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川田稔『木戸幸一』

政治・歴史・経済関連
05 /17 2020
  戦前戦中期における日本の最大の実力(暴力)組織といえば陸軍だった。政治家も皇室も海軍もまた経済界もそうであっただろう、その意向をおもんばからないわけにはいかなかった。だが陸軍においては、満州事変にかぎっては彼らの独断決行であったものの、それ以上の政治的独裁を希求しなかった。二・二六事件は青年将校中心の反乱であり、陸軍上層部にも彼等に親近感をもつ者も少なからず存在したようだが、積極的に後押しすることはなく、最終的に天皇にその行動の是非について判断をあおぐという青年将校の待機姿勢と同一であった。つまり天皇を拉致してまで政治体制を「刷新」しようとする意図は、青年将校にも陸軍上層部にもなく、天皇中心の明治憲法体制まで覆滅しようとはしなかった。反乱の結果は、昭和天皇の逆鱗に触れて、動員された部隊は帰隊させられて事件は短時日のうち終息し、反乱部隊の指導者の主だった者は後日処刑された。
  陸軍は近隣諸国にたいする積極的膨張侵略路線の中心推進組織であり、敗色濃厚の戦争末期においても戦争継続の旗をおろさなかったが、それは政治担当者(内閣)や皇室や天皇にその方針をあくまで大本営政府連絡会議・御前会議等、合議体制によって押し付けることができたからだ。昭和天皇は元来から英米協調主義であり、政治家のなかにも英米協調志向は多くあり、そうでなくても非戦論、消極論者はいたが、陸軍は岩盤であり、論においてその主張と立場をくつがえすことができなかった。天皇においても会議においての決定が政・軍一致の正式なものであれば裁可するしかなかった。当時の憲法体制においてはそうせざるをえなかったのだ。
  本書は内大臣の木戸幸一を媒介にして日米戦前後の経過をたどっていくのだが、天皇の政治的補佐役である木戸が一番怖れたのが皇室の崩壊であり、陸軍に対抗しうる実力組織をもたない天皇が政争の渦中に深入りすることに警戒心をもった。それゆえ、天皇の思想や心情は尊重しつつも、あからさまな陸軍批判を天皇の口から吐かせることは回避させたかった。天皇との相談のうえでおおまかな内諾をえたのだろう。また木戸自身も思想的には政治家よりも陸軍に親近感を抱いていたというが、そうでなくても不穏さを発散させる陸軍との連絡はおこたらず、最低限の融和を維持しつづけたようだ。木戸は機を見るに敏であった。英米協調傾向だった元老の西園寺公望をその晩年宮廷内の重要決定からとおざけた。とくに従来の元老中心の次期首相奏薦において、木戸は首相経験者など重臣連との会議を優先し、西園寺にたいしては事後における承認要請にまで後退させた。筆者川田稔は西園寺の不快さをにじませる。また、第三次近衛内閣が昭和十六年十月十六日総辞職し次期首相に皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が推されそうになったとき木戸は躊躇なく反対した。木戸も近衛らと同様、日米開戦には反対だったが、皇族の政治への深入りを回避したのだ。川田は「……戦争による国民の膨大な犠牲を、皇族内閣で回避する可能性よりも、皇室の存続、皇室存在の動揺回避を優先したのである。それが木戸の基本的スタンスだった。」と記す。
  内大臣という地位は、大臣と名付けられていても内閣閣僚ではなくそのため長期間の在任が可能であり、政・軍界における安定的な位置をもとめつづけることができた。優勢勢力に近接する位置を確保しながらも、その勢力に陰りがみえはじめると離反をためらわなかった。開戦時の東条英機内閣を天皇とともに支持しつづけたが、反東条の動きが活発になるとそちらに軸足をうつした。だが政治的動きの先頭に立つのではなく、あくまでも勢力図を見極めてからの二番手、三番手としての動きだった。  
