2008.08.03 蚊帳
 かつては夏の就寝時には必需品であったが、今はすっかり廃れてしまった。日本家屋の密閉性が向上したからであろうし、化学物質の蔓延によって蚊が少なくなったこともあるだろう。蚊ばかりではなく、蠅もめっきり減った。それに蝶やトンボの類も。ちょうど六〇年代にはじまる高度成長と、それらの変化が期を同じくしているようだ。

 私にはとくに蚊帳に関する思い出はない。強いていえばクーラーが我が家にはまだなかった時期と重なることくらいか。今では考えられないが、暑い寝苦しい夜を連日過ごしたものだ。

 日本の四季にまつわる風物を愛する田中冬二は蚊帳のことも詩に書いている。蚊帳の質感が甦る思いにさせられる。ただしこれは夏の詩ではなく、秋になって蚊帳をかたづけるときに、それを惜しむ心情をきざんだものである。「蚊帳」と題された詩の前半部分。

秋になった
いつとなしに秋になった
朝夕はもうしろい障子の親しまれる頃となった
そして蚊帳をつらないでもよい頃となった
二三日の中にそれはしまわれるであろう
あの青いすこし暗いような色
それから赤い布のへり
たたむ時つり手の金具の触れ合うすずしい音
草臥(くたび)れてねる白い床の上を
流れる 青いこまかい影の快さ
山の斜面(スロープ)のような快さ
真夜中に目ざめると
髭を剃りたての月が
青い波の上を静かにわたっている

女の心のような星が
蚊帳にくっついて
心臓をくすぐるような夜もある
それはなんでも 蒸(む)すような
醸(かも)すような夜ではなかったか


 思い出したが、蚊帳のへりは細い帯のような少し厚めの布だった。金具もあった。それに蚊帳の半透明の布地の独特のかわいた手触り……。母の実家の山奥の家でも蚊帳を吊って寝たこともあった。しかし都会では家が密集しているから勿論、田舎でも、夜空を眺めながら蚊帳のなかで横になったことはない。そういうことをやっておけばよかったかな、という気にさせられる。ガラス窓でなければ、蚊がどんどん侵入してしまうが。

 「髭を剃りたての月」がこのなかでは抜きんでた表現だろう。蚊帳越しに眺めているはずの月が、あまりに煌々としてなまめかしいので、蚊帳越しではなく直に眺めるような気になる。つづいては星を女性にかさねた部分。寝苦しい夜は、なやましいあれこれの幻想を引き寄せてしまうものだ。
 子供のころ、父が飲みおわったビールのラベルを爪で剥がすのが好きで、よく遊んだ。当時のラベルは紙製で、冷えたビール瓶の付近の水蒸気が冷やされて水滴となって瓶の表面に溜まる。するとラベルの紙も水を吸い込んで重くなり、場合によっては自然にずり落ちてくることもある。そうでなくても紙と瓶の接着があまくなって剥がしやすくなるのだ。他愛ないが、こんなことを今の季節になると思い出す。

 父が死んでからは、私が飲むときは中瓶タイプに変えた。これは紙のラベルではなく瓶にプリントがされていた。さらにその後は缶ビールになった。大瓶タイプにはまだ紙ラベルが使われているのか、何故か見かけることがないので知らない。

 田中冬二にこのことが書かれた詩があったはずだ。ただし映像でしか覚えていないし、ほかの部分はすっかり忘れてしまった。ほかの詩人の詩と併録された詩集を本棚から出してきた。「虹」という題名の詩だった。

夜半 雨を聞いた朝

裏二階の窗(まど)をあけると
山の傾斜地の林檎園の上に
うつきしき虹

投げ入れへ夏蕎麦の花と芒(すすき)と

台所の冷蔵庫の中 麦酒壜のレッテルは濡れておちている


 
 都会のたとえば団地の室内を私は勝手に思い浮かべたりしたが、ちがっていた。リンゴ園のみえる緑豊かな地方の風景、ならびにその地の室内である。屁理屈をいうと、冷蔵庫のなかへ入れただけではビール瓶のレッテル(ラベル)は剥れないと思うが……。冷えた瓶を高温の外気にさらして、はじめて濡れてくるのではないか。それとも、もしかすると電気冷蔵庫が普及する以前の、大きい氷を入れておく冷蔵庫かもしれない。冷気は氷が解けるまでの寿命であり、そののちはしだいに庫内の温度があがるから、理屈は合う。

 そんなことよりも、田中冬二はレッテルの剥がれかかった(あるいはほとんど剥がれてしまった)「麦酒壜」にこの詩では随一の詩的興趣を見出したのだろう。短いが、最終行をもって詩はひき締まっている。

2008.03.31 吉野
 過日、法事のために母の実家を訪れた。私にとっては約三十年ぶりである。そこは吉野の山奥で、近鉄電車で最寄の駅まで行って、そこからタクシーで三,四十分ほどかかるところだ。鬱蒼とした杉の生い茂る山のたたずまいは変わることはなかったが、他の面ではおおいに変化があった。山奥にも公共事業は波及するらしく、道路はアスファルト舗装されて道幅がすこしばかり広がり、小川も護岸工事がなされて、こちらは反対に川幅がせまくなった。それにトンネルができて駅との距離がやや短縮されていた。また以前には見かけなかったレストランや宿泊施設もちらほらできていた。一方、田畑は半分以上は放棄されたようで、雑草に蔽われるに任せたり、植林がされていたりだった。大半の住民が六十歳以上で、それ以下の子供、孫の世代の人々はすべて都会やその周辺部に定着してしまったから仕様がないのかもしれない。路線バスもほぼ全廃の状態のようだ。

 しかし何よりだったのは、各方面から駆けつけた叔父さんたちが元気だったことだ。七十歳代後半から八十歳代後半の人たちで、耳がとおくなったり、そのうえアルツハイマーが進行していたりだが、酒が入ると元気になり声も大きく明瞭で、傍目にはたいへん幸福そうだった。相手をするのはたいへんな様子で、久しぶりに会った従兄弟たちも手を焼いていた。私はずるいので、隅っこで酒食に向き合うのがもっぱらだったが。こんなことを書くのは気が引けるが、ボケるなら早い者勝ちかなあ、とも思った次第である。