大洋ボート

大江健三郎『万延元年のフットボール』(2)

考えてみればおれはいつも暴力的な人間としての自分を正当化したいという欲求と、そのような自己を処罰したいという欲求に引き裂かれて生きてきたんだよ。そのような自分が存在する以上、そのような自分のままで生き続けたいという希望を持つのは当然だろう? しかし、同時にその希望が強くなれば強くなるほど、逆に、そのようなおぞましい自分を抹消したいと願う欲求も強まって、おれはなおさら激しく引き裂かれた。安保の間、おれがわざわざ暴力の場に入りこむことを引き受けたのは、しかも学生運動家として、不当な暴力にやむなく反撃する弱者としての暴力との関わり方から、逆に暴力団に参加して、どんな意味でも不当な暴力をふるう立場に立ったりしたのは、このような自分をそのまま引き受けて生きたいと、暴力的な人間としての自分をそのまま正当化したいと望んでいたからなんだよ……(p302~303)


  これは蜜三郎が鷹四の同伴者の星男という少年から盗み聞きしていた話をうちあけられる場面だ。その時はすでに鷹四と蜜三郎の妻菜採子とは「不倫」関係にあり一緒に寝ていた二人の会話を少年が傍で聴いていたからだ。「不倫」くらいでは大江の小説においては驚くに値しないが、それはおいて、ここで語られる暴力とは、自分の死をたえず意識してその可能性を近づけるためにあるということだ。反体制暴力を実践することにおいても死の可能性はあり、その思想を希求するためにあえて死を避けることを厭わないという立場もとりうるが、鷹四はそうではない。ここでは「敵」は警官隊のみならず暴力団と一緒に学生に敵対することで反体制勢力をも「敵」に鷹四はまわしてしまう。そのことによって死はよりいっそう可能性として自らに近づく、近づかせたいということだろう。「敵」の存在に憎悪を燃やすのではなく、また「敵」を打倒して社会的ビジョンを構築しようとするのでもない。また死を自らにふさわしい到達点として意識するのは彼の罪責意識からくる。それならばあっさりとS兄さんのように「自殺」してしまえばいのではないかと突っ込みたくもなるが、やはり鷹四は死を恐れる。死に近づくために自らを駆り立てるもののやはりそこから引き返すことを繰りかえすようだ。

その時、おれは大きいグラスに一杯のウォッカを飲みたい熱望を感じて、はじめておれの頭を自己処罰の欲求が充たしていることを理解したのさ。おれは強い酒を飲んで酔っ払うと、相手の見さかいなしに撲り合いをはじめるからね。おれは、わざわざ黒人居住区の酒場に撲り込んで来たが奇怪な東洋人として、逆に撲り殺されてしまっただろう。しかし大男の給仕がおれの前に来た時、おれはジンジャー・エールを一杯、頼んだだけだった。おれは自己処罰の欲求を感じると一緒に、眼もくらむほど恐ろしかった。おれはつねづね死を恐れている、しかもそういう暴力的な死がもっとも恐ろしいんだ。それはS兄さんが撲り殺された日以来の、克服しようのないおれの属性なんだよ……(p304~305)


