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大洋ボート

山本智之『主戦か講和か』(2)

  43年9月8日イタリア降伏。ドイツも対ソ連戦での前線後退を余儀なくされていた。陸軍がヨーロッパ戦況を注目するなか戦争指導課は「大東亜戦争終末方策」を提出する。同じ題の案が8月と9月と二つあって、後者のなかの「戦争指導方針」では8月案の同項目にあった「独伊と提携し」の文言が消えてアメリカとの単独講和が目指される。「帝国は昭和十九年夏秋の候を期し主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し政戦略の諸施策を統合して自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む、……」この後、終末の時期を遅くとも昭和二十一年を目途とするとつづくが、「必勝不敗の戦略態勢を確立し」たうえで講和を目指す「一撃講和論」そのものであり、威勢がよすぎるもののアメリカとの単独講和が案として外部化されたのは画期的といえるだろう。さらに9月16日の「終末方策」では二種類の「対米英講和条件」が記されて具体化される。戦況有利下での「別紙第二」と不利下での「別紙第三」があり、前者では満州、中国等の完全独立や他の占領地域にたいしても「高度な自治」を認めたりするものの資源の優先的取得権は維持するなど、アジア地域全般において戦争によって得た権益を全面的に手放そうとする体ではなかった。これに対して「別紙第三」は陸軍(日本)にとっては屈辱的とも取られかねない思い切った譲歩がなされる。本書では両方の文が引用されているが、「別紙第三」のみ引用したい。

世界終戦の為不利なる妥協をするを得さる場合の媾和の条件
一、 対米英
(イ) 無併合、無賠償
(ロ) 米の四原則の承認
(ハ) 三国同盟の廃棄
(ニ) 支那に関しては日支事変前への復帰
(ホ) 仏印以南の東亜細亜南太平洋地域の昭和十五年九月以前の状態への復帰
(ヘ) 内太平洋の非武装
(ト) 日米通商関係の資金凍結以前への復帰
二、対英米交渉に関連し対「ソ」開戦を回避する為対「ソ」譲歩を必要とする場合
(イ)満州国の非武装
(ロ)北樺太利権及漁業権の返還
(ハ)亜欧連絡の打通


