大洋ボート

断片

  自己とは何か。環境や他者との関係性によって、おのずからその内容は決定づけられる。人は純粋に孤立したまま生を持続させることはできないので、何らかの職業に就いて社会や他人の役に立つことによって、報酬をえて、それを消費に振り向けることによって生を営む存在だ。だから同じ職場の同じ部署に就いているAという人とBという人がいた場合、しかも性別も年齢も同じならば、第三者の目からすれば、それほどの差異はないといえる。立ち入れば外見やら性格やらその他の差異が見出されようが、そこまでする必要がない場合もある。社会的存在によってふりわけるならば、AとBはまったく同じ立ち位置にある。だがわたしがAであったとすれば、わたしはBとはまったく異なる人間であることは自明だ。たとえば、わたしAは欲望やわたしに固有な観念にもとづいて、自らをいかなる行動に赴かせようかと空想し考える。逆にいえば、行動につく以前の自己を、弓を引き絞るようにして眺望している。行動が実現に至らなかったとしても、だ。無限ではないにしても、わたしは自己にたいする決定や変更の余地を自由として有しているということだ。社会的ふりわけによって、わたしAはBとほとんど差異がないということを十分に知っている。にもかかわらず、わたしAはBもまた当然内包するであろう自己には、わたしがわたしAの自己に関わるようには絶対的に関われない。たとえBがBなる自己を言葉によってわたしAに表白したとしてもだ。触発されることがあってもなくてもだ。Bなる自己は、わたしAの自己とはその距離感や手触りの奇妙さ、また価値観の相違以前にそのかかわりあいにおいて、所有意識において根本的にちがうのだ。つまり自己というものは、わたしAが自己なるAを意識する時間のなかにしかない。外側からみてもその存在は見つけられず、Aという区分のみが抽出されるのみだ。

  特定の社会的対象やら人やらにたいして、わたしは想像し、空想する。関係性を構築してそこに定住するように不動のものにしようとするのか、それとも破壊しようとするのか。指一本触れないことを前提とするならば、どんな想像も空想もまったく自由であり、罪もない。行動に着手しないならば何も変わらない。わたしは依然として同じ職業に従事するAのままである。だがわたしは想像と空想にこだわり惑溺する。何故か、「想像と空想」それ自体をわたしが好むからかもしれない。弱気で意気地なしかもしれない。また現前する社会やら人やらとは直接は無関係なわたしの過去の行動をとらえ返そうとしてなかなか居心地のいい解答を出せないからかもしれない。色々あるだろうが、自然に生起するままの自己にたいしては、正直さは認めつつも不満であり、わからないとしか応じられない。言葉を使って断定し、発現させることができない。行動は萌芽と断片のままで、くだらないこともあり、そうではないことも展望されるのであろうが、不毛といえば不毛だ。わたしはそういう非力で非行動な自己を意識する。そこにはひねくれた自己満足もあるのか。
  ひとつとして同じ「想像と空想」はない。同質と言えないことはないが、微細には少しずつ変成していく。均質な同一性に人は退屈を覚えて飽き足らなくなるからであり、またその間、実際に退屈三昧を十分に浴びてしまっている。「特定の社会的対象と人」もまた「想像と空想」のなかで微細に変化し、その固有性が痕跡をのこしつつもしだいに溶解する。固定した「特定の社会的対象と人」はそれ自体として依然として自己の外側に存在しつづけるが、それとは別個に、社会性という自己以外の外側の領域から自己内に、自己に適合するように変成する。つまりは二重化される。自己にとっては居心地のよさを「想像と空想」が獲得する過程である。何もしなくてよいのかという自己への詰問は衰え、むしろそういう「想像と空想」に惑溺する自己をわたしは無意識に擁護し、また逆に赤面する。そういうわたしとは何なのか、執拗に意識せずにはいられない。惑溺する時間帯に入ってしまったわたしもまたぼんやりした輪郭をもった特定の自己をえて、変成してしまっているのだ。そういう自己になにやら薄気味悪さを覚えてしまうのは、もう少し時間が経過してからだ。
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ノート・過去と現在