  近衛首相は総辞職以前に日米頂上会談を企図したことがあった。当時、日本の南部仏印進駐にたいしてアメリカは態度を硬化させ、対日石油全面禁輸の処置をとり、日本の燃料需給を逼迫させた。ルーズヴェルト大統領との直談判によってアメリカ側の要求をほとんど丸のみすることによって通商・友好関係を再構築させ、帰国後天皇の勅裁をへてその政治決定を有効化しようとしたものだが、これはあまりにもトリッキーで外交交渉の常道から逸脱する手法でしかなく、米側からも断られた。かねてからの中国や仏印からの撤兵や三国同盟の実質的破棄というアメリカからの過酷ともいえる要求にたいして当然陸軍は反対の立場だったから、陸軍その他の閣僚に事前相談なしに(会談の計画自体は知らせたが腹案は秘匿された)いきなりアメリカという「外圧」と天皇の威光を借りて解決しようとしたのだが、外務官僚などによる予備交渉なしのトップ会談では当然アメリカも警戒して相手にしなかった。一面、こういう奇策によってしか陸軍を抑え込むことができないのではないかという近衛の心中も察せられないこともないのだが。川田によれば日米首脳会談の不実現が確定した後の近衛は、重要会議において日米開戦反対の立場での発言をしておらず「不可解」だと記す。論による陸軍にたいする反駁を近衛は避けたのだ。
  本書でわたし個人が知ったことをあげておく。アメリカが以前に提起し、日本側も了承していた「日米了解案」(省略)と呼ばれる曖昧かつ日本側から見ると穏当な日米交渉の土台案がアメリカによって破棄され、石油禁輸処置とともにのちのハル・ノートにも通じる先に記した日本側にたいする苛烈な要求に切り替わったのは、アメリカの政策変更によるということだ。十六年八月頃、ドイツ軍はモスクワ近郊にまで迫っていてアメリカはソ連崩壊の危機を抱き、その時期に日本がドイツと呼応して北進(対ソ連戦参戦)しソ連を挟撃することを怖れた。そのために石油禁輸による日本の戦争遂行能力への打撃を図ったのだ。ソ連が降伏するとドイツの戦力はそれまで以上にイギリスに向かいその運命も危うくなる。アメリカも日米戦をできれば回避したく、石油禁輸をすれば、日本が石油をもとめて蘭印(現在のインドネシア)に侵入することが予想できたが、ソ連を助けるために日本の北進を挫くためにあえて日米開戦を覚悟したのだと。川田の記述「南部仏印進駐に対するアメリカの対日全面禁輸は、一般には日本のさらなるつまり南方進出を抑制するためだったと理解されている。だが、むしろ北方での本格的な対ソ攻撃を阻止するためだったのである。アメリカにとっては日本の「南進」よりも「北進」が問題だった。」
  できれば日米開戦を避けたいという従来のアメリカの対日方針があり、ルーズヴェルも対日石油禁輸には日本の蘭印侵出を誘発するとして否定的だったのだが、それを覚悟してまで日本の北進阻止を優先した。その狙いは見事にはまり、北進論をとなえていた陸軍の一部は計画を中止せざるをえなかった。わたしも川田の指摘する「一般」の見方をなんとなく引き継いでいたが、川田の見識は整合性があると思った。
  もうひとつ。東条英機はじめ陸軍・海軍幕僚や政治家はそろってアメリカに対して勝ち目がないことを認めていた。アメリカとの戦いの主役は陸軍ではなく海軍であり、海軍がゴーサインを出さなければ日米戦はなかったのだが、東条内閣時の嶋田繁太郎海相が戦争決意を表明し、非戦への最後の堤防が決壊した。
 



