大洋ボート

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(6)

ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
(2011/03/11)
ジョゼフ・コンラッド

商品詳細を見る

  いま思うと、私は概して、彼女の姿をろくに見ていなかった。一番よく覚えているのは、むらのないオリーブ色の、血の気の薄そうな顔の色艶と、濃い藍色の髪の輝きだ。形のよい頭部の思いきり後ろにかぶった、小さな深紅の縁なし帽の下から、豊かな髪がたっぷりと流れ出ていた。しなやかな身のこなしは自信にささえられ、はにかむと頬は浅黒い赤に染まった。ジムと私が話していると、私たちの方に何度も素早く視線を向けながらそばを行ったり来たりした。彼女が通り過ぎて行ったあとには、優美さと愛らしさの印象と、いかにも抜かりなく気を配っている感触が残った。物腰には内気さと大胆さが不思議と混じりあっていた。可憐な笑みがひとつ浮かぶたび、なにか恒常的な危険を思い起こして笑顔があわてて逃げ出したかのように、無言の、不安を抑えつけた表情がすぐあとに続いた。時おり、私たちと一緒に座って、その小さな手の指関節で柔らかな頬を凹ませながら私とジムの話に耳を傾けることがあったが、そんなとき大きな澄んだ瞳は、あたかも発音された一語一語に目に見える形が備わっているかのように終始私たちの唇に向けられていた。読み書きは母親に教わっていたし、ジムから英語も相当学んでいて、ジムと同じ少年ぽい弾むような抑揚で喋る英語は何とも愛嬌があった。彼女の優しさが、翼がはためくようにジムの周りに浮かんでいた。いつもジムを見つめ、ジムを想って生きているせいで、ジムの外見の特徴までいくつか染み込んでいて、腕を伸ばす、頭を回す、眼差しを向けるといった仕種に、どこかジムを思い起こさせるところがあったりした。その油断怠らぬ愛情には、ほとんど五感で感じ取れるような烈しさがあった。愛情が現実に、周囲の空間に存在しているように思え、風変わりな芳香のようにジムを包み込み、震え気味の、抑えられた、しかし情熱を秘めた音色のように陽光の中に留まっている……そう思えた。(略)自分の力が有する自由、まさにその自由の中にジムは囚われていたのであり、彼女は、必要とあらば自分の頭を足載せ台として差し出す用意はあっても、己の征服したものを頑なに、あたかも彼を我が物に保つのが困難であるかのように頑なに見張り、護りつづけた。(p306~308)

