大洋ボート

桐野夏生『抱く女』

  杉浦直子は大学生で、大学の近くであろう吉祥寺という街にときどき姿を見せる。麻雀に興じたりジャズ喫茶を愛好する仲間がいるからだ。人数的には男のほうが多く、飲食をともにすることもあって、泥酔のあげく男と性的関係をもつこともある。直子にとっては性の敷居は低い
  時代は1972年後半で、連合赤軍事件が明らかになった年だ。学生運動の退潮期で、直子は学生運動に親近感をなお残すもののセクトに入って活動することはなく、そうかといって授業をこまめに受講することもなく、クラブ活動にも参加しない。学生時代のかぎられた時間の自由さを満喫したい気分なのだろう。大した目的もなく、ただ遊んでみたい。だが麻雀なら強くなければ面白くなく、金も減る。ジャズならばうんちくを傾けるほどの知識豊富な輩がいる。大音量のジャズ喫茶に小難しい本をもちこんで文字を追う学生もいる。何歩も先を行っている人やらマネができない人がいる。つまりは遊びといってもそこには壁がたちはだかるらしい。遊びとは自己本位の快楽をもとめることであり、その志向を持った人が集まれば、そこにおのずから「仲間」が形成されるということになるが、直子はどうやらそういう自然な仲間意識がもてない。それを直子がどこまで自覚するのかはわからないが、仲間意識をもっと共有したいという気があってそこに参加しつづけるのではないかと、わたしは読んだ。
  1972年。学生が言葉を失った時代かもしれない。言葉が見つけられなければ、せめて行動やら気分やらで、ゆるやかでも仲間意識を共有したいという漠然としたままの希望が頭をもたげるのは、わかる気がする。
  直子の性がゆるいのは、性が男によって自分という女が認容される重要な契機と感覚的に見なされるからで、それが延いては仲間意識につながるであろうとの希望に基づいている。泉という女友達との会話では「何かさ、女って男に欲せられていること自体に酔うんだよね」「男が自分を欲していることで、自分という女が成り立っているような錯覚を起こすんだよね。アイデンティティの確認してるのかしら」また「ラブレス」のセックスともいう。だがそんな直子に打撃を与える言葉が耳に入ってくる。遊び仲間の男の誰かが直子を「公衆便所」との陰口を言って、それが男たちに共有されているらしいのだ。直子にとっては侮辱以外ではない。男によって直子は「性の捌け口」として安直このうえなく扱われたので、それによって仲間意識が形成されるどころではないことが衝撃的にわからせられる。
  小説は直子に寄り添って書かれるので、男の学生が直子をどう見なすのかは直接の言及がないが、おそらくは扱いかねたのだろう。麻雀も強くなく、ジャズに深入りする気配もなく、それでいて自分たちに近づいてくる。ちょっと理屈っぽいところもある。誘いをかければ比較的楽に応じてくれる、というようにそれ以上には理解しがたい女だったのだろう。遊びにのめりこむことが男たちの中心目的ならば、他人を理解しようとすることなど思いの範囲外だったのだろうか。客観描写よりも会話に比重を置いた小説であり、直子と女性とのそれにおいては、直面する問題を掘り下げようとする意欲が双方ともに露わになるが、遊び仲間の男性との間ではそれは少ない。男が上辺を取り繕うのか、遠慮するのか、言葉に迷うのか、直子としては男の饒舌を期待しながらみずからは多く語らないのか、判然としない。直子を男たちがもてあましたと推測するしかないのだ。
  このことをきっかけに直子は遊び仲間からとおざかる。だが別の男と意気投合して飲んで泥酔したり、大麻に手を出したりする。なかなか足を洗えない。泉のボーフレンドが学生運動の関連で自殺する。こういうことも、あの時代あった。
  やがて直子は恋人と真にいえる男とめぐりあえるが、一方では早稲田の革マルに属する次兄が内ゲバに巻き込まれるという事件に遭遇する。ここからが後半部分で、小説らしくストーリーを追う展開になるが、やや平凡な印象が拭えない。わたしには前半部分が秀でていると読めた。あの時代、わたしも麻雀やジャズ喫茶の文化に少し触れてみたが、間もなく後退した。ゲームや音楽になじめなかったことが一番の理由だが、言葉をうしなった自分を意識させられたことと、ともすれば、それをすぐ目の前に居る「仲間」に無意識裡にもとめてしまうことがわかって自己嫌悪に捉えられたからである。