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佐野真一『唐牛伝』(二)

政治・歴史・経済関連
01 /03 2020
  唐牛健太郎の交友範囲はひろく、人によってさまざまな見方がされる。子供や女性にはやさしく人気があったという。某女性によると一目惚れさせるカッコよさがあった。映画会社や政界からの誘いもあった。また大言壮語というか、思いついた行動計画をしばしば披露した。北大の親友の榊原勝昭という人が『唐牛健太郎追想集』という本に寄稿しているが、佐野は
 

 それによると唐牛は、四半世紀に亘って突然現れては「伊勢湾でくるまエビの養殖をやるから餌を探せ」「鹿島の石油基地で消防隊を組織するから、沖田総司なみに一番隊長を務めろ」などと持ち掛けた。さらには、マグロのトローリング・ツアーの企画や、アルプスのスキーガイド学校への入学、津軽海峡のトンネル掘りまで脈絡なく、口にしていたという。


と記す。
  唐牛のこれらの「計画」はすべて実現しなかったが、唐牛なりの親友だからこその楽しませ方ではなかったか。唐牛は酒豪であったので口が軽くなったのかもしれないが、半分ほどは本気ではなかったか、それともたんに話のネタで、聴く親友の反応ぶりをみて楽しんだのか。これはわたしの推測にすぎないが、佐野の次のような推論にひっかかるものを感じるからだ。「この乱雑すぎる好奇心のベクトルは、〝山っ気〟や〝気の多さ〟だけでは済まないアブノーマルなまでの社会への甘えを感じさせる。それが酷過ぎる見方とすれば、唐牛は学生運動を離れて以来、冷静な精神状態だったことはほとんどなかったのではないか。」と記すが、「社会への甘え」は親友への甘えではないか。そうならば、唐牛が「冷静な精神状態」ではなかったという推論にも即座には首肯しがたい。ただ平凡な人ではなかったとはいえるが。
  唐牛はこのような〈縁日の夜店みたいな賑やかさ〉の話をほかの人々にも披露したり、図々しさを発揮したり、友人の結婚式に無頼気取りか仕事着や長靴姿であらわれたりしたが、憎めない魅力ある人と映る一方、人によっては首をかしげさせる人物だっただろう。また晩年近く徳田虎雄の参謀になる直前のことであるが、徳洲会グループの能宗克之という人が、唐牛と徳田の初対面時の会話の現場に居合わせたときの様子を佐野のインタビューにこう答えている。島成郎が二人をひきあわせた。これまで引用した唐牛の人物像とは異なっている。

——ああ、唐牛は聞き役だったんですか。
「唐牛さんは非常に通る声で話すので、余計にそう思ったのかも知れません。自分の国会突入などの話はほとんどされなかった記憶があります。とにかく相手の言うことをどんどん引き出して、包み込むような雰囲気を作り出す人でした」
——唐牛はよく〝人たらし〟と言われます。
「〝人たらし〟というか、自分を押し付けない人でした。自分を積極的に出さないから、自分がないように感じてしまうんだと思います。まず相手を受け入れて、それから自分の意見を言うから、誰でも話しやすかったんじゃないですか(後略)」