  
  恋愛初期の甘い気分にひたされた女性の描写でもあるだろうか。その部分が私にはすぐに飛び込んでくるのだが、それはそれまでの船の難破といい戦争といい、あまりに厳しく激しい場面ばかりに読者がつきあわされてきたからだろう。ジムの暫しの幸福にここへきてほっとした思いに浸ることができる。また語り手のマーロウが中年であることが、若い女性の甘さやみずみずしさに自然に引き込まれて、引き出すことにもなるだろう。だがよく読んでみると、ジュエルには甘さよりも真摯さや峻厳さがより強く支配する気配が充満している。ジムを絶対に手放さない、傍から梃子でも動かない、さらにもっとジムに近づいて身体ごと一体になり遂せてしまいたい、ジムをもっと知りたい、学びたい、という欲求がひたむきなものであることがわかる。しかもそれによって心が不安定に傾くことはなく、うちつづく緊張状態のなかにあってかえって自信をみなぎらせている。自分の意思だけではなく、ジムから返って来るものが大いに補助して、それを作り上げている。恋愛ではあるが、甘さだけを受け取ってはならず、読者は凡百の若い女性とジュエルを同一視してはならないことを教えられ、身を引き締めなければならない。
パトゥザンの人々はすべてジムを崇め祭るが、その最たる存在がジュエルであり、ジムはそれをまさに空気のように日々感じている。マーロウのジムにたいする第一印象と同質のものをジュエルもジムに抱いたのだろうが、無論それにとどまらない。義父のいじめから救ってくれた、戦争にも鮮やかに勝利したという実績がジムにはある。つまりジムは「男の中の男」であり、そういうジムと結婚できた女は幸福にちがいないが、ジュエルは幸福に酔い痴れることはなく、ジムを屈強な護衛としても身を挺して護ろうとする。またジムの身に危険がリアルに迫っていると感じたときは、単身での島からの逃避も提案するくらいだ。つまり最も愛する人との別離も厭わない気構えで、恋のエゴからかけ離れている。ジュエルはそれまでの生のなかにあって、ジムとの二人の関係を築いたことで至福の頂点にある。ふくよかで暖かく、しかも緊張と恐怖を強いられる至福の頂点に。たぶんそういう自分自身の心身の状態が未知で不思議であるにちがいないので、ジュエルは今ある状態をもっと知ろう、理解しようともするのだ。それがまたジュエルの愛をいっそう充実させる。
  ジムを護ろうとする気構えもそれにつれて高まっていく。甘さだけ言うのではないが、ジュエルの仕種にジムと類似した点をマーロウが発見するところなど、ジム以外に眼中にない、いかにも恋愛のさなかにある女性だなと思わせてうならせる。女性とは、恋愛とはこういうものなんだなと貴重さと懐かしさを覚えずにはいられない。だが引用した個所の省略した部分で、マーロウは「若さをめぐるちょっとした印象」「醒めた印象」だとわざわざ断っている。一読して意外だが、理はとおる。ここではたいへん好ましい二人の関係を描き出して読者に「芳香」を嗅がせるものの、「芳香」の奥には別のものがある。ジュエルは幸福感にそう長くは浸れない。ジュエルの観察力はやがてマーロウの見たものと同じジムの核につきあたることになる。
  ジュエルはパトゥザンの人々と同じく「白人はやがて故郷に帰る」存在だという疑いを持つが、ジムもマーロウもそれを否定する。ジュエルはそれでも納得がいかない。すべての女性がそうではないとマーロウは断った上で、ごく一部の女性の持つ愛情に基づいた観察眼とそれにつづく一途さを称揚する。無論ジュエルが念頭にある。男女の愛情関係の理想がお互いに愛し合うことで高めあい、さらなる幸福を勝ち取ることにあるとするならば、ジュエルはついにそれを実感することができずにかえって孤独とたまらない寂しさにうちのめされる。愛情のボールをいくら投げてもジムからは満足した返球がないことを、上辺よりも奥の方で、ジュエルは痛切に感じてしまうのだ。ジュエルやパトゥザンの人々との間に築かれた平和や絶対的にもみえる相互信頼関係も、実はジムを満足させない。ジュエルはそれを知り、さらに、ジュエルは自分がジムにとって<二番目の存在>であることをついに知ることになる。ジムはパトナ号事件のことをいまだ忘れられない。恥と屈辱が焼きついていて、おそらくは「死への心の準備」を日々自分にひそかに課している。ジムはそれについては一言も語らないから、ジュエルはその概略さえ知らないままにジムの暗い核につきあたるのだ。それでもジュエルがジムから離れないのは勿論であるが。
  マーロウはパトナ号事件やジムとジュエルの関係において当事者ではないから、受容する深刻さはおのずから二人よりも下回る。それを知っているからこそ、さらに彼らの内奥を知ろうとする。その情熱の貪欲さが、対話や対面においてつかまれた印象を細大漏らさず語りつくそうとする。マーロウの「語り」は現在進行形ではなく回想にはちがいないが、即座に語らなくてはたちまち消失してしまうのではないかという焦燥に駆られるようにみえる。あわてるのだ。だからこそ、語り終えようとしたときに、これは書きすぎた、誤った印象を与えるのではないかという危惧が芽生え「若さをめぐるちょっとした印象」「醒めた印象」というように微修正する。作家が客観描写の形式で、ジムやジュエルの内部に亡霊のように入り込むのではないから、読者は彼らを直接知ったつもりにはなれない。マーロウが対面し対話しそして印象を語る、外部から見られるその表面から、読者はマーロウの助けを借りて想像力をはたらかせながら、ジムやジュエルの内奥に肉迫できる。私たちはあたかもマーロウとともにその場に居る気分に支配される。

  私は言葉を切った。パトゥザンを包む静寂はおそろしく深かった。どこか川の真ん中でオールがカヌーの船体を打つ、弱々しい乾いた音が、静寂を無限にしているように思えた。『なぜ?』彼女は呟くように言った。烈しい取っ組み合いの最中に感じる類いの憤怒を私は感じた。亡霊が私の掴んだ手からすり抜けようとしていた。『なぜ?』彼女はもう一度、もっと大きな声で言った。『教えて下さい!』。私が面食らったままでいると、彼女は甘やかされた子供みたいに脚を踏み鳴らした。『なぜ? 話してください』。『知りたいのか?』私はカッとなって言った。『はい!』彼女は叫んだ。『十分いい人間じゃないからさ』私は残酷に言った。(略)と、彼女の指が私の前腕を掴むのを感じて、私は初めて、彼女がさっきからずっとすぐそばにいたことに気づいた。声を荒げることなく、彼女はその声に、底なしの痛烈な軽蔑と、憎悪と、絶望とを投げ込んだ。
 『あの人もそう言いました……嘘つき!』
  最後の一言は、地元の方言で私めがけて叩きつけられた。『おしまいまで聞いてくれ!』私はすがるように言った。彼女は震える息を抑え、私の腕を放り投げた。『誰も、誰一人、十分いい人なんて居ないんだよ』私はこのうえない真剣さで切り出した。彼女のすすり泣き混じりの荒い息が恐ろしいほど速まるのが聞こえた。(略)(p345~346)

