大洋ボート

憲法論ノート

  憲法は曖昧な部分を引き摺る。さまざまな解釈が思想的立場によって加えられる。またときどきの国民意識によって憲法が照らし返される。憲法は固定された字面だから、みずからはそれ以上のことは語らないので、不明な部分は「解釈」によって補填される。つまり、憲法は固定された条文とともにその解釈が加えられたかたちで一定期間の歴史を形成するといえる。
   天皇制は明治憲法以前からある。明治憲法は天皇の神話性と宗教性を追認しつつも、その権力に制限を加えた。たとえば勅命は担当大臣の副署が必要とされる、というように。だが「現人神」(あらひとかみ)「現御神」(あきつみかみ)というように国民の宗教的親密性をおのずから要求するところが天皇制にはある。この親密性を国民の側から意志的に強固にすればするほど、憲法によって加えられた天皇の権能の制限性は障碍にすら映るのではないか。天皇が政治権力を滅多なことでは行使しないことに物足らなさを感じるのではないか。また同じことの側面ではあるが、天皇の宗教的優位性は、政治を担当する政党や政治家にたいする侮蔑心を国民のなかになかば無意識的に造りだすのではないか。天皇よ、もっと民に近づいてください、普段から声をかけてください、そしてわたしたちからもまた天皇にもっと近づいても差し支えはない、近づくべきだという欲求が形成されるのではないか。天皇を憲法体制で定められた以上に祀り上げるべきなのではないか……。法と宗教との対立・分裂が生起する余地がそこにはある。「現人神」が同時に立憲君主を兼ねるという憲法制度は西洋では無いそうだ無いそうだ。
  「天皇機関説」排撃運動は国民の危機意識の反映だろう。数年前以来の満州事変や満州国樹立、国際連盟脱退、ナチスドイツの台頭など、1935年は国家的地殻変動を体感せざるをえない年だった。天皇への国民意識の結集の喫緊性がもとめられた。戦争体制への準備として。しかし国体明徴運動なるもの、まったく非論理的かつ排撃的で、首を傾げざるを得ないものだ。これに同調的態度を執った政治家は情けない。

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政と軍・ノート

  軍隊の政治介入について。軍隊は一国家内の最大実力(暴力)組織であるから、軍隊が一致結束して政権転覆を企てれば容易に完遂される。軍人はそのことを知悉している。
  軍は戦争の専門家集団である。自己組織の能力を知悉していると見做される。他国との戦力比較についても政治中央よりも知識に長じているとされる。それゆえ軍における彼我の戦力分析や軍事的判断に致命的誤りがあって戦に突入すれば敗北へと転げ落ちる。第二次世界大戦の日本がまさにそれに相当した。
  軍隊の予算措置は政治中央の専権事項であるから、軍隊は政治中央との折衝・交渉を余儀なくされる。軍隊の生殺与奪の権限を政治は有している。つまり軍は通常は政の下部に位置する。
  軍隊は戦争の準備をしなければならない。また防衛体制に怠りがあってはならない。だが戦争開始か回避かを決定するのは政治中央である。戦争の勝利によってもたらされる「戦果」とは領土の拡大や資源のあらたな確保、経済権益の強奪などであるが、戦争の規模が大きければ大きいほど戦に伴う犠牲も甚大になる。人命の喪失、負傷、経済インフラの破壊、食糧難等。戦に勝利しても歓びは小さく、虚無感や厭戦気分が蔓延する。政治はこれらのことを総合的に判断して和戦を決定しなければならない。犠牲が甚大であろうことが見通せるならば、断固戦争は回避すべきである。
  世論について。政と軍が対立的関係に長く有った場合、もし世論が軍を支持すれば、軍は気を大きくできる。軍の規模拡大や政治介入がより容易に可能となるように見なされるからだ。だが世論の支持を後ろ盾にしてそれを為そうとすることは情緒的ではないだろうか。軍の規模拡大の成否は一国内の政治的争いではあるが、戦争は対外的である。軍人は冷徹な判断を喪ってはならない。
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断片