  (ロ)のアメリカの4原則とは、「ハル・ノート」でアメリカが日本に要求してきた領土保全、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状不変更を指す。二、(ハ)の亜欧連絡の打通とは、ソ連にたいするアメリカの日本・アジア方面からの援助ルートをソ連に提供するというもので、戦闘中のドイツへの背信行為に当たる。また山本によれば二(イ)の「満州国の非武装」とは満州を実質的にソ連に明け渡すことにつながる。開戦以前というよりも、領土的にはそれよりもより後退した日本の姿が提示され、主戦派の戦争構想とはあきらかに対立するものだった。
  松谷はこの「終末方策」(九月案)を杉山元参謀総長・大将をはじめ陸軍上層部に報告したが、当然の結果というべきか国策には反映されず、9月30日の御前会議では1948年末まで戦争を継続するという主戦派の主張に沿った「戦争指導大綱」が決定された。
  その後も松谷の戦争指導班は戦況の敗退的推移とともに悲観色をより加味した講和案をつくり上層部に報告するもののとりあげられることはなかった。留意しなければならないのは、松谷らの案もまた主戦派の「一撃講和論」に与していることで、戦況を有利に導いたうえでの講和交渉を開始する旨で、はじめから白旗を挙げる体のものではなかったことだ。「一撃講和論」に与するならば戦闘継続であり、その点では作戦課と何ら変わりはない。講和の時期の遅早、戦況に対する悲観か楽観かの相違が作戦課と戦争指導課にはあったが、今日から見ると微差であるかもしれない。また作戦課が大陸戦重視であるのに対し戦争指導課は太平洋戦重視であった。
  ただ1944年1月4日の戦争指導班(この頃は作戦部の作戦課と並立した組織位置から参謀総長・参謀次長の直属組織に編成変えされた。「課」から「班」へ)作成の「昭和十九年度に於ける危機克服の為採るへき戦争指導方策に関する説明」では1944年度中にソ連が参戦した場合「自主的戦争終末を獲得すること至難なるへし」「殊に十九年度に於いて一歩を誤れは国体の護持すらも真に困難に陥るへき危機」と記されたのは注目すべきだろう。のちのポツダム宣言受諾の条件として日本は唯一国体護持を「条件」として返答したのだから、その前触れにあたるのかもしれない。この文案も上層部に報告されたものの黙殺された。
  松谷らの文書提出(報告)はさらにつづくがソ連の仲介と「一撃講和」を引きずりつづけたので大同小異で、限界があった。ただ松谷は以後陸軍内の他部署に説得工作をつづけるかたわら陸軍外の「早期和平派」の人脈作りにも奔走することになる。山本は重光葵外相、松平康昌内大臣秘書官長の名を記す。また陸軍の酒井コウ(カネヘンに高)次中将は反東条的立場であり憲兵の監視下にあったが(予備役から1943年11月参謀本部付に就任)同じく反東条的立場にあった近衛文麿や側近の細川護貞との連携を形成し、やがて松谷とも連携するようになる。松谷や酒井が情報提供をし、それが近衛からさらに天皇の弟の海軍軍令部の高松宮にも伝えられた。こうしてゆるやかな「早期和平派」が形成された。
  44年6月29日松谷誠は東条英機に「清水の舞台から飛び降りるつもりで」(山本)、戦況最悪の場合は国体護持のみを条件とする終戦に向けてソ連を通じての米英との外交交渉を基礎づけねばならないという提案をした。東条はいやな顔をしながらも何も言わなかったそうだ。まもなく東条は松谷を戦争指導班から追放し、支那派遣軍参謀へ転任させ、酒井コウ次も召集解除とした。だが東条内閣が7月18日に退陣し「松谷は一一月には陸軍中央に復活、酒井も民間に下って活動を再開」(山本)する。
  ここまでが本書第二章までの概要で、第三章は松谷の杉山、阿南両陸相にたいする説得工作(無論、陸海軍中堅層にもなされるが)や、悪化する一方の戦況に呼応するかのような陸海両軍の「中間派」(日和見派)の形成が詳しく記される。中間派とは内心は戦争継続困難と思いながらも公的な会合ではそれを口に出せず相変わらず徹底抗戦を主張する姿勢の人物を指し、阿南や梅津参謀総長その他である。強硬派の暴発を未然にするため、つまりクーデターによる特に陸軍分裂を回避するためあえてそういう発言をつづけたのだろう。そして機をみて本音を切り出す。梅津は1945年6月11日天皇に「大陸の陸軍は壊滅状態」との上奏を行い,天皇はじめ漏れ伝えられた重臣層にも終戦志向へのいっそうの傾斜をもたらしたといわれる。45年6月22日、御前会議によってソ連を仲介とする終戦工作が正式に決定された。43年の松谷の案が日の目をみたのだが、いかにも遅い。そして8月9日、14日の二回にわたる「御聖断」によって終戦となる。
  梅津・阿南は御前会議において最後までポツダム宣言受諾に反対した。国体護持の確信がもてないというのが表向きの理由だが、敵の降伏勧告を軍人のトップとして受け入れられないという姿勢が芯に強固にあったのではないだろうか。梅津の長男の梅津美一の回想によると御前会議での抵抗を「『バカ、いやしくも全日本軍の作戦の総責任者として、もう戦争は出来ません、などという無責任な発言が出来ると思うか』と一笑に附された」(『最後の参謀総長梅津美治郎』)大部分の軍団の責任者が敵の降伏勧告にも関わらずに捕虜になることを拒否し、最後まで戦った。その姿勢を陸軍全体で共有しようとする思いが梅津にもあったのかもしれない。
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山本智之『主戦か講和か』(1)

  こちらの方は日本陸軍内部における終戦工作をとりあげている。開戦当初の日本には戦争終了の構想がなかった。つまりは勝利以外の事態はもともと想定外であったようだ。というよりも必勝をひたすら信じて、その類のことを考えること自体が反軍反国家的営為とみなされたのか。太平洋戦争開戦直前の1941年11月15日「大本営政府連絡会議」は次のように決定した。
 

 速に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈伏を促進し独伊と提携して先つ英の屈伏を図り米の継戦意志を喪失せしむるに勉む「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(『外交資料 近代日本の膨張と侵略』)(原文ではひらがな部分はカタカナ)