  
  ジュエルのジムにたいする疑いが決定的になったときのジュエルとマーロウの対話である。引用した部分の前で、マーロウは、自分はジムを白人の世界につれもどすつもりはないし、白人世界も誰一人ジムを必要とはしない、勿論ジム自身も戻るつもりはないと言明する。ジムの愛を必要とするのはあなた以外には存在しないのだと。だが、それでは答えにならない。ジュエルはジムの恐怖心とその追憶の繰りかえしについて知り、その重さによってついにジムがジュエルに全面的に心を向けないことを、まさに空気として感じてしまう。毎日が息苦しいのだ。これは善政の恩恵をこうむるパトゥザンの住民には無縁の、夫婦ならではの苦痛だ。おそらくはジュエルはジムが遠からず自分の前から姿を消すことを直感する。ジムの恐怖心とは無論パトナ号事件にあるが、ジュエルはその詳細を知りたいのではない。またジュエル自身に愛にまつわる責任があるとは金輪際思わない。ジムが何故そういう動かしがたい傾向を持つのか、ジムとはどういう人間なのか、それをジュエルはマーロウに問いただすのだ。対して『十分いい人間じゃないからさ』がマーロウの答え。憤怒をともなって思わず吐き出してしまう。マーロウにとってはジムは「いい人間」ではあるが「十分いい人間じゃない」と言うしかない。正直な、バランスを考えた物言いだろうか。そうでもなく投げやりな印象がもたらされる。ジュエルにとっても勿論、読者にとってもマーロウがジムを露骨に軽蔑する言葉をここで初めて聞かされる。ジュエルにとっては「十分いい人間じゃない」こと即ちジムは「悪い人間」となり、このことはマーロウも知り尽くすところだ。
  ジムは勝利よりも敗北に、成功よりも失敗に執着する人間である。あれこれ思い悩む恥意識の強固な青年である。ましてやパトナ号の一件から数年ほどしか経過していない時期だ。ジムに融通を利かせる能力があれば、ジュエルに対しても別の対応ができるのかもしれない。しかしそうなるとジムはジムでなくなる。裁判からも逃亡したかもしれないし、職場から突然姿を消すこともなかった。ましてやはるばるとパトゥザンにやってくることもなかったのだ。
  このあと小説は新たな展開を見せるが、概略を紹介することは控えたい。ただジムはジムの運命をみずからの手で作り上げることになり、小説としてもジムの人間像がそこで完成する。長編小説とは、その多くが意外な結末が待ち受けていてここでも十分に衝撃的であるが、ふりかってみるとジムという人間にとっては当然の成り行きであると納得できる。そしてマーロウである。ジムに対して、その強固な思いに共感する部分も多くありながらも、疑念や肯ずることができない部分もあったにちがいないが、また何人かの人にジムについて相談をもちかけることもあるが、マーロウ自身としてのジムに対する意見表明が少なすぎる気がするのだ。特にジュエルの一件などは、ジムのこだわりを一切捨てさせて二人しての逃亡を提案してみても決して不自然ではなかった。それこそジムに対するとともにジュエルに対しても親心となったはずだ。
  マーロウはみずからの若い時代は語らず、半分はその空白を埋めるかのように、あとの半分は自分の若い時代としては考えられない異物か棘のようなものとしてジムに接し、援助し、併走して生きた。若さの持つみずみずしさや切迫感と中年のもつ落ち着きと妥協、そしてできるだけ前面に出まいとする姿勢との対照性だ。若さへの共感と反発をなつかしさをときには伴ないながら感覚し、それでものめりこむことなく、単に控えめというだけでなく、一歩後ろに下がって同じ対象を眺め返すという客観的視座をマーロウは持っている。このように、特異な青年と、彼への度が過ぎるほどの興味を持ち、かつ援助を惜しまない中年男という構図であれば、現在の物語としても十分に問題を投げかける。しかし、それだけでは少数の個人同士の世界になりかねない狭さが意識されるのではないか。そんな思いもあってか、コンラッドはマーロウではなく、彼の友人を後半にやや唐突に感じさせながら登場させて意見表明させている。白人全体の有色人種(アジア、アフリカ人)に対する倫理が確立されていないのだと。ジムが孤独裡に考え決断しなければならなかったのも、そういう大きな背景があると指摘したいのだろうか。白人対非白人の問題は現在まで引きずられていそうだが、この小説が出版された1900年という時代を考えると、その頃ようやくのように白人の暴力と植民地支配の関係が、大いなる問題として、白人自身によって意識されはじめたのかもしれない。パトナ号の乗客がアジアのイスラム教徒であったことを思えば、船長のあるまじき行動をうながした一因として、そういう倫理にたいする全体的な無意識があるのかもしれない。
   (了)

スポンサーサイト
    10:33 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(5)