  先に引用した榊原の語る唐牛の人物像とは一八〇度ほどのちがいがある。相手によっては接し方を変えるのが唐牛の流儀だろうか。ここには佐野が指摘するところの非「冷静な精神状態」はみられず、自然に好感を持たれるさまがつたわる。一方では唐牛は勇猛果敢の人であったので、それもまたおのずから端々で発露されたであろう。こういう多面的な人柄が、戦前の共産党委員長で「転向右翼」の田中清玄、山口組三代目組長の田岡一雄、日本精工会長の今里広記、徳田虎雄などの面々の「大物食い」を実現させたのではないか。また唐牛は優秀な人であったこともわかる。コンピューター会社ではトップ・セールスマンであったし、徳洲会では徳田の選挙参謀のほか、札幌や埼玉での徳洲会病院設立に奔走し実現に漕ぎつけた。この晩年の数年間にわたる業績は、唐牛の組織者としての才能がふたたび開花した時期だった。北海道紋別での漁師生活は二〇〇カイリ問題が浮上してきて、漁場が狭くなって多くの漁師が撤退を余儀なくされて唐牛も例外ではなかったが、このことがかえって唐牛に幸運をもたらしたといえるかもしれない。 
  捕捉。田中清玄から全学連が寄付を受けていたことが判明したのは一九六三年のTBSラジオの「ゆがんだ青春」という番組で、大反響を呼んだらしく、唐牛も打撃を受けた。だが田中は運動方針に口出しすることはなかった。六〇年当時の全学連の財政状況は逼迫していて、金を貰えるなら誰からでも諒とした。学生の大規模動員を最優先するための当然の方針だったと思え、田中が拠出した金額は全体から見て少額だったという。(児玉誉士夫からも寄付の申し込みがあったが、田中の意見で断ったという。また、佐野はラジオ番組制作者の吉永春子に接近をこころみたが、実現しなかった)田中清玄の企業に就職したことも唐牛にはなんら疚しさはなかったであろう。元全学連幹部の何人かもやくざ組織に世話になった時代があった。惣川のインタビューにもあったように彼等は思うようには就職できなかったためである。
  六〇年の騒動では自衛隊の登場の可能性があった。岸首相が当時の防衛庁長官・赤城宗徳に自衛隊出動の「強い要請」をしたが、赤城はこれを断ったとある。だが実際には練馬の自衛隊駐屯地には戦車五〇台が待機済みで、隊員の武器携行もぬかりなかったというから準備万端だった。またアイゼンハワー大統領の訪日にそなえて児玉誉士夫が右翼団体を東京に総結集させて学生デモに備えるという計画もあったが、大統領の訪日が中止されたので左右の激突は回避された。以前から知られていたことのようだが、わたしは本書をつうじていずれも初めて知った。
  一九八三年に直腸がんが発見され、以後闘病生活に入るものの翌年三月四日に死去。享年四七は短命だ。大酒飲みのエピソードがあちこちに記されており、寿命をちぢめる原因になったことは疑えない。あと何年か活躍できていればさらに声名を高めることができただろう。本書ではほかに、唐牛の北海道紋別での漁師時代や与論島での生活ぶり、さらに唐牛以外のブント幹部だった島成郎や青木昌彦(ペンネーム=姫岡玲治)や北小路敏らの人々の六〇年当時から以後の軌跡までも追求されてあますところがない。死後ではあるが(死後だからこそか)有名人はあれこれほじくりだされてつらいなと思った。

佐野真一『唐牛伝』(一)