  専門家にはよく知られた「構想」であるようで、近々アメリカとの戦争をはじめようとする時期でありながら当のアメリカのことが日本として直接的に問題にされていないのが不思議だ。ドイツの勝利によってイギリスを敗北たらしめアメリカの「継戦意志を喪失せしむる」というのだからアメリカに対して日本単独による勝利の展望が確固として持てなかったのか、曖昧だ。あるいは戦況有利のもとでの講和を探るという思いが大っぴらにではなく軍部中枢の個々人に抱かれていたのか。ドイツの開戦当初の快進撃に軍部や政治家の一部が幻惑されたことは確かなようで、その後もドイツの戦況は彼らにとって一喜一憂をもたらした。
  わたしたちは歴史の結果を知るところなので必勝を確信し徹底抗戦を貫徹しようとする強硬派のあまりの楽観論に失笑してしまう場面に出会うが、やがては憂鬱に見舞われる。ひどいものだなと思う。著者山本智之によると「バスに乗り遅れるな」を合言葉にする開戦当初のドイツへの羨望には羨望どころか、ドイツの勝利をひそかに<心配>する心理があったという。満州や南方諸島の権益が勝利したドイツによって奪われるのではないかとの焦りだ。その前に戦に打って出なければならないとの、後ろから肩を押されるような決断でもあったのか。
  本書で主人公として擬せられるのは松谷誠(1903~1998)という人で陸軍大佐。1943年3月17日参謀本部戦争指導課(第15課)課長に就任。戦争指導課とはそれ以前からも以後においても名称や組織内部の上下関係を変えながらも、終戦まで戦争終結の研究と上部指導者への進言をつづけた組織で、山本によれば、松谷は陸軍全体から「消極論者」「悲観論者」と見なされていた。その松谷にふさわしい仕事だったのか。その年の2月にはドイツがスターリングラード戦に敗北し、以後後退戦を余儀なくされることになった。3月には天皇が複数の重臣に平和(早期講和)への関心を強く示した。また同月にはバチカンにアメリカのスペルマン・ニュウヨーク大司教、ドイツのリッペンドロップ外相の訪問や、イタリアのチアノ外相のバチカン使節任命などが報じられ、戦争指導課に大きな関心を持たれている。戦争指導課のみならず日本政軍中枢がこれらを講和への動きではないかと疑ったのだろう。独伊と英米が和平したならば日本は単独で戦わねばならないから勝利がとおざかること必至だ。山本はドイツへの疑心が開戦時とは逆方向に向き始めたと指摘する。
  3月以降、松谷らは研究案をつくりつぎつぎと省部会議(陸軍省と参謀本部の合同会議)に提出するが、ドラスチックなものではなく、「主戦派」(好戦的戦争継続派)にも受け入れられやすいものだった。山本によると、松谷らの最初の案は、独英和平、日蒋和平、独ソ和平などの「部分和平」のつぎつぎの実現によって世界戦争終末にいきつくという進捗が期待され、とりわけ独ソ和平の実現とそのための日本政府による斡旋が骨子とされた。独ソ和平やドイツの勝利を期待した陸軍軍人が多くいたので、その意向に沿ったのである。(天皇も「独ソ妥協」に期待していたP83)「終戦研究」といっても陸軍内の公然組織でのことだから反軍的要素は滲ませられないのはやむをえないのかもしれない。当時日本にとって中立国であったソ連にたいする期待はまったく虫のよいもので、独ソ和平のみならず枢軸国陣営への「取り込み」まで視野に入れていたというから驚く。逆にその裏側では陸軍「主戦派」(好戦的戦争継続派)はたえずソ連東部への侵入のチャンスを窺っていた。ソ連という大国をかってに子供扱いしていたのだ。山本によると、先に引用した「腹案」にソ連がくわわって、陸軍中央は「独ソ和解→ソ連の枢軸国陣営合流→英屈伏促進→米国内における厭戦気分蔓延」という勝利の方程式でまとまっていく。このソ連にたいする甘い見通しは何の疑いもなく終戦までずっともちこされる。戦争指導課でさえそうだったのだ。失笑すべきか、呆れるべきか。
  主戦派の牙城は参謀本部作戦部作戦課という部署であり、開戦当時の布陣は作戦部長・田中新一中将、作戦課長・服部卓四郎大佐、戦力班長・辻政信中佐、総合補佐・瀬島龍三大尉などで、田中と服部の二人はガタルカナル戦敗北という背景があって1942年12月に解任されるが、服部は43年10月に作戦課長に復帰する。そのときの作戦課長だった真田穣一郎少将が作戦部長に格上げされる人事となった。山本によると服部は主戦派のエースと目されており、東条英機にも信頼されていた。作戦課もまた終戦研究を独自に行っていたようだが、省略するが、昭和23年を目途とするという楽観的な見通しを立てていた。




