大洋ボート

出エジプト記(2)

 

 「わたしはおまえの神ヤハウェ、エジプトの地、奴隷の家からおまえを導き出した者である。
 おまえはわたし以外に他の神々があってはならぬ。
 おまえは偶像を刻んではならぬ。
 (中略) 
 おまえの神ヤハウェの名をみだりに唱えてはならぬ。」
 (中略)
 安息日を憶えて、これを聖く保て。
 (中略)
 おまえの父と母とを敬え。
 殺してはならぬ。
 姦淫してはならぬ。
 盗んではならぬ。
 隣人に対して偽証してはならぬ。
 隣人の家を貪ってはならぬ。(p237~238)


  有名な「十戒」である。ヤハウェがモーセに教え、モーセが民衆に伝えるという順番が守られる。「おまえ」とは民衆全体を指すようだ。五項目目以降はどんな社会であれ、社会が成立したと同時的に整備されたと考えられる法規で、法規としてもっとも原型的で土台のようなものだ。これにたいして前の四項目はヤハウェ信仰に関係している。四項目が比較して新しいのかはわからないが、これだけ唯一神ヤハウェを頑ななまでに強調し原始的法規に併存させるのは、やはりのちにユダヤ・キリスト教として成立するこの宗教の特徴ではないか。ヤハウェ神は何度も書くが政治的軍事的神であり、またそのためにきびしいまでに結集と統合を命令する神である。契約関係といわれるが、神に安楽をもとめるのは順序としてその後だ。先に神に身を委ねなければならない。それにヤハウェの代理人たるモーセのもとに結集しなければならない。ヤハウェ神の偶像であっても偶像を拝む時間があればモーセを敬え、それがすなわちヤハウェ信仰になるのだからといいたいのだ。やたらにヤハウェの名を唱えてはならないという禁止事項も、ヤハウェとの直接の交流を望むよりも、モーセを通じてせよと言わんとするように読める。偶像禁止の項目の中略した部分に「わたしは妬む神であり」とあるが、ユーモアにも読めるがそれだけではない。

  「十戒」を教えられた人々だったが、さっそく違反する事件を起こしてしまう。「十戒」につづいてさらに刑法や民法の細かい規定を人々に布告してから何日か後に、モーセは再び山へ登る。ヤハウェの教えを聞くためだが、地上へ戻るまでに「四十日四十夜」の長期間を要してしまう。その間は当然人々には何の知らせもない。人々は不安に思ってモーセの兄アロンに相談したうえで金の耳輪を集めて溶かし、金の子牛を鋳造するという挙に出る。そしてそれをヤハウェ像として祭りその前に祭壇を築く。そのあとお祝いの食事や踊りを催す、というものだ。無理もないと思う。人々はその挙が「十戒」に違反することは重々承知しているものの、モーセが帰らぬ人となった可能性を思い銷沈する気分を発散したかったのだろう。また「古事記」に例があるが、アマノイワトに隠れてしまったアマテラスの気を引くために人々が賑やかさを演出したように、山の頂上に存命するであろうモーセに届けとばかりに大きな音を響かせたとも考えられなくもない。だが地上のその様子を知ったヤハウェは激怒するのだ。偶像をつくったからだが「皆殺し」にせよと極言する。読んでいてさすがに驚く。そこまではしないでくれとモーセはヤハウェに懇願し受け入れられるが、頭に血が上った頑固親父を必死になだめる息子みたいだ。話題が少しそれるが、モーセにかぎらずヤハウェとその時代の代表者との距離は時に応じて変化する。遥かとおくにいるヤハウェにわざわざ会いに行ったり、並んで歩いているようだったり、ヤハウェが作戦参謀のように耳元でささやいたりと動的で面白い。さて皆殺しを回避できたモーセだが、現場を見てやはり驚き怒る。立場のちがいというべきか。モーセも人間だから、もし地上の一員だったなら同じ行為に参加したとも考えられる。
  

