2008.08.18
ダークナイト
アクション全開の娯楽映画。CGとスタントを駆使したカー・アクションをはじめ元気一杯だ。予算がたっぷりついたのか、ハリウッドのこの部門の職人芸の今日的な粋がこめられていて最高の出来映えだ。敵役のジョーカーのヒース・レジャーもなかなかやる。いつも口に何か入れたようないやらしい喋りっぷりで「おれの欲しいものは金でも支配でもない、ただ破壊したいだけだ、人々を困らせたいだけだ、それが俺の生きがいだ。」大意こんなことをぜいぜい息を切らし、薄笑いをしながら言い放つ。実際、何故だかわからないが、ものすごく力があってマフィアもかなわないくらいで、大都市全体を混乱に陥れる。つまり彼もアクション同様、すごく元気がある。
だがどうかなあ、私が単にひ弱だからかもしれないが、あまり元気がよすぎてついていけない。パンチが顔面に炸裂しただけで、何故あんな大音響になるんだろう。後部のスピーカーからも響いてきて、こっちの頭も痺れてしまう。それに私はジョーカーの「大活躍」に押されて、しだいに焦眉と衰弱に向かうかに見えるバットマンのクリチャン・ベールや検事のアーロン・エッカートの演技に興味を引きつけられたが、こちらもやはり元気一杯のアクションにかき消され気味に感じられた。それに二人への同時的な愛に困惑するマギー・ギレンホールの役の位置づけにも興味を持ったのだが。(正直言って、もう少しきれいな女優はいなかったのか)
乗っていけなかった私が悪かったのか、混乱したまま、二時間半の上映時間がたいへん長く感じられた次第である。蛇足ながら気に入った点を記しておけば、バットマンがビルの窓から飛ぶ場面はいつもながら素敵だ。いきなり上昇せずに、随分長く落下してから翼をぱっと広げる。
だがどうかなあ、私が単にひ弱だからかもしれないが、あまり元気がよすぎてついていけない。パンチが顔面に炸裂しただけで、何故あんな大音響になるんだろう。後部のスピーカーからも響いてきて、こっちの頭も痺れてしまう。それに私はジョーカーの「大活躍」に押されて、しだいに焦眉と衰弱に向かうかに見えるバットマンのクリチャン・ベールや検事のアーロン・エッカートの演技に興味を引きつけられたが、こちらもやはり元気一杯のアクションにかき消され気味に感じられた。それに二人への同時的な愛に困惑するマギー・ギレンホールの役の位置づけにも興味を持ったのだが。(正直言って、もう少しきれいな女優はいなかったのか)
乗っていけなかった私が悪かったのか、混乱したまま、二時間半の上映時間がたいへん長く感じられた次第である。蛇足ながら気に入った点を記しておけば、バットマンがビルの窓から飛ぶ場面はいつもながら素敵だ。いきなり上昇せずに、随分長く落下してから翼をぱっと広げる。
2008.08.07
クライマーズ・ハイ
見ている最中はかなりのめりこんだ。未曾有の航空機事故であった一九八五年の日航機墜落を追跡する地方新聞社の目一杯の活動がいきいきと描かれている。同じ大きな出来事であっても、同じ新聞社内であっても、人それぞれに役割が立場が、また思いがちがう。これがたいへんあざやかにすくいとられている。
全権デスクを命じられた堤真一は持ち前のタフネスと清廉潔癖ぶりを発揮して、寝る間も惜しんで熱中し、指揮をとる。だが競争相手は他の新聞社ばかりではない。彼よりも一足早く重役になった男たちは、全権デスクに指名されなかったためか、堤の活躍を何故か快く思わない。嫉妬であるが、そればかりではなく具体的に意地悪もする。また堤が広告のスペースをつぶして記事を掲載すると、当然営業担当がどなりこんでくる。若手記者の苦労もある。徒歩で汗まみれ埃まみれになって現場まで駆けつけるが、携帯電話が普及していない時代なので、通信手段がない。夜中に民家の電話を借りねばならない。また社長の山崎努は記事にあれこれと注文をつけてくる。……。という具合に堤真一の仕事は必ずしも順調には行かない。同じ大きな出来事のもとでの人それぞれの思いと行動ということでは、私は群像劇として見た。『ヒトラー 最後の七日間』という近年の作品を思い出した。国家の中枢部と一新聞社とを比べるとスケールはちがうが、こちらのほうがきめ細かさの点では勝るのではないかとも思った。堤真一も熱演であるし、まわりの俳優陣も負けてはいない。
若手記者の「現場雑感」が一面に連載され、好評を博することが伝えられると「やった」と思った。ほろっとした。記事の紹介はわずかであるし、また大惨事の現場は直接映像としては映らない。だがブンヤ魂が取材対象の中心にそのときついに届いた気がしたし、同時に事故現場の地獄も彷彿とさせられた。なんだか私もその新聞社の一社員になった気がして、気勢をあげた。
だがこの映画、突然のように終わってしまう。スクープ記事をあと一押しの確証がとれないことで見送ったことを社長になじられて、堤は辞表を出してしまう。ここで大半は終わってしまうのだ。原田眞人監督はどうやら清廉潔癖な堤真一個人の物語としてつくりたかったようで、だから私が推奨する群像劇は追求不足になったのではないか。堤や新聞社の同僚は本格的な登山活動が趣味のようで、急峻な山の姿に、堤の心情につうずる清新さを語らせたかったようにも見えるが、しっくりと受けいれられない。苦労した撮影であったことを窺わせるが、心を動かされるものがとぼしい気がする。
それと飛行機事故の全体像であるが、これはこの映画独自の視点でなくても今日的に明らかにされている概要だけでも伝えてもらいたかった。堤真一デスク以下の新聞記者が肉薄した像の本来的な姿がそこに見えるであろうから。また、犠牲者や遺族の皆さんへの供養ともなるであろうから。
全権デスクを命じられた堤真一は持ち前のタフネスと清廉潔癖ぶりを発揮して、寝る間も惜しんで熱中し、指揮をとる。だが競争相手は他の新聞社ばかりではない。彼よりも一足早く重役になった男たちは、全権デスクに指名されなかったためか、堤の活躍を何故か快く思わない。嫉妬であるが、そればかりではなく具体的に意地悪もする。また堤が広告のスペースをつぶして記事を掲載すると、当然営業担当がどなりこんでくる。若手記者の苦労もある。徒歩で汗まみれ埃まみれになって現場まで駆けつけるが、携帯電話が普及していない時代なので、通信手段がない。夜中に民家の電話を借りねばならない。また社長の山崎努は記事にあれこれと注文をつけてくる。……。という具合に堤真一の仕事は必ずしも順調には行かない。同じ大きな出来事のもとでの人それぞれの思いと行動ということでは、私は群像劇として見た。『ヒトラー 最後の七日間』という近年の作品を思い出した。国家の中枢部と一新聞社とを比べるとスケールはちがうが、こちらのほうがきめ細かさの点では勝るのではないかとも思った。堤真一も熱演であるし、まわりの俳優陣も負けてはいない。
若手記者の「現場雑感」が一面に連載され、好評を博することが伝えられると「やった」と思った。ほろっとした。記事の紹介はわずかであるし、また大惨事の現場は直接映像としては映らない。だがブンヤ魂が取材対象の中心にそのときついに届いた気がしたし、同時に事故現場の地獄も彷彿とさせられた。なんだか私もその新聞社の一社員になった気がして、気勢をあげた。
だがこの映画、突然のように終わってしまう。スクープ記事をあと一押しの確証がとれないことで見送ったことを社長になじられて、堤は辞表を出してしまう。ここで大半は終わってしまうのだ。原田眞人監督はどうやら清廉潔癖な堤真一個人の物語としてつくりたかったようで、だから私が推奨する群像劇は追求不足になったのではないか。堤や新聞社の同僚は本格的な登山活動が趣味のようで、急峻な山の姿に、堤の心情につうずる清新さを語らせたかったようにも見えるが、しっくりと受けいれられない。苦労した撮影であったことを窺わせるが、心を動かされるものがとぼしい気がする。
それと飛行機事故の全体像であるが、これはこの映画独自の視点でなくても今日的に明らかにされている概要だけでも伝えてもらいたかった。堤真一デスク以下の新聞記者が肉薄した像の本来的な姿がそこに見えるであろうから。また、犠牲者や遺族の皆さんへの供養ともなるであろうから。
2008.07.24
歩いても歩いても
人が人を怨みつづけることが果たして正当なことなのだろうか、そうでないとしても、やむをえないことなのだろうか。是枝裕和監督の巧みで丁寧な日常風景の描写によって、私は映画の内部にどんどん引き込まれていった。そしてこの手に負えそうもない大きな問題に行き当たった。壁のような確かな手ごたえだった。開業医の父の跡を継ぐはずだった長男が若い頃に水難事故で死んだ。溺れかかった子供を助けるためだったが、代わりに自分が波にさらわれて命を落としてしまったのだ。その子供は長男の霊前に頭を垂れるために毎年お盆の季節に長男の一家、この映画の舞台となる元開業医の家を訪ねてくる。長男の死からすでに二十年が経過してしまっているが、毎年欠かさずやってくる。男は自分の身代わりになって死去した長男やその一家に当然義理を抱いているだろう。だが父の原田芳雄や母の樹木希林は、その男のために長男が命を落としたことが悔しくてならない。寂しくてならない。その男が死んで長男が生き残ってくれたほうがどんなにかよかったろうという想いを隠そうともしない。そこから男に対する怨みの念が生じてくる。勿論、それを表面立てて男に突きつけるようなことはしない。長男と深い縁のある客として丁重に遇する。しかし「来年も再来年も来てもらわなきゃ」「忘れてもらっては困るのよ」と樹木希林は家族に愚痴る。こういうことを身をもって経験したことがないからなのか、私にはこの両親の想いがある種凄惨さを帯びて映ってしまう。愚痴でもあり、祈りでもあり、怒りであり、怨みなのだ。そして残された自分たちの日常を平和裡に明るく繰りかえすこととこの凄惨さは同居する。矛盾しつつも同居することができるのだ。生きていくためのいわばマイナスの糧のようなものだろうか。生涯において樹木希林と原田芳雄は、この感情のかたまりを忘れることはない。
私には毎年命の恩人の家へ足を運ばなければならない青年がたいへん気の毒に思えた。彼には遺族(とりわけ両親)の気持ちが毎年足を運ぶうちに、子供から大人へと成長するうちに、ひしひしと伝わってくるのではないか。自分が生きてしまったことに後ろめたささえ感じているようだ。死んだ人のためにも遺族の「期待」のためにも、せいいっぱい生きねばならないという想い。だが就職が思うようにはいかずにフリーターの身分。樹木に問われるままに答えるのも縮こまるようで、ちょっとしたいじめにも見えた。靴下の片一方が黒く汚れているところを発見されて子供にくすくす笑いされたり、正座から立ち上がろうとしてよろける場面など眉をひそめさせる不恰好さだ。彼はほんとうは盆のお参りは、苦しくてもう勘弁してもらいたいのかもしれない。次男の阿部寛も青年を陰でなじることには同調できないようだ。どこでもそうだとはかぎらないが、親と兄妹では長男の死の受け止め方が、この映画の家族の場合は微妙に異なる。
そしてその想いがいちばん強く、ときにこらえられなくなって吐き出してしまうのが母の樹木希林だ。青年への怨みは裏返せば亡き長男への狂ったような追憶の想いだ。前半の部分で、阿部寛が連れて歩いている子供とともに黄色い蝶を見たとき、「白い蝶が一冬を越したとき黄色になるんだ」という言い伝えを教える場面があるが、これがたいへんうまく生かされる。青年が帰っていってやがて夜が訪れたとき、仏壇のある居間にその黄色の蝶がさまよいこんでくるのだ。樹木はそれを長男の霊として見てしまう。「シンイチ、帰ってきたのかい?」口調は静かだが、洒落ではなく鬼気がうっすらただよう場面だ。腰を曲げてにこやかに蝶に近づきやさしく守ろうとする、うっとりする樹木。原田、阿部、YOUやその連れ合いや子供ら家族は制止することもなく見守るしかない。たじろぐのか、あきれるのか、そうでもあるが、母のあまりにも強い長男への追慕の情に直面してあらためて畏怖せざるをえないのだ。母は蝶が長男だという芝居をいっときでもしてみたい、その世界にひたってみたい、そして芝居であるという意識から自由になったとき、母は長男を黄色い蝶のなかに甦らせることができる。また、周囲の目にも少し狂ったような芝居が芝居でなくなる瞬間だ、つまり蝶を長男であるとする意識が母から自然に伝播してきて成立するのだ。これはもう家族としては、母という場所を許すしかない、尊重するしかない。家族という密閉された空間にのみかぎられたやりとりで、あたたかい無言の約束だ。こういうことがあってこそ家族は家族でありつづけられ、時間を乗り越えることができる。
母の振る舞いという点では、もうひとつ重要事がある。いしだあゆみの歌「ブルーライトヨコハマ」のレコード(CDではない!)を大事にしていて、ときどき掛けるらしいのだ。父が浮気相手の女性宅かにいたときに、樹木がその家から漏れてきたのがその歌だ。夫の浮気を夫自身に思い出させざるをえない歌「ブルーライトヨコハマ」。これもまた、母の樹木希林のうちに流れる重要な感情、夫への怨みであり、愚痴だ。この歌は四〇年も前に流行ったもので、夫の原田芳雄の立場ならもういい加減に忘れてもらいたい気持ちにちがいないが、樹木はいまだにレコードでちくちく刺すのだ。盆休みに久しぶりに帰ってきた阿部寛やYOUに事情を話すのだ。「ブルーライトヨコハマ」は独特の軽さをもった名曲で、私はいまだに酔うことができるが、まつわる格別の思い出はない、大部分の人もそうだろう。同じ一枚のレコードをはさんで、ここでも人の想いのちがいが巧みに描かれる。またこういう妻の樹木の振る舞いにも夫の原田芳雄は無抵抗たらざるをえないのだろう。無抵抗だからこそ家庭は維持されるのだ。そうしてレコードを掛けることと先に記したように青年を怨むこと、亡き長男を想うことが一個の人格の樹木希林のなかに同居している、樹木は家族の中で自由にふるまう。だが本人には自由の感覚はない、大事に育てようとした希望や明るさが何回かの事件によって砕かれてしまったという欠損感と苛立ち、それが中心を占めている。樹木以外の家族からすれば、自分には許せないことであっても家族には許す、許さざるをえない、そういう感情で樹木に接しているのではないか。これは「妥協」という言葉は適切ではないと思う。性と血の繋がりというところからくる因果とでもいおうか。
黄色の蝶のことが中断したが、家にまよい込んだ蝶は阿部寛によってやさしくとらえられて夜の闇に放たれる。そしてまだ続きがある。阿部寛の家族が父母の家をあとにするとき、ふたたび黄色の蝶が飛んでくる。子供が言う。「あのチョウチョはおとうさんと一緒に見たことがある」この瞬間、私は泣けた。そして身体がたいへん軽くなった気がした。「おとうさん」とは子供にとっては死んだ実の父、阿部寛からすると妻の前夫である。子供は黄色の蝶を亡き父の思い出と早くも結び付けてしまったのではないか。白い蝶が一冬を越すと黄色くなるという言い伝えとともに、死者を追憶するよすがにすることをこの子供は覚えてしまった。これはいろんな営みを、ひいては生を私たちが子や孫へと引き継いでいくということのすばらしい象徴ではないかと直感したから、私は泣けたのだと思う。つまり、黄色い蝶は樹木希林の長男の亡霊からこの子供の実父の亡霊となった、亡霊も亡霊ををたくす担い手も引き継がれたように私には思えたのだ。
「引き継ぐ」ということからくる解放感を、私はこの映画ではじめて予感したのかもしれない。だがそこまでに達するまでに私たちは生きねばならないのだ。苦難があろうとも。すると舞台となった海辺の小さな町の変わらぬ山と海のたたずまいや生い茂る緑の中の階段や坂道が、一見平凡そうでたいへんありがたい存在に見えてきた。私たちを生かしてくれる条件という以上に、不可欠な存在として。また樹木希林が手際よく切る大根や、となりでYOUが馬鹿にスローに皮を削っていくにんじんが、ふりかえってみるとたいへん美味そうに見えてきた。詳しくは書けないが、家族同士のユーモラスなやりとりも笑えた。この部分もすぐれていて、これだけ笑いで劇場がにぎやかになった映画も久しぶりの気がする。多面体的な魅力を放つ傑作だ。
私には毎年命の恩人の家へ足を運ばなければならない青年がたいへん気の毒に思えた。彼には遺族(とりわけ両親)の気持ちが毎年足を運ぶうちに、子供から大人へと成長するうちに、ひしひしと伝わってくるのではないか。自分が生きてしまったことに後ろめたささえ感じているようだ。死んだ人のためにも遺族の「期待」のためにも、せいいっぱい生きねばならないという想い。だが就職が思うようにはいかずにフリーターの身分。樹木に問われるままに答えるのも縮こまるようで、ちょっとしたいじめにも見えた。靴下の片一方が黒く汚れているところを発見されて子供にくすくす笑いされたり、正座から立ち上がろうとしてよろける場面など眉をひそめさせる不恰好さだ。彼はほんとうは盆のお参りは、苦しくてもう勘弁してもらいたいのかもしれない。次男の阿部寛も青年を陰でなじることには同調できないようだ。どこでもそうだとはかぎらないが、親と兄妹では長男の死の受け止め方が、この映画の家族の場合は微妙に異なる。
そしてその想いがいちばん強く、ときにこらえられなくなって吐き出してしまうのが母の樹木希林だ。青年への怨みは裏返せば亡き長男への狂ったような追憶の想いだ。前半の部分で、阿部寛が連れて歩いている子供とともに黄色い蝶を見たとき、「白い蝶が一冬を越したとき黄色になるんだ」という言い伝えを教える場面があるが、これがたいへんうまく生かされる。青年が帰っていってやがて夜が訪れたとき、仏壇のある居間にその黄色の蝶がさまよいこんでくるのだ。樹木はそれを長男の霊として見てしまう。「シンイチ、帰ってきたのかい?」口調は静かだが、洒落ではなく鬼気がうっすらただよう場面だ。腰を曲げてにこやかに蝶に近づきやさしく守ろうとする、うっとりする樹木。原田、阿部、YOUやその連れ合いや子供ら家族は制止することもなく見守るしかない。たじろぐのか、あきれるのか、そうでもあるが、母のあまりにも強い長男への追慕の情に直面してあらためて畏怖せざるをえないのだ。母は蝶が長男だという芝居をいっときでもしてみたい、その世界にひたってみたい、そして芝居であるという意識から自由になったとき、母は長男を黄色い蝶のなかに甦らせることができる。また、周囲の目にも少し狂ったような芝居が芝居でなくなる瞬間だ、つまり蝶を長男であるとする意識が母から自然に伝播してきて成立するのだ。これはもう家族としては、母という場所を許すしかない、尊重するしかない。家族という密閉された空間にのみかぎられたやりとりで、あたたかい無言の約束だ。こういうことがあってこそ家族は家族でありつづけられ、時間を乗り越えることができる。
母の振る舞いという点では、もうひとつ重要事がある。いしだあゆみの歌「ブルーライトヨコハマ」のレコード(CDではない!)を大事にしていて、ときどき掛けるらしいのだ。父が浮気相手の女性宅かにいたときに、樹木がその家から漏れてきたのがその歌だ。夫の浮気を夫自身に思い出させざるをえない歌「ブルーライトヨコハマ」。これもまた、母の樹木希林のうちに流れる重要な感情、夫への怨みであり、愚痴だ。この歌は四〇年も前に流行ったもので、夫の原田芳雄の立場ならもういい加減に忘れてもらいたい気持ちにちがいないが、樹木はいまだにレコードでちくちく刺すのだ。盆休みに久しぶりに帰ってきた阿部寛やYOUに事情を話すのだ。「ブルーライトヨコハマ」は独特の軽さをもった名曲で、私はいまだに酔うことができるが、まつわる格別の思い出はない、大部分の人もそうだろう。同じ一枚のレコードをはさんで、ここでも人の想いのちがいが巧みに描かれる。またこういう妻の樹木の振る舞いにも夫の原田芳雄は無抵抗たらざるをえないのだろう。無抵抗だからこそ家庭は維持されるのだ。そうしてレコードを掛けることと先に記したように青年を怨むこと、亡き長男を想うことが一個の人格の樹木希林のなかに同居している、樹木は家族の中で自由にふるまう。だが本人には自由の感覚はない、大事に育てようとした希望や明るさが何回かの事件によって砕かれてしまったという欠損感と苛立ち、それが中心を占めている。樹木以外の家族からすれば、自分には許せないことであっても家族には許す、許さざるをえない、そういう感情で樹木に接しているのではないか。これは「妥協」という言葉は適切ではないと思う。性と血の繋がりというところからくる因果とでもいおうか。
黄色の蝶のことが中断したが、家にまよい込んだ蝶は阿部寛によってやさしくとらえられて夜の闇に放たれる。そしてまだ続きがある。阿部寛の家族が父母の家をあとにするとき、ふたたび黄色の蝶が飛んでくる。子供が言う。「あのチョウチョはおとうさんと一緒に見たことがある」この瞬間、私は泣けた。そして身体がたいへん軽くなった気がした。「おとうさん」とは子供にとっては死んだ実の父、阿部寛からすると妻の前夫である。子供は黄色の蝶を亡き父の思い出と早くも結び付けてしまったのではないか。白い蝶が一冬を越すと黄色くなるという言い伝えとともに、死者を追憶するよすがにすることをこの子供は覚えてしまった。これはいろんな営みを、ひいては生を私たちが子や孫へと引き継いでいくということのすばらしい象徴ではないかと直感したから、私は泣けたのだと思う。つまり、黄色い蝶は樹木希林の長男の亡霊からこの子供の実父の亡霊となった、亡霊も亡霊ををたくす担い手も引き継がれたように私には思えたのだ。
「引き継ぐ」ということからくる解放感を、私はこの映画ではじめて予感したのかもしれない。だがそこまでに達するまでに私たちは生きねばならないのだ。苦難があろうとも。すると舞台となった海辺の小さな町の変わらぬ山と海のたたずまいや生い茂る緑の中の階段や坂道が、一見平凡そうでたいへんありがたい存在に見えてきた。私たちを生かしてくれる条件という以上に、不可欠な存在として。また樹木希林が手際よく切る大根や、となりでYOUが馬鹿にスローに皮を削っていくにんじんが、ふりかえってみるとたいへん美味そうに見えてきた。詳しくは書けないが、家族同士のユーモラスなやりとりも笑えた。この部分もすぐれていて、これだけ笑いで劇場がにぎやかになった映画も久しぶりの気がする。多面体的な魅力を放つ傑作だ。