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有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(2)

  45年4月12日のルーズヴェルトの死によって大統領職となったトルーマンは、カイロ宣言にすでに盛り込まれた日本に対する「無条件降伏勧告案」を引き継いで、議会においても同趣旨の演説を行なった。だが本書によると内心の迷いはあったようだ。トルーマンは、ルーズヴェルトがスターリンに約束したソ連に参戦を促すための満州権益や樺太、千島列島のソ連への譲渡を記した「ヤルタ密約」、さらに原爆開発が順調に進展していることを知ることになる。アメリカ兵の犠牲を最小化するためにソ連参戦路線を踏襲するか、それともソ連のアジア地域での勢力膨張をおさえるためにヤルタ密約の空文化に資する行動をとるべきか、また原爆を投下するかしないか、未曽有の政治選択がトルーマンにのしかかってきたのである。また、アメリカ国内世論も無視できなかった。天皇の処遇についての峻烈な意見が大半だったのである。45年6月29日付の「ワシントンポスト」の世論調査では

天皇の取り扱いについて
処刑             三三パーセント
裁判で決める         一七パーセント
終身刑            一一パーセント 
追放              九パーセント
日本を操作する傀儡にする    三パーセント 
その他・回答なし       二三パーセント
軍閥の道具だったので何もしない 四パーセント


となっていた。これが「民意」である。トルーマンにとっては、おいそれと「無条件降伏」(天皇制廃止を十分匂わせる)の旗はおろせない。
  本書を読んでわたしが光明を見出したのは、ダレスやグルーや陸軍長官スティムソン(但し、彼は原爆投下には賛成。第一候補の京都を目標にすることには反対)陸軍次官補マクロイその他の政治・軍事に携わる高位メンバーが「天皇制存置」を明示する有条件降伏をトルーマンに進言して、トルーマンは一時的にせよその方針に引き寄せられたことだ。そうすれば日本はかかる「有条件降伏」を受け入れてくれて、ソ連参戦も原爆投下も実現せず、またアメリカ兵の犠牲も最小化されるだろうから。グルーは大統領にはたらきかけて、次のような対日声明を五月三一日に出させようとした。トルーマンは興味を示したという。

  連合国の占領軍は、これらの目的(侵略的軍国主義の根絶)が
達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するであろう。もし、平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植えつけられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立件君主制を含むこととする。


  のちのポツダム宣言第一二項の草案にあたる。だがこの声明発表は翌日の高官会議(有馬によると出席者はグルー、スティムソン、ジョージ・マーシャル元帥・陸軍参謀総長、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、ユージン・ドーマン(国務省でグルーの部下)ディヴィスOWI(戦時情報局)長官、サミュエル・ローゼンマン判事(大統領顧問)である)における議論で一旦は保留と決められた。
  この間の「無条件派」とグルーらの「有条件派」とのトルーマンを頂点にしての鬩ぎあいが本書ではたいへん詳しく辿られている。 有馬が肩入れするせいか、後者が押し気味に見えるだけに日本人にとっては残念きわまりないが、大胆過ぎる、あるいは政策選択を狭めることになると考えられたのか。トルーマンの意向もあらかじめ反映されていたのか。七月一七日からはチャーチル、スターリンとのポツダム会談が予定されており、トルーマンは一国単独での日本との和平交渉を進めることをためらったのか。あるいは日本が「有条件降伏」であっても条件をさらにつりあげたり、拒否・逡巡する可能性を捨てきれなかったのか、日本の反応が読み切れないことがトルーマンの熟慮のなかで引っかかったのか。(ダレスやグルーは日本の受諾がほぼ一〇〇パーセントと確信していた)それも考えられるが、同時にくだんの会議でのスティムソンの発言のように、原爆の完成がやはり大きいウェイトを占めたようだ。原爆を落とせば降伏が早まる可能性が大なので、降伏条件をわざわざこちらから下げることも無い。沖縄戦を上まわる犠牲者を覚悟しなければならない九州上陸作戦も実施しなくても済み、原爆の残酷な破壊力を示すことでソ連を怯えさせ参戦を防止することができるかもしれない。あとは原爆投下が先か無条件降伏勧告が先かという政策選択がトルーマンに最後までのこされることになる。勧告を先にしても発表してからわずかな日数の間のみその受諾のチャンスを与え、受諾がないならば投下する。トルーマンの路線はこのように収束して行った。