  裁判が終わってからのジムはマーロウの尽力によって見つけ出され紹介された職場を転々とする。精米所であったり、船具店の「船長番」と呼ばれる職種であったりするが、どこにおいてもマーロウが見込んだとおりの働きぶりで雇用主を喜ばせるどころか、それ以上に彼等に青年のもつ輝きを思い出させて感動を与える。「彼にはまだ朝露がついている」とある人は言うくらいだ。だが同時にがっかりもさせる。元パトナ号船員で有罪判決を受けた男だという素性が知られると、たちまち姿をくらますのだ。パトナ号事件はイギリス本国は元より、ヨーロッパ、アジア太平洋地域の船員や港湾関係者にとってたいへん有名な事件となっていて、彼らの話題に上らないことはなかった。彼等はマーロウをはじめとする人々と同じく、ジムを非難するよりも同情的であったと思われるが、ジムにとってはそれを知られることが耐えがたかった。ジムにとっては鋭意努力してせっかく築き上げた輝かしい信頼関係が、ガラス細工のようにもろくも壊れてしまう、一点の曇りが生じてしまう、そのことが耐えられなかった。周囲の人々の誰よりもジムが事件をいちばん気に病んでいた。 
  マーロウはこれにはがっかりさせられるようだ。なるほど、ジムは勤勉で知恵もはたらき勇敢で、しかも礼儀正しいという側面では、マーロウの第一印象そのままで雇用主をも満足させたのだが、あまりにも「繊細」なのだ。人生において恥を考えることは重要にはちがいないが、考えて気にして立ち止まってしまうと前に進めなくなる。恥を帳消しにするために大急ぎでできることなんて無い。良い意味でのいいかげんさが必要で、恥を心のなかで転がして長くつきあっていく。そこそこは粗野で鈍感なほうがいい。もっと粗野ならばジムを悩ませるような問題にはならない、笑い飛ばせるくらいになる。ましてや、自分の経歴が人々の記憶から跡形なく消失してしまうようなまっさらな人生などこの世には存在しない。完全無欠の信頼関係をジムは築きたいのかもしれないが、早急にそれを実現しなければ耐えられないというのは贅沢でもある。その追求力がジムにおいて並外れていたとしても。
  マーロウはジムを援助することに懐疑的になる。マーロウがジムを買うのはその行動力とともに独特の純粋さである。だがどれほどの年月においてこの純粋さが保たれるのか。マーロウは船長の経歴が長いからさまざまな若者を見てきた。彼等が年月を隔てた後マーロウの前に現れたとき、マーロウはその変貌ぶりにひそかに落胆させられたこともあったようだ。その詳細は書かれないが、私にはこれは生活の窮状が深くからんでいるように思える。いくら主観的に純粋であっても、生活を維持するためにたとえば寝る間も削って長時間労働を長期間余儀なくされるのならば、しだいに純粋さは抜け落ちるのではないか。マーロウはジムにたいする評価はともかくも、ジムにおける純粋さを長く保たせたい、保ってもらいたい、という願いがあって援助するのだと私は見た。純粋さ、鋭敏さ、そして熟慮、そうしたものを維持しつづけるためには何よりも生活の安定が基盤になければならない。マーロウが知り合って気にいった若者にたいするいわば親心であり、この小説の好きな部分だ。
  せっかく紹介した職場をジムは逃げ出すのだから、マーロウにとっては不快にちがいない。それどころか、援助をよけいなお節介ではないかと迷いもするのだ。独立心の強い青年だから、思いのままにさせてやればよいのではないかと。さらにたとえば危険な場所に出かけていって結果遭難死するのも、それはそれでジムの選択だからいいのではないかとさえ見なす。援助が援助としてではなく、かえってジムの人生を歪めているのではないかと、なかば投げやりになる。現にマーロウは、チェスターという山師から糞化石(グアノ)の採掘のために人を募集している最中であることを聞かされるのだが。そこは接岸が困難で滅多に雨が降らない、したがって水の確保が覚束ない文字どおりの南海の孤島だ……。結局マーロウは、迷いながらも「友人」ジムへの援助を続行する。乗りかかった船ということか。中断を決意させるほどの失望ではなく、まだまだジムを見込むのか、ジムという特異な青年の一部始終を見届けたいのか、それがマーロウなりの冒険心につながるのか、それとも彼等が深い絆でつながれていることをマーロウは自覚するのか、読んでいて、これという理由が私には見つけられないが、マーロウ自身でも判然としないのかもしれない。親心や友情と呼ぶべきつながりは底に流れているにはちがいないが。
  ジムの希望どおりの住むべき場所があるならば、パトナ事件がまったく知られていない地の果てしかない。そこでマーロウはアジア太平洋地域で広く交易を営む会社のオーナーであるスタインにジムについて相談を持ちかける。スタインはジムに非常な関心を寄せまた好意をもって居住地を提供してくれる。スマトラ島のパトゥザンという町で、河を遡った奥地にある。「スタイン協会」の現地所長コーネリアスという男がそこに居座っているが、横領などの噂のある人物でゆくゆくはジムと差し替えたいとのスタインの腹積もりである。ジムはマーロウにそれを聞かされると欣喜雀躍し、単身でパトゥザンに乗り込んでいく。スタインの友人で地元現地人の有力者ドラミンという人物を頼りにして。スタインの紹介だからというだけではなく、ジムはここでも好印象をふりまいてドラミンの勢力に歓待される。
  当時のパトゥザンにはかつて居住していた白人の勢力は引き払っていた。また政治的に不安定で、二、三の勢力が割拠した状態で経済活動のもつれから殺し合いさえ頻発していた。そこでジムは元船員の知識もあって軍事顧問となって大手柄を挙げる。シェリーフ・アリというゲリラ勢力の根拠地の山に大砲をぶちこんで追放するのだ。この方法が現地人には思いつかないアイデアで、谷をはさんだ山にケーブルを設置して多数の人力で大砲を引き上げるという作戦を実行する。発砲とともに襲撃をかけ、ゲリラの基地はあっという間に壊滅し、シェリーフ・アリの勢力は逃亡する。以後、白人崇拝主義も根底にあることもあってジムは「トゥアン(閣下=英語では「ロード」)・ジム」と人々に呼ばれて尊敬と崇拝を一身に集めることになる。ドラミンを中心とした勢力によってパトゥザンは平和と秩序が回復される。前後してジムは間一髪でシェリーフ・アリの勢力の襲撃から逃れるが、ジュエルという若い女性が身を挺して彼を守ってくれる。
  パトゥザンでのジムの行動は、マーロウが見込んだとおり大胆不敵で、命知らずであることと幸運にも恵まれたことで、成功を勝ち取ったと理解すればよい。だがマーロウにとってはジムはこのままでは終わらない、平穏無事に済めばよいとは願うもののそうはいかないだろうとの予感がある。パトゥザン周辺の自然や人々のちっぽけな営みの描写に厚みがあって、マーロウの心理が二重写しされるが、少し退屈か。現代風のいわゆる海洋冒険小説ならば、船の難破なり戦争なりの細部をもっと拡大して、映像を読者にわかりやすく提示するのだろうが、私の読解力を棚にあげるとそれも全般的に不足するきらいがある。それよりもパトゥザンの章でもっとも心惹かれるのはジュエルである。ジムとはちがった意味で純粋さを奇跡のように保って、<ああ、こんな女性がこの世には居るにちがいない>と読者にさわやかな感動を与えてくれる。その思いは語り手マーロウのとってもまったく同じだ。作者がジムとジュエルを客観描写の形式で叙述するのではなく、マーロウの熱い思いがフィルターとなってジュエルを手放しで賞賛する。その肩越しにジムの姿もくっきりと映る。マーロウ描くところのジュエルの第一印象は、マーロウのジムにたいするそれとかさなるのだが、のちにマーロウにとってジムは理解と承服の不可能な核をさらけ出し、マーロウにおおいに困惑をもたらすのだが、ジュエルにたいする賞賛はその後も一貫する。哀れみと同情が増すことはあっても、理解しがたい核をジュエルに発見することはなく、どこまでも透明だ。
  ジュエルはアジア人女性と白人との間に生まれた混血らしく、実母はのちにコーネリアスと再婚する。つまりコーネリアスはジュエルの義理の父であるが、その関係を盾にとってジュエルを傍に居させ虐待に近い扱いをしていた。それをあっさりとジムは救い出し、ジュエルもまた前述したようにジムに協力を惜しまなかった。二人は当然のように結婚する。
    21:12 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(4)