  自己とは何か。環境や他者との関係性によって、おのずからその内容は決定づけられる。人は純粋に孤立したまま生を持続させることはできないので、何らかの職業に就いて社会や他人の役に立つことによって、報酬をえて、それを消費に振り向けることによって生を営む存在だ。だから同じ職場の同じ部署に就いているAという人とBという人がいた場合、しかも性別も年齢も同じならば、第三者の目からすれば、それほどの差異はないといえる。立ち入れば外見やら性格やらその他の差異が見出されようが、そこまでする必要がない場合もある。社会的存在によってふりわけるならば、AとBはまったく同じ立ち位置にある。だがわたしがAであったとすれば、わたしはBとはまったく異なる人間であることは自明だ。たとえば、わたしAは欲望やわたしに固有な観念にもとづいて、自らをいかなる行動に赴かせようかと空想し考える。逆にいえば、行動につく以前の自己を、弓を引き絞るようにして眺望している。行動が実現に至らなかったとしても、だ。無限ではないにしても、わたしは自己にたいする決定や変更の余地を自由として有しているということだ。社会的ふりわけによって、わたしAはBとほとんど差異がないということを十分に知っている。にもかかわらず、わたしAはBもまた当然内包するであろう自己には、わたしがわたしAの自己に関わるようには絶対的に関われない。たとえBがBなる自己を言葉によってわたしAに表白したとしてもだ。触発されることがあってもなくてもだ。Bなる自己は、わたしAの自己とはその距離感や手触りの奇妙さ、また価値観の相違以前にそのかかわりあいにおいて、所有意識において根本的にちがうのだ。つまり自己というものは、わたしAが自己なるAを意識する時間のなかにしかない。外側からみてもその存在は見つけられず、Aという区分のみが抽出されるのみだ。

  特定の社会的対象やら人やらにたいして、わたしは想像し、空想する。関係性を構築してそこに定住するように不動のものにしようとするのか、それとも破壊しようとするのか。指一本触れないことを前提とするならば、どんな想像も空想もまったく自由であり、罪もない。行動に着手しないならば何も変わらない。わたしは依然として同じ職業に従事するAのままである。だがわたしは想像と空想にこだわり惑溺する。何故か、「想像と空想」それ自体をわたしが好むからかもしれない。弱気で意気地なしかもしれない。また現前する社会やら人やらとは直接は無関係なわたしの過去の行動をとらえ返そうとしてなかなか居心地のいい解答を出せないからかもしれない。色々あるだろうが、自然に生起するままの自己にたいしては、正直さは認めつつも不満であり、わからないとしか応じられない。言葉を使って断定し、発現させることができない。行動は萌芽と断片のままで、くだらないこともあり、そうではないことも展望されるのであろうが、不毛といえば不毛だ。わたしはそういう非力で非行動な自己を意識する。そこにはひねくれた自己満足もあるのか。
  ひとつとして同じ「想像と空想」はない。同質と言えないことはないが、微細には少しずつ変成していく。均質な同一性に人は退屈を覚えて飽き足らなくなるからであり、またその間、実際に退屈三昧を十分に浴びてしまっている。「特定の社会的対象と人」もまた「想像と空想」のなかで微細に変化し、その固有性が痕跡をのこしつつもしだいに溶解する。固定した「特定の社会的対象と人」はそれ自体として依然として自己の外側に存在しつづけるが、それとは別個に、社会性という自己以外の外側の領域から自己内に、自己に適合するように変成する。つまりは二重化される。自己にとっては居心地のよさを「想像と空想」が獲得する過程である。何もしなくてよいのかという自己への詰問は衰え、むしろそういう「想像と空想」に惑溺する自己をわたしは無意識に擁護し、また逆に赤面する。そういうわたしとは何なのか、執拗に意識せずにはいられない。惑溺する時間帯に入ってしまったわたしもまたぼんやりした輪郭をもった特定の自己をえて、変成してしまっているのだ。そういう自己になにやら薄気味悪さを覚えてしまうのは、もう少し時間が経過してからだ。
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ノート・過去と現在