十三 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス


  ポツダム宣言一三項であるが「右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」という文言は原爆投下を強く暗示する。天皇制存続方針や原爆投下をグルーやダレスは日本に知らせることはなく、したがって日本が事前に知るところとはならなかった。だがグルーやダレスは「無条件」が日本にとって如何に穏当な政策措置であるかを日本に説明することで、天皇制存続の大きい可能性を間接的に示すことで、日本の降伏を一日も早く実現させようとした。先に記したように、スイスのヤコブソンや加瀬俊一をはじめとする日本人との無線連絡のほか、グルー、ダレスと連携した海軍大佐ザカライアスの日本に降伏を呼びかける対日ラジオ放送が五月八日からワシントンのラジオ局で開始された。(東郷外相や天皇の知るところとなり関心をもたれる)曰く、降伏において軍隊は武装解除され軍部は壊滅されるが、日本国民の絶滅や奴隷化がなされるのではないと。(日本人自らによる平和国家の建設を推奨するポツダム宣言ほどの明瞭さはないがものの)さらには後続する放送や声名のすべてにおいて、天皇についての言及は一切なかった。天皇について何も触れないことが日本に不安と焦慮を抱かせつづけたが、逆にグルーらにとっては徹底して何も触れないことで、つまり懲罰云々を天皇にからめて言及しないことでその存続を日本側に推測してもらいたかったのだ。明言は国家方針への反逆にあたるのだから。
  グルーは七月二一日『ワシントンポスト』に「無条件降伏」という無署名記事を発表し、日本の政体選択の自由と領土の保全を保障した。(但し、満州や樺太や千島列島は除かれる、また朝鮮半島は独立を回復されるとした)とりわけその根拠を『大西洋憲章』にもとづくとしたことが日本を大いに刺激したと思われる。第3項には「三、兩國ハ一切ノ國民カ其ノ下ニ生活セントスル政體ヲ選擇スルノ權利ヲ尊重ス。兩國ハ主權及自治ヲ強奪セラレタル者ニ主權及自治カ返還セラルルコトヲ希望ス。」と明記されており、天皇制存続を日本国民の「選択」を前提としながらも保障すると読むことができる。また、憲章はチャーチルとルーズヴェルトの署名によるのだからトルーマンに引き継がれていると見做され、決してグルーの越権行為には当たらない。それまでのアメリカ側の声名や放送にさらにこの記事がくわわって、日本側は天皇制維持を強く推測することができた。また、ポツダムに同行したスティムソン陸軍長官もトルーマンに対して「二枚腰」をみせて、降伏交渉における日本への天皇制の保障の約束を進言していて、トルーマンも「心に刻んだ」ということだ。
  だが、時間が前後するが、七月一七日日本政府は「無条件降伏は決してしない、総力をあげて敵と戦う」と言明したとの情報が伝わって来た。(本書に頻繁に出てくる日本の暗号電報を解読した「マジック文書」による)。これによってポツダム宣言草案にあった「天皇制存置条項」は削除されることになる。アメリカを硬化させたのだ。
   七月二六日「ポツダム宣言発」発表。ここにきても今思えばの感想にはちがいないが、日本側はほんとうに愚図愚図している。正式の交渉相手はいまだにソ連であり、最後までその決定は覆らなかった。情報収集とともに降伏を進言するスイスの加瀬公使らは交渉権を政府からは得ていないのだ。七月二八日の鈴木貫太郎首相の宣言「黙殺」発言。これが原爆投下への絶好の口実とされたという見方もある。長崎原爆とソ連参戦の翌日の一〇日、日本から「宣言は天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を苞合しおらざる了解のもとに日本政府は之を受諾す」という電報がスイスの加瀬とスウェーデン公使の岡本季正(すえまさ)に打たれ、アメリカの間髪をおかず知るところとなった。原爆の大破壊を蒙りながら最後まで天皇の処遇にこだわるのは呆れかえってもいいくらいだが、政府の根本方針だからやむをえないのか。さらにこの回答文に対するアメリカ側の賛否や逆回答文の文案でもトルーマン以下の高官内部で意見対立があったものの、はじめて天皇の当面の処遇維持を明記した「バーンズ回答」を日本に通達した。(八月一二日)だが御前会議においても一二日一三日と阿南陸相らの反対意見があって結着せず、宣言受け入れが「御聖断」によって正式に決定したのは一四日である。一五日、天皇の玉音放送によって国民全員が終戦( 敗戦)を知ることになる。
  明治憲法下における天皇制体制を日本人はみずから壊すことができなかったばかりか、壊そうともしなかった。天皇の宣戦布告によって戦争ははじまり、玉音放送によって、つまり天皇の停戦命令によって、一部を除いて陸海軍の戦闘はぴたりと止まった。天皇の言葉は絶大であり、これはアメリカ軍の思惑どおりであり、日本人にとっては至極当然のことであった。
  トルーマンのソ連に対する対応の変遷が興味を惹いたので補足したい。ソ連参戦を実現させてアメリカ軍の損耗を減少させたい。それが大統領就任時のトルーマンがルーズヴェルトから引き継いだ政治方針であり自らの希望であった。しかし、七月になって日本のソ連にたいする和平交渉が公然となると、彼は焦ったかもしれない。つまりソ連が日本を抱きこんで降伏にもちこむと連合国側の主導権をソ連に奪われるのではないかと。それよりも直前の希望のようにソ連参戦のほうがましだ。だが原爆の実用化が日程にのぼると、原爆の威力をソ連に見せつけることによってソ連参戦を防止できるのではないか、つまりソ連のアジア地域での勢力拡大を封じることができるのではないか、とのより大きい欲が彼の中で芽生えた。原爆はアメリカ単独でしかも自国兵士の損耗なく日本を降伏に追い込むことを可能ならしめる兵器だから。またドイツの例をみてソ連を含む分割支配ではなく、アメリカ単独での日本支配をアメリカが理想としたから。また、アメリカが得た情報ではソ連参戦は八月一五日以降であり、中国との取り決めが完了してからでないと満州に南下することはないとの見通しをもっていた。だがソ連は一週間早く満州に雪崩れこんできた。トルーマンのあわよくばの思いは潰えた。