  ジムは船に最後まで残りたいという最終的意志を自ら裏切ったのだが、それだけではない、何もしなかったのだ。乗客に船の危機を知らせることや隔壁につっかい棒を設置すること等だ。それも思い浮かんだが「千に一つもチャンスがあること」が必要であり、また乗客をいたずらに怯えさせることにもひるんだ。しなければならないことを必死で考えたが時間が足りなかった。もし時間があったとしてもあのとき何をすればよかったのか、いまだに正確な答えが導き出せない。こういうことを口を酸っぱくしてジムはマーロウに語る。
  裁判が念頭にあることもある。何らかの救助活動をしていれば裁判に有利に働いたのかもしれない。逆に船が危惧したとおりに沈没していたならばジムはもっと重罪に処せられたかもしれない。せめて船長がああいう体たらくでなく的確な判断をし船員に命令していたならば、当然事態の推移は変わっていた。ジムが何もしなかったのはそれほど責められるべきなのか、ジムはマーロウに問いかける。これは別の論点だ。船に残るべきだったとしても、すべきことは何もなかった、何もしないことこそが正しかったと、ジムはマーロウに向かって主張する。読者としては混乱しそうだがここはよく腑分けしなければならない。実際にパトナ号の現場にいたジム、何もできないまま結局は逃亡してしまって悔やむジム、対して後になって自分を評価し「正しい」部分もあったと主張するジム。ここではジムの二つの人格を見る必要があり、そうしてジムは後者の人格に比重を置きたがっている。しかしその人格なるもの、いかにも俄か作りで怪しい。対してマーロウはたじろぐ。マーロウは答えをもたないからだ。ジムと同等の切迫感を有しないからでもある。

  何語か言うたびに彼はせわしなく息を吸い込み、私の顔にせわしなく目をやった。苦悩に苛まれながらも、自分の言葉が及ぼす影響を見ずにいられない様子だった。彼は私に話していたのではなかった。私の前で、見えない人格と議論を戦わせていたのだ。――己の中の、自分と敵対する、しかし不可分の相棒、己の魂を等しく所有しているもうひとつの存在を相手に。(略)彼が求めていたのは同胞であり、助けてくれる人間であり、共謀者だった。私は自分が巧みに巻き込まれてしまう危険を感じた。ごまかされ、目を眩まされ、罠にかけられる、事によると恫喝されるのも同然の形で、取り憑いているすべての幻影に(正当な権利を備えたまっとうな幽霊から、独自の切迫さを備えたいかがわしい幽霊に至るまで)公平たらんとしたら判断などおよそ不可能な論争において、はっきりした役割を引き受けさせられてしまう危険を私は感じた。君たちは彼を見ていないし、彼の言葉にしても又聞きで聞くしかない。そんな君たちに、私が感じた気持ちの複雑さは説明しようがない。私は何だか、想像しえないものを把握し理解するよう求められている気がした。そのような気持ちの居心地悪さに匹敵するものを私は知らない。(p103~104)