  「わたし」は過去の自分の行動をふりかえる。行動とは欲求や義務意識にもとづいて社会的に具体化されたものであるからおのずからさまざまな社会的評価がくだされる。「わたし」もまた自分が行いなすりつけたさまざまな局面での痕跡また印象を繰りかえしてふりかえるので、他人とは違ったものであったとしても自分の行動にたいする社会的評価に参加しているのであり、過去の行動からとおざかるにつれてその評価は少しずつ変わっていくのかもしれないが、最終的には自分のやったことは自分の手で評価を決定づけなければならないという思いがある。
  「わたし」は忘れられた人である。夢中になってのめりこんだ行動からはとっくに身を引いた。賞賛を浴びあるいは非難を浴び冷ややかな視線を向けられたそのときの社会的評価につながる緊張した周囲は現在の「わたし」にはない。環境そのものがすっかり変わってしまった。仮に「わたし」の名を出してもその固有のときに「わたし」を知っていた人々のうちでも懐かしがってくれる人は少数であろう。「わたし」もまたそれら少数の人々と再会したいとは格別には思わない。だが「わたし」は過去をふりかえるどころか引き摺りつづける。今からみればわずかの期間にしかすぎなかった過去の行動が、自分のそれも含めて過去と現在の社会的評価にさらされることは既に書いたが、「わたし」の過去の自分の行動への評価は一言でいえば「悪い部分もあったがいい部分もあったかもしれない」ということになる。「わたし」は実はこの「いい部分」を単独でとりだしてみたいという欲望にうち勝ちがたいのであり、その欲望に沿って生き、あわよくばそれを実現させることでしか「わたし」という人間の本来的な持続は無いものと思い込んでいる。だがほんとうに「いい部分」が過去の行動に実在したのかと問われれば自信をもてない、まして言葉にして具現化するなどなおさらだ。「いい部分」とは萌芽やヒントに過ぎないのか、もっと後退して思い込みに過ぎないのかという疑心がよぎる。そこで「わたし」は仮定された「いい部分」を育ててみたいと念じるようになる。この思いは過去の行動への自他の社会的評価や、過去の行動自体とはそれが外側からみて土台を形成していることになるにせよ、直截のつながりをもたない純粋主観的な思いだろう。だが人は主観によって生きるものだ。他人からみて過剰と思われまた無効と見做されるほどの関心をひとつの物事や観念に向けることによってしか人によっては充実感を得られないからだ。「わたし」のような人にとっては客観性なるものは主観からわずかにとおざかって中心部にある主観を補強する道具にとどまり、主観からとおざかればとおざかるほどその客観性は「わたし」にとってはしだいに関心を失わせるものとなる。
  「わたし」は過去の行動をときには心で繰りかえす。行動にともなう旗印であった言葉は忘れても、体感に突き刺さった火照りは忘れてならないと思うからだ。火照りにともなって今日的に重要と思われやがてありきたりではない言葉につながるであろう映像や感覚が立ち上がったからだ。もとよりかかる火照りは過去ほどの激しさを現出させることはできないにせよ、考察力はいくらかは伸長している。「いい部分」を単独で掬いあげることは「悪い部分」と渾然化しているために不可能であるから「悪い部分」もまた心で繰りかえさざるをえず引き受けざるをえない。「わたし」は一時的に「悪人」になる。それにまた行動には中断の匂いがあり、「わたし」は未練がましさと、最終局面において自ら中断を選択したかに見えることからくるうしろめたさの実感をも成り行き的に抱かされながら、一方ではそれらを唾棄したい思いにも気づきながら、過去の行動を心で繰りかえす。だがどっぷりと漬かっている間はやはり「悪人」であるから引き返す。
  「わたし」は何もしない。過去を<心で繰りかえす>とは反面、外部的現実に関わるかたちでは<繰りかえさない>ということと「わたし」にとっては同義一体であるからだ。過去において撒き散らしてきた言葉はその時点においては生半可であったとしても「わたし」なりの確信に裏付けられてはいたが、今はその確信は雲散している。社会的評価なるものもその時点での基盤になった言葉に主に向けられ、そこにおいて多分に否定的評価を被ろうともそれはそれで「わたし」が仮に納得しようとも、それだけで引き下がることは肯んじられないのだ。「いい部分」に着目するからでそれは旗印にしたかつての言葉からは分離独立してさらに鮮明にされなければならないと思念するからで、その作業の過程において<心で繰りかえす>ことはどうしても必要になってくる。「いい部分」とは何か。身体内の余力をふりしぼるようにして行動にぶつけていった白熱や恍惚感なのか。