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桐野夏生『夜の谷を行く』

  西田啓子は元連合赤軍のメンバーの女性で、六〇歳代。何年間かの刑務所生活を経たのち、学習塾をひらいて生計を立てていたが、現在は無職。独身で一人のアパート暮らしで、スポーツジムに通ったり、図書館で本を借りたりが楽しみのひっそりした生活をしている。だが法的制裁の期間を終えたとはいうものの、その痕跡はいまだに周囲に影を落とす。両親が早死にしたことや、妹夫婦が離婚に至ったことも啓子の経歴が原因であるらしいし、妹の娘・佳絵が結婚にさいして啓子からはじめてそのことを打ち明けられて、佳絵からまたしても非難される。啓子が結婚式に出席すべきかどうか、妹や娘と啓子とのあいだで確執が起る。時は二〇一一年。東日本大震災の年であり、また啓子にとっては関わりがあった連合赤軍最高幹部の永田洋子が獄中で病死した報も舞い込んできた年でもある。
  重大犯罪に関わったことを特に身内はいくら歳月を経ようとも忘れてくれない。憔悴を引き摺ったり、思い出したように怨嗟を投げかけてきていつまでたっても和解できない。世にはこういう例は多いのだろう。本人は寧ろ、自分の生を支えようとするのだから、後悔や自己卑下ばかりしていられない。事件の深部をくりかえし見据えつつ、疚しさばかりではなく、わずかばかりであってもそこに真水のような清純さを見出そうとするのではないか。厳しい批判に正面切って反論するということではなく、批判を甘受しつつも、全面的に否定の底に沈められたくはないという思いだ。死刑囚にだって生きたいという思いはあるだろう。生への欲求が、過去に向って一滴の真水をもとめる。理解してもらいたいのではなく、無理解の広がりのなかで、ひっそりとした孤独の生活において根気よく、それを追求していくしかない。逆に「言語化できない」という啓子のセリフがあるように、過去を安直に語ることも勿論、慎まなければならず容易な営為ではないのだが。桐野夏生は啓子を、そういう志を持った人(女性)として描いたと読め、わたしは好感をもった。
  居所を隠していたつもりだったが、熊谷という昔の仲間から電話連絡が入る。フリーライターの古市なる人物も啓子に接触をこころみてくる。「永田洋子を偲んで送る会」なる催しへの参加を熊谷から懇請されるが、啓子は断る。啓子は森恒夫や永田やらまた他のメンバーを、一部の人を除いて、ことごとく不信感があって嫌っているようだ。自分の思いを容易に「言語化できない」という思いがあるのだろうし、昔の仲間とはいえ、他人の意見を押し付けられるのも、共同行動への参加を要請されるのも拒絶するようだ。山岳アジトには参加しなかったものの事実婚相手だった久間とも再会する。啓子は左翼もふくめた一般的な批判に迎合する手紙を刑務所に送ってきた久間を許す気はなく、冷酷だ。妹が啓子を許さないのに対応するかのように。だが下半身に障害を負った久間にたいしては同情的で、一時のデートをし、しだいに心がほぐれていくかのようで、この部分も共感できた。
  古市によって昔の仲間の消息が知らされる。多くの人が名前を変えてひっそり暮らしている。なかには自殺した人もいる。啓子はやがて意を決して、いっしょに脱走した君塚佐紀子に会いに行く。彼女もまた名を変えている。結婚しているが、家族は君塚の素性を知らないままだ。君塚をはじめ、啓子は自分が「永田の右腕」のような存在として永く誤解されていたことに気づかされる。とはいえ、君塚は忌憚なく話し合うことができ、そのなかで誤解も解ける。連合赤軍のメンバー全員にとって、森や永田は恐怖の存在で、いつ何時総括にかけられるかもしれない不安に苛まれつづけたのだ。言葉と行動の端々に用心しなければならず、ときには迎合することもあった。誰もが他のメンバーを誤解し、自分が誤解される種を撒かざるをえなかった。そうしてしか生きのびることができなかったのだ。