  星男の話のつづきで、鷹四がアメリカ滞在時に黒人居住区におもむいたさいのエピソードで、カウンターの向こう側の巨大な鏡に50人くらいの黒人が映っていて東洋人の鷹四をめずらし気に眺めたときの恐怖感を吐露している。これが鷹四の死にあこがれつつも同時に激しく恐れる「属性」である。
  鷹四はスーパーマーケット略奪騒動が終息に向かい始めたころ事件を起こす。読み終えた後だから腑に落ちるが、引用した会話をまるでなぞるかのようだ。鷹四が騒動に同伴している少女をレイプして岩で撲殺してしまったという。これ以後は大江ならではの血しぶきが現前するかのような残酷さで、秀逸な描写力で、読ませる。鷹四は村民にリンチされ殺されるのに値すると自分で言う。現に鷹四は指先2本を嚙みちぎられ顔も血にまみれた状態だ。だが即座にそれにつづく蜜三郎の推理というよりも断定が読者の理解を超えて(わたしにとっては)凄みがある。少女は事故死したに過ぎず、それを好機にして鷹四があえて自分の犯罪にすり替えたもので、いつわりの自己処罰と断ずる。安保でもアメリカでも自己処罰を目指しはしたもののお前は生きのこった。死に近接した行動に自分を投入することが自己処罰を希求したことの自己証明になってかえって生き延びる口実となる。つまりは鷹四の狡猾さだと指摘するのだ。おまえは決して死ぬことのできない人間だ。おまえだけではなく、人間だれしも罪責意識をそうそう長持ちさせることはできない。曽祖父の弟でさえも一揆の現場から逃亡したあげく平穏な生活に甘んじたではないかと、蜜三郎は自分の人間観も披瀝しながら非難するのだ。軽蔑どころか嘲弄であり罵倒であるだろう。蜜三郎は鷹四にたいして先に書いたように冷淡で鈍感であり、さらにここでは激しい憎しみを抱く。読者は鷹四が死んでしまうのではないかと危惧し、蜜三郎自身ももしかしたらという気にもなるようでもあるから少し異様である。「死んではならない」と言うのと「おまえは小心だから死ぬことなどできない」と言うのとでは天地の差があることは蜜三郎も自覚があるはずだから、あえて後者の物言いをするのが異様なのだ。だが、と留保しなければならない。蜜三郎の鷹四への罵倒は納得すべき部分があるにはある。
  蜜三郎に偽装工作を言い当てられて以上の会話が二人の間で交わされる前に鷹四は罪責意識の根っこになっている「本当の事」を告白する。十代のころ同居していた白痴の妹が自殺した原因は自分がつくったという内容で、衝撃的で、はじめて知った蜜三郎を動揺させずにはおかない。蜜三郎は別に弟鷹四に同情する必要はないどころか、激しく憎むのももっともな部分がある。くわえて妻を寝取られたこともあり、平穏な山村でスーパーマーケット略奪を組織して、あわよくば兄・蜜三郎を巻き込もうとしたこともあるが、そのときどきにおいては蜜三郎は鷹四に目立った非難はせず、「非参加」を決め込んで沈潜するかのようで無気力そのものにさえ見えるから、積りに積もった憤懣が最後になって爆発したと受け取るべきだろうか。それにしても、たとえば鷹四が規律違反をしたメンバーの青年をリンチする現場を蜜三郎が目撃する場面があるが、彼は弟に何一つ言わずに見過ごして通り過ぎる。こういう鷹四への接し方が蜜三郎の常態であるかのようなぼんやりとした認識を読者がもたされるので、最後になっての罵倒が異様に見えてしまうのだが。