またそれゆえの壁にぶちあたったときの疲労感、何かしら「わたし」の重要な一場面の終わりを見せつけられたような、同時に即座には言葉にはできない「世界の真相」を神のような絶対者から強烈に暗示されたような、また「わたし」も例外ではない個人の肉体と力のちっぽけさを寂しさとともに呑みこまされたような謎と躓きの総体にちがいない。それらが「いい部分」と呼べるのか、抽象的かつ曖昧なそれら総体を引き受けなおし舞い戻って過去そのままの姿勢ではなく別の姿勢で再出発することにしか「わたし」は希望を見出せなかった。そうでないと「わたし」という一本の線は曲線であろうとも寸断されたままの状態なままだ。もとより捨て去らなければならない部分も大いにあり、その見極めもおのずから要請された。しかしながら、これしかない、やれるところまでやらなくてはならないという思いに食らいつき食らいつかれたことも事実で、反面そういう思いが「現在」に欠落していて不甲斐なさを自分自身に日々じれったさとともに感じざるをえないことからくる過去への懐かしさも覚えてしまい、擦り寄る姿勢を執ってしまうことも矯正できなかった。思慮を唾棄するようにして闇雲に過去に戻りたいとも思わずにいられなかった。だからこその「悪い部分」をもそのまま引き摺っての過去の無修正の再現にもとりつかれた。「わたし」はそのときどきの現在においても過去とそれほど異ならないままに「わたし」自身を統御できないまま崩れた豆腐のようにぐしゃぐしゃにして闇雲に過去を再現した。そういう時期は長くつづいた。
  <そのときどきの現在>とは「わたし」固有の過去以降の仕事と余暇である。仕事とはいうまでもなく日々の糧を確保するために収入をえることであり、物づくりならば要求された規格どおりにひとつひとつを作ることだ。そこにおいては仕事の範囲以上に社会的に訴えかけるような、人目を牽くことを目的にするような、同じことだが賛同者を闇雲に増やそうとするようなことを余分にする必要はない。職種によってちがいはあるだろうが、会社組織や客の要請に沿う以上のことはしなくてもよい。誰でもが知っていることであり、またそれ以前に誰でもが就業しなければ生きていけない。就業して即座に要請された能力を会得する人は稀であり、そこで人々は苦労する。「わたし」が過去において為した大言壮語や自惚れなどは何の役にも立たず、それらを清算しようがしまいがずっと後退した地点から始めなければならない。「わたし」の固有の過去において衣服のように纏っていた力やリズムは発揮しようがなく、仕事において要請される技能や丁寧さを身に着けることにせかされる。自覚するべきは冷静さであり、「わたし」の過去が孕んでいたであろう熱気や大ざっぱさは邪魔になる。だが「わたし」はそれを自覚しようとしないか、または無意識だ。「わたし」はポジションの変更を余儀なくされたことに不平不満と寂しさのあまり、それを空想的に認めたくない気分に引きずられる。「わたし」は<「わたし」の持続>に幼児的に執着するあまりに仕事の時間においてその寸断の感覚にさいなまれ侮辱されっ放しの気分に支配される。攻撃性を発揮できない自身に「わたし」はじれったく歯痒くなる。
  「わたし」は過去を闇の中に解き放つ。後ろめたさをともないながらも、社会的評価には背を向けて、生き生きして暗躍する自身の像を打ち立てようとする。過去そのままの「わたし」ではなくそのままの周囲の環境でもなく、もっと自由でもっと悪辣な「わたし」が不鮮明に浮かびあがる。空想であり、仕事の時間とは切り離されたかに見える余暇の時間の別の「わたし」がそこに位置を占める。空想の「わたし」はそこで何をするのか。他人を傷つけたり殺したりするのか、少なくともその意思は現在の「わたし」によって付与されているものの空想以上ではなく、あくまでも暗躍して蠢くだけで重大なその部分も曖昧に終始するが、いくばくかは自由の気分に浸れる。そして「わたし」は歪む。空想の中の「わたし」の像を、またそういう営為に耽り堕ちこむ「わたし」を「わたし」自身が許すのか許さないのか、これまた曖昧なまま「わたし」は「わたし」をずるずる引きずる。許してくれるかもしれないのは「わたし」だけではなく他人、それも過去ばかりではなく現在の他人も含まれ折り重なってくる、自然の成り行きでの心的傾斜か。現在において生き残ろうとする願望がまずは周囲から許されたいという自信のなさを引き入れるのだ。もとよりかかる空想はおおっぴらにできるものではなく秘密裡に小さな焔のように営まれる。「わたし」は他人からも常識的な「わたし」からも背を向けたこういう隙間の時間を降りて、みすぼらしい安逸をうる。(2015年1月2日加筆)

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