いよいよ宿営に近づいた。すると、子牛と踊りが見えた。モーセは怒りに燃えて、手に持っていた板を投げつけ、山の麓で砕いた。そして、彼等が造った子牛を取って、火で焼いた。さらにそれをこなごなにすりつぶして水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。(p257)


 「板」とはヤハウェの教えが書かれた石の板で山からもちかえったものだ。金粉入りの熱湯と考えられるものは、註釈によれば「一種のくかだち」とある。くかだちとは、罪の有無を判定するために被疑者に酷い仕打ちをしてもし健康被害がなければ被疑者は無罪と判断されるという古代の儀式であるそうだ。そこまで懲罰をくわえたモーセだが、民はモーセから見ると「手がつけられな」い様子で「立ち向かうのも恐ろしいくらいであった。」モーセや著者の思い入れなのだろうか。単に酷い酩酊ぶりにすぎないものが、いちじるしい道徳的堕落に見えたのか。それとも偶像をつくることでヤハウェに急激に接近することができたという人々の宗教的熱狂をあらわすのか、判断できない。何も書いていないが、モーセが言葉をかけても食ってかかるくらいの勢いがあったのだろうか。そこでモーセは「皆殺し」まではいかないが、彼の属するレビ族にヤハウェの言葉を伝えて『おのおの腰に剣をつけ、宿営の中を一軒残らず行きめぐって、おのおのその兄弟、友だち、隣人を誅せよ』と命じる。結果「倒れた者が約三千人」となる。地獄である。

  金の子牛をつくったくらいでは何の実害(人的、経済的損失)もないのに戒律に反したというだけでここまでやってしまうのだ。宗教的純粋性を汚したというならその回復は、それこそヤハウェの権威でもって可能だと思うが、一度犯した罪は看過できないというのだろうか。エジプト人殺しよりも、この同族殺しのほうがいっそう血の匂いが濃厚に私には感じられる。現代の独裁国家の政治弾圧にもつうじるものがある。

  ヤハウェがモーセに言った。
「さあ、ここを出発して、おまえは、エジプトの地から導き出した民を引き連れ、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『おまえの子孫に与えよう』と言った、その地に行け。おまえの先頭にわが使いを遣わす。〔そしてカナン人、アモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エビス人らを追い払おう。乳と蜜の流れる地に向かえ。〕ただし、わたしはいっしょに行かない。おまえたちは度しがたい民だから、途中でわたしが怒って滅ぼしてしまうかもしれないのだ」(p260)


  カナン人以下の部族民はイスラエル人の故郷とされるカナン地方やその近隣地域に定住する人々であろう。彼等もまたイスラエル人にとっては侵略し屈服させるべき敵なのだ。このように「出エジプト記」は明白に侵略的な書である。後半部のヤハウェが同行しないという言葉をめぐっては、ヤハウェとモーセのあいだに叙情的な会話がつづくが、今は酔いたくないので割愛する。
         (了)  
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出エジプト記(1)

旧約聖書 (中公クラシックス)旧約聖書 (中公クラシックス)
(2004/11)
中沢 洽樹

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  「創世記」において神ヤハウェはアダムにはじまる同じ一族のリーダー格の男を選んで助言し命令した。また庇護した。親から子へ孫へと世代交代するごとにリーダー(族長)も交代するから、その度ごとにヤハウェはその男とともに一族の歴史を作った。そしてヨセフの時代になると一族はエジプトにこぞって移住した。ヨセフはエジプトにおいて王パロに次ぐ地位にまでのぼりつめたが、そのあとは一族は没落したようだ。ヨセフの父ヤコブは別名イスラエルといい、ヤコブの子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった。もはや一族と呼ぶべき範囲を超えた集団としてとらえられるのだ。イスラエル人は順調に人工を増やしていったが、全員が煉瓦造りの奴隷的な労働に従事させられることになる。そこでイスラエル人のなかからエジプトからの脱出とカナン地方への帰還が願われることになり、出現したリーダーがモーセである。モーセは「レビ族」の出身で、ヨセフの血筋とは無縁のようだがイスラエル人と見なされている。その全体のリーダーがモーセになるからヤハウェの見わたす範囲も拡大したことになる。「創世記」では親子、兄弟、夫婦の物語が主だったが、「出エジプト記」においてはイスラエル人(ユダヤ人)全体の物語となる。後に民族と呼ばれる集団だ。ヤハウェはイスラエル人固有の神でありエジプト人は勿論、故郷のカナンやその周辺地域の定住民であってもヤハウェに帰属するまでは異族なのだ。