  読者は蜜三郎よりも鷹四の人間像に魅力を感じて読み進む。鷹四のような騒動をたえず巻き起こす人間が身内に居座ることはだれでも御免こうむりたいと思わせるが、またそういう思いを蜜三郎に大江は背負わせ、反目し合う兄弟という設定が効果を上げて、鷹四の像は完成する。小説という虚構のなかでは暴力を実践する人間はその思想的環境をも合わせて掬いとることができたならば磁力となり、大江も本作で充分それを成し遂げたようだ。だがそれにしても、という思いは残る。死を覚悟した鷹四が「おれの眼をやるから」と隻眼の兄のためになかば懇願するように提案するが、兄・蜜三郎は電気に触れたように即座に断固拒否する。不浄を受け入れまいとするのだろうか、わからないでもないが、情愛が足りない気がする。「おまえはどうせ死ぬことはできない」と言う替わりに「絶対に死ぬな」と言えば直後の展開は変わるのかもしれない。多数派的と言いうる蜜三郎の反応だが、わたしには冷淡かつ卑小に映った。高望みだろうか。この蜜三郎の追い詰め方によって鷹四は劇的に死に急転直下して、小説としては衝撃度を増すことになったとはいえるが。蜜三郎という人物に食い足りなさを感じた次第であり、小説を効果的たらしめるために大江はあえて彼をそういう存在に貶めたのではないか。 
  作家としての大江はとびぬけて想像力豊富で鷹四のような暴力的人間を巧みに描出することができ、またそのような人間を愛惜する。だが生身の人間としての大江は鷹四のような人の画策する煽動には巻き込まれたくない。また思想者としての大江は非暴力抵抗運動を社会的に賞賛する。こういう関係が本作においてわたしには見えた気がする。だがこの3点セットに共感しえたのではない。思想者としての大江が蜜三郎を通してはじめてのように露わになるのが終章である。
  鷹四の運命が決したので本作はほとんど終わりだと思ったが、曽祖父の弟の軌跡が明らかになる。たいして重要事でもないだろうとわたしはあしらうような読み方をしていたが、書き手大江にとってはそうではなかった。彼は万延元年の一揆の後、敵味方の多数の死者・負傷者を見捨てて逃亡したのではなく現地の山村の某所に留まりつづけ、さらには明治4年に起こった「騒擾事件」において再び指導者として村民のなかに「仮面」を着けて登場する。そうして運動全体を非暴力的に推進して成功に導いた後ふたたび姿を消したという。曽祖父の弟は尊敬に値する「非転向者」だったというのだ。この推理をも交えた事実によって蜜三郎は、今さらのように鷹四の先祖を「模倣」!した行動はまちがいではなかったとふりかえるのだ。わたしは蜜三郎と鷹四の兄弟の物語のつもりで読んでいたので、最後になって余計な接ぎ木を加えられた気がした。清廉で立派な人物が先祖にいることはたしかに心が洗われて導きの光になるのかもしれないが、ある種の政治への安易な合流とも受け止められかねないという危惧を持った。先祖を頂点にして人々を合流させてゆるやかな集団的連帯意識を育もうとする気配を蜜三郎に嗅げないでもない。蜜三郎は平穏をのぞむあまりに鷹四や友人や妻など他者の苦痛を想像する努力を怠っていたと自省するが、作者によって種明かしを見せられた気になる。そういう人物像を小説のために自分をモデルにして作ったということだ。そしてそういう低空飛行する蜜三郎を安寧に導かれる気分にさせるのが曽祖父の弟の軌跡である。こちらの世界ではなく向こう側にある世界から光を投げかけられて救われた気分になるのだとしたら、ちがうのではないかとの疑念を抱いた。
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大江健三郎『万延元年のフットボール』(1)