  啓子が山行きに参加したのは、子供を「革命戦士」として山で育てるという理想に共感できたからだという。彼女は妊娠三カ月だった。啓子だけではなく、多くの「女性兵士」もまたその目的に賛同したという。(事実として、総括死された金子みちよも妊娠中だったし、生後数か月の赤ちゃんを連れてきた女性もいた)その出発点には曇りがないとの啓子の思いだ。終わり近くにきて、ようやく啓子のこの内心の思いにたどり着き、ほっとした気になれた。わたしも以前、連合赤軍関連の本を何冊か読んだが、こういう視点を持った女性や、その参加の動機と直接つながる言説を見出すことはできなかったが、桐野夏生の女性的関心ならではの視点が、おそらくはかかるフィクションに向かわせたのだろう。連合赤軍に限定することもない、桐野夏生の七〇年代女性解放運動への関心と執着がこの長編を書かせたのか。それはまた現在という時代にたいする問題提起でもあるだろう。 


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清岡卓行「サハロフ幻想」森川譲「ホロゴン」宮尾登美子「満州往来について」

  清岡卓行は一九二二年大連生まれ。巻末年表によると<一九四三年、徴兵検査と召集のため本籍地高知に赴くが即日帰郷となり休養。四四年、(東京)大学入学。>とある。つまり二十歳を超えるまで大連で過ごしたと思われ、その土地への追憶と執着は強いようだ。単に生地というにとどまらず、豊かで幸福な生活があったにちがいないと、読んで自然に納得させられた。その地を戦争によってやむなく去らねばならない悲しさ、やりきれなさを、日露戦争真っ只中の大連市長のサハロフに託して描かれる。それは清岡自身の核心の感情であることは疑いえないが、土地と建築物への愛惜に限定した形式で描かれるので、サハロフという人はもってこいだ。何故なら彼は、ロシアの租借地となった大連を自身の構想した都市計画にもとづいて建物やら道路やら、それにアカシア並木やらをつくりあげた指揮者、責任者であるからで、後に市長になった人であるからだ。ロシア風にドイツ風を加味した都市づくりであったという。そうした大連の街並みや風景を清岡もまた生まれて以来愛し、なじんだ。清岡はサハロフの詳しい人となりは知らないという。ただ大連という街への一方ならない愛惜を持っているであろうことを「幻想」すれば足りるというのだ。清岡にとってもサハロフにとっても人的交流の濃密さがあったであろうが、ここではそれは省略される。それがすっきりした印象をかえって与えるのだ。
  作者はサハロフに倣って大連を終始、ロシア語呼称「ダーリニ」と呼ぶ。一九〇四年五月、日本軍の攻勢によって占領間近となったダーリニのロシア人五〇〇名が終結して旅順までの四〇キロを徒歩で避難していく。その避難路を、戦後何回か訪れたであろう作者があらためて書き手としてたどっていく。サハロフが設計し工事を指揮した市役所や市庁舎がある。また工事途上の建物や道路、計画が確定したもののまだ着手されないそれらが細やかに語られる。近接する過去と未来にもふれられる。平明な語り口のなか、わたしには気持ちがいま一つ入っていけなくもなかったが、不意をつかれたというのか、感動に見舞われたのは、その年の二月、ロシア軍が敷設した水雷にロシア軍巡洋艦が触れて爆発し、八〇数名が死傷者となった事件である。痛ましさがなんとも自然にこみあげてくるのだ。日本とロシアの戦なら、通俗的なナショナリズムにしたがうならロシアのオウンゴールに日本人は快哉をあげても不思議ではないが、ここではまったくそんな気にはなれず、ロシア人に同情し、悲痛さに撃たれたのみだった。人が死ぬことの痛ましさに今さらのように気づかされた。初出「群像」一九八三年七月号。後に単行本『大連小景集』に収録される。
  森川譲は一九一〇年生まれで、同じく巻末年譜によると<一九三八年、蒙古政府の官吏となる>とある。そのときの見聞が反映されたのであろう、日本人教師の人道主義的な活動ぶりが、蒙古人生徒の眼差しをとおして描かれる。少数の人同士の濃密なつながり。それが中心となり、伝聞となって広がりをえて、さらに人が集まってくる。こういうことが納得でき、さわやかにさせられる。もっとも、戦争期だから、死に直面する危険はやはり描かれる。