  モーセはイスラエル人のなかからリーダーとして選抜されたのではなく、ヤハウェが一方的に抜擢した。喧嘩が強いというエピソードがあるが、ヨセフのように自他の夢判断ができるというような並外れた能力とはいえない。また訥弁で人前で話すことを苦手にする男である。モーセ自身もヤハウェの命令(召命)に尻込みするのだが、そこは引かないヤハウェだ。魔法の杖を授けて彼に権威を与えて承服させる。

  ヤハウェは好戦的である。また神にたいして言うのもおかしいが自信家である。モーセをつかってパロを挑発する。最初はパロに〈われわれの神を祭るために荒野に行かなくはならない、そのための暇をください〉とイスラエル人を代表して申し入れるがあっさりと退けられ、しかも以前よりも労働を過重にされる。そこでモーセは魔法の杖で、蝗や蛙や虻を大量発生させてエジプト人を困らせる。さらに疫病を流行らせたり、エジプト人や家畜の初子をことごとく死亡させるというテロを行使する。ヤハウェはパロを挑発して弾圧を促すのだ。牧歌的なベールがかかっているが一連の行為全体がテロかそれに近いものであり、今日の政治的常識からすれば、エジプト王は「目には目を」で、ただちに暴力的反撃をして然るべきだが、何故かためらう。これは労働力としてのイスラエル人を保持しておきたいからだが、ずいぶん呑気に映る。堪えかねてイスラエル人に「暇」をいったんは出すが、どういうわけか既にエジプト脱出を開始したイスラエル人を後から軍隊をつかって追跡する。ちぐはぐぶりだ。だがヤハウェにとってはようやくエジプト人を本格的敵対に誘い入れることができたので念願がかなったところだ。
  

彼等はスコテを出発して、荒野の端のエタムに宿営した。ヤハウェが彼らの前を行き、昼は雲の柱で彼らを導き、夜は火の柱で彼らを照らしたので、彼らは昼夜を分かたず行進した。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の行く手を離れなかった。(p214)


  このあとに有名な「海が割れる」奇跡がヤハウェによって起こされる。モーセが杖をかざしてそれはなされ、イスラエル人の群れは海の中の乾いた道を進み、追ってきたエジプトの軍隊がそこを通ったときにヤハウェによって海は元通り閉じられて軍の兵馬は沈む。ユダヤ・キリスト教徒や支持者にとっては痛快で、壮大さを感得するところだろうか、わたしはそれほどには受け取らないが。それよりも後段の「邪教」にたいするヤハウェの苛烈な憎しみに興味が湧く。

  モーセ一行のイスラエル人は六〇万人と書かれているが、実際には六千人にも及ばなかったと注釈にはある。一行はシナイ山という山の麓にしばらく滞留する。その山にヤハウェが降りてきてモーセと対面することになる。エジプトとの戦闘においては彼はもっぱら軍事・政治上のリーダーであったが、ここでは宗教的リーダーとしての務めを果たすことになる。もっとも、ヤハウェという神自体が民族の興隆を押しすすめることを主目的とするので、ときに戦争を敢行したりときに宗教的であったりするに過ぎない。モーセもその変幻に引っぱられるのだ。モーセはヤハウェの命ずるままを一行に告げる。神との対面のために三日間の準備をせよと。すなわち、衣服を洗い、山に柵をして誰一人のぼらぬようにする。山に手を触れただけでもだめで、その場合は死刑となる。また三日間は異性に接触することも禁じられる。おそらく「民」はモーセの言いつけに整然と従ったのであろうし、政治=宗教的リーダー(独裁者)としてモーセをあらためて承認させられたのだろう。やがて三日目の朝となると「雷鳴と稲妻と密雲が山をおおい、角笛の音が鋭く響きわたった。そのために、全宿営の民がふるえあがった。」さらに活火山のように激しい火と煙に山がおおわれ震えるなかをヤハウェが降りてくる。民は恐怖にとらえられはげしく狼狽する。ヤハウェは苛烈だ。恐ろしさを民の骨身にまで知らしめることによって民の絶対服従を強制するのだ。ヤハウェ信仰は人々のなかにそれぞれのかたちで育まれてきたと想像されるが、神の柔和さはここにはない。たまらなくなって民はモーセ一人にのみ神との対話を委託する、あるいは押しつけることになる。こわいことは御免だと思わされるからだ。かくして個人次元での信仰はともかく、公共的な次元での神の言葉の受信と発表はモーセの役割となる。最初の預言者ということになるし、さらに政治的統率者でもある。
  