  ジムはここでパトナ号上で何もしなかったことをやむをえなかったと弁解するのみではなく、それ以上に「正し」かったと強く主張するのだ。これにはマーロウもひるむ。裁判で有罪判決を下されるであろう被告を無罪だと擁護することに等しいからで、ジムに賛意を表明した瞬間からマーロウは、たんに傍観者や同情者という立ち位置から滑り落ちてしまう。もっと深入りしなければならなくなる。だがそれくらいのことならマーロウも覚悟はできている。ジムを援助したい気持ちはジムが有罪になっても変わらない。問題は<何もしなかった>ことが後になってやむをえなかったと結論付けられたとしても、それが現場=パトナ号上でどれだけ考え抜かれた実質のものだったかということだ。そこには「正しさ」が少しは根を下ろしていたにしても、恐怖や無力感にも裏打ちされていた、ジム自身がそう語っているので、まさにそれだからこそ<何もできなかった>ことが大部分ではないか。これを後からふりかえって全面的に「正しかった」とするのは、弁解という以上に詭弁であり、虚偽とさえいえるのではないか。別人格を前面に押し出してきて、自分の体験の実質を作り変えるのではないか。「正しさ」のひけらかしになって結果、他者の自分への理解を根本的に塗りかえる、そういう意図がジムのなかに働いているのではないか。
  ただ、裁判は裁判特有の言葉と形式で進行するので、そこで被告としてのジムが少しでも有利になろうとすれば、こういう後付の「正しさ」でもって弁論を展開することも許されるという観点はある。マーロウの年齢であれば、こういうことの理解も困難ではないはずだが、うぶなくらいに驚きを見せる、ここも押えないといけない。マーロウがジムに勝手に幻想していたのは正直さではないか。虚偽を述懐することを忌み嫌う潔癖さではないか。現にそれまでは、ジムは激しい悔いとともに、マーロウに自己を正直に語っていたので、マーロウもその内容に驚嘆しながらも得心はしていたと思われる。それがここへきて、いきなりのように見える方針転換で、しかも付け焼刃よりも力強さの印象がまさっている。この青年はいったい何だとマーロウは感じざるをえない。
マーロウを怖れさせ悩ませ、またいぶからせるのは若さの持つ傲慢さであり、図々しさだ。切迫感をみずから創りだして味噌もクソも一緒にしてしまいかねない挑戦性、攻撃性だ。ジムは自分のなかの「もう一つの存在」「助けてくれる人間」としての自分に議論していたとマーロウは言う。相手がその言葉にどういう反応を示すか気にしながらも、四の五の言わせない勢いのほとばしりがそこにはある。冷静な客観的観察においてもマーロウのこの印象は導き出せるのかもしれない。だがそれ以上にマーロウはジムに吸い込まれるように若い時代に舞い戻っているために、その時代の自分の感性に浸っている最中であるために、観察としてよりもより生理として直観するのだと思う。妖しげな若さにたいして、中年男のなかの若さが生々しく反応し、自分でもぞっとする。このあたりのジムとマーロウの掛け合いの魅力の部分だ。<若いマーロウ>にとってはジムはいわばカリスマと化しているのだ。ジムの勢いに魅せられて説得されたがっている自分がいることに気づいて逃げ出したくなる、逆にもっと傍に居つづけたいという気持ちも消えない。ジムにそこまでの意図はないだろうが、マーロウは「恫喝」された気になってしまう。理解の直前の生理的反応で、これは勿論不快だが、反面愉快でもある。若さはより強烈に見える別の若さに無意識裡に引き込まれるからで、それにともなう怯えが「恫喝」された気にさせる。
  若さといっても生理的年齢のみをさすのではない。ジムに代表される特異な若さの持つ傲慢さだ。自分ひとりの力を恃むことにおいて過剰であり、自分の「正しさ」を何処までも押し通そうとして妥協を嫌う。広げて言えば、他者とは、世界とは、自分という人間が完成体であるならばその未成熟さのあらわれの群れであり、他者を自分の意見や世界観に容易に引っ張りこめるように映る。他者にたいしてそれを為すことが世界を改変することにつながる。世界を変えることは容易であり、世界は青年にとっては小さいと挑戦的に思いこみたい。ジムにとっては「正しさ」は観念であるとともに恋情である。またそういう若さには虚偽が虚偽として意識されないまま入り込む素地が十分にある。
  マーロウにとってはせっかく暫し浸ろうとする若さであるが、ジムの言説における若さはマーロウを当惑させ、判断不能に陥らせる。ジムがパトナ号上で見聞し、考え、行動したことが今日の「正しさ」に如何につながるのか、その詳細をマーロウはたどり返すことができない。ジムが嘘吐きという疑いも残るが、裁判への戦術的対応を除くと、ジムは未来に「正しさ」を据えてそこに近づき、新たな自己を獲得しようとしていることはどうやら嘘ではなく、生真面目であるならば、そこに注目し擁護してもいいのではないか。だがジムはジムとして独立した人格にちがいない。マーロウは噛み砕くことができずに押し返される。「私は何だか、想像しえないものを把握し理解するよう求められている気がした。」若さに魅惑されるマーロウはまたその不可解さをも理解できる、若さから一歩身を引くことができる中年男でもある。この長編小説は、ジムの物語であるとともに、こうした若さとのあいだを往還し、観察し、あれこれ言葉を投げかけるマーロウの物語でもあるのだ。
  若さ全般ではなく、ジムに代表される若さにたいしてマーロウは懐疑的で恐ろしくもありながら魅惑されてもいる。ジムの「正しさ」の奪回と挑戦は虚偽や飛躍をともなわなければ成立しないものかもしれない。そういう若さをまさに自分の若い時代に突き詰めたことのないマーロウであれば、二十歳以上の年齢差のマーロウであれば、ジムの内的過程を追体験できないまま、いきなりジムの強弁をつきつけられて感動と混乱を強いられる。そうしてジムの行動力を高く買いたい思いはマーロウのなかでは消失はせずに、今後のジムを見守るべく友人になった縁を手放さずに多大な援助を差し向ける。
    10:35 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(3)