  教師倉田の評判は蒙古の青少年のあいだでは上々であるものの、中国軍との戦いは継続しており、日本兵も地域に根を下ろしている。その支配下の蒙古人も日本側について戦わなければならない。だが日本兵は略奪や婦女暴行など悪行をくりかえし、彼等の不信と憎しみを買う存在になりさがってしまっている。侵略主義・帝国主義そのものだ。そんななか倉田は、負傷し捕虜となった中国兵を日本軍の反対を押し切って治療を受けさせることで、蒙古人のみならず、中国軍からの畏敬すべき人として知られることになる。おかげで倉田自身が捕虜となったときも、八路軍(共産党系)への入党を固辞したにもかかわらず釈放される。
  さらに倉田は冒険的な行動を、志を同じくする教師や医師とともに起こす。蒙古のさらに奥地に赴いて、教育はもとよりその地に根を下ろして村づくりの支援をしようとする。中国軍が頻繁に出没する場所で、日本軍も反対するものの上級将校のお墨付きをもらっているので主張を押し通すことができる。八路軍との私的協定も成立して、ここでも倉田らは村の民生向上に成功する。題名の「ホロゴン」は書き手のボインバトルフのあだ名で意は鼠。ホロゴンは最後まで、終戦により倉田が収容所に入れられるまで行動をともにする存在だ。八路兵を殺してしまった倉田の助命のためにみずからの死を覚悟してまで奔走する教え子でもある。倉田にとっては、また作者森川譲にとっても蒙古の(あるいは中国大陸全体の)日本軍はたいへん恥ずべき存在であり、逆に一日本人として誇るべき足跡を残したかったという思いがあったのであろう。ただ、わたしは戦争期における少数の日本人のこういう英雄的人物像にそろそろ飽きてきている。
  宮尾登美子の作品は、高知に住む娼婦斡旋・紹介を生業とする主人公の語りによる。一言でいうと、満州という地のおそろしさ、底知れなさを描き出そうとする。野望と智謀があればその地でのしあがることができる。日本本土にあっては、それは自然にもみえる相互監視のシステムがはたらいて、無意識に抑制されるものの、満州においてはそれがない。ひと旗揚げ金儲けに成功した人間が先に居ついていて、彼等のやりかたに学び、あるいはその空気に呑みこまれるならば、ハメを外すことや悪行に手を染めることに抵抗がなくなり、さらに意気揚々として続行しようとする。人間が変貌する地としての満州だ。
  公的売春制度があった時代だ。希望者の窓口となり、親の諒解をとりつけて前受け金を渡したり、管理業者間の女性の移動を引き受けたりするのが主人公の仕事。貧窮に苛まれた家庭にとっては娘さんを売ることで大金を手にできるのは救いといえるので、主人公はこの点では人助けだと自負する面もあり、またもぐりの業者が暗躍して女性を虐げるのを仄聞すると、いやな思いもさせられる。つまり商売を逸脱しないものの常識と良心は持ち合わせている。そして長く多くの人と接してきた経験上、人への観察眼がある。また彼は何回か渡満してかの地の日本人や「満人」の醸し出す空気にも接する。こうした主人公の目をとおして、怪しげな人間の行状が推理もまじえて描かれる。
  粂原という戦友がいる。日露戦争に同時期に従軍した男で本土に帰ってからも遊び仲間としてつきあいがあった。二人とも無類の博打好きで、二人とも警察にあげられたことがあるという始末。ガソリンを口から吹いて点火するという見世物芸人をひきつれての興行が本業だったが、うまく行かず。やがて姿を消したと思ったら、その九年後、満州・新京の有名な料亭玉乃尾楼(芸妓が多数いて売春も行われる)の主となっていることが知れる。さらにその粂原の店に、主人公が世話をした若い三姉妹が務めることになる、というのが主線の筋。長女が勤めになじめずにうつ病気味になりはてるのはさもありなんと思わせ、三姉妹は粂原の乱暴な扱いにも抵抗して、他店への移籍を手紙で主人公に訴えてくる。粂原と三姉妹に会うために新京に旅する主人公。(例えば、粂原は三人を同じ部屋で屏風二枚で仕切りを設けただけの状態で交合させることがあった)
  主人公の観察と推理によって粂原の悪行があぶり出されてくる。確たる証拠はないものの、彼は殺人に手を染めたかもしれないという疑いが浮上する。博打好きで一獲千金を画策するという、本土での従来の粂原の人となりに素地があったのかもしれないが、それにしても飛躍がある。満州という地の底知れなさが彼の背を押したのではないか。侵略的・暴力的だったのは軍隊だけではなく、民間人のある部分も与したのだ。また、やがて三姉妹の全員が身請けの男が見つかったり、借金を完済したりでその稼業から立ち退くことができるが、次女だけがふたたび主人公の長男・健太郎によって新京で目の当たりにされることになる。粂原が健太郎を誘った妓楼に次女はピーヤ(中国人娼婦)の服装をして現われるのだ。次女ははたして粂原に寄り添おうとするのか、逆に復讐を果たそうとするのか、謎のままで終わる。この大胆さのみで、次女の変貌ぶりは十分に伝わる。粂原と同じく、次女もまた満州という地にみずから溺れて行ったことが主人公によって窺われる。