万延元年のフットボール万延元年のフットボール
(1967/09/16)
大江 健三郎

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   400頁足らずの長編小説で全体が13章に区分けされているが、わたしにとって読みどころと成りえたのは1章ならびに11章以後の、語り手蜜三郎の弟鷹四の運命が急転し、やがて物語が終結にたどりつき蜜三郎によって総括される部分のみであった。その間の中盤と呼べる部分は非常に長く感じられて大江の『個人的な体験』にもまして晦渋さを加えてくる文体にも辟易させられ読みづらかった。文体にのみよるのではなく、とりあげられる事象のひとつひとつが突っ込み不足で故意に謎を残して読者を後々の展開まで引っ張って行こうとする。それはいいにしても、謎の解明の材料をその場で読者に同時に与えられるのではなく、さらに語り手の蜜三郎が「下降」志向であって眼の前の事象に深い関心を払うことを忌避しがちであり、怠惰な探偵さながらだ。また彼は夫婦関係も含めて自身の傷を凝視もしなければならならず、そのうえ謎や事象はいくつもつぎつぎと露わになっていくので、読者はそのひとつひとつを重要事かそうでないかわからないまま記憶しなければならず、終局にたどりつくまでは骨が折れ、投げ出したくなる気にもなり、退屈さは避けられなかった。
  蜜三郎は深夜から夜明けにかけて自宅の裏庭にある工事中の浄化槽の穴倉に身を置く。これが第1章である。障害を持って生まれた第一子を養護施設にあずけた。さらには英文書籍の共同翻訳者である友人が心に変調をきたして自殺した。それも顔を赤く塗って肛門に胡瓜を挿入しての縊死という異様なありさまで。この二つの出来事が蜜三郎にこのうえない憔悴をもたらし、そのような奇態な行為に走らせ、無意識の自殺衝動でもあることを彼自身気づかされることにもなる。ここにかぎっては文体の観念性が効果をあげている部分だ。蜜三郎は「熱い「期待」の感覚」をもとめて浄化槽に居つづけるがそれはかなわず、土の壁面を爪でひっかくに至る。友人の自殺の真相が探られるのではなく、以降はその事実をたえず蜜三郎がふり返らされるのみ。
  2章以降は蜜三郎と鷹四の生家である四国の小さな山村に舞台が移される。アメリカ帰りの鷹四が兄を誘って「帰郷」するのだ。生家の倉屋敷を売却するのに立ち合いを兄に要請したからであり、あわせて憔悴した兄のために故郷での「新生活」を提案し、さして気の乗らないままに蜜三郎も妻とともに同意してのことだ。鷹四は暴力的反体制運動に執着する人であり、1960年の安保反対のデモにも参加した履歴を持つ。鷹四は村の青年を組織してスーパーマーケット略奪を画策しやがて村の住民全体を巻き込むことに成功する。鷹四の念頭には万延元年(1860)に農民一揆を指導しやがて行方不明になった曽祖父の弟のことがあり、尊敬と親近感を抱いており、兄の助力も得てその足跡のさらなる詳細を探ることも宿願としている。また終戦直後の村民と朝鮮人との抗争事件において「贖罪羊」となって死亡したS次兄さんにも強い関心をもつ。(「贖罪羊」とは朝鮮人に死者と犠牲が出たために、それに釣り合わせる形で解決に導くために贖罪の意味をこめてS次兄さんみずからが死を選択する心づもりで暴力の渦に肉体を差し出したこと)鷹四のこういう関心はたとえば左翼がマルクスやレーニンの言動に強い関心と執着を払い、自らの言動の足場にしようとすることをわたしに連想させるものである。
  わたしは鷹四の人間像に興味をもって読んだ。それ以外には指摘したような退屈さでうんざりしてしまった。スーパーマーケットの略奪行動ひとつにしても、いくら雪に閉ざされ電話が不通になった小さな村といっても警官がひとりも登場しないのは首を傾げざるをえず、現実に起こりそうでない小説的寓話としか受け取れなかった。また外部への関心を積極的にもとうとしない蜜三郎が語り手であるために生々しさが排除された平板な記述にならざるをえないのだ。さて鷹四である。暴力的行動が執着の対象であるどころか、その渦中に絶えず身を置くことに彼はみずからの存在意義を見出すのは何故なのか。また彼が蜜三郎に言い出そうとしてなかなか言い出せない「本当の事」とは何かである。これは12章で明らかにされる。彼もまた痛ましいほどの罪責意識に普段から責め苛まれる青年であることが露わになり、農民一揆の指導者だった曽祖父の弟への尊敬や反体制イデオロギーのみから死に直結するかもしれない暴力に身を置くのではないことがわかる。彼がどんづまりの選択として自らに課すのは「自己処罰」としての死であるらしい。
   わたしがすぐに思い出したのは大江の『性的人間』に登場する十代後半の痴漢少年である。痴漢という犯罪行為に存在意義を措定し素裸のうえにトレンチコート一枚を着衣して電車内で大胆にやらかす。それも摘発をあらかじめ逃れうる安全な痴漢では少年の哲学からは逸脱していて、摘発されたうえ、社会的非難を一身に轟々と浴びるべき行為にかぎりなく近くなければならず、さらにそれを成し遂げてから「嵐」のような詩を書き上げることが生涯の目的だという。少年はやがて女児を誘拐して痴漢仲間のJや老人をはらはらさせながらも駅内の線路に投げ出された女児をどたん場で救助し(少年が女児を故意に投げ出したのかもしれない)自らは轢死するという流れであった。どす黒い犯罪者志願であった少年が最後に見せた救助行動で、少なからずわたしは感動を与えられたが、少年のそもそもの痴漢犯罪志願の動機が何なのか不明なことと、仲間のJや老人が少年を眩しく眺めることは当然かもしれないが、作者大江健三郎がこの少年をいかに評価するのかもわたしには今一つわからず腑に落ちなかった。作家が親近感をこめて人物像を彫琢し作品のうえに完成させるのはそれが犯罪者であっても全く自由であることはいうまでもなく、それを書いたから作家がイコール犯罪者であるなどと馬鹿なことはいわない。作品上で作家と登場人物の関係を必ず書かなければならないとも思わない。社会的衝撃をもたらすことが作家の目的の一つであってよいのだが、大江健三郎は戦後民主主義や非暴力抵抗運動を礼賛する人でもあり、生身の大江というのではなく、そういう思想者としての大江と痴漢少年や本作の鷹四との関係性を窺うことにわたしの興味は誘われた。つまりは蜜三郎は大江そのままではないにしても大江自身をモデルにした人物であるから(障害児の誕生は既知だが友人の自殺も事実であるらしい)、彼と弟鷹四との関係性が大江と鷹四との関係性にダブるのではないかと思ったからである。
   結論から言えば、鷹四の人物彫琢は十二分に成功しているのだが、そこまで物語をたどりつかせるために語り手蜜三郎を随分冷淡で鈍感な人物像にしてしまったのではないか。 