  「わたし」は過去の自分の行動をふりかえる。行動とは欲求や義務意識にもとづいて社会的に具体化されたものであるからおのずからさまざまな社会的評価がくだされる。「わたし」もまた自分が行いなすりつけたさまざまな局面での痕跡また印象を繰りかえしてふりかえるので、他人とは違ったものであったとしても自分の行動にたいする社会的評価に参加しているのであり、過去の行動からとおざかるにつれてその評価は少しずつ変わっていくのかもしれないが、最終的には自分のやったことは自分の手で評価を決定づけなければならないという思いがある。
  「わたし」は忘れられた人である。夢中になってのめりこんだ行動からはとっくに身を引いた。賞賛を浴びあるいは非難を浴び冷ややかな視線を向けられたそのときの社会的評価につながる緊張した周囲は現在の「わたし」にはない。環境そのものがすっかり変わってしまった。仮に「わたし」の名を出してもその固有のときに「わたし」を知っていた人々のうちでも懐かしがってくれる人は少数であろう。「わたし」もまたそれら少数の人々と再会したいとは格別には思わない。だが「わたし」は過去をふりかえるどころか引き摺りつづける。今からみればわずかの期間にしかすぎなかった過去の行動が、自分のそれも含めて過去と現在の社会的評価にさらされることは既に書いたが、「わたし」の過去の自分の行動への評価は一言でいえば「悪い部分もあったがいい部分もあったかもしれない」ということになる。「わたし」は実はこの「いい部分」を単独でとりだしてみたいという欲望にうち勝ちがたいのであり、その欲望に沿って生き、あわよくばそれを実現させることでしか「わたし」という人間の本来的な持続は無いものと思い込んでいる。だがほんとうに「いい部分」が過去の行動に実在したのかと問われれば自信をもてない、まして言葉にして具現化するなどなおさらだ。「いい部分」とは萌芽やヒントに過ぎないのか、もっと後退して思い込みに過ぎないのかという疑心がよぎる。そこで「わたし」は仮定された「いい部分」を育ててみたいと念じるようになる。この思いは過去の行動への自他の社会的評価や、過去の行動自体とはそれが外側からみて土台を形成していることになるにせよ、直截のつながりをもたない純粋主観的な思いだろう。だが人は主観によって生きるものだ。他人からみて過剰と思われまた無効と見做されるほどの関心をひとつの物事や観念に向けることによってしか人によっては充実感を得られないからだ。「わたし」のような人にとっては客観性なるものは主観からわずかにとおざかって中心部にある主観を補強する道具にとどまり、主観からとおざかればとおざかるほどその客観性は「わたし」にとってはしだいに関心を失わせるものとなる。
  「わたし」は過去の行動をときには心で繰りかえす。行動にともなう旗印であった言葉は忘れても、体感に突き刺さった火照りは忘れてならないと思うからだ。火照りにともなって今日的に重要と思われやがてありきたりではない言葉につながるであろう映像や感覚が立ち上がったからだ。もとよりかかる火照りは過去ほどの激しさを現出させることはできないにせよ、考察力はいくらかは伸長している。「いい部分」を単独で掬いあげることは「悪い部分」と渾然化しているために不可能であるから「悪い部分」もまた心で繰りかえさざるをえず引き受けざるをえない。「わたし」は一時的に「悪人」になる。それにまた行動には中断の匂いがあり、「わたし」は未練がましさと、最終局面において自ら中断を選択したかに見えることからくるうしろめたさの実感をも成り行き的に抱かされながら、一方ではそれらを唾棄したい思いにも気づきながら、過去の行動を心で繰りかえす。だがどっぷりと漬かっている間はやはり「悪人」であるから引き返す。
  「わたし」は何もしない。過去を<心で繰りかえす>とは反面、外部的現実に関わるかたちでは<繰りかえさない>ということと「わたし」にとっては同義一体であるからだ。過去において撒き散らしてきた言葉はその時点においては生半可であったとしても「わたし」なりの確信に裏付けられてはいたが、今はその確信は雲散している。社会的評価なるものもその時点での基盤になった言葉に主に向けられ、そこにおいて多分に否定的評価を被ろうともそれはそれで「わたし」が仮に納得しようとも、それだけで引き下がることは肯んじられないのだ。「いい部分」に着目するからでそれは旗印にしたかつての言葉からは分離独立してさらに鮮明にされなければならないと思念するからで、その作業の過程において<心で繰りかえす>ことはどうしても必要になってくる。「いい部分」とは何か。身体内の余力をふりしぼるようにして行動にぶつけていった白熱や恍惚感なのか。