政治・歴史・経済関連
01 /02 2020
  唐牛健太郎の名をはじめて耳にしたのは高校一年のときで、日共シンパらしい同じクラスの男子生徒から<右翼から金を貰っていた六〇年安保時の全学連委員長>と、憎々し気な口調で語ったことを覚えている。わたしは当時反日共系学生に好感をもち、のちに某セクトの活動家となるのだが、それを聴かされたときの素朴な印象としては、よくわからないながら、屈折した暗い人生だろうなということくらいでしかなかった。そういう人物が幹部にいたとしても闘争の本質が捻じ曲げられることはなかっただろうとの見通しも持ちえた。それから二年後の一九六九年の東大闘争時、安田講堂に籠城した学生の応援のために唐牛がヘリコプターに食料を積載して屋上に投下する計画があるという情報をセクトの仲間から聞いた。素朴にたのもしく思ったものだ。何年ものちに、その計画はヘリコプター会社が固辞したため実現しなかったことを週刊誌の情報で知ったが、おそらくは公安警察が唐牛の計画を知ってヘリ会社に圧力をかけたのではないかとわたしは推測したものだ。東大闘争のあったその年の後半、わたしは活動家を辞めたが、唐牛に関する情報は週刊誌をつうじてときどきは接することができた。主な職歴だけとっても、北海道で漁師をしたり、コムピューター会社のサラリーマンになったり、最後には徳洲会病院理事長の徳田虎雄の選挙参謀になったりと、わたしのようなおとなしい人間からすれば随分と振れ幅の大きい人生だったかにみえる。
  本書は唐牛健太郎の評伝であるが、わたしが触れてここまで記した数少ない情報はすべて事実だったことがわかった。ただ唐牛氏がすでに他界しているために(一九三七生~一九八四没)本人に直接聞くことができず、また本人の著作といいうるものがなく(委員長当時の集会での演説や後年におよぶ雑誌インタビューや短い「手記」のみ)過去の関連文献の狩猟や周辺の知人・友人へのインタビューを積み重ねて推論をすすめていくしかないという、ノンフィクションの通例か、きわめて根気のいる仕事となったようだ。唐牛の親類筋や関係者のなかには公安警察の聞き込みに辟易した人々もいて、インタビューをできずにひきさがることもあった。ただ、本人が死去したからこそ本人に遠慮なく仕事をすすめられるという利点もあったにちがいない。
  また佐野眞一自身自戒するようにできるだけ著者の主観や思想を回避しようとするために隔靴掻痒の感がなくもない。もっとズバッと書いてくれ、といいたくもなる。だが著者の「主観」も漏れ伝わってくる。佐野自身六〇年代の学生運動体験があるために唐牛に同情的でときには感傷的である。
  唐牛健太郎はブント(共産主義者同盟)書記長の島成郎の強力な推薦によって一九五九年六月全学連委員長になった。それまでの委員長は東大、京大出身者だったというから北大在学中の唐牛の就任は異例だった。このことが唐牛という人の人生を劇変させた。以後デモ隊を指揮し逮捕されること三回に及び、なかでも現場に立ち会った人々を驚かせたのが六〇年四月二六日の装甲車に乗ってアジ演説をしたのちの後方の機動隊の隊伍への「ダイビング」でほかの学生も続々とあとを追ったという。全学連の戦闘性は彼の率先行動によって具現された。六〇年代後半「反帝全学連」委員長となる藤本敏夫は「唐牛の100メートル以内は常に革命的だった」という。女子学生樺美智子が死んだ六〇年六月一五日の国会デモのときは唐牛は拘置所に収監されていた。巻末年表によるとその後の唐牛は六一年一月革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)に参加、同七月全学連委員長を辞任、六二年五月、革共同全国委を脱退という政治的履歴を刻んで、六三年七月から十一月頃まで宇都宮刑務所に服役。唐牛の政治運動者であった時間はここまでである。
  繰り返しになるが、短い年数であったものの学生運動の先頭者の地位に就いたことはその後の唐牛の人生に大きな影響をあたえたようだ。西部邁は「唐牛は島に上げ底にされた」という。以後もブント幹部をはじめとする運動仲間との交流はつづいたが、運動参加者からすれば彼はヒーローであったことに変わりはなかった。唐牛の二度目の妻となる真喜子の元夫の惣川(そうかわ)修は、妻を「略奪」されたにもかかわらず唐牛にきわめて同情的である。惣川もまた六〇年安保のときの活動家であったので、その共通基盤から導き出された心情や考察がはたらくのだろう。

  「唐牛は、本当はちゃんとした仕事につこうとしたんだ。だけど、全部権力が手を回して、排除した。つまり、唐牛は一罰百戒というか見せしめで、ほかの活動家はみんな大企業に入っていった。そういうところに入れない落ちこぼれとまではいわないが、まだ青春の燃えカスが残っているやつが唐牛のところに来て、もうすがるようにぶらさがるわけだよ。みんな、唐牛と親しいことを自分のステータスにしてね。おれは、それがかわいそうだったし、嫌だった。だって、唐牛が抱えた一番肝心な問題を、誰も関心もっていなかったからね。だから、唐牛は超孤独だった」



  「一番肝心な問題」とは、唐牛自身が以後になすべき何らかの実践をさすのか、それとも唐牛が「後悔」したと自身で語った革共同への参加のことだろうか。唐牛はこれも自身の言葉だが、個人としての政治活動は四・二六の逮捕時で終わったとの実感があった。にもかかわらず、革共同への参加を北小路敏や清水丈男よりも一足早くおこなった。これは彼の周囲に群がってくる学生活動家の迷いにたいして方向づけをしなければならないと慮ったからではないのかと、わたしは推測してみたくなる。政治からは大部分が関心が切れていながらの政治行動だったのではないか。だが彼が革共同をはなれてからも学生運動仲間は依然として唐牛にまとわりついたようだ。唐牛は彼らに確信的な言葉を返すことはなかったとみえるが、彼らをつき放すこともなかった。唐牛自身が模索の最中だったのではなかったか。「全学連委員長」の肩書は,それにつりあうか、もしくは肩書そのものを吹っ飛ばすほどの言葉や実践が実現されなければ重荷になりつづける。「一番肝心な問題」を唐牛自身が明瞭に語ることはついになかった。「自己韜晦」の人ではなかったか。ついでだが、わたしも活動家を辞めてからながく「青春の燃えカス」をもちつづけた。

