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森鴎外「山椒大夫」「妄想」

>森鴎外
04 /25 2020
  「山椒大夫」はよく知られた短篇で、わたしにとっても親しみやすく読みやすい。鴎外の歴史小説としては九番目にあたるが、最初の「興津弥五右衛門の遺書」のいかにも武士自筆のようないかめしい文語体ではなく平易な口語体で、現代小説にみられる独語や仏語を頻繁にもちいることもない。また「堺事件」では歴史的資料が詳細にのこされているためか個々人の行動がそのまま「事実」と密着したような印象をあたえるが、そんなこともない。(「堺事件」における鴎外の「事実」以外の創作範囲をわたしは知らないが)「山椒大夫」は伝説にもとづくゆえに「事実」のしばりはゆるく、個々人の行動と心理が伝説の大枠は維持されながら鴎外の筆によって創作され分析され、しかもゆったりしている。
  母と安寿と厨子王の十代前半の姉弟、それに女中をくわえた四人連れが九州に流罪された父をたずねて北陸地方の海岸を旅する途中で、人買いにさらわれ母は佐渡へ、兄妹は丹後地方の石浦(現在の京都府宮津市石浦)にある豪族山椒大夫の館へ連れていかれる。姉弟は汐汲(しおくみ)、柴苅(しばかり)をさせられ、やがて年を越した春に、安寿の進言にしたがって厨子王は脱出を試み、成功して、最終的に佐渡にいる母にも遇うことができて物語は終わる。
  過去にも何回か読んだが、遅まきながら気づかされたのが、厨子王をのぞく三人の死にたいする親近性ともいうべきもので、女中や母は普段から死を意識していて、奴隷的屈従が確定的に迫ったときにはためらいなく死をえらぶのだ。女中は船から海に飛びこみ、母も同じことをしようとして漕ぎ手の人買いに阻まれる。安寿も攫われてから若いながらそれを少しずつ意識しはじめ、ためこんで、やがて決意するに至る。安寿は厨子王の足手まといになることをおそれて脱出を諦めたようで、小説の冒頭で歩行の苦しさのはなはだしい安寿の様子が記されている。姉弟そろって焼印を押される同じ夢をみたあと安寿は沈黙しがちになり厨子王には不安が宿りはじめる。読んでいて不気味さと、それに神秘さえ感じずにはいられない。それに守本尊(懐に入れられるくらいの地蔵像)を後生大事にするのにみられる信仰心の篤さだ。四人は貴族階級の家族やその周辺者で、すべての平安時代の人が記したような属性を有していたのかはわからないが、とにかくも往時はそうだったのかと、現代とは異なる文化に触れたようで印象深かった。最終場面で目がうるんだのは以前読んだときと同じ。

  「妄想」は鴎外のなかで重要作のひとつだろう。海辺の別荘に住む老人の独白という体裁をとるが、鴎外自身の人生や思想への思いを作為なく率直に語っているようにみえ、ほとんどエッセイである。  
  鴎外は陸軍軍医であるとともに作家・翻訳家でもあり、二足の草鞋を履きつづけた人だった。つまり類まれな秀才だったのだが、自足感は生涯えられなかったという。ベルリンで医学の勉学に励み、帰国してからの職業としての医者に従事してからもずっと医学(科学)が自己の奥底からの欲求によって選ばれたとの自覚がもてない。

始終何者かに策(むち)うたれ駆られているように学問ということに齷齪(あくせく)している。これは自分に或る働きが出来るように、自分を為(し)上げるのだと思っている。その目的は幾分か達せられるかも知れない。しかし自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後(うしろ)に、別の何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。策うたれ駆られてばかりいる為に、その何物かが醒覚する暇がないように感ぜられる。


  後の部分では「自我」や「謎」という言葉が出てくる。べつに鴎外のような知識人でなくとも誰しも生存を確実にするためには何らかの職業をえらんで生活を安定させなくてはならない。しかしそれだけでは不満がのこる。もしも別の境遇にあったならどんな人生を歩めただろうという思いは誰しも抱くにちがいないが、空想や感傷ではなく、自分らしさ、ひいては自由や自我の確立を目指したい。職業の背後にある「別の何物か」を自身の手によって獲得しなければならない。世界の本源なるものに触れなければならない。少なくとも深く関りをもちたい。鴎外によればそれは思想や哲学の勉学を抜きにしては考えられず、その確立がひいては政治や社会の現状にもある見識をもたらすことになるだろう。げんに鴎外はベルリン時代以降、医学と並行してショウペンハウエル以下の哲学や宗教・文芸の探究にも打ち込んだ。だがその「謎」はついに解けなかった。いく人かの思想家にも賛同することはできなかった。「帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行こうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかったのである。」
  若い頃は記したような問題意識のもとにあってずいぶん焦燥もしたが、老人の今は、諦めはせず往時の夢は引きずったままであるけれども痛切さはなくなった。死を怖れることも憧れることもなく、人生の下り坂を歩んでいくと主人公は記す。他に目を引いたのは芸術上で「大きい作品」を生み出せなかった、それができていたならば現在に満足がえられたかもしれない、という記述だ。鴎外の自作品への不満が表明されているのではないか。
  ショウペンハウエル以下の欧州の思想家への感想がちりばめられているが、わたしの手には負えない。

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森鴎外「阿部一族」「堺事件」

>森鴎外
04 /16 2020
  「阿部一族」の発表は大正二年。その前年の九月、乃木大将夫妻が明治天皇の大喪の日に殉死し社会を驚かせたようで、鴎外にとってもその衝撃と影響は例外ではなかったとみる。戦死は偶発的にしろ国家にたいする忠誠の最終的発現と認められるだろうが、殉死は死を選ぶ者の自由意思にもとづいており、その忠誠忠義はさらに鮮明となり、その遂行者個人を際立たせる。森鴎外らしく、当時の国家を舞台にして直截の関係をもたせるのではなく、江戸時代前期の藩君主と家臣にうつし替えて距離をつくっているものの殉死を全面的に肯定しているとみていいだろう。「かのように」にみられた思考を積み重ねたり、そのなかにためらいをふくんだりする気配はまったくなく、筆のいきおいは熱く一気呵成の感がある。鴎外の気力の充実ぶりを目の当たりにできる。
  初代熊本藩藩主細川忠利が病死したのが寛永十八年(1641)。死の直前に殉死を願い出て忠利から許された家臣が十八人居り、それぞれ別々にすみやかに切腹を果たしたが、願い出た者のうち阿部弥一右衛門というかなり身分の高い人だけが許されなかった。彼はそれにもかかわらず追い死をする。許されなかった理由は忠利が阿部を憎んでいたからで、阿部が家臣として無能であったからではなく、むしろ有能過ぎるところがあって忠利の癇に障ったからだ。ほかの家臣なら命じたのち職務をはたすが、阿部は命じる前から藩主の意向をおもんばかって実行する。そういうところがかえって気にいられず、また阿部は若いころから友人が少なく打ち解けにくいところがあったこともあり、忠利は死を願い出た阿部に最後に反撥したのだ。鴎外はこの阿部という人に同情的で(忠利には批判的)、鴎外自身同僚とのつきあいに積極的ではなかったという自身の性行が投影されているのだろう。「舞姫」においてもそれに類する記述がある。
  十八人の死後、家臣団や家族ではその話でもちきりで死者を称賛すること止まないが、一方において生き残った阿部弥一右衛門にたいしては冷淡で、非難の眼差しさえ向ける。生き残ったことにたいする嫉妬もあるだろう。阿部にとっては腹立たしく、このまま勤めに従事する気にもなれない。同調圧力が殉死者にとっては死に際で後押しの役割をするが、「非同調者」とされた者にたいする排斥力もまた強い。弥一右衛門は死を怖れぬこと、忠義を果すこと、はげしい憤激をみせつけるため嫡子を呼び寄せてその前で腹を切る。
  さらにここから展開がある。家督相続の問題で、新藩主細川光尚は側近の入れ知恵を採用して、阿部の遺族にたいして死んだ十八人の遺族とは区別する、つまり一段低い措置をとった。弥一右衛門の知行千五百石は遺族にそのまま受け継がれたが、兄の取り分が削られて弟達に移された。嫡子権兵衛はじめ一族は当然不満である。立派な最期を遂げた父とその遺族にたいする不当な措置と受け取るしかなかったのだ。反対に阿部一族にたいする侮蔑の念は細川家全体に定着し「権兵衛兄弟は次第に傍輩に疎んぜられて、怏々として日を送った」と記される。鴎外はここでもお上の処分を批判する。 
  権兵衛は忠利一周忌の法事で感慨きわまって御霊にたいして無礼としかみなされない行為をしてしまう。それによって死刑に処せられる。のこった阿部一族は藩にたいする真っ向からの反逆を選ぶ……。武士階級の倫理として忠義とともに「面目」「名」がある。忠義を尽くしたつもりでもそれを認められない、さらには真逆の評価をされたうえで処罰される、そういうことにたいしてたとえ藩と君主の決定であれ、おとなしく従うことを潔しとはしないのだ。死をもってその立場を鮮明にし、対決し反逆することをためらいなく選ぶ。鴎外は阿部弥一右衛門とその後の遺族の軌跡を全面的に応援するようにわたしには思えた。乃木の殉死にたいしての鴎外の見解をわたしは知らない。むしろ同時代との直截のかかわりを避けたところで、かえってその筆は存分にふるまえたのではないか。
  「堺事件」も切腹をあつかっているが殉死ではない。死刑を決定された武士団が切腹を希望したので、上役がそれを認めたという経緯がある。あたかも阿部権兵衛が縛り首に処せられたとき遺族がせめて切腹をと恨みをいだいたのを引きついだかのようだ。
  明治元年、土佐藩が堺の警護を任されていたところへ、フランス兵が軍艦から端艇(はしけ)に乗って上陸した。「免状」がなければならないところそれを無視した行動だった。上陸を阻止しようとした土佐藩歩兵隊とフランス兵との間で小ぜりあいがあり、やがて銃撃戦になってフランス兵十三人が死亡した。フランス公使はただちに抗議するとともに歩兵隊の指揮官と兵卒計二十人の死刑を要求し、朝廷と土佐藩は受け入れた。すでに攘夷から開国に政策が変わっていたことが背景にある。銃撃した兵は当然不満だ。「隊長の命令に依って働」くことは兵卒としての当然の務めであり、そこに「功はあっても罪はない」と確信するのだ。土佐から出向していた家老以下は彼等に同情的だが処分の変更はなく、堺の妙国寺で、公使以下のフランス兵、土佐藩や諸藩の重役、対外国関係の役所の重役などが立ち会うなかで切腹がつぎつぎに決行される。鴎外は「阿部一族」と同様切腹の様子をくわしく描写せざるをえないが、現在の価値観からすると残酷にちがいなく、わたしなどなかなか入っていけないところではある。現に当時のフランス人にとっても「集団切腹」は正視が不可能であったらしく、心身に著しく動転をきたして公使は退場し、行為は中断されまもなくフランス側から中止要請があって実際の死者は十一人までとなる。生き残った土佐藩兵卒九人は流刑の処分になるが年月を経てやがて許される。森鴎外は彼等やその子孫のその後を丁寧にたどることを怠らない。凄絶な最期を遂げた死者とは対蹠的に、おおむね幸福な余生をおくったことに読者をして胸を撫でおろさせる効果をねらったのか。それとも「堺事件」という出来事を単独のものとして終結の時間をやや引き延ばして追跡したにすぎないのか。
  「阿部一族」は武士階級がみずからその倫理を完遂させることによって終わる。江戸時代初期ならその倫理は武士にあまねく行きわたっているから単独の出来事だとしても普遍性があるが、「堺事件」は明治元年に起こった。足軽といわれる身分も含めて武士には武士倫理が依然としてそのまま残存していたとみるべきか。「堺事件」の発表は大正三年だから「事件」はそれほどとおい過去ではなく、この時代にたいする森鴎外の見識にふれたかった気もする。傍観者の立場を堅持して引いたのか。



森鴎外「鶏」「かのように」

>森鴎外
04 /12 2020
  森鴎外は明治三十二年(1899)三十七歳のとき、陸軍第十二師団軍医部長となって小倉に赴任。このときの借家住まいを始めてからの数か月間の経緯を下敷きにしたのが「鶏」で,季節は梅雨の六月から酷暑の八月まで。主人公の名は石田小介。
  鴎外という人の周りの人々とのつきあい方が知られるところが面白い。とくに庶民階層の人にたいしては概して恬淡で、ときには冷然とした態度をとることがあって、本人としてはそれで十分に自己納得しているようにみえる。下女のばあさんがいる、馬の世話をする「別当」の虎吉がいる。彼らは石田の購入した米などの食料をくすねるのだが、石田は責めたりはせずに、下女なら馘にして別の人を雇って終わり。虎吉ならそれまで食料ごとに石田のと一緒にしていた器をあらたに虎吉に買い与えて別々にするだけで、とくに咎めだてするのでもない。不快感を抑制することに慣れているのだ。また彼らが小悪人でなくても、世間話をし合って交情をつくりたがるような人柄でも石田はない。つきあいにたいしてきわめて消極的だ。軍隊上層部の人間なら冷静さや冷然さは必要なのかもしれないが、それだけに起因するのでもなさそうだ。また、下女にいわせれば石田は吝嗇で馬鹿だ。つまりは食べ物に贅沢をしない、贈り物を決まって返しにやる、人が言った値段を疑うことなしに購入する云々だが、これは石田が欲を節制すること久しいからで、みずしらずからの贈り物を返すのは軍隊規律に基づいたもの、また値段に関しては瑣事にはこだわらないと姿勢と、わたしは解釈した。
  そんな石田だがかつての部下からゆずり受けた鶏をみるのがささやかな楽しみで、みずからも買い、虎吉も買って四匹になりやがて雛をかえす。(鶏も何匹か産み落とした卵も石田は食べたがらず、卵は虎吉にくすねられる)だが鶏が隣の家の畑を荒らしてしまって、上さんが「やかましい声」で猛烈に抗議してくる。かなりの毒舌だが、石田は何も抗弁せずにまた謝りもせずに聞き流すのみで、ここは少し異様さを感じた。
 

 石田は花壇の前に棒のように立って、しゃべる女の方へ真向に向いて、黙って聞いている。顔にはおりおり微笑の影が、風の無い日に木葉が揺らぐように動く外には、何の表情もない。軍服を着て上官の小言を聞いている時と大抵同じ事ではあるが、少し筋肉が弛んでいるだけ違う。微笑の浮かぶのを制せないだけ違う。


  石田には鶏を飼うにさいして隣の畑を荒らすことまでは予想できなかった、という言い訳がある。また上さんの怒り散らす様子が見世物のようで結構面白く、まただまって聴いているうちに相手は言葉がつきて退散するであろうとの予想がある。またわたしが思うところだが、鶏が畑を荒らしたくらい大したことでもないという値踏みもあるのかもしれないが、しかしお詫びの一言くらいあってもいいのかなと首をかしげた。鴎外の下々にたいする接し方の典型例といえようか。
  だがこの短篇、「鶏」と名付けただけあって、その愛くるしさも印象に残る。

   「かのように」は思想的内容が濃密に押し込められている。
  青年秀麿は父五条子爵の財によって学問研究のためにドイツに赴く。滞在中に父子の手紙のやりとりがあって、父は秀麿が危険思想に染まりはしないかと心配するが、賛同するところもある。学問が一般にひらかれ探究がすすむにつれて神や信仰にたいする疑念が生じてきて、無神論や無政府主義が台頭してくる。歴史研究でいえば、神話と事実の積み重ねとしての歴史との分離の欲求である。だが父は、たぶん自分もそれほど本気で先祖の神霊の実在を信じてはいないものの、多数の信仰者やそれにかかわりあうさまざまな儀式や行事をないがしろにする者ではなく、あたかも自分も信じる者として外観は信じるふりをしつつ御先祖の御霊を丁重にあつかう、信仰の姿勢をみせるしかないと思い返す。この点では秀麿と父は一致しているとわたしはみた。
  秀麿によれば、人間が考え出したもろもろの思想・学問はすべて架空のものだ。たとえば点や線は実在しない、あくまでも概念で、点はどんなにちいさくても面積がある。線はどんなに細くても幅がある。しかしそれを前提にしなければ幾何学は成立しない。またそれを一面の基礎とする文明の発展もない。自由や道徳もあまねく存在するかどうかわからないが、それを前提としなければ法律も政治も実現しようがない。記されたとおりではないが、わたしが受け取ればこんなふうになる。つまりは根本のところではそれらを在る「かのように」人は思わなければならないのだ。神や神話にしても在る「かのように」丁重に遇さねばならない。
  帰国した秀麿は懊悩する。高橋義孝の巻末開設も指摘するようにここでは天皇制が射程に入っている。点や線ではなく、天照大神や神武天皇の神話を「無」ではなく「在るかのように」に定義づけすることが念頭にあるようだ。研究論文が構想されている。だが果たして神話を実在とする多くの民衆や思想勢力にその定義づけは受け入れられるだろうか、また父は。日本の神話や天皇制については直截の言及はないが。

  秀麿の心理状態を簡単に説明すれば、無聊に苦しんでいるという外はない。それも何事もすることの出来ない、低い刺激にウ(左に食に似た字、右に幾)えている人の感じる退屈とは違う。内に眠っている事業に圧迫せられるような心持である。潜在力の苦痛である。


    秀麿は父と「妥協」できないかと友人の綾小路に尋ねると「駄目、駄目」と返されて作品は終わる。父への遠慮がありながら秀麿は自説を曲げようとはせずに、父が賛同してくれることを望んだが、友人は虫のいい望みを打ち砕く。父は秀麿に賛同できる部分はあっても、少なくとも秀麿の論文が世に公表されることには及び腰だろう。
  だがこの短篇を書いたことで、鴎外の天皇制(皇室)にたいする見方は、ぼかした形ではあれ、明らかにされた。当時の読者がどれだけ見抜いたかは別の問題だとしても。父と秀麿は微妙な分裂状態でありながら、鴎外の内部では同居している。

森鴎外「舞姫」「うたかたの記」

>森鴎外
04 /10 2020
  森鴎外は明治十七年(1884)から二十一(1888)年まで陸軍軍医としてドイツに留学している。年齢でいえば二十二歳から二十六歳までで、その間エリスというドイツ人女性と親しくなり、その交際を題材にして書かれたのが「舞姫」で、帰国二年後の明治二十三年に発表された。
  本書においてはわずか三十頁足らずの分量だが、文語体で、切迫感が最後まで持続する。寺の門にもたれかかって泣いている少女と巡り合った主人公は、父の葬式代を払うことがままならず、母や踊り子として雇われている劇場の「座頭」の冷酷なすすめに窮する。おそらくは身体を売れということで少女は当然それをはげしく嫌がる。若い主人公はいたく同情するとともに、少女の美さに惹かれて、懐中にあるわずかの金銭と時計を少女に渡し、それから少女エリス(前記した女生と同名)との交際がはじまる。

  年は十六七なるべし。被りし巾(きれ)を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべきもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

 

 彼(か)は優れて美なり。乳(ち)の如き色の顔は燈火に映じて微紅(うすくれない)を潮(さ)したり。手足の繊(かぼそ)くタオヤカ(上に島に似た字、下に衣)なるは、貧家の女(をみな)に似ず。


  このように主人公はエリスの美貌に全面的に引き込まれていき、さらに以後の交際においても、エリスのこれ以上ないような十二分の愛情表現にささえられる。主人公が気後れするくらいに、だ。
  エリスと出会う前段になっているのが主人公のドイツで生活してからの心変わり。主人公は医者ではなく、某官庁から政治や法律の調査のため派遣された身分であったが、しだいに文学や歴史の方面に勉学の興味が移っていく。彼はとびぬけた秀才のようで、親や周囲の勧めるままに何の疑いもなく勉学に励んできて、彼らの期待を一身に背負うに足る存在となりえた。だがどうやら自分は政治家や法律家(例えば検事)にほんとうになりたい気があるのか、そうではない。専門領域の勉学にいそしむ以外の外部に眼を向けはじめ、独立心が芽生えてくるのだ。そこへ訪れたエリスとの交際は降ってわいたような幸福であるとともに主人公の気魄をためす「未知」ともなる。
  やがてエリスとの交際(同棲)が知られて主人公は公使館から馘首され、ただちの帰国を命じられる。旅費は支給するが、もしそのままドイツにとどまるならば給金は出さないという。彼は踏ん張ってとどまるが、途方に暮れていたところ、友人の相沢謙吉にドイツ在の日本の新聞社への就職を斡旋される。さらには同じく相沢の紹介で、ベルリンに来た某大臣の天方(あまがた)伯に付き添う通訳にも抜擢される。主人公にとっては相沢も天方も恩人にちがいなく、彼等らの勧めには正面切って反撥することができず、帰国要請にたいしても肯うほかない。当然彼は、自身のふがいなさ、優柔不断を責めさいなむことかぎりなく、また彼の帰国を知ったエリスも狂気の様相で彼を責め詰ってやまない。「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日まで残れりけり。」これが結び文句。
  主人公は鴎外自身がモデルとされているとみるが、相沢もまた鴎外の分身ではないか。煩悶はあったにちがいないにしても鴎外はエリートコースを捨てなかった。
  「うたかたの記」も「舞姫」と同じくドイツが舞台で文語文で書かれているが後者ほどの切迫感はない。巨勢(こせ)という画家が忘れがたい少女と何年ぶりかで酒場で出会い、交際がはじまる。マリイというその少女は、今はモデルをしているが、以前は菫売りをしていた。巨勢もいた酒場にきて商売をしようとしたところ、客の連れていた犬に花を台無しにされて店を出て行った。巨勢は少女の後を追い、金銭をあたえた。巨勢は「舞姫」の主人公と同じく、同情とともに少女のもつ美貌につよく惹かれてのことで、その面影を絵のなかに再現しようとしていた。少女もまた巨勢の恩を忘れることはないなかでの再会だった。
  マリイは自身の数奇な運命について巨勢に語る。母は国王ルードビィヒ二世の夜会に父とともに招かれたところ、国王に襲われそうになってそれをみた父が留めに入った。だがそれがきっかけになったのか父母とも病んでまもなく死亡した。マリイはそののち養女になったり小間使いになったりと転々とし、やがて絵のモデルとなる。生活力があり、年長の巨勢をデートに誘うなど、たくましさをもつ女性として鴎外はマリイを描く。最後にはスタルンベルヒという湖で、巨勢とともに乗ったボートで、偶然にも国王と再会する場面がある。はたしてマリイは国王を途方もなくおそれたのか、父母の死という地獄絵図がよみがえって圧倒されたのか、それは雄々しいはずのマリイのもしかしてあるのかもしれない国王にたいする憎しみを上回ったのか……。
  巨勢の存在が最後には霞んでしまうほどの女性讃歌である。「舞姫」にも側面として共通するものがある。


seha

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