またそれゆえの壁にぶちあたったときの疲労感、何かしら「わたし」の重要な一場面の終わりを見せつけられたような、同時に即座には言葉にはできない「世界の真相」を神のような絶対者から強烈に暗示されたような、また「わたし」も例外ではない個人の肉体と力のちっぽけさを寂しさとともに呑みこまされたような謎と躓きの総体にちがいない。それらが「いい部分」と呼べるのか、抽象的かつ曖昧なそれら総体を引き受けなおし舞い戻って過去そのままの姿勢ではなく別の姿勢で再出発することにしか「わたし」は希望を見出せなかった。そうでないと「わたし」という一本の線は曲線であろうとも寸断されたままの状態なままだ。もとより捨て去らなければならない部分も大いにあり、その見極めもおのずから要請された。しかしながら、これしかない、やれるところまでやらなくてはならないという思いに食らいつき食らいつかれたことも事実で、反面そういう思いが「現在」に欠落していて不甲斐なさを自分自身に日々じれったさとともに感じざるをえないことからくる過去への懐かしさも覚えてしまい、擦り寄る姿勢を執ってしまうことも矯正できなかった。思慮を唾棄するようにして闇雲に過去に戻りたいとも思わずにいられなかった。だからこその「悪い部分」をもそのまま引き摺っての過去の無修正の再現にもとりつかれた。「わたし」はそのときどきの現在においても過去とそれほど異ならないままに「わたし」自身を統御できないまま崩れた豆腐のようにぐしゃぐしゃにして闇雲に過去を再現した。そういう時期は長くつづいた。
  <そのときどきの現在>とは「わたし」固有の過去以降の仕事と余暇である。仕事とはいうまでもなく日々の糧を確保するために収入をえることであり、物づくりならば要求された規格どおりにひとつひとつを作ることだ。そこにおいては仕事の範囲以上に社会的に訴えかけるような、人目を牽くことを目的にするような、同じことだが賛同者を闇雲に増やそうとするようなことを余分にする必要はない。職種によってちがいはあるだろうが、会社組織や客の要請に沿う以上のことはしなくてもよい。誰でもが知っていることであり、またそれ以前に誰でもが就業しなければ生きていけない。就業して即座に要請された能力を会得する人は稀であり、そこで人々は苦労する。「わたし」が過去において為した大言壮語や自惚れなどは何の役にも立たず、それらを清算しようがしまいがずっと後退した地点から始めなければならない。「わたし」の固有の過去において衣服のように纏っていた力やリズムは発揮しようがなく、仕事において要請される技能や丁寧さを身に着けることにせかされる。自覚するべきは冷静さであり、「わたし」の過去が孕んでいたであろう熱気や大ざっぱさは邪魔になる。だが「わたし」はそれを自覚しようとしないか、または無意識だ。「わたし」はポジションの変更を余儀なくされたことに不平不満と寂しさのあまり、それを空想的に認めたくない気分に引きずられる。「わたし」は<「わたし」の持続>に幼児的に執着するあまりに仕事の時間においてその寸断の感覚にさいなまれ侮辱されっ放しの気分に支配される。攻撃性を発揮できない自身に「わたし」はじれったく歯痒くなる。
  「わたし」は過去を闇の中に解き放つ。後ろめたさをともないながらも、社会的評価には背を向けて、生き生きして暗躍する自身の像を打ち立てようとする。過去そのままの「わたし」ではなくそのままの周囲の環境でもなく、もっと自由でもっと悪辣な「わたし」が不鮮明に浮かびあがる。空想であり、仕事の時間とは切り離されたかに見える余暇の時間の別の「わたし」がそこに位置を占める。空想の「わたし」はそこで何をするのか。他人を傷つけたり殺したりするのか、少なくともその意思は現在の「わたし」によって付与されているものの空想以上ではなく、あくまでも暗躍して蠢くだけで重大なその部分も曖昧に終始するが、いくばくかは自由の気分に浸れる。そして「わたし」は歪む。空想の中の「わたし」の像を、またそういう営為に耽り堕ちこむ「わたし」を「わたし」自身が許すのか許さないのか、これまた曖昧なまま「わたし」は「わたし」をずるずる引きずる。許してくれるかもしれないのは「わたし」だけではなく他人、それも過去ばかりではなく現在の他人も含まれ折り重なってくる、自然の成り行きでの心的傾斜か。現在において生き残ろうとする願望がまずは周囲から許されたいという自信のなさを引き入れるのだ。もとよりかかる空想はおおっぴらにできるものではなく秘密裡に小さな焔のように営まれる。「わたし」は他人からも常識的な「わたし」からも背を向けたこういう隙間の時間を降りて、みすぼらしい安逸をうる。(2015年1月2日加筆)