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大江健三郎『個人的な体験』

個人的な体験個人的な体験
(1994/11)
大江 健三郎

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  大江健三郎の第一子が障害を持って生まれた男性であることは大江の読者なら知るところである。そのことを題材にして生まれてからそれほどの時間を置かずにこの長編は書かれた。もっとも鳥(バード)とニックネームで呼ばれる主人公は障害児の父であるものの大江本人そのままではないことは読みすすむにつれて推測できる。障害児の親になったとしたらどうだろうか。家族にのしかかる負担はその子の人生と同じ長さの時間となるであろうから、またどんな具体的な困難が待ち受けているかもわからず、想像を絶するにちがいない。引き受けて育てなければならないという常識や義務意識は親には当然のように存在するものの、できればその子を手放したい、逃げてしまいたいという相反する意識も心のすみには、たとえ空想的であっても派生するのではないか。そのほうが楽に生きられると思えるからで、わたしも心全体のそういうありようを否定するつもりはなく、生身の大江にも子の死を願う気持ちが微細であれあったとしても不思議ではなく、非難されるべきでもないだろう。大江は子にたいする後ろめたいそういう気持ちを拡大再生産して鳥(バード)という人物に押し付け造形した。
  子の死を願うとはいったいどんなことか、また当然そこに焼き付けられるであろう罪責意識を背負わなければならず、それを傲然と確信犯的に引き受けて払拭できるのか、それともそれを引きずりながらごまかしたり緩和しようと試みるのか、鳥(バード)が選んだのは成り行き的に後者だ。子の死を願いつつ子の存在からできるだけとおざかろうとする。家族とは別のパートナーの火美子という女性とともに一時的に暮らし引きこもること、火美子との性的快楽に没入することだ。また火美子はたんに「性のエキスパート」ではなく鳥(バード)の意向を理解したうえで賛同してくれる友人として描かれ、子と家族を捨てての鳥(バード)のアフリカへの逃避行の同行も約束してくれる。主人公にとってというよりも一個人にとっての我儘を全面的に受け入れてくれる異性であり、理想という以上にこれほどの好都合はなく、架空の人物像か主人公の分身的存在であることは見抜けるのだが、それでもって小説が荒唐無稽に陥ることは決してない。これはたんに「嬰児殺し」(終わり近くではその実行に着手するところまで行きつく)という個別の出来事に限定されるのではなく、またそれが現在進行形であるか否かにもかかわらず、わたしたちが有するかもしれない罪責意識とどう向き合うか、また向き合わずにごまかずか緩和するかという普遍的命題にまで、この小説はとどいているからだろう。罪責意識をひきずりながらももしかしてそれが雲散霧消してくれるかもしれない小さな世界、この世でありながらもこの世ではない別世界がおぼろげに浮かび上がる。さみしいが甘美さもともなう、もしこういう場所があればいいなと魅了し迷わせる世界だ。
  鳥(バード)は長男誕生直後に担当医師から赤ん坊が「脳ヘルニア」であることを告げられる。脳組織の一部が頭蓋骨からはみでていて別の専門病院で手術を受けなければならず、それまでの数日間は栄養をつけて手術に備えておく必要があるが、衰弱死する可能性もある。またたとえ手術が無事成功したとしても赤ん坊は健常児ではなく「植物人間」になってしまう可能性も否定できない。そう告げられたときから鳥(バード)の苦悩と迷走がはじまる。赤ん坊は妻の手元から特別の育児室に移され、妻は子の障害の事実を知らされずに内臓検査のために子は移されたと言われて、産後の回復のためにベッドに伏している。妻に付き添う義母は障害のことをすでに知っている。鳥(バード)は必要以上に病院にはいかず、義母や医師と最小限とおもわれるやりとりをするのみだ。彼は予備校の英語の講師で、そこと病院と火美子の宅との往還の数日間。だがさらに「期待」と「予想」に反して赤ん坊は衰弱せずにすくすく育ち、これがまた鳥(バード)を悩ませる。衰弱死を願うことの後ろめたさとともに赤ん坊が生きるというこが生々しい恐怖心として彼に浸入してくる。
  性にまつわることを記さねばならない。鳥(バード)は彼の大学の同級生でありインテリっぽいところがあって鳥(バード)とリラックスして議論できる力があって、それも注目しなければならないものの、二人の性交渉のほうがより丹念により精細に大胆さをまじえて描かれる。大江健三郎は政治や社会とともに性の問題にも関心を持ちつづける作家であり、「セヴンティーン」では高校生の少年のなかで性的高揚感と政治的過激性を結びつけた。「性的人間」では原始的でアンモラルな性に着目し、それが人生の全目的であるかのような人物を造形した。これらの人物は大江その人そのままではないとしても大江の性にたいする執着をそれぞれの主題に則って拡大したものであり、この『個人的な体験』にあってもちがった主題のもとにみちびかれてそれは展開されている。ここでは男女間の親和性に性の親和性がどれほど多く資するかという主題である。もっとも火美子ははじめから鳥(バード)に親和的であるから、それは鳥(バード)にとってより切実になる。作者は鳥(バード)に託して性を解説する。性欲には大きく分けて二通りあり、ひとつは激しい反社会性をともなう。性とは異性(通常は)に惹かれて「愛」を抱くかどうかにかかわらず近づいて奪ってしまおうとする際の原動力そのもので、その距離の縮め方が一方的で暴力的であれば相手の意思は無視されるので、これはおのずから反社会性をみちびく。実践しようとしまいと心にそれは生まれ出るので誰にでもわかることで、それは政治や宗教における実践にともすれば伴いがちな反社会性を連想させるものでもある。もうひとつは少し書いたような性における親和性だ。仲良くなった男女を長く穏やかに生活させる媒介としてそれは資する。反面、性における激しさや反社会性は後退することになる。小説に書かれた言葉どおりではなく、わたしなりに引きとっての概略のつもりだ。
  ヴァギナと子宮が妊娠と赤ん坊を連想させて鳥(バード)が萎えてできないと言って弱気になると、火美子はそれなら背面からやってみてはと提案し、それが功を奏する。火美子は出血するが、鳥(バード)は反社会性を思い出すことによって攻撃的になれた。それによって鳥(バード)が回復軌道にのるとさらに通常の性交へと移行し火美子は「オルガスム」に達する。火美子にとってはオルガスムの追求が人生上の大きな目的のひとつになっている。
  「セヴンティーン」や「性的人間」は大江の性への執着という部分をさらに部分的に分割しそれを小説というフィクションのなかで拡大再生産してできた。これらは生身の大江とはかなり隔たった人物であろうから、安心して小説のなかで野放図に拡大して終結まで突っ走らせることに何のためらいもなく済んだ。ところが本作は大江の私生活と直結する主題だから、嬰児殺しを実践させるところまでは踏み込めなかったのかもしれない。家族が読むことをおそれたのだろうか。あと一歩盛り上がらずに尻切れトンボの終わり方をするので、こういうことも思ってみた。とはいえ、戦後文学の傑作のひとつであろう。最後に大江独特の文体の力が全編にみなぎっている。少し長いが、引用する。