民はみな雷鳴と稲妻と角笛の音を聞き、また、煙におおわれた山を見て、恐れおののきながら遠くに立っていた。そしてモーセに言った。
「あなたがわれわれに話してくだされば十分です。われわれは死にそうです。どうか神が直接われわれに語りかけないようにしてください」
  そこで、モーセは民に答えて言った。
「恐れることはない。神がお下りになったのは、おまえたちを試みるためであり、おまえたちの敬神の念を新たにし、罪を犯させないためなのだ」(
  民は依然として遠くに立っていたが、モーセは神のいる黒雲の中に近づいていった。p235)


 「創世記」のなかのノア時代の洪水やソドムの滅亡もヤハウェの力の行使であったが、ヤハウェであることを知っていたのはごく一部の人に限られていた。ソドムの死んだ人々は「硫黄の火」がヤハウェの意思によるものだとは最後までわからずに天変地異としか思えなかった。だがここへ来て、イスラエル人全体の前に、ヤハウェは半面死の脅迫をもたらす者として顕現した。  


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創世記(2)

  このように正妻の子を重視する創世記であるが、そのなかにおいてはヤハウェは長男よりも次男に目をかけることが一回だけある。たまたまそうなったに過ぎないのだろうが、私には印象に残る。そのときは、次男のほうが族長によりふさわしい能力を備えていることを見抜いて、最初に予言するかたちをとる。

  イサクの子エサウとヤコブは双子だが前者が長男で後者が次男。エサウは「狩りが巧みで野に親しむ人」で、ヤコブは「内気で天幕にこもりがち」の人であった。イメージとしてはエサウのほうが力自慢で純朴、ヤコブはひ弱ということになろうか。ヤハウェとしては人柄的にはエサウに軍配をあげてもよさそうだが、そうはならない。後の展開はヤコブがエサウをだまして家督の権利と父の祝福を横取りするという結果になる。エサウは愚鈍で、ヤコブは悪くずるがしこいという性格が明確になる。兄弟の対立は決定的になり、エサウの報復をおそれたヤコブは、母リベカの助言によって彼女の故郷ハラン(現在のシリア方面)に逃亡する。母がヤコブ贔屓、父がエサウ贔屓という対立関係も背後にある。ヤコブはリベカの兄ラバンのもとで長年にわたって労働することになる。ほとぼりが冷めたころだろうと思って父の地へ帰ろうとするヤコブだが、ラバンは彼を帰そうとはしない。いい働き手だったからだ。つまり、ヤコブははじめにラバンの次女ラケルを気に入って嫁にもらおうとしたが、土地の習慣では長女が先だとラバンにいわれて長女レアを押しつけられる。それまでに七年、さらにラケルをもらうまでに七年と長期間にわたってラバンの下で働かされる。だがヤコブは挫けずに忍耐強く働いて、自分の持ち分の山羊や羊を増やすことに成功する。姉妹のほか奴隷の女も妻にして子供を多く作り人望も得る、出世するのだ。そしてついに一族郎党をひきつれて念願の帰郷を果たす。

  創世記はこの書独特の霞がかかったような空気が支配しているが、じつはたえず風雲急を告げている。この書は移動するひとにぎりの民を追う。放牧生活を生業とする人たちだから、動物に食べさせる草がなければ定住するわけにはいかない。それが根っこにあるが、地中海東岸地方は当時から人口密度の比較的高い地域だったと思われ、また定住民も多く存在したのだから、移動には人との接触がともなう。そこではやはり図抜けたたくましさや知恵が理想とされたのではないか。純朴さは脆さにつうじる。だから代々にわたって土地を継いでいく農耕社会のように、しきたり的に長男を重視することではすまないのではないか。主人公の面々は移動しながら富を増やさなければ、勝利しなければならない。この書によって絶対的に要請されているのだ。父とエサウのいる故郷にかえるヤコブだが、エサウをおそれて群れごとに分けて自らはしんがりの群れに位置して、先遣隊から報告をもってこさせる。用心深いのだが、また悪くとれば卑屈にみえるが、この書(ヤハウェ)はそうは評価しないように読める。ヤコブの生存時はヤコブがユダヤ人の血統の中心人物だから、どんな手段を使ってでも彼は生き抜かなければならないのだ。血統を継ぐ人物で、若死にした人はこの書にはいない。

  ヤコブの晩年の子ヨセフは妻ラケルとの関係では長男であるが、多くの異母兄がいた。レアや奴隷の女との間の子供たちだが、レアはラケルの姉で、ヤコブは先にレアと結婚したからどちらも正妻とみてよいのではないか。するとヤコブは長男とは言い切れなくなる。こだわりすぎかもしれないが。このヨセフもまたヤコブ以上に途轍もない能力者だ。初めは自分の夢によって、次の段階では他人の夢によって未来を予知する能力を備えることになるのだ。なにかしら訓練によってその能力を鍛えられたのではなく、素質としてあらかじめ有していた人だ。まさに神がかり的な人物で、そうなれば神は「二人」存在する必要はなく、ヤハウェがもっとも陰がうすくなる順の血統である。

  

あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。そこで彼らはますますヨセフを憎んだ。
  ヨセフが言った。
「ぼくはこんな夢を見ました。どうか聞いてください。ぼくたちが畑の中で束をゆわえていると、ぼくの束がむくりと起きて、突っ立ちました。そして、なんと兄さんたちの束がまわりに寄ってきて、ぼくの束におじぎをするのです」
  これを聞いた兄たちは、
「いったい、おまえはおれたちの王になり、おれたちを支配しようとでもいうのか」
と言って、この夢物語のためにますますヨセフを憎むようになった。(第38章6)



  ヨセフは父の晩年に生まれたこともあって父ヤコブにいちばん可愛がられた人である。それが上の兄弟にとっては当然おもしろくない。また、この予言は夢を見たことの感動を素直に吐露しているので、自分がやがて族長になるという未来にたいしてはまったく無自覚であろう。だが後の展開をみれば、ヨセフが未来を言い当てたことになる。ヨセフは族長になりたいという欲望を持っているのではないが、そう誤解した兄弟たちはヨセフを行商人に売り飛ばしてしまう。父にはヨセフの上着に獣の血をつけて見せて、さも獣に食い殺されたように嘘の報告をするのだ。

  ヨセフは行商人によってさらにエジプト人に売られるという運命をたどるが、ここからが長い。いったんは牢獄につながれたりもするが、王に目をかけられて行政府の長官にまで登りつめる。王につぐナンバー2の位である。そこで王の見た夢で未来を言い当てて行政手腕を最大に発揮し、エジプトの飢饉を救い、さらには故郷カナンの飢饉をも救って、父や兄弟たちと再会を果たし和解するという大団円となる。苛酷な運命に投げ入れられながらも堪えて移住先で栄達を果たすという物語であるが、父ヤコブのたどった運命をその度合いをさらに増幅しながらなぞる趣きがある。ユダヤ人はこういう物語が好きなようだ。

  「創世記」や「出エジプト記」において、のちにユダヤ人と呼ばれる人々の中心的な部分、自らをより意識した部分はその存立基盤を「移動」においた。そして当然移動しながら勝利しなければならない。生活の安定と支配権の拡大を目指さなければならない。また移動先においてはたえず故郷のカナン地方、ヨルダン川西岸地域を忘れない。カナンやその周辺の定住民もユダヤ人であってかまわないが、そのもっとも屈強な部分の、移動をくりかえしてやがてカナンに錦を飾るリーダーの一族を仰ぐことを要請される。ユダヤ人は、ユダヤ人であることを意識した瞬間に「創世記」に書かれた移動と勝利を肯定しなければならない仕組みになっている。戦いを強制されることが中心主題で「神話」としては重苦しい。ギリシャ神話やわが国の「古事記」には、欲望にとりつかれて国家や運命によって滅んでいく人たちを哀れみをこめて記すことを怠らないが、「創世記」「出エジプト記」にはそれはない。複数の作者が排除したのか、もともとそんなところに行き届く視線を持たなかったのかはわからないが。

  ヨセフは百十歳まで生きてエジプトに骨を埋める。同地にのこされた兄弟や一族への遺言は、故郷カナンをあらためて聖化し、後にユダヤ人と呼ばれる人々の存立基盤を護持することが歌いあげられる。
  
  

「いよいよ神の顧みの時が来たならば、わが骨をここからたずさえて上るように」 。(第50章-25)



  これはエジプトにとどまったユダヤ人全員のカナン帰還をユダヤ人に命令するものだ。その意志はのちにモーセによって実現される。
       (了)
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創世記(1)

旧約聖書 (中公クラシックス)旧約聖書 (中公クラシックス)
(2004/11)
中沢 洽樹

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  神話だから、はじめに天地創造がありつづいて生物や人間の創造がある。ヤハウェという神以外に登場人物がいないのだからそうならざるをえない。人間が登場し、その行動が詳しく記述されるにしたがって神はしだいに後景にしりぞく。放牧や農耕の生活様式が現在と変わりない段階に達すれば、神がいたずらに活躍する場面は少なくなる。人間が歴史をつくるのだから、神が神の痕跡をあからさまに残したならば人間の歴史ではなくなる。神は人々の主観の内部にとどまって、人は行動の成果を「神様のおかげ」というようにふりかえる。行動の過程においては、人は自己内対話のなかに神を登場させ、神は作戦参謀のような役割を果たす。神はまた部族ややがてはユダヤ民族を束ねる一大権威となって物語は終わる。人々に支持され人々を引っぱっていくリーダーがおり、その背後にはヤハウェがいる。人々もリーダーとヤハウェをともに見上げるのだろう。

  「ノアの洪水」という話がはじめのほうにある。人間が暴力的になって堕落したから地をまるごと滅ぼしてしまおうとヤハウェは決意する。そしてその時代の登場人物であるノアの家族だけを救う。つまりノアに命じて大型の船をつくらせて
、その家族と生き物をひと番いずつ乗せて避難させる。「ひと番いずつ」とはのちに子孫を増やすための用意だ。やがて山が隠れるほどの大洪水が起こり、ほとんどの人や生き物は死に絶えるが、「箱船」に避難していたノアの家族と生き物だけが、無事に命を長らえるという話だ。ヤハウェ神こそずいぶんと乱暴者だが、なにかしら洪水の引いたのちに新しい世界がはじまるという、すがすがしさがないではない。洪水だから、人や生き物の死体や家屋の痕跡が水面に浮かんでいる光景が目に浮かんできそうだが、そういう描写がないことも作用している。洪水は自然災害だがそこに「神による」という冠がかぶせられると印象がちがってくる。生きた災害というよりもお話だからでもある。