  ジムはたんにパトナ号難破時のことを回顧して語るのではない。ジムの現在において生起した熱情や意志を持って語るので、大いにつけくわえる。痛恨の思いとともに以後の行動によってそれを雲散させたい、「正しさ」を実践することによって、恥と屈辱にまみれた自分自身に復讐を遂げたいという強い思いがある。裁判では質問に答えたり糾弾されたりするだけで、思いのありったけをぶちまけることができない。それらの思いを贔屓にしてくれるマーロウを前にして、ためらうことなく吐き出す。そこにはある種力強さがみなぎっており、正直でもあり、並外れた好青年というマーロウのジムへの第一印象を裏切らない部分がある。だがジムの性急さはマーロウをたじろがせる。ジムの熱にうなされたような言説は、マーロウからすればジムがマーロウを強引に巻き込もうとする、全面的な賛意をえようとするかのように映ってマーロウをのけぞらせる。健全さのなかの「かすかな不健全さ」(p99)というマーロウの印象は、ジムのマーロウへの依頼心が零れ出たからだ。マーロウにとってはそれは図々しく淫靡に映るのかもしれない。しかし、マーロウはジムの発言にたいして見かけ上は明白に反対することなく、発言を引き出すことにもっぱら終始する観がある。裁判はジムの船員免許剥奪という処分で終結するが、以後マーロウはジムをひとかたならず援助することを惜しまない存在になる。マーロウはジムに議論をふっかけることはせずに、ジムをできるだけジムの思い通りにさせて生かせてみたい、それを見守りたい、そのために動く、という黒子的存在だ。勿論、対話だから皮肉や質問や小さな反論はする。
  心に生起したこと、そこにおける観念や欲望が自分のなかで明確であっても実際の行動がそれを全面的に裏切ってしまうことがある。その点ではジムの語り口は正確な印象があり、読者はついていける。だが心に生起したことを回顧という以上にあまりにも強調しすぎる。そこにこそ、実際に選ばざるをえなかった行動よりもより自分らしさを見出すのみならず、自分の思想の根本があると主張する。同じ行動をとった船長らと自分をためらいなく峻別するのも傲慢に映らないでもない。後退した時点でのジムのこの熱情は私には異様に映る。力をもっとも発揮すべき時点で発揮できなかったとなれば、ああ俺は怖気づいた、自分が思うほどには自分は大した人間でもひとかどの武勇の持ち主でもなかったとふりかえるのではないか。しかも今にも沈没するという難破船上での出来事だ。さいわいにも命を拾ったことを満足する気持ちが湧いたとしても当然だ、もうあんな思いはこりごりだとふりかえるのが多くの人間ではないか。しかしジムはそれを大きいものの単なるミスだとふりかえる。もういちど死の決意を用意しようとするのだ。またその決意があまりにも早い。事件からの時の隔たりがほとんどない。
  私もふくめて多くの人間ならば、命がけで最後まで対処すべき出来事のなかでそれを為しえなかったことに対しては、俺は凡庸な人間だと自己規定しがちだ。後ろめたさにも挫折感にも浸されるだろう。そうでなくても自分が凡庸かそうでは決してないかという自問自答は、ともすれば長い時間を要するのではないか。さらに単刀直入に答えが出せないとなれば曖昧にしたまま長い時間をいたずらに浪費させ、曖昧さそのものが人生の中心部に霧のように居座ってしまいかねない。そのことと並行して、さらになお自分らしさや「正しさ」をもとめるならば、より後退した地点で比較的安全な場所でそれを実現しようとするのではないか。命がけの行動をする人を命がけということにかぎって畏敬の感情を向けたとしても、二度と直接参加する気持ちにはなれない。参加することを空想しても、空想なるがゆえ中途半端であったり甘っちょろさがともなう。ある種の自慰行為である。それでも空想の繭に閉じこもることはできるが、心を傾注させる時間をもっぱらそこに費やしてしまうと、目の前にたえずひた寄せてくる現実の要請にたいする攻撃性や支配欲はうしなわれる。私の若い時代をふりかってそう思う。