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有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(1)

  1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し戦争は終わった。同宣言には「無条件降伏」の文言が盛り込まれているものの、実際的には、天皇制の存続を日本側が条件とする有条件降伏であったことが今日における歴史研究検証の成果として結論づけられている。また15日直前の歴史的事件のスケジュールも知られているようにめまぐるしく、8月6日広島に原爆投下、9日長崎に原爆投下、同日ソ連参戦となっている。こうした一連の8月15日までにいたるまでの日程が、最終的降伏条件の内実とともに、外交折衝や日米両国における国内の政治的葛藤のなかで(ソ連も含めて)如何に決定づけられていったのかを逐次的にたどるのが本書である。つまり日米それぞれのトップの政治的決断がちがえば、戦争終結は早まった可能性があることを著者有馬哲夫は示そうとする。逆に8月15日よりももっと遠のいた可能性も。
  44年10月、レイテ沖海戦において日本海軍は壊滅的な敗北を喫し、アメリカ軍と互角に戦うことは不可能になり、絶望的な特攻攻撃をつづけるしかなくなった。翌年の5月にはドイツが降伏、6月にはアメリカ軍の沖縄占領が完了し、日本の敗北は時間の問題となった。この頃と前後して日本国家首脳において外務省、海軍の一部、天皇・皇室を中心にして和平(降伏)摸索の動きが台頭してくる。しかし一方においては陸軍を中心とする戦争継続派は依然としてその意志を貫徹すべく、妥協を排斥しつづけた。その陸軍もようやくのように降伏受け入れに傾くものの、天皇制存続とともに戦争犯罪者の裁判の自国主催やアメリカ軍の占領反対の条件をくわえ、天皇制存続のみを条件とする勢力とは真っ向対立の姿勢を最後まで崩さなかった。つまりは最終的には天皇の「御聖断」によってしかポツダム宣言は受け入れられなかった……。天皇は明治憲法下においては国家の法的根幹をなすものであり、現人神(あらひとがみ)といわれるように崇拝と信仰の対象でもあった。強制であれ自発であれ、天皇に一命を捧げるという名目のもとに死んでいった人々が多くいる。人々の死によって交換され生かされる生。その天皇の救命と制度維持をないがしろにはできないという国家首脳の当然の大前提を理解できないというのではないが。
ありえないことだが、もし「無条件降伏」を呑みこむようにそのまま受け入れていたら、戦後天皇はどういう命運に辿り着いたのかとわたしは思ってみる。今日明らかになったアメリカの占領統治計画からすれば、現在の天皇のありかたとそれほどの違いは無かった、生存と地位継続は可能ではなかったかと思えるのだが。というのも戦争における日本人死者の総計は300万人余りで、そのうちの50万人以上が45年の6月から8月にかけての3か月間に死去したといわれるのだから降伏がより早ければより多くの人命が救われたことは明らかで、天皇一人の命と地位保障が、降伏が遅くなった日数分の多数の人命と引き換えられたのだ、と記しておきたい。
  国家首脳は「無条件降伏」案をあまりにも杓子定規に解釈したのか。そうかもしれないが、彼等はその中身をより正確に知りたがった。天皇の地位に眼をつむって降伏することは国家反逆罪に相当するといっても過言ではないだろう。