  神は人間の暴力や堕落、傲慢をはげしく否定し、ときには「ノアの洪水」やソドムとゴモラの滅亡のように大量の人を殺戮してしまう。また天にも届く「バベルの塔」をつくった人間の所行を傲慢だとして、それまで統一された言語であったものをばらばらにしてしまう。言語が世界中でひとつであれば便利だとは思うが、そんな希望をくだいてしまう。だがこの神がいうところの暴力や堕落、傲慢というものにはわかりやすい線引きはない。善人と悪人という区別においても同じだ。思えることは、信仰心の希薄さや神の権威をないがしろにすることに神は敏感ではないかということだ。人間の側からみれば、とにもかくにも神は怖ろしい、おそれ多い、理由以前に。人間をそう思わせて人間をひれ伏させることに神の目的の大きな部分があるようで、それはヤハウェという神を信奉するしないにかかわらなく見える。

そのころヤハウェの名を呼ぶことが始まった。(第4章27)



  どんな原始的な段階にあっても神であるかぎりは、それを信奉する者は複数であると思われるが、また人々は各々において神へ教えを請うたにちがいないが、創世記の神が耳元でささやくように言葉を告げるのは、ほとんどの場合たった一人であり、それは族長といわれる部族のなかのリーダー格の男性である。アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)、ヨセフという直系の族長にあたる人々だ。神との対話を試みその記録を残した人は少なからずいたことは疑えないが、この書をまとめた人は、神は同時期においてはたった一人の人に言葉を与え、その人と部族を先導するという形式に変えた。さまざまな物語を系図の順番に当てはめたのだ。それはリーダーに神が語りかけることによってリーダーを動かし、神が時代を前へ前へ推し進めるためである。神の自己実現の長い過程としての構成になっている。神が神への絶対的服従を要請するかわりにイスラエル地方の一部族を庇護するという一体的な「契約」関係だ。エジプト人やメソポタニア人とはヤハウェ神は縁がない。天地をつくり人間をつくった神がひとにぎりの部族としか深い関係がないというのも首をかしげたくなるが、神話とはそういうものらしい。もっとも、ユダヤ人にとってはそうでなければ不都合なのだろう。

  ヤハウェがアブラムに言った。
「おまえの故郷の地、おまえの父の家を出て、私の示す地に行け。そうすれば、おまえを偉大なる国民とし、おまえを祝福し、おまえの名を高めよう。[それは祝福となる。] わたしはおまえを祝福する者を祝福し、おまえを呪う者を呪う。おまえによって、地のすべての種族が祝福を交わすであろう」(第13章 12-1 )


  アブラハムが以前の名のアブラムのときの神の言だが、こういう命令と引き替えの繁栄の約束は繰り返される。アブラハムにかぎらず、以後の族長にも頻繁に そそがれる。国民というからには広い範囲の領土が視野に入っているが、そのとき以後、アブラハムの一家はメソポタニアからシリア、イスラエル、エジプトと転々と流浪する弱小の身分であるから夢のような約束である。

  ヤハウェの暴虐といえる所行はソドムとゴモラの町に「硫黄の火」をふりそそいで 滅亡させたあたりで終わる。あとはアブラハムの忠誠心を試すために、彼の子イサクを燔祭(動物や鳥を殺して神に捧げる儀式)に供するよういったん命令する箇所が目立つのみで、殺害の直前になって神はアブラハムを制止するから、これは精神面での虐待にあたろうか。以後は族長の、つまりは人間中心の物語となる。老齢で出産不能とおもわれたアブラハムの妻のサライにイサクという子を産ませる。それ以前にアブラハムは奴隷の女に子を産ませていたのだが。洪水や火に比べるとその奇跡は個人的な次元にとどまっているが、正妻の子供の誕生を血統的に最重視するという現代の世界にもある思想が、この書ができた時代にも強固にあるようだ。アブラハムの孫にあたるヤコブの妻ラバンにも、神の助けによって老齢になってから子供が生まれる。そのうちの長男が、のちにエジプトで活躍することになるヨセフである。ヤコブはラバンの姉レアも妻でどちらも正妻であるようだが、ヤコブが気に入っていたのはラバンである。姉や奴隷の女との間に早くからたくさんの子を設けた ヤコブであったが、最愛の妻の子を晩年に授かることになる。

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