら、いつまでたっても他人に迎合してしまって嘘をついてしまうことになりかねないからだ。
同年代の女性に対しては、クレブスはそのうつくしさに十分見とれながらも、眺める以上のことはしない。ドイツやフランスの女性をなつかしむのは、よく通じ合わない短い言葉で意志が疎通できたからだ。互いに仲良くなりたいという意志が容易に見てとれたからだ。それに比べると故郷の女性は、当然ながら、複雑な言葉のやりとりが関門として立ちはだかるように見える。また、彼女たちは故郷や世間の側に身を置く人たちだ。ひとりひとりをつぶさに見ればちがうのかもしれない。だが孤独感におおわれて憔悴気味のクレブスには、はなからそうおもえてしまう。
(前略)彼は漠然と女のコを欲しがっていたが、モノにするためにわざわざ努力する気にはなれなかった。女のコを欲しいとは思うのだが、そのために長い時間をかける気にはなれないのだった。いろいろな陰謀や策略を凝らす気にもなれない。甘い言葉で誘う気にもなれなかった。それ以上嘘をつきたくはなかったのである。そんなことをしても、何の価値もないのだから。
そうして、彼の口から決定的な言葉が吐かれる。母が元気のない彼に向かって「そんな顔をしないでちょうだい、ハロルド」「私たちはあなたを愛してるのよ。(後略)」と言って、父ともども心配をしていることを打ちあける。是非、職業について欲しい。父の占有である自動車も使っていいという許可も父からもらっている、ガールフレンドを乗せてドライヴをしてくれたら、私たちもうれしいと。父のオフィスに会いに来て欲しい、との伝言をことづかっていると。
「話はそれだけ?」クレブスは言った。
「そうよ。あなたは、自分の母親を愛してないの?」
「ああ」クレブスは言った。
母親は、テーブル越しにじっと彼を見た。その目はキラキラと輝いていた。彼女は泣きだした。
「だれも愛せないんだよ、ぼくは」クレブスは言った。
思わずポロリと吐かれてしまった言葉だ。クレブスという青年のすねた、甘えた心情がよく出ている。しかも言葉遣いが下手だ。勿論この後、彼は謝って母をなだめ、なんとか立ち直らせるのだが……。「愛」という言葉を、米欧人は日常的によく口にするものらしく、幅広い意味合いがこめられるのだろうが、勿論この場合は大真面目だ。クレブスにとって目の前の母は、故郷の人々や若い女性やらを代表する存在だ。彼だって心底では誰に対しても「愛したい」と願うのだが、「愛」という言葉からくる社会や人々とのつながりが、彼にとっては迎合や隷属としてともすれば感じられてしまう、ちぐはぐ感がつきまとう。できることなら暫くは放っておいて欲しい、という感情が漏れ出てしまったのだ。「だれも愛せないんだよ、ぼくは」
クレブスのように戦争を背負っていなくても、貴重な体験を経てきたという青年の思いが、社会にとっては何の価値もないもののように青年には見えてしまうことがある。社会は社会独自の歯車で回っている。青年もその歯車にやがて呑み込まれる存在にしか過ぎない。その入り口に立たされたときのやりきれなさ、また、甘酸っぱさをこの短編はよく再現できていると思う。あとは青年クレブスが、社会にもまれながら、いかにして「爽やか」な戦争の残像を持ちこたえられるか、そこに自立的な言葉の息吹を吹き込むことができるか、という問題が残されている。もとよりそれは、この短編のとりあつかう時間の範囲外にあるのだが。
新潮文庫「われらの時代・男だけの世界」 高見浩訳
クレブスは自己の主張を頑固として押し通すタイプではない。自分と同じ考えの持ち主が身近にいることを、つい期待してしまう。だから無意識のうちに話し相手に迎合してしまって嘘までついてしまい、あとになって後悔し、嫌になってしまう。戦争ならば、人々はいたずらに誇張された話を喜ぶのだった。残酷さや笑いが露わになっているような話を。それも、兵士の帰還がピークを過ぎた頃に彼が帰ってきて、町の人々が戦争に関する話題に食傷していたことも、原因として加わっているからだが。
(前略)自分が嘘を語ったことによって、戦争で体験したすべてのことに対する嫌悪感が生じたのだ。振り返るたびに心が爽やかにすみわたってくるように感じられたあの日々、男としてなすべき唯一のことを、そこから逃げることなく、ごく自然に、やすやすとやってのけたあの遙かな日々は、いまや澄み切った貴重な心象風景ではなくなって、自然に消失してしまったのだった。