 

 鳥(バード)は一人で車寄せに出ていった。雨は上がり、風も衰えてきていた。空に乱れ動いている雲も明るく乾いている。すでに、夜明けの薄暗がりの繭から脱け出しきった、輝く朝だ。夏のはじめらしい大気のいい匂いがし体じゅうの筋肉も臓器もぐったりする。建物のなかの夜のなごりの優しさに甘やかされていた鳥(バード)の瞳孔に、濡れた舗道面や茂りにしげった街路樹から照りかえす朝の光が霜柱みたいに硬く白っぽくおそいかかる。その光にさからってペダルを踏みつけ走りだそうとして鳥(バード)は跳躍台に立っているような気分におそわれた。確実な地面から切りはなされ孤立している眼も昏む気分。かれはクモにつかまった弱い昆虫さながらじっと痺れていた。きみはこのまま弱い昆虫さながらに自転車をかけってどこか見知らぬ土地にいたり、数百日のあいだアルコール飲料に漬かっていることもできる、といういかがわしい天啓の声を鳥(バード)は聴いた。朝の光にさらされ、いかにも不安定にかしいだ自転車の上で鳥(バード)は揺れ、次の声を待っていた。しかしその声は二度とひびきはしない。(p34~35、()内は引用者で、ふりがなの代用)


