ハートブルー アドバンスト・コレクターズ・エディションハートブルー アドバンスト・コレクターズ・エディション
(2006/11/02)
キアヌ・リーブスパトリック・スウェイジ

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FBI捜査官キアヌ・リーブスの連続銀行強盗犯パトリック・スウェイジに対する奇妙な友情とあこがれを描く。

 レーガン、ニクソンら元大統領の面をつけて犯行におよぶのが彼等のグループの特徴で、監視カメラに裸の尻を向けた一人の男の映像から、彼らは日焼けしすぎていて、たぶんサーフィン好きだろうと、捜査官らは当たりをつける。そこでキアヌ・リーブスは身分をかくして、サーフィン上達をめざす若者として夏のカリフォルニアの海岸に連日出没する。誤認も途中あるが、ガールフレンドになった女性の人脈にも助けられて、ようやく真犯人のグループに行き当たる。

 サーフィンの映像が真夏にもかかわらず、全体的に暗めに撮られているのが特徴だろうか。開放的ではなく屈折感があって印象に残る。それに真夜中にも彼らはサーフィンに興じる。またラストでは嵐の海の高波が映る。「見えなくても波の動きと一体になればいい」と夜間のサーフィンでパトリック・スウェイジはうそぶく。自然には奥深さがあって、スポーツを通じてそこにたどり着こうとする。神秘と快感と怖れが混淆した一種宗教的追求をそこにみる思いがする、といえば大げさであろうか。ともあれ、キアヌ・リーブスはそんなパトリック・スウェイジにあっけにとられ、あこがれさえも抱くのだ。またリーダーのパトリック・スウェイジは自信家であり、やさしいところがある。キアヌの身分がグループに割れても殺そうとはせずに、スカイダイビングにまで連れていく。強盗犯であるにもかかわらず自分たちの探求と快感の人生をキアヌに吹き込もうとするのだ。キアヌは助けられたことには恩義を感じざるをえないだろう。

 だが、警察官と犯人との溝はやはり越えられない。最後の犯行でメンバーを死なせ、負傷させた彼らはちりぢりになって逃亡するしかなく、キアヌ・リーブスは無論パトリック・スウェイジを追っていく。

 アクション・シーンは公開当時としてもあまり新鮮味はなかっただろう。秀作とはいえないにしても、人との出会いの奇妙さ、心地よさは刻まれている。記憶の片隅に残りそうだ。
レッド・オクトーバーを追え!アドバンスト・コレクターズ・エディションレッド・オクトーバーを追え!アドバンスト・コレクターズ・エディション
(2007/08/24)
ショーン・コネリー

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 潜水艦を舞台にした映画は多くあるが、見所はやはり海上の敵艦からの機雷攻撃によって危機にさらされる場面だろう。艦壁に亀裂が生じて水がドドッと流れ込んでくる、もうおしまいだ! という切迫感がある。だがこの映画にはそれがない。大型の原子力潜水艦だからかもしれないが、水の圧倒的な浸入は見たい気は残って、その点では残念かな。模型の原潜やミサイル魚雷の水中撮影がもっぱらなのは無理もないのかもしれないが、肩透かしの感は残る。ヘリコプターから潜水艦に梯子づたいに人が移動する場面は模型ではなく実写で、さすがに迫力があるが。

 冷戦時代が背景で、ソ連原潜レッド・オクトーバーの艦長ショーン・コネリーが艦ごとアメリカへの亡命を目指して舵を切るというもの。コネリーからの手紙で事態を把握したソ連海軍は阻止すべく原潜の大部隊を動員して包囲をめざす。一方、アメリカは原潜の不審な動きを先制核攻撃の可能性ありとして同じく原潜を動員して撃沈をも視野に入れる。だが軍事アナリストのアレック・ボールドウィン(ライアン博士)は一人ソ連原潜の亡命の意図ありと主張する。アメリカ目指して逃げるショーン・コネリー。追うソ連原潜と迎え撃つ用意万端のアメリカ原潜、アメリカ原潜の動きにブレーキをかけようとするアレック・ボールドウィン、という三つどもえ四つどもえの戦いが大西洋で繰り広げられる。

 軍事に興味のある方には面白いのかもしれないが、私にはわかりづらい箇所もあってそうでもなかった。俳優陣については、ショーン・コネリーは貫禄充分だが、アレック・ボールドウィンという人はどうか。なよなよして覇気がなく見えて、軍事アナリストという役にふさわしくない感じがした。


愛のコリーダ 完全ノーカット版愛のコリーダ 完全ノーカット版
(2003/08/20)
松田英子、藤竜也 他

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 有名な阿部定事件がモデルになっている。松田映子(定)が女中として働く料亭の主人の藤竜也(吉蔵)にひと目惚れし、まもなく愛人関係となる。そうしてついには藤を絞殺したあげく局部を切り取るというショッキングな結末の話だ。定の吉蔵への燃えたぎる想い、独占欲がそうさせることにはちがいないが、監督の大島渚が主張したかったのは、それを土台としつつももっと深いもの、女性のセックスの奥底から突きあげてくる内発性といったものが定に犯行をうながしたということではないか。

 女性のセックスについては私はよくわからない。私が男性だからであるが、多くの女性にとってもこの映画の定はそれほどわかる人はいない気がする。そこで私は外側から推察するしかないのだが、まず、定は直情径行型の人だということだ。奉公先の女将に「女郎あがり」といわれると包丁をもって向かっていく。吉蔵と宿泊する旅館の女中が「変体」となじると、これまた食って掛かる。喧嘩っ早いのだ。それから勿論、いったん関係ができると吉蔵をテコでも放そうとしない。吉蔵は妻ある身だから、たまには帰宅しなければならないのだが、そのときのはげしい嫉妬(ここでは松田映子はうまくない)、ときには家までついていく。愛人や妾では嫌だという。あくまで独占してしまいたいのだ。

 定は元娼婦である。それもあって定にとっては性なくして愛はない。反対に愛がなくても性はある。だが勿論定は吉蔵とセックスをかさね、繰り返すことで愛を深めようとする。定にとってはそれは、性と愛の未知の領域へどんどんはまっていくことだ。

 セックスの快感の奥には苦痛があり、苦痛をも快感として繰り込んでいくことが描かれる。それを身体に刻み込んだ定にとっては、逆に苦痛を導入部としてセックスの世界に入りこみ時間を過ごすことができるまでになる。それが端的にあらわれるのは「校長先生」(説明が省略されているが、定にとってのほんとうの校長であるとともに金づるでもあるのだろう)とのセックスの場面だ。二人は裸になってベッドに横たわるが、発情しない校長に「ぶって、ぶって」とせがむ。うながされて校長は定の頬を平手で打ち、定はセックスの意識のなかになだれ込む。性とは日常性と隣り合わせでありながら、日常性そのものではない。このように、たとえば「ぶたれる」ことによって身体に変異が生じ、それをスイッチにして身体ともども意識がセックスの中心にたどりつける。さあ、それからは定は吉蔵にもっぱらこの苦痛を伝授することになる。

 好きな相手と同じことをする。ともに快感を求めるのならばともに苦痛をも求める。同じ困難に挑戦し、同じ体感をえられれば二人の距離はもっと縮まる。もっと愛が深まるであろうあらたな境地が手に入る。だがはたして、それができるかどうかはわからない。苦痛はたんに苦痛で終わるかもしれない。遊びの世界ともいえなくはないがたいへんスリリングである。吉蔵は遊び人で、一見して投げやりでありながら実はたいへん挑戦的なものを秘めている。たたかれたり首を絞めたりされて、吉蔵においても苦痛がしだいに法悦となっていく。ただ吉蔵にとって、そうして苦痛を積極的に受けいれることが、はたして自身の欲望の内発性からくるものなのか、それとも定に多分に引っぱられた結果なのかは判然とはしない。定が好きなこと、セックスが好きなこと、その感情が苦痛を授けられることによってますます固定化されていくことは確かなようだ。同時に、これら一連の所作は死の予行演習でもあることに吉蔵も、そして視聴者も気づく。定ははじめからそれが標的としてある……。このあたりでは映画はテンポをたいへん遅くして、濃密で息苦しい時間を形成している。

 「殺して欲しいか」「殺して欲しいなら、殺してくださいといえ、吉蔵」。吉蔵を顔をつけるように間近で見つめおろしながら、帯で首を絞める手をしだいに強めていく定のセリフだ。吉蔵が完全に自分のものになりつつあるという自信と安寧と幸福。さらに性の奥深くから突きあげてきて定をうながすものがある。その姿は定という個人を越えて、性の全体性を特異な方法で獲得した女性の象徴的存在というまでに見えてくる。定はゆるぎなく沸騰する。

 一九七六年の公開当時に見たときには、この映画はよくわからなかった。死んだり殺したりは勿体ないなあ、とうくらいの平凡な感想しかなかった。それに腹立たしいほどボカシが大きかった。今見ていちばんの印象はすべての場面においてではなくところどころで松田映子がたいへん可愛く見えることだ。不美人であるにもかかわらず。この想いは吉蔵役の藤竜也も共有するのだろう。性と愛の絶頂点で、好きな女に絞められて死ぬことの幸福。好きな男を絞め殺すことの幸福。私には実感が最後まではとても追いつかないが、そのあとの部分は哲学(攻撃的観念)が存分にこめられていて、二人がたいへん神秘的に見えた。