  しかし、それならばそれで何故アメリカとのトップ交渉を設定しようとはせず、ソ連を仲介役とする米英との和平交渉という今日から見れば愚かしい決定をしたのか(5月14日、秘密裡の最高戦争指導会議で内定、6月8日「時局収拾ノ対策試案」で正式決定。有馬によるとこの日以降、天皇は和平を見据えるようになる)戦いの真最中のアメリカに対して日本の上位軍人か大臣クラスの人を全権として本格交渉に臨ませればよかったのではないか。アメリカとの直接の交渉が国内で弱腰にみられることを、さらには陸軍の反対や反乱を怖れたのだろうか。天皇が賛成の意思を示したこともソ連との交渉を後押ししたようだ。とにもかくにもアメリカとの直接交渉は国家首脳間で合意されなかった。しかしながら、ソ連との交渉といっても日本側から和平条件を明示せずに、もっぱら相手の腹をさぐる体で、佐藤駐ソ大使とモロゾフ外相、広田広毅とマリク駐日ソ連大使との二つの会談においても何ら成果はなかった。ソ連は対日参戦をすでに決定済みだったので冷徹に沈黙を守るしかなかったし、またソ連からのインテリジェンス収集網も日本には皆無だった。(ソ連のドイツ降伏の3カ月後に日本戦参戦の情報はヨーロッパ各国大使館からの入電があったものの、日本政府においては未確定とされた。参戦以前のソ連は「中立国」と見做されていた)それに比べると、スイス公使加瀬俊一(東郷茂徳外相の秘書とは同姓同名の別人)を中心とする国際決済銀行幹部のスウェーデン人・ヤコブソンを中継点としてのアメリカへの連絡ルートのほうがより機能したとみえる。この連絡ルートもアメリカの腹を探る体以上ではなかったものの、アメリカが当の情報網以外の手段も使って情報を小出しにしてくれたのだ。
  アメリカの腹づもりとしては大勢は天皇制存続だったようだが、それを日本側に最後まで明言することはなかった。日本側の打診は執拗で、ヤコブソンや彼との連絡網を構築中のアレン・ダレスをうんざりさせた。個人的見解でもせめて聞かせてくれと日本側は懇願したが、ダレスは勿論沈黙した。ダレスはOSS(戦略情報局・大統領直属の諜報機関)スイス支局長として42年1月10日から45年5月28日までベルンに赴任、45年7月占領地高等弁務官となりドイツのヴィースバーデンに赴任。6月の一時帰国の期間においてもヤコブソンやスイスに居住する私的秘書のゲフェルニッツと連絡を欠かさず、アメリカ国内においても国務長官代理のジョセフ・グルー(ダレスの国務省時代の上司に当たる)とも日米戦争に関して話し合いを密にしていた。
  有馬哲夫によってスイス在住の重要関連人物として挙げられているのは他に、日本側では岡本清福(とみ)陸軍少将・スイス公使館付武官、西原市郎海軍大佐・同武官、藤村義朗海軍中佐・同武官、北村孝治郎・横浜正金銀行社員でのちに国際決済銀行に出向、吉村侃・国際決済銀行社員、朝日新聞では笠信太郎、笹本駿二、田口二郎。外国人では亡命ドイツ人のフリードリッヒ・ハック、(元ナチスの武器商人でOSSエージェントでありながら日本とも協力関係にあった)亡命ドイツ人でダレスの私的秘書のゲロ・フォン・シュルツ・ゲフェルニッツ、である。
 
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