  「輝く朝」「夏のはじめらしい大気のいい匂い」が体じゅうをぐったりさせるとは、いかにも大江らしい強引な喩だが、これは病院にシステムに象徴される表向きなんの支障もなく快適そうに流れる日常社会全体への怖れと後退願望の表現だろう。夏の「朝の光」を冬をあらわす「霜柱みたい」と書くのも同じだ。さらに「いかがわしい天啓」という変な言葉づかい。読みにくいが、主人公の憂鬱さを片時も忘れずに定着させるため、降ってわいた「非日常」を描き切るために独特の文体が全軍躍動する。

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大江健三郎「セヴンティーン」

性的人間(新潮文庫)性的人間(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  十七歳の高校生の主人公が、急進的な右翼政党に入党するまでの心の軌跡が描かれる。まるで自分のことが書かれているかのような気分で読んだ。というのもわたしも高校生のとき左翼過激派に属した活動家だったからである。右も左も関係なく、その主観的な上昇の気分はほとんど同じである。もっとも大江健三郎は多分に主人公に軽薄さと少年らしい有頂天の気分を付与し、冷静さを奪っている。右でも左でも、たとえ過激派であっても、もっと冷静沈着な人物はいたにちがいないが、わたしはふりかえってみてお世辞にもそれに値する人間ではなかったので、主人公に身近さを感じた。大江はそれまでにも「他人の足」「人間の羊」等で、政治的オルガナイザーの熱情と欺瞞をたくみに描いたが、この「セヴンティーン」の主人公はそれらの前例をはるかに幼稚にし、また急進化し、暴力志向的につくりなおされたものである。大江は政治的に上昇しようとする人間の内心の不満や苛立ちや見栄を若い時代から見抜いていたのだろうが、逆にそういう人間への文学的な親近感もまた距離をとりつつも溢れかえっているようにも思える。渡辺広士の解説によると、発表は1961年1月である。
  十七歳の誕生日を迎えた時点から本編ははじまるが、なんと主人公は風呂場で「自涜」(マスターベーション)に励む。これはそれ以外にのめりこむことを見つけられずに、本人は恥ずかしさと後ろめたさを自覚しつつもやめられない常習的悪癖。これが劣等感の根っこにある。さらには家族や進学校の同級生にたいする劣等感がある。父はアメリカ的自由主義を自認し、子供にたいしては放任主義の立場だが、息子からみると冷淡に映る。主人公はそのときはどちらかというと左翼に漠然とした親近感を抱くが、自衛隊の病院で看護士をする姉の自衛隊擁護論を言い負かすことができない。学校にあっては勉強で秀才たちにどんどんおいてきぼりにされる……。家族のことはともかくも、勉強での劣等感はわたしにもあった。いくら勉強に精出してもかなわないだろうと思わせる同級生がごろごろいた。それにわたしには明確な大学進学の意志がなかったので、やる気が沸かなかったということもある。父が鉄工所を自衛していたので、いざとなればそこで働くことも視野に入っていたのかもしれない。そんなことで、わたしも主人公と同じく、高校生活は暗くて孤独な一面があったことは共通していた。
  主人公は学力テストの日に遅刻してさんざんな成績に終わる。さらにその日の午後に行われた体育テストでは、八百メートル競走で小便を垂らすという大失態をやらしてしまう。黒々とした跡を運動場に残すのだ。当然、教師や同級生の嘲笑の的になる。だが「新東宝」とあだなされる勉強も比較的できて人気者の同級生から「《右》のさくらをやらないか」と呼びかけられて、主人公に転機がおとずれる。「皇道派」代表の街頭演説に参加すると日当がもらえるというのだ。普段冗談を言ってクラスの連中を喜ばせる「新東宝」の意外な面を知るどころか、彼の真剣なへりくだった眼差しに接して、主人公は孤独感を癒される気がする。さらには「新東宝」への優越感さえ生まれてくる。これも即座に納得できる。自分が思いがけなく「個」として尊重される場面に出会うことがなにかしら貴重に思えてきて、手放したくない気にさせられるのだ。わたしも先に組織に属していた人から誘われたときには、そういう気になったものだった。
  そして主人公をうちのめすように「回心」に導くのが「皇道派」逆木原国彦の演説である。その第一印象は「ひどい」もので、だれ一人聞いていないにもかかわらず、熱狂して怒号をくりかえすというしかなかったのだが、世界にたいする「敵意と憎悪」がしだいに自分の肉体に乗り移ってくる。