胸襟をひらいて語り合うことによって、おぼろげにあった誇りがよりいっそう明らかになる、この短編には書かれていないが、クレブス自身軍隊生活においての兵同士の語らいによってそれを体感したのではないかと、私には思える。だからこそ故郷の人々の反応は意外であったのだが、クレブスには自分の方が「正しい」のだとする自信がにわかには持てない。どちらかというと、そうにちがいないというおぼろげな自信だ。やがて彼も就職などによって、故郷やそれにつながる世間に入っていかなければならない立場だからだ。それら全体を敵に回すような覚悟は急ごしらえにはできるわけもない。それにしても、意欲を喪失させるものが、故郷や世間には十分にある。そこでクレブスは、みずからが参加した戦争(第一次世界大戦)に関する本を読んで、勉強しなおそうとする。みずからを言葉として自立させなければならないのだ。そうでないなら、いつまでたっても他人に迎合してしまって嘘をついてしまうことになりかねないからだ。
同年代の女性に対しては、クレブスはそのうつくしさに十分見とれながらも、眺める以上のことはしない。ドイツやフランスの女性をなつかしむのは、よく通じ合わない短い言葉で意志が疎通できたからだ。互いに仲良くなりたいという意志が容易に見てとれたからだ。それに比べると故郷の女性は、当然ながら、複雑な言葉のやりとりが関門として立ちはだかるように見える。また、彼女たちは故郷や世間の側に身を置く人たちだ。ひとりひとりをつぶさに見ればちがうのかもしれない。だが孤独感におおわれて憔悴気味のクレブスには、はなからそうおもえてしまう。
(前略)彼は漠然と女のコを欲しがっていたが、モノにするためにわざわざ努力する気にはなれなかった。女のコを欲しいとは思うのだが、そのために長い時間をかける気にはなれないのだった。いろいろな陰謀や策略を凝らす気にもなれない。甘い言葉で誘う気にもなれなかった。それ以上嘘をつきたくはなかったのである。そんなことをしても、何の価値もないのだから。
そうして、彼の口から決定的な言葉が吐かれる。母が元気のない彼に向かって「そんな顔をしないでちょうだい、ハロルド」「私たちはあなたを愛してるのよ。(後略)」と言って、父ともども心配をしていることを打ちあける。是非、職業について欲しい。父の占有である自動車も使っていいという許可も父からもらっている、ガールフレンドを乗せてドライヴをしてくれたら、私たちもうれしいと。父のオフィスに会いに来て欲しい、との伝言をことづかっていると。
「話はそれだけ?」クレブスは言った。
「そうよ。あなたは、自分の母親を愛してないの?」
「ああ」クレブスは言った。
母親は、テーブル越しにじっと彼を見た。その目はキラキラと輝いていた。彼女は泣きだした。
「だれも愛せないんだよ、ぼくは」クレブスは言った。
思わずポロリと吐かれてしまった言葉だ。クレブスという青年のすねた、甘えた心情がよく出ている。しかも言葉遣いが下手だ。勿論この後、彼は謝って母をなだめ、なんとか立ち直らせるのだが……。「愛」という言葉を、米欧人は日常的によく口にするものらしく、幅広い意味合いがこめられるのだろうが、勿論この場合は大真面目だ。クレブスにとって目の前の母は、故郷の人々や若い女性やらを代表する存在だ。彼だって心底では誰に対しても「愛したい」と願うのだが、「愛」という言葉からくる社会や人々とのつながりが、彼にとっては迎合や隷属としてともすれば感じられてしまう、ちぐはぐ感がつきまとう。できることなら暫くは放っておいて欲しい、という感情が漏れ出てしまったのだ。「だれも愛せないんだよ、ぼくは」
クレブスのように戦争を背負っていなくても、貴重な体験を経てきたという青年の思いが、社会にとっては何の価値もないもののように青年には見えてしまうことがある。社会は社会独自の歯車で回っている。青年もその歯車にやがて呑み込まれる存在にしか過ぎない。その入り口に立たされたときのやりきれなさ、また、甘酸っぱさをこの短編はよく再現できていると思う。あとは青年クレブスが、社会にもまれながら、いかにして「爽やか」な戦争の残像を持ちこたえられるか、そこに自立的な言葉の息吹を吹き込むことができるか、という問題が残されている。もとよりそれは、この短編のとりあつかう時間の範囲外にあるのだが。
新潮文庫「われらの時代・男だけの世界」 高見浩訳
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