山本智之『主戦か講和か』(2)

政治・歴史・経済関連
09 /08 2019
  43年9月8日イタリア降伏。ドイツも対ソ連戦での前線後退を余儀なくされていた。陸軍がヨーロッパ戦況を注目するなか戦争指導課は「大東亜戦争終末方策」を提出する。同じ題の案が8月と9月と二つあって、後者のなかの「戦争指導方針」では8月案の同項目にあった「独伊と提携し」の文言が消えてアメリカとの単独講和が目指される。「帝国は昭和十九年夏秋の候を期し主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し政戦略の諸施策を統合して自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む、……」この後、終末の時期を遅くとも昭和二十一年を目途とするとつづくが、「必勝不敗の戦略態勢を確立し」たうえで講和を目指す「一撃講和論」そのものであり、威勢がよすぎるもののアメリカとの単独講和が案として外部化されたのは画期的といえるだろう。さらに9月16日の「終末方策」では二種類の「対米英講和条件」が記されて具体化される。戦況有利下での「別紙第二」と不利下での「別紙第三」があり、前者では満州、中国等の完全独立や他の占領地域にたいしても「高度な自治」を認めたりするものの資源の優先的取得権は維持するなど、アジア地域全般において戦争によって得た権益を全面的に手放そうとする体ではなかった。これに対して「別紙第三」は陸軍(日本)にとっては屈辱的とも取られかねない思い切った譲歩がなされる。本書では両方の文が引用されているが、「別紙第三」のみ引用したい。

世界終戦の為不利なる妥協をするを得さる場合の媾和の条件
一、 対米英
(イ) 無併合、無賠償
(ロ) 米の四原則の承認
(ハ) 三国同盟の廃棄
(ニ) 支那に関しては日支事変前への復帰
(ホ) 仏印以南の東亜細亜南太平洋地域の昭和十五年九月以前の状態への復帰
(ヘ) 内太平洋の非武装
(ト) 日米通商関係の資金凍結以前への復帰
二、対英米交渉に関連し対「ソ」開戦を回避する為対「ソ」譲歩を必要とする場合
(イ)満州国の非武装
(ロ)北樺太利権及漁業権の返還
(ハ)亜欧連絡の打通