  彼はふたたび口をつぐんで、静かな、遠くを見るような、烈しい憧れに満ちた目つきで、逃した名誉に思いを馳せていた。鼻孔が一瞬膨らんで、無駄にされた機会から立ち昇る蠱惑的な香りを嗅いでいた。君たちがもし、私がそこで驚いたとかショックを受けていたとか思っているんだったら、見当違いもはなはだしいぜ! ああ、本当に想像力豊かな奴だったよ! あっさり自分をさらけ出してしまう。自分を明け渡してしまう。夜に向かってきっと投げられたその眼差しのなかに、彼の内なる存在がそっくり持ち出されているのが私には見えた。向こう見ずに勇ましい野望の作り出す空想の領域へと、真っしぐらに解き放たれるのが見えた。(略)その顔に不思議な至福の表情が広がって、私たち二人のあいだで燃えている蝋燭の光を受けて目がキラキラ輝いた。はっきり笑みさえ浮かんだ! 彼は一番奥まで――奥の奥まで――たどり着いたのだ。それは決して君たちの顔には、そして私の顔にも浮かぶことのない恍惚の笑みだった。彼を引き戻そうとして、私は言った。『つまり、船から逃げなかったらということ!』
  彼はさっと私の方を向いた。目に突然の驚きが浮かび、痛みがみなぎり、まるで星から転げ落ちたみたいに顔にとまどいとショックと苦悩が広がった。君たちも私も、誰かのことをあんな目つきで見ることは絶対にあるまい。冷たい指先に心臓を触られたかのように、彼はぶるっと大きく身を震わせた。そして最後にため息をついた。(p92~93)

  できなかったことをジムは近い未来においてやりとげようと決意をみなぎらせる。パトナ号事件にならえば船に最後まで残ること、そして死を受け入れることだ。パトナ号に限定せずとも、敷衍して死がもっともふさわしい責任の背負い方ならば真正面からそれを引き受けること、それが自分にとって望みやり遂げるべき身の処し方であり、自己解放であり、欲望と義務観念を合致させることだ。言ってみれば神にかぎりなく近づくことになる。後になってジムはそのことを発見し、歓びに震えるのだ。
    対してマーロウである。彼は若い時代を曖昧なままやりすごしてきたという思いがあり、それが結局は仕方がないことであり、生きることとはそういうものだという結論に至ったとしても何処か後ろめたさがある。若い時代のひたむきさ、その時代に「世界」から蒙るはじめてのように見える喜びや悲しみは新鮮でありかつ鋭い痛みをともなうものだが、新鮮さは年月の経過とともに鈍磨しやがては忘れられる。マーロウはそういう若い時代のひりひりする感受性をジムをとおして再発見してみたいのだ。マーロウは曇った鏡に対峙するものの自分の若い時代は見えず、その代わりにジムが、少なくともマーロウの主観からは自分の若い時代よりもより鮮明で刺激的な青年像を映し出す。忘れ去ったかにみえた若さがまるで記憶を掘り起こしてくれるように現出する。自分の若さが照れくささやくすぐったさとともに再来するかのように。発見であるよりも再発見であるかのように映ることがマーロウに感動をもたらす。少なくとも身に覚えのある感触を言葉になる直前の皮膚感覚のようにマーロウはえる。だがジムはマーロウの青年時代の像そのものではないので、当然違和感も湧く。引用した個所全体が少し大げさな印象があるのはマーロウのこうした感動と主観があるからで、マーロウはそれを大事にしたいのだ。マーロウが語るジムの「至福の表情」やら「恍惚の笑み」やらは、マーロウは自分でなく他人だったら見過ごしてしまいかねない貴重さとして、それだけ熱っぽく語る。
   「私がそこで驚いたとかショックを受けていたとか思っているんだったら、見当違いもはなはだしいぜ!」マーロウには驚きもショックも生じたが、それ以上にジムの言葉と表情に引き込まれる長い静かな時間を過ごし、没入したということだろう。その時間だけ青年に戻ったのだろう。だがマーロウは主観を大事にするとともに客観的視座もわすれない公平さをもった語り手でもあり、皮肉をとばさずにはいられない。『つまり、船から逃げなかったらということ!』マーロウのこの一言で、ジムはたちまち空想的思想の優雅さと解放感から現実的敗北の事実へと転落する。見たくないものを見させられるのだ。そのときにマーロウが見たジムの「痛み」や「苦悩」はマーロウをしてジムに深い同情を呼び起こさせ、自分の若いときにはこれほどの突きつめた思想的探索はしなかった、これほど自分を責めなかったとふりかえらせる。皮肉を言って相手を打ち負かしたことに満足するのでは決してない。

    07:27 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
07 ≪│2017/08│≫ 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク