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川田稔『昭和陸軍全史1 満州事変』(2)

  若槻礼次郎首相は、事変勃発の当初は事態不拡大と関東軍の独立国家建国運動への不関与をいちはやく決議した。満鉄沿線への軍の撤退を、つまり事変以前への回帰をできれば実現したかったようだ。だが大陸の軍隊を思うように統率できず、結局は満州地域の事変以後の占領状態を認めざるを得なくなる。独立国家運動の水面下の動きも、表向きの方針はともかく放置するしかなくなる。若槻にとってはたいへん苦しい後退劇だっただろう。だが、総辞職に追い込まれるまではみずから職を投げ出すことはなかった。軍とのせめぎ合いはまだまだつづいているという現状への感覚があったのではないか。本土陸軍中堅層の政治的攻勢の情報も当然とどいていただろう。それに若槻においては、同内閣の先に記した南陸相はじめ、幣原喜重郎外相、井上準之助蔵相らの布陣をもとめられる範囲においての最強の布陣であるという確信(自信)があったようで、内閣交代によってさらなる内閣の弱体化を懸念したとわたしは想像した。軍を統率できない首相は弱い。民政党内部も一枚岩ではなく、野党政友会も政権交代を目指さないわけもない。形式的とされるものの最高権力者の天皇をいただく宮廷も、軍にたいする抑制工作への協力には消極的だ。つまり若槻には有効な打つ手がなかったのだが、にもかかわらず、自分たちの布陣が最良であるとの自覚は持続していたようで、これがジレンマでなくてなんだろうか。
  川田稔によると、若槻礼次郎は内閣総辞職ののちにもふたたびの組閣を望んでいた。首相は憲法の規定上、天皇の任命「大命降下」によって選ばれることになっていたが、事前に元老西園寺公望らによる候補者の決定・奏薦を経なければならない決まりになっていた。しかし西園寺は若槻を有力な候補者として念頭におきながらも結局は野党政友会の犬養毅を奏薦した。その経移はやや複雑であるが、西園寺はべつに若槻の能力を疑ったのではない。陸軍や民間右翼、それに国民世論の一部から若槻が怨みを買っていることを知悉していて、若槻への「大命再降下」によって怨みが宮中にふりむけられることを怖れたようだ。川田の記述にふれると、この警戒心はけっして過剰とはいえなかった。引用された西園寺私設秘書原田熊雄の回想録『西園寺公と政局』によれば、若槻内閣がつづいた場合<もしそうなれば、すでに今までにも為にする宣伝、無理解な中傷によって[宮中]側近に対する空気がすこぶる悪くなっていた事実や、官僚出身の一部の先輩および軍部に一種の陰謀のあることなどを承知しておられる公爵としては、これと政友会とが合流して、側近攻撃、宮中に対する非難中傷が起ることは、今日の場合、すこぶる憂慮すべき結果を惹起しはしないか、という懸念が、相当強く公爵(西園寺・ブログ筆者註)の頭を支配していたわけである。……もちろん財政や外交も重要ではあるけれども、遺憾ながら、この際宮中のことのためには、何物をも犠牲に供さなければならない国情である、と考えられたのであった>
  宮中の第一義の目的とは、財政や外交の健全化の追求よりも皇室の存続そのものだとしているのだ。明治以降、京都に常住していた皇室・宮中の人々は薩長勢力よって江戸に引っ張りだされてきたのであり、暴力的な政治勢力にたいしては、その地位の不安定さ・脆さを自覚していたのかもしれない。最高権力者としての天皇の地位を謳った明治憲法にしても彼等にとっては盤石には映らなかった。それに、事変の真っ最中に明らかになったクーデター未遂事件「10月事件」の発覚が衝撃をあたえた。橋本欣五郎参謀本部ロシア班長・大佐を中心とするその計画には襲撃対象として主要閣僚や宮中重臣のリストがあげられていたという。宮中にとっては、橋本らが拘束されても陸軍その他の「下剋上」の動きには敏感にならざるをえなかったのであり、若槻ではなく犬養を首相に指名したのは、目先をそらそうとしたからだ。だがわたしはこの宮中の思惑から嫌なことを思い出さずにはいられない。太平洋戦争終結・ポツダム宣言受諾にもたついたのは、連合軍側の方針としての皇室存続が確認されなかったからだという。(吉見直人『終戦史』)そのために何10万人という膨大な犠牲者をかえりみることなく、皇室の身分と引き換えにしたのだ。(ただし、昭和20年の場合は、この方針は宮中単独ではなく政府と軍の一致したものだった)
  若槻と犬養はいずれも天皇の権威を借りて軍を抑え込もうと試みたが、思うようには宮中は動いてくれなかった。事変直後の9月22日には参内した若槻にたいして、天皇は若槻内閣の「不拡大」方針を指示する旨の意見を表明し、南陸相、金谷参謀長にもつたえられた。だがこれは統帥権にもとづく命令ではなくあくまで意見表明を超える強制力はなかった。南、彼方の両者はごく短期間それを遵守したが、天皇の顔を立てたくらいの扱いでしかなかった。犬養においては<天皇への上奏によって、過激な少壮将校三〇人程度を免官処分にすることを試みようとしたようであるが、結局実現しなかった>(川田)また若槻、犬養の両者とも長老軍人や政界重鎮らに相談をもちかけるが、これまた軍の抑え込みには効果はなかった。
  永田鉄山ら陸軍中堅層はかねてより軍首脳から宇垣派排除を画策していたが、犬養内閣成立にともなって、彼等が後押ししる荒木貞夫、真崎甚三郎がそれぞれ陸相、参謀次長に就任し(参謀総長は皇族の閑院宮載仁(ことひと)で実務には不関与)彼等の軍・政界工作は実現した。犬養首相は南陸相の留任を望んだらしいが。川田はこの陸相・参謀長の人事刷新が陸軍の質的転換をもたらしたと説く。荒木・真崎は前二者とちがい国際協調重視ではなく、関東軍の占領地拡張・独立国家樹立方針により親和的であり、ひいては陸軍の好戦性を定着化するにいたるからだ。
  記すまでもないが、犬養首相は5・15一事件によって惨殺される。<犬養の軍部への対抗姿勢や満州国承認への消極的態度は、少壮軍人や極右勢力に強い反感を抱かせることとなり、……。(川田)>
(了)
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川田稔『昭和陸軍全史1 満州事変』(1)

  満州事変から本格化する日中激突の時代が、日本の政治と軍部(陸軍)の中枢にたずさわる人物群の動きをとおして描かれる。関東軍の行動を世論は支持したと思われるが、個々の日本人や中国大陸の日本人居留民、また一般の中国人がどのようにその時代をとらえ生きたか等、日本の政・軍の中心人物以外の意見や動向は捨象される。本書の考察対象の範囲外ということだろう。いっこうに構わない。
  事変を引き起こしたのは関東軍であり、それを絶対的に支持し、且つ政界と軍内部における工作活動によって法的合法の枠内に押し込もうとしたのは永田鉄山らの陸軍中堅幕僚であった。一方、事変の知らせを寝耳に水として受け取りながら「事態不拡大」をめざして関東軍と陸軍を必死に抑え込もうとするのがときの若槻礼次郎民政党内閣である。そのせめぎ合いの様子が、陸軍と若槻首相の双方のアングルから時系列順にしたがって活写される。川田稔は客観性の枠内にとどまる描き方に終始するが、若槻に対する同情と共感が漏れ伝わってくる。わたしもまた若槻や次期首相の犬養毅に寄り添いつつ読んだ。旧憲法の体系下では首相の権限が制約されており、充分に軍にたいする指示命令が行きとどかないこともあらためて学ばせられた。また皇室・宮中は元来から国際協調主義であり、若槻内閣に同情的で軍部に批判的であったが、政争の中心に天皇の身を晒させることにおよび腰であった。軍における不穏な動きを宮中は嗅ぎとっていてその矛先が天皇や宮中に向かうことを警戒したからである。したがって 若槻や犬養の協力要請を全面的に受け入れることはなかった。
  1931年9月18日の事変勃発から2年足らず後の1933年3月31日塘沽(タンクー)停戦協定が締結され、日中間にとりあえずの平穏が訪れるが、4年後の1937年7月には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争と呼ばれる戦いがまたはじまる。さらには4年後の太平洋戦争開戦から敗戦に至るまで戦争はつづく。陸軍の、のちには海軍も巻き込んだ戦争継続・膨張路線は満州事変に端を発するという見方ができるのではないか。少なくとも満州事変期においては、永田鉄山を中心とする陸軍の中堅幕僚による非公式の横断組織「一夕会」のイデオロギーが大きく働いている。それが川田稔の歴史見識だ。
  永田らは次期大戦に向けての日本の大国化を目指した。第一次世界大戦に見るごとく「大戦」と呼ばれる戦争においては兵器の広範囲にわたる機械化をはじめとして、国家規模の工業力、経済力が問われる。また「大戦」は短期間で終息するのではなく何年もの間継続するので兵器はもとより物品の再生産能力を高めておかなければならない。つまり、大戦は「総力戦」になるので、国家のありとある人材と経済力、工業活動を総動員しなければならない。そのためには工業力を量的質的に高めることは勿論、国家体制を戦争に集約されるべき組織と仕組みに組み替えておかなければならない。同時に、工業や軍事分野への潤沢な資源・材料の供給が不可欠だ。しかし日本国内においてはそれに足るだけのものが確保できない。ならば資源が豊富に眠っているであろう地を日本の支配下におくことが不可欠だ。そういう認識(あるいは野望)のもとに満州事変は計画実行された、と川田は言う。黒竜江省、吉林省、遼寧省の満州東三州以外にも北支、中支と呼ばれる地域(揚子江以南をのぞく中国の大部分であろう)には豊富な資源が眠っていると永田らは見当をつけ、それらの地の占領と支配化をめざして事変を起こしたと川田は見る。
  だが満州国建国にこぎつけたものの、またその後あらたに獲得した占領地においても、大戦を担うに足るだけの資源を日本軍は中国大陸において見つけることができなかった。とくに石油資源は有力な埋蔵地がなく、永田の構想は大風呂敷を広げたにすぎない結果になった。太平洋戦直前の南部仏印進駐はアメリカによる蒋介石援助のための物資支援ルート「援蒋ルート」を遮断するのが直接の目的だったが、蘭印(現インドネシア)の石油資源も視野に入っていたのだろう。十分な資源確保の見通しもないまま、日本はアメリカとの戦争に突入し敗れた。
  少し問題の標的がずれた。川田稔によると永田ら一夕会の構想があらかじめ根っこにあって事変は引き起こされた。関東軍単独の暴走ではなく、その行動をさらに拡大・定着させようとする本土陸軍の永田らの後押しがあって初めて開始された。世界恐慌打開のためでもなく、南満鉄道をはじめとする日本の権益擁護や日本人居留民保護のためでもなかった。それらは副次的理由であり、国民受けするのには好都合だったようだが。
  満州事変は1931年9月18日午後10時過ぎに起きた。奉天近郊の柳条湖付近で満鉄線路が爆破された。関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と作戦参謀石原莞爾中佐の指揮による謀略であったが、これを中国軍の仕業として板垣は攻撃を指示、関東軍は翌19日の午前6時半頃までには中国軍(張学良軍)の拠点の奉天城、北大営を占領、さらに奉天のみならず長春・安東・栄口・鳳凰城など南満主要都市のほとんどを19日中に占領した。中国軍側の抵抗が微々たるものだったからでもあるが、関東軍の軍事行動はいかにも電光石火ではないか。事前の準備がなくてはこれほどの素早さは実現できないのではないかと感じる。19日午前10時に閣議がひらかれ若槻首相は事態不拡大を確認。22日の閣議では朝鮮軍の独断越境が報告され、閣僚は憤ったようだが、若槻首相はあっさりこれを容認し、経費支出を決定した。このあたりの川口の解説(見識)は読みどころだ。なお、書きおくれたが板垣、石原はいずれも一夕会会員であった。
  当時の首相には軍隊を直接指揮する権限がなかった。軍の作戦・用兵をつかさどるのは陸軍においては参謀本部であり、参謀本部は天皇に直属していた。そのトップは参謀総長(満州事変当時は金谷範三大将)であったが、内閣の外の組織であるため、首相は参謀総長を監督下にはおけなかった。内閣内の陸軍組織は陸軍省であり、ここは陸軍大臣が閣内において首相らと協議して装備・編成の分野で具体的に予算措置を講じる役割を担った。臨時の経費支出も内閣の専権事項だったのだろう。朝鮮軍の越境は事前の天皇の裁可をえないままの「独断」であり「大権干犯」であったから、若槻は断罪したうえ経費の不支出を決定することも可能だった。だが若槻はあえてそれをしなかった。川田によると、経費不支出にたいする陸相や参謀総長の抗議ひいては辞任によって内閣総辞職に追い込まれることを回避するためのやむにやまれぬ選択だったという。(辞任にいたらずとも一人の閣僚が内閣の方針に反対するだけでも総辞職しなければならない決まりだった。全会一致が内閣の大原則だったから。のちに安達謙蔵内務大臣によってこれが引き起こされ若槻内閣は総辞職の事態に陥る。ただし、単独辞職を願い出ることは可能)これもまた旧憲法の制約で、首相には閣僚の任免権がなかった。また陸海軍大臣は「軍部大臣武官制」という法規があって、陸相なら陸軍が陸軍内の上位将校から選んで内閣に推薦する取り決めになっており、逆にいうと陸相候補推薦を陸軍が拒否するならば内閣は成立しえなかったのだ。
  若槻は南次郎陸相と金谷参謀総長の両者を、陸軍を抑制するための最適の布陣と見なしていた。二人はともに宇垣派とよばれる派閥に属しており、頭目の宇垣一成(満州事変発端当時は朝鮮総督、前浜口雄幸内閣では陸相)は1920年代歴代内閣の国際協調路線に寄り添う姿勢の人だったので、その影響は南・金谷の両者にも及んでいたと見られる。だが二人は内閣の不拡大方針に従いながらも若槻首相ほどの一貫性はなかった。陸軍軍人だからだろうか、一夕会をはじめとする陸軍中堅層の突き上げを食らって拡大方針に舵を切ってみたり、ふたたび関東軍の野放図な攻撃範囲拡大を制止したりと右往左往するのだが、若槻にとっては両者の起用継続は十全とはいえないにしても、それなりの結果はもたらされたと川田は見る。
  関東軍は政府や陸軍首脳の指示を無視してそののちも攻撃・占領地域を拡大していき、条約上で許されていた南満鉄道沿線の駐兵権地域(距離は本書では不記載)をはるかに逸脱するに及んだ。たとえば吉林という都市は地図でみると東に100キロほど鉄道線路から離れている。さらに10月以降、黒竜江省首都チチハルを一時的に占拠、張学寮軍の拠点の錦州を爆撃するに及んだのだが、若槻内閣は南・金谷両者の権限を以て一旦は関東軍をそれらの地から撤退させることにこぎつけた。チチハルはソ連の利権鉄道・中東鉄道を超えた場所にあり、錦州はイギリスの利権鉄道・北寧鉄道の沿線であったので、国際世論の硬化をおそれたためだ。陸軍内部にも短兵急の攻撃・占領地拡大を懸念する声があったためでもある。だが若槻のせいいっぱいの踏ん張りもここまでだった。12月11日、若槻内閣は総辞職に追い込まれる。野党政友会との協力内閣設立を模索する安達謙蔵内務大臣が、閣議を欠席したためだった。
  さかのぼって9月21日、中国政府は日本の軍事行動を「侵略行為」として国際連盟に提訴している。その主張は2年後の1933年には国連に認められ、日本軍の満州からの撤退勧告決議案が2月24日国連総会において採択されることになる。3月4日、日本は国際連盟を脱退。これは陸軍にとっては事変開始以来の想定事項だったようだ。3月1日には既に親日派中国人らによる「満州国建国宣言」が発表されている。



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川田稔『戦前日本の安全保障』(2)

  1918年(大正7年)9月、原敬政友会内閣が発足。中国北方政府への援助打ち切り、翌年には武器供与の停止を決定した。またアメリカから提起されていた米英仏日による中国への国際借款団(新4国借款団)への加入も決定し、アメリカの日本にたいする「段援政策」の抑制意図に応えた。シベリア出兵問題でも原は減兵策を決定したが、最終的に全面撤兵が果たされるのは、原の死後1922年10月になる。これらの政策遂行によって米英の日本に対する警戒心はゆるめられたといえようか。原は中国へのさらなる軍事的手段による膨張政策を放棄しようとした。中国の分裂した政治集団の一部に肩入れするのもやめるべきで、反対に中国の統一を促すべきで、そのための政治勢力同士の妥協を援助するという方向に切り替えた。そして統一がはたされた中国との本格的提携関係を築こういう構想だった。そのうえで国内産業を発展させ、中国全土をアメリカの主張どおりに門戸開放を実現し、平和的手段によって日中の通商貿易を発展せしめようと考えた。中国は大いなる市場となり、そのときにはアメリカ・イギリスその他列強は競争相手になるが、当然受け入れるべきで、非軍事面での産業分野の競争力強化で対抗可能と考えた。
  1920年国際連盟発足。日本は常任理事国となる。1921年原は東京駅で暗殺される。原は国際連盟を「世界の平和を強制する」国際機関として高く評価した。第1次世界大戦については詳しく調べる余裕がないが川田稔によると<戦死者九〇〇万人、負傷者二二〇〇万人、一般市民など非戦闘員の犠牲者も一〇〇〇万人に達した。>その他、住居、工場設備、インフラの破壊も言うに及ばずで、戦勝国といえどもその惨劇からまぬかれることはなかった。「勝利」は名ばかりであり、見合うものは何もなく、大規模な破壊を招来せしめたという以外になかった。この惨劇の防止は果たされなければならないと原は考えたのだろう。しかしながら、戦争を絶対悪としてとらえる見方は軍部や日本国民の多くにおいては、それほど堅固ではなかったのではないか。惨劇の当事者ではなく、その実相をしらなかったからだろうか。「結果」から眺めるとそう思わざるをえない。
  浜口雄幸の民政党内閣は1929年(昭和4年)発足。それまでは原敬亡き後も歴代内閣は国際協調路線を維持していた。平和と現状固定をアメリカはじめ国際社会が望んだようであり、日本もそれに同調した。満蒙利権にたいする非難も「現状固定」であるから、中国本土以外からは高まらなかった。「ワシントン体制」と呼ばれる枠組みである。ワシントン海軍軍縮条約、九ヵ国条約(中国の領土保全、門戸開放)四ヶ国条約(太平洋の平和維持)などが締結された。
  1926年7月、蒋介石の国民党・国民革命軍が北伐を開始。1927年~28年にかけて当時の田中義一内閣による2回の山東出兵。北伐とは、中国政府が中国全土の統一を目指して各地を支配する軍閥を軍事的に圧伏しようという動きであり、日本軍の山東出兵は現地居留民の保護を名目としたが、満州の軍閥張作霖を援助することと関連したともいわれる。当時野党だった民政党総裁の浜口は、対中国政策は一党一派に偏すべきではないと批判した。中国の統一は促進・歓迎すべきというのが浜口の根本方針であり、分裂を固定化すべくいたずらに策動すべきではないとの思いだった。現地の治安については、外交交渉を通じて蒋介石軍や、軍閥に委ねるべきという意見でもあった。ここで口を差しはさむと、浜口の政治的立場はともかくも、政情不安定な外国に住む日本人の安全をいかに確保するのかという問題は、現在においても悩ましいと思われる。理想的平和主義でも軍隊派遣先にありきでも、一方的な立場に固執しては誤るのではないか。かぎられた時間の中で少ない情報で判断を迫られる。また十全な解決がなしえない可能性もあるのだ。この場合の山東出兵の是非は、わたしには材料に乏しく判断できない。ただ、中国民衆の反日感情を増幅させたことは事実のようだ。
  田中義一首相は「満蒙特殊地域論」の立場だった。蒋介石の全土統一は容認するもののそれは満蒙を除外した版図でなければならず、満蒙は現地を牛耳る張作霖を援助・温存することによって日本の権益を全たからしめるという方針で、原敬と同様だった。一方、現地の関東軍は反日の気運に乗じてか、懸案事項の解決に「非協力的」な態度をとりつづける張の排除をにわかに企図した。中国政府の満蒙における主権は名目的には容認しつつも、満蒙を日本の強い政治的影響下におこうとする「満蒙分離論」が下敷きにある。1928年6月4日、関東軍による張作霖爆殺(搭乗列車の爆破)、同年、張の実権を引き継いだ息子張学良は国民政府との妥協と合流の意向を示したが、これにたいして田中政権は延期勧告をする。張と国民政府に主導権を渡すまいとしたのだが、浜口は当然批判した。もはや中国の統一は阻止することができないのであり、その中央政府との友好と提携の構築こそを以後は目指すべきとした。
  1930年5月、中国の関税自主権を承認する協約が二国間で調印。その他対中国借款問題でも浜口は融和的政策をとり、中国の対日不信をやわらげた。同年4月、ロンドン海軍軍縮条約調印。それらが浜口内閣の政治的成果とされる。またさかのぼるが、1928年には不戦条約の調印に日本も参加した。この条約は、戦争による国際紛争の解決を「不法」としたもので、それまでの戦争の正当性を否定した画期的な国際約定だった。国際連盟、九ヶ国条約、軍縮条約、不戦条約等、<平和維持に関する多層的、多重的条約網の形成(原田)>によって浜口は、日本の安全保障が堅固化されると考えた。力と力がぶつかりあうパワー・ポリティクスの時代から、世界各国の相互信頼と共存共栄にもとづく平和維持の時代へと転換しつつあると浜口は見做した。戦争が巨大化した結果、勝利の名に見合うものは何も得られず、惨劇をもたらすのみとの認識に浜口も立っていたのだ。だがその浜口においても満蒙権益は死守すべきという立場だったと川田は指摘する。
  永田鉄山は陸軍内の「統制派」と呼ばれるグループの中心人物とされる。陸軍中央では大正末期から中堅幕僚の非公式の集まりが形成されていた。「二葉会」の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、河本大作、東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、山下奉文など(陸軍士官学校15期~18期)。1927年(昭和2年)結成の「木曜会」には石原莞爾はじめ陸士21期~24期の世代が参加。それぞれ20人前後の員数で、のちにこの2グループは「一夕会」として合同することになる。
  わたしの見るところでは、永田はそのグループの初期においてはリーダー的存在ではなく、意見のまとめ・集約的役割を果たしたのではないかと思う。原や浜口は戦争回避のため英米・国際協調路線を歩もうとしたが、永田らは逆に戦争不可避論の立場から軍備拡大路線に舵を切ろうとした。戦争の火種はヨーロッパにおいては残存している。国際連盟は超国家的権威をもたず、戦争を防止するに足りる組織ではない。また中国においては英米ソ日の利益が錯綜する地域であるから、国際間の戦争の影響を受けざるをえず、日本も巻き込まれざるをえない。それならば、戦争の準備をしなければならないが、第一次世界大戦にみるごとく国家総動員体制を構築しなければならない。航空機、戦車、大砲など軍需品は無論そのほか平時の工業品もふくめて全体の工業力を高めなければならない。そのためには国民挙げての人的総動員ももとめられる、さらに再生産力を維持するための資源確保も自前でしなければならない。平時における工業生産は戦争の準備のためであり、戦争への移行に即応できる体制でなければならない。そのためには国家経済全般の国家による政治的統制・計画性が確立されなければならない。よってこのような陸軍の意向を実現させるべく、政治への陸軍の影響を支配的に行使しなければならない。
  やや乱暴だが、わたしが読んだ川田稔による永田鉄山の論文の紹介のまとめである。つまりアメリカと肩を並べるほどの大国に日本はならなければならない。それは陸軍という軍隊単独の課題ではなく、まさに日本全体の国家的課題なのであり、そのためには政治に深く関与し政策決定に参加しなければならない、となる。日本のようなちっぽけな国がアメリカのような軍事大国と対等に戦えるのか、現在となっては答えは既に出てしまっているが、当時の永田ら陸軍の中堅幕僚はそれが可能だ、可能ならしめることができると大真面目に考えた。人的努力の集中によって国家間競争に打ち勝てると見做した。わたしが引用された永田論文を目にする限りでは、これらは当時の陸軍においては反対意見はあったであろうことは推察できるが、寧ろ共有しやすいものであったのではないかと想像した。主観的闘争心にもとづいた国際的膨張主義といえるだろうか。だから永田独自の構想ではなく、グループの意見集約としての大国化ではなかったかと思った。
  無論、永田も日本が工業国としていかに貧弱か知悉していた。<永田によれば、大戦休戦時、飛行機は、フランス三二〇〇機、イギリス二〇〇機などに対して、日本約一〇〇機。欧州各国と日本との格差は、二〇倍から三〇倍である。(略)戦車は、一九三二年(昭和七年)段階でも、アメリカ一〇〇〇輌、フランス一五〇〇輌、ソ連五〇〇輌にたいして、日本四〇輌とされる。>これよりも古い調査(一九一三年)によると<鋼材需要額で、日本八七万トン、アメリカ二八四〇万トン(日本の三二・五倍>となり、「遺憾の極み」と永田を嘆かせた。
  それでは重要事である資源の自前調達をどのように成し遂げようとしたのか。満蒙地域はもとより北支、中支と呼ばれる中国大陸の地域であり、その占領と支配によってそこに豊富に産出されるであろうもろもろの資源に活路を見出そうとしたのである。満州事変(1931・昭和6年)はこのような構想にもとづいて引き起こされたと、川田は述べる。首謀者は関東軍の板垣征四郎高級参謀(大佐)、石原莞爾作戦参謀(中佐)であるが、若槻礼次郎首相はじめ内閣首脳には寝耳に水だったものの、関東軍による暴走ではなく、陸軍省の永田鉄山軍事課長(大佐)、岡村寧次補任課長(大佐)、参謀本部の東条英機編成動員課長(大佐)など内地の幕僚と板垣らの「連携プレー」によるものだという。名前を挙げた人はすべて一夕会会員である。
  結論を急ぐと、日本の大国化、自給自足体制は実現しなかった。押し気味に日中戦争を遂行しながらも中国大陸においては満足な資源獲得がなしえなかった。永田をはじめとする陸軍統制派の構想に穴があったのだ。そして日米戦争に突入する。永田鉄山の理想どおりの大国化を成し遂げたうえでの戦争ではなかった。(了)
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川田稔『戦前日本の安全保障』(1)

  戦争を回避し平和を維持しつづけるということが安全保障の目的であり、政治の大きな課題だ。非武装中立で国家を守りきれるものならばそれに越したことはないが、そうもいかない。急迫の侵略的行動をとる外国が出現したならばという仮定にもとづいて、それにどう対処し防護するか、根本方針をあらかじめ打ち立てておかねばならない。大国と同盟を結んで防衛の重要部分を依存するか、それとも大国との戦争さえ想定されるならば、それに耐えうるだけの戦力と持久力を構築しなければならないと考えるのか。つまりみずからの国家が大国として成長しなければならないが、それがはたして可能なのかという課題がのこる。大国との同盟のみならず、国連(戦前は国際連盟が相当する)や戦争回避を標榜する諸条約に依存し、信頼するならば、軍備拡張は国民生活を圧迫するほどの規模でなくても済みそうだが、戦争、特に大国との戦争が想定されるならば軍備拡張は避けられない。太平洋戦争という最終破局にいたるまでの戦前の日本国は、その両極の選択の間を主たる政治指導者の交替ごとに揺れ動いたようだ。著者川田稔は4人の政治家と軍人、山縣有朋(1838・天保9年~1922・大正11年)原敬(1856・安政3年~1921・大正10年)浜口雄幸(1870・明治3年~1931・昭和6年)永田鉄山(1884・明治17年~1935・昭和10年)をとりあげ、その安全保障を中心とした国家構想のそれぞれの特徴と差異を明らかにしようとする。
  1905年、日露戦争の勝利によって、日本はロシアの有していた南満州鉄道や周辺鉱山の採掘権などの「満蒙利権」を、また南樺太を手に入れた。1910年には日韓併合、第一次世界大戦(1914~1918)ではイギリス・フランス・ロシアの「三国協商」側に付いてドイツに宣戦布告し、ドイツの中国大陸の拠点青島(チンタオ)を占領し、戦争終結によって山東半島のドイツ利権を獲得した。日本の帝国主義としての領土拡張の時代である。だが後々までこれらの領土・権益保全の課題が、日本国を悩ませることになる。とりわけ中国大陸において。中国では民族意識が急速に高まっていた時代であり、1911年の辛亥革命を前後して、日本は言うに及ばず、中国のかなり広い部分を占領状態にしているイギリス・フランスなど諸外国にたいする排斥運動が顕著化しつつあった。(日露戦争以前では、ロシアは遼東半島にまで達する大陸の北の大部分を占領していた。またそれ以後も、イギリスは上海・南京地域から重慶にまで達する大陸の中央部分を東西にわたって支配、フランスは広東省から現在のベトナムにいたるまでの南方地域を引きつづき支配していた)
  さらに占領地域の防衛というにとどまらず、日本国は中国大陸における経済的利益の拡大の野望を抱いていた。川田によれば、山縣有朋は日本は人口過剰で、移民・植民政策を実行しなければならず、その実現地の大きな目標のひとつを中国大陸全域に向けていた。また貿易拡大によって日本製品の輸出市場にすること、同時に資源獲得とその輸入を実現させるためにも大陸が視野に入っていた。このことは山縣にとどまらず、原、浜口、永田ともに共通する構想だったが、その実現手段のちがいが明瞭にあった。市場・権益・領土の拡大は中国大陸においては地元中国はもとより、イギリスやフランスやロシア、さらに門戸開放をもとめるアメリカとも競合することになる。山縣はときの中国政府(辛亥革命以後も内戦状態)を屈服させるためにも諸外国との競争に打ち勝つためにも軍事的手段も辞さずの構えで、ロシアとの同盟関係(「日露協約」・第1回1907~第4回1916)を基軸にしようとした。日本とロシアは互いの中国における利権を侵食せず尊重し合うことと、双方の一国が軍事的紛争に巻き込まれたときには援助するという取り決めだった。川田によれば、山縣は、平時においても日露同盟は中国・イギリス・フランス・アメリカの日本単独にたいするよりもより堅固な牽制となり安全保障に多大に資するという見方をしていた。だが1917年のロシア革命によってこの協約は水泡に帰し、山縣の構想は破綻する。
  原敬は1914年(大正3)6月、第3代立憲政友会総裁に就任、首相となり、初の本格的政党内閣といわれる原内閣が誕生するのは1918年(大正7)9月。原は確固たる対アメリカ提携論者だった。アメリカの潜在能力と将来にわたる世界的パワーを予見して、アメリカを敵に回すと、他の国は救ってくれず、大きな禍根をのこすことになると考えていた。そのため、アメリカの中国への門戸開放、市場参加要求はやがては受け入れねばならないかもしれないと見なしていた。(アメリカによって満蒙地域の閉鎖性が指摘されていた)また大隈内閣が1915年1月に提出した「対華21カ条要求」を舌鋒鋭く国会で批判した。21カ条のうちには満蒙や山東半島などの日本が獲得した利権の擁護がふくまれ、それは諸外国もしぶしぶ認めざるを得ないもので、原自身も手放す気は毛頭なかった。(第1次世界大戦終結までは、戦争による領土の変更、租借権の譲渡・設定は正当とされていた)だが、第5項には中国中央政府に日本人の政治、財政、軍事の顧問を招聘することや、地方警察の日中合同、兵器の日本からの輸入もしくは日中合弁の兵器工場の設立、さらには中華民国の領地内での未着工の鉄道路線の敷設権(つまりは第2、第3の南満州鉄道)など、日本による中国の属国化と解される内容が盛り込まれていた。これは国際的な日本の信用を貶め、日本への疑心と警戒を抱かせ、糾弾させるに十分な内容だった。これを中国政府があっさり呑むことは考えられず、実現には強制力をともなうことは明らかであったからだ。当然、中国の官民問わずの怒りを起こしてしまい「日貨排斥運動」(不買運動)が広がった。
  山縣は当時元老の地位にあり、伊藤博文亡き後の最高権力者であった。1916年には大隈重信の後継首相に寺内正毅を奏薦した。寺内内閣は1917年「段援政策」を実施。これは南北に分裂状態にあった中国政府の北方派の実力者の段キ瑞に肩入れして、日本の影響下であわよくば中国全土の統一をはかろうと画策したもので、借款や武器援助が主だった。南方派の孫文その他、中国全土においては軍閥が割拠していて、それらの勢力を軍事的に駆逐しようとするものだった。だが段が失脚することによって政策は破綻し、投入した援助金は回収されず、ドブに捨てた結果になった。<ことに西原借款とよばれる北方政府への事実上の財政援助は、合計一億七七〇〇万円(当時の国家予算の約二割)の膨大な額にのぼった。(川田)>山縣は、あくまでも野望としてではあるが、中国を支配下に置くという前提で中国との提携関係を築いて欧米列強に対抗しようとした。そこまで実現せずとも、日本の権益拡大を意図したのだ。
  1917年にはシベリア出兵問題ももちあがった。ロシア革命後に英仏がアメリカと日本にたいしてロシア極東部への出兵を打診してきた。ボルシェビキ革命政府への干渉の狙いがあった。原敬は野党党首として政府の「臨時外交調査会」に参加していたが、これに反対し、結局は見送られた。だが翌年アメリカからの要請に応じて出兵を開始。アメリカはウラジオストック限定での同数の出兵を提議したが、日本軍は独断で増派し、バイカル東部にまで範囲を広げ<結局シベリア出兵関係の総派遣兵力は(略)七万二〇〇〇人に達した。(川田)>陸軍の一部(田中義一参謀次長)にはシベリアに新日政権を樹立しようとする意図もあったという。
  第一次大戦前後のこれら日本の外交・軍事の一連の動きを眺めると領土と権益拡大の野望が諸外国に丸わかりで、当然のように強い警戒心をもたれ、悪評を買ったようだ。今日の歴史の「解答」を知っているわたしたちには当時の日本や陸軍が傲慢で、いくら真面目であったとしても身の程知らずであったと見ざるをえない。<このように、対独参戦、対華二一カ条要求、日露協約の消滅、援段政策、シベリア全面出兵などによって、ドイツ、中国、アメリカ、イギリス、ソヴィエト・ロシアなどとの関係が悪化。日本は、実質的にほとんど国際的孤立状態におちいっていく。(川田)>
  山縣有朋は英米にたいする警戒心が主で、日露協約が消滅しても当面は自主独立方針で、アメリカとの本格的な提携は考えなかったようだが、原敬は真逆だった。後の浜口雄幸も英米重視論者で、ともに国際協調路線を歩もうとした。



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