  (ロ)のアメリカの4原則とは、「ハル・ノート」でアメリカが日本に要求してきた領土保全、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状不変更を指す。二、(ハ)の亜欧連絡の打通とは、ソ連にたいするアメリカの日本・アジア方面からの援助ルートをソ連に提供するというもので、戦闘中のドイツへの背信行為に当たる。また山本によれば二(イ)の「満州国の非武装」とは満州を実質的にソ連に明け渡すことにつながる。開戦以前というよりも、領土的にはそれよりもより後退した日本の姿が提示され、主戦派の戦争構想とはあきらかに対立するものだった。
  松谷はこの「終末方策」(九月案)を杉山元参謀総長・大将をはじめ陸軍上層部に報告したが、当然の結果というべきか国策には反映されず、9月30日の御前会議では1948年末まで戦争を継続するという主戦派の主張に沿った「戦争指導大綱」が決定された。
  その後も松谷の戦争指導班は戦況の敗退的推移とともに悲観色をより加味した講和案をつくり上層部に報告するもののとりあげられることはなかった。留意しなければならないのは、松谷らの案もまた主戦派の「一撃講和論」に与していることで、戦況を有利に導いたうえでの講和交渉を開始する旨で、はじめから白旗を挙げる体のものではなかったことだ。「一撃講和論」に与するならば戦闘継続であり、その点では作戦課と何ら変わりはない。講和の時期の遅早、戦況に対する悲観か楽観かの相違が作戦課と戦争指導課にはあったが、今日から見ると微差であるかもしれない。また作戦課が大陸戦重視であるのに対し戦争指導課は太平洋戦重視であった。
  ただ1944年1月4日の戦争指導班(この頃は作戦部の作戦課と並立した組織位置から参謀総長・参謀次長の直属組織に編成変えされた。「課」から「班」へ)作成の「昭和十九年度に於ける危機克服の為採るへき戦争指導方策に関する説明」では1944年度中にソ連が参戦した場合「自主的戦争終末を獲得すること至難なるへし」「殊に十九年度に於いて一歩を誤れは国体の護持すらも真に困難に陥るへき危機」と記されたのは注目すべきだろう。のちのポツダム宣言受諾の条件として日本は唯一国体護持を「条件」として返答したのだから、その前触れにあたるのかもしれない。この文案も上層部に報告されたものの黙殺された。
  松谷らの文書提出(報告)はさらにつづくがソ連の仲介と「一撃講和」を引きずりつづけたので大同小異で、限界があった。ただ松谷は以後陸軍内の他部署に説得工作をつづけるかたわら陸軍外の「早期和平派」の人脈作りにも奔走することになる。山本は重光葵外相、松平康昌内大臣秘書官長の名を記す。また陸軍の酒井コウ(カネヘンに高)次中将は反東条的立場であり憲兵の監視下にあったが(予備役から1943年11月参謀本部付に就任)同じく反東条的立場にあった近衛文麿や側近の細川護貞との連携を形成し、やがて松谷とも連携するようになる。松谷や酒井が情報提供をし、それが近衛からさらに天皇の弟の海軍軍令部の高松宮にも伝えられた。こうしてゆるやかな「早期和平派」が形成された。
  44年6月29日松谷誠は東条英機に「清水の舞台から飛び降りるつもりで」(山本)、戦況最悪の場合は国体護持のみを条件とする終戦に向けてソ連を通じての米英との外交交渉を基礎づけねばならないという提案をした。東条はいやな顔をしながらも何も言わなかったそうだ。まもなく東条は松谷を戦争指導班から追放し、支那派遣軍参謀へ転任させ、酒井コウ次も召集解除とした。だが東条内閣が7月18日に退陣し「松谷は一一月には陸軍中央に復活、酒井も民間に下って活動を再開」(山本)する。
  ここまでが本書第二章までの概要で、第三章は松谷の杉山、阿南両陸相にたいする説得工作(無論、陸海軍中堅層にもなされるが)や、悪化する一方の戦況に呼応するかのような陸海両軍の「中間派」(日和見派)の形成が詳しく記される。中間派とは内心は戦争継続困難と思いながらも公的な会合ではそれを口に出せず相変わらず徹底抗戦を主張する姿勢の人物を指し、阿南や梅津参謀総長その他である。強硬派の暴発を未然にするため、つまりクーデターによる特に陸軍分裂を回避するためあえてそういう発言をつづけたのだろう。そして機をみて本音を切り出す。梅津は1945年6月11日天皇に「大陸の陸軍は壊滅状態」との上奏を行い,天皇はじめ漏れ伝えられた重臣層にも終戦志向へのいっそうの傾斜をもたらしたといわれる。45年6月22日、御前会議によってソ連を仲介とする終戦工作が正式に決定された。43年の松谷の案が日の目をみたのだが、いかにも遅い。そして8月9日、14日の二回にわたる「御聖断」によって終戦となる。
  梅津・阿南は御前会議において最後までポツダム宣言受諾に反対した。国体護持の確信がもてないというのが表向きの理由だが、敵の降伏勧告を軍人のトップとして受け入れられないという姿勢が芯に強固にあったのではないだろうか。梅津の長男の梅津美一の回想によると御前会議での抵抗を「『バカ、いやしくも全日本軍の作戦の総責任者として、もう戦争は出来ません、などという無責任な発言が出来ると思うか』と一笑に附された」(『最後の参謀総長梅津美治郎』)大部分の軍団の責任者が敵の降伏勧告にも関わらずに捕虜になることを拒否し、最後まで戦った。その姿勢を陸軍全体で共有しようとする思いが梅津にもあったのかもしれない。

seha

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