いつも自分を咎めだてし弱点をつき刺し自己嫌悪で泥まみれになり自分のように憎むべき者はいないと考える自分のなかの批評家が突然おれの心にいなくなっていたのだ。おれは傷口をなめずっていたわるように全身傷だらけの自分を甘やかしていた、おれは仔犬だった、そして盲目的に優しい親犬でもあった、おれは仔犬の自分を無条件にゆるしてなめずり、また仔犬のおれに酷いことをする他人どもに無条件で吠えかかり咬みつこうとしていた。しかもおれは眠いようなうっとりした気持ちでそれを行っていたのだ。そのうちおれは夢のなかにいるように、おれ自身が現実世界の他人どもに投げかける悪意と憎悪の言葉を、おれ自身の耳に聴き始めた。それを実際に怒号しているのは逆木原国彦だ、しかしその演説の悪意と憎悪の形容はすべておれ自身の内心の声であった、(P166)


  このように政治的アジテーションが主人公に感銘を与え,同心一体の境地にまでひっぱりあげてしまう。ここまで一気に急上昇してしまうものなのか、多くの人に共通はしないであろうが、孤独感などの飢えを意識する少年にとってはありうる、それが感動であり快感であるということは確かな説得力がある。はじめのほうで記したが、本編は1960年の安保闘争の約半年後に発表された。その大きな渦のような混乱さめやらぬ時期であっただろう。その頃からか、政治運動は大衆化した。テレビの普及によってその行動の派手さがひろく伝えられるようになり、関心もそこにより多く注がれた。わたしも安保のデモ隊の残像が事態が終息した後もながくあった。主人公もまた右翼の演説の攻撃性に圧倒されるのだ。政治的関心といっても文献をこつこつ読み漁ってから参加するというのではなく、たとえ錯覚であったとしても最初に受けた視覚やら聴覚から流入してくる感動を起点して入っていくのだ。のちに文献にあたったとしても、その「感動」を手放すことはないから客観的視座は減殺される。
  主人公にとってはもはや勉学の遅れをとりもどす努力をかさねて親を喜ばすという選択肢はない。同級生との距離をちぢめるよりも《右》の正統性により近づくことで、劣等感を霧散させようとする。主人公に言わせれば「私心を捨てる」ことだ。その根っこにあった「自涜」でさえ、そこからとおざかろうとはせずに逆にその快感を最大の快感として、天皇に直結させることもする。有頂天で盲想のきわみであったとしても少年にとっては真実にちがいない。逆木原に勧められてトルコ風呂(ソープランド)に右翼の制服を着用したまま行って、ことに達する場面。
 

 おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは激烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下! 燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、ああ、おお! やがてヒステリー質の視覚異常から回復したおれの眼は、娘の頬に涙のようにおれの精液がとび散って光っているのを見た、おれは自涜後の失望感どころか昂然とした喜びに浸り、再び皇道派の制服を着るまでこの奴隷の娘に一言も話しかけなかった。それは正しい態度だった。この夜のおれの得た教訓は三つだ、《右》少年おれが完全に他人どもの眼を克服したこと、《右》少年おれが弱い他人どもにたいしていかなる残虐の権利をも持つこと、そして《右》少年おれが天皇陛下の子であることだ。(p180)


  本短編は一方通行である。いくら政治的信条を堅固にし頑迷にしようとも人は弱いもので、孤独や挫折に見舞われることがほとんどではないか。折り返し点を通過してのち、ふたたび人は政治などの大きな舞台から自分を観念的にでも切り放して自分を見つめる事態に遭遇するはずだが、そこまでは描かれない。ただ、これは本編の欠点ではなく、「政治少年死す」という続編が書かれてそこに委ねられていると聞くが、発売禁止の措置がとられたままだという。

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