    15:17 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

欲望とは

  私は何がしたいのか。長い間にわたって自問を繰りかえしてきた気がするが、いまだにもってよくわからない。金銭、性、名誉、出世、道徳、知識、冒険、思いつくままに挙げてみて、いろんな方面に私の欲望と興味をそそる材料があるように思えもするが、どれかひとつをとって、そこに時間と精力をそそいでみろといわれたところですぐさま応答することができない。ひとつを撰んでしまうと、欲望の全体のかなりの部分が欠損してしまいそうな危惧がある。かといって対象になりうるすべての分野を同時的に獲得しようとして、それに値する、手を染めるに足る行動手段があるとも思えない。そんなことは不可能だろう。全面的に獲得できないまでもそこそこの獲得を実現できたならば満足すべきだという意見なら、それは私も承知のうえであり、すでに私はそうしたことをある程度は実現しているのであり、ここではその種の処世訓めいたことについて書きたいのではない。
  私は何がしたいのか。というよりも、したいという直前段階の欲望の根源性がよく見えない。上に挙げた事例には付け足すべきものがあることに思いあたる。友情、愛、神、公共的精神などなど、あらたな分野もあるが、かさなりそうな部分もある。付け足した部分もふくめて、それらすべての分野によき影響を及ぼしうる私のあるべきひとつの実践、そんなことを長い間、あれやこれやと夢や空想や荒唐無稽さもとりまぜて頭に思い浮かべてきた。それほど真剣ではなく、ぼんやりとした時間に漂うことが大部分だったかもしれない。だが長い期間、こういうことに時間を費やしてきただけに、個人的には看過してしまうには惜しい問題意識である。逆にこういう問題意識にこだわってきたために、出世のような現世的欲望をおろそかにしてしまったつけができたのかもしれない。
  高校生のころ、私は左翼であった。革命が根源的欲望であり、そのための日々の活動が欲望を実現させることだと考えて、迷うことなくのめりこんでいた。左翼をやめたあとも「根源的欲望」の影だけは残った。その影にふたたび中身を別のもので充填させようと踠きもしたのだったが。革命とは、それだけではないにしても破壊を不可避的に伴うものである。私の欲望に形を与えるべき空想にもこの破壊的要素は侵入した。「革命」という手近な材料があったために私は、空想だという断りをいれたうえでこれを許した。だが空想なだけに私にとってはシミュレーション以上ではなく、迫真性はなかった。空想をさらに深刻にすることにも熱心になれなかった。だが、この破壊性を「欲望の器」から除去すべきであるという判断にもなかなか移行できずに、私は長い間、だらだらしていたのである。さても、根源的欲望への思いは、生きている間は私にまとわりついてきそうだ。
    23:12 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

夜の散歩

  最近のことであるが、家族二人が旅行に出かけて四日間家を留守にした。私としては別段変わった気分にもならなかった。普段どおりに仕事をし、スーパーで弁当を買ったり自炊したりして夕食を済ませた。だがその後は退屈だ。テレビやパソコンを相手にするのも少しうんざりしてくる。その日は日曜日だったので、運動不足解消の意味も込めて近所を散歩することにした。
  幹線道路から少し奥へ入った道を歩いた。夜の八時ともなると、日曜日なので歩く人の姿はほとんどなく静かだ。あまり散策に利用したことのない道だったので物珍しさはあった。住宅がびっしり軒を連ねていて、たいていは三階建てで一階部分は車庫を兼ねた玄関、夜目にはつぶさに見えないがタイルか小石をあしらったらしい瀟洒な外装で、二階と三階にはテラスがある。今流行のスタイルのそんな住宅がほんの少しずつ大きさを変えてびっしり並んでいる。都会ならありふれた眺めだろう。そんななかにお好み焼き屋か何かの赤提灯が煌々と点るのに出会うとなんだかほっとする気分になる。別にその店に入りたくなったのではないが。同じ気分になれるのが、築年数がおそらくは三十年以上はあると思われる貧相な家が、小ぎれいな住宅の列のなかに取り残されたように姿を見せるときである。いわゆる木造モルタル塗りの二階建てで、玄関は木の引き戸で上半分はガラスがはめ込まれている。私の子供時代の定番であった住宅のスタイルである。私がほっとするというのは、都会は貧富や新旧が外観の上でも混在しているのが自然な姿だと思うからで、それを眼にしたからだ。別に大げさに感動するのではないけれど。逆に言うと、清潔感あふれる住宅ばかり並んでいると息苦しく面白くない気がするのだ。赤提灯にかぎらず、店の一軒くらいもあったほうがいい。
  暫くゆっくり歩いて幹線道路に出ると食品スーパーがあって、こちらは明かりが点って人が集まっている。店の真ん前にバス停があり、バスを利用して帰宅するつもりで乗った。バス停二つ分引き返したことになったが、急にもの足りない気分になって、バスを降りてからまた近辺をぶらぶら。もう十年以上も前に覗いたことのあるスナックビルをこわごわ訪れた。エレベーターのあるホールには各階ごとの店の名のプレートが華やかな色で貼られてある。ここでも店に入るつもりはなく、何回か上のホールに行ってみたかっただけだった。だがボタンを押していくら待ってもエレベーターは二階に止まったまま降りてこない。それならと、しつこい私は階段を利用しようとした。防災上からエレベーターの隣に階段も併設されている。だが、階段に通じるドアを開けてみたところこれが異様で、椅子やら大きな道具のようなものが乱雑に置かれて昇れなくなっている。ああそうか、二階から上はとっくに店じまいしているのだと気づかされた。一階にはたった一軒ドアの上の店の明かりが点っていた。幽霊屋敷みたいだった。私が以前行ったときには六階までだったか、すべての部屋がテナントで埋まっていたのだが。
  スナックも人口減の影響やらカラオケボックスに押されたりしてすっかり流行らなくなったようだ。私の地域では八十年代前半当たりからスナック専門のビルが何件かできたのだったが。それまでは深夜に及ぶ水商売はほんの小さな規模でしかなかったから元の状態に戻ったことになるのか。年月を実感させられた。 夜の散歩もときどきはいいものだ。
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