「ホロゴン」の初出は一九四八年二月「夏目漱石賞当選作品集」宮尾登美子「満州往来について」は一九七六年七月「文芸展望」第一四号。「サハロフ幻想」もふくめて、いずれも戦後に書かれた。外国と日本人の関係ということで共通点がある。外国の地を郷土にしてしまった者の断絶感。そこには侵略者としての後ろめたさもつきまとう。「ホロゴン」は理想に燃える教師像で、通俗性はあるものの、本土では比較的楽であるかもしれない「良き日本人」であろうとしてのふるまいが当地では命がけになってしまう恐さがある。「満州往来」は逆に本土では感覚に上ってこないであろう魔性のともなう解放感が、不快感をともなって鼻に押し込まれるように提起される。


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長谷川四郎「張徳義」里見トン「みごとな醜聞」村上春樹「動物園襲撃」

   長谷川四郎「張徳義」は日本の満州国支配と日中戦争下における中国人下層労働者・苦力の存在に焦点をあて救い上げようとする。張徳義は勤勉な労働者でかつ楽天的で、稼いで家族に楽をさせたいと願う。人力車夫や材木伐採、炭鉱工夫などさまざまな職業を渡り歩くが、何をやっても薄給で、手元には自分の食い扶持しか残らない。日中の経営者が当たり前のように搾取するからで、最後に行き着いたのが、日本軍が管理するソ連国境近くの満州北西部の橋。その橋は軍事機密で通行禁止になっていたが、知らずに渡ろうとして拉致される。担当軍人は処刑も一考したが、「自給農場」設営に役立つとして張を生かし、その管理にあたらせる。捕虜の身分だが、一日の食事が「空き缶いっぱいの高粱とミガキニシン」という空腹を満たすにはほど遠い量だ。しかもねぐらと言えば馬小屋の隣の倉庫で、とても捕虜にふさわしい扱いではない。それでも張は働けば働くほどそれに見合う報酬をもらえるものと期待して懸命の活躍をする。開墾や草刈り、播種、冬になれば、仕掛けを作って凍った河で魚とりをしたりと。その地の少人数の日本軍にとっては、張はこのうえなく重宝な存在となる。だが彼の食事は以前のままである。釈放を要求するが、それもかなえられない。前々回紹介した八木義徳の「劉広福」では、会社の日本人管理者が苦力に人情豊かに報いたが、ここでは真逆にたいへん冷酷であり、日本軍人には何の後ろめたさもない。長谷川四郎は「劉広福」のような例は千に一つ、万に一つと言いたげだ。たまらなくなって張は脱走を試みるが……。
  戦後になって、日本人の作家や思想家は大陸における中国人支配の苛烈な実相を贖罪意識のもと、ようやくのように暴き出そうとしたのだろう。その問題意識の真面目さがたたみかけるような文体にも顕わになっている。初出は「近代文学」一九五二年八月号。
  里見トン(<弓享>で一字)「みごとな醜聞」は、満州からの敗走を余儀なくされる一組の日本人の男女が描かれる。人間関係がその過程で劇的に変化するさまがたいへん興味深い。
黒竜江省の牡丹江に赴任していた足立茂三郎軍曹は上官トップの浅野参謀長少将からじきじきに妻と娘を一足早く東京に連れて帰ってくれという密令を受ける。ソ連参戦の報に接した直後だからじつに慌ただしい。家族とはいえ、茂三郎にたいする階級差を意識して最初はお高くとまる二人の女性だが、目先のことが皆目わからずに足立にすがるしかなくなって階級差は消滅し、むしろ逆転する。携行してきた貴重品の品々も茂三郎の命によって売り飛ばされ、女性の外見を隠すために断髪もする。それらは大挙逃れてきた日本人の多くがわれ先に行ったことなので、二人の女は肯うしかない。途中娘が行方不明になるが、娘を探し回る暇はなく、自分たちが生きのびることの必死さに追われる毎日がつづく。多くの日本人にまじっての集団生活。年齢差のある「夫婦」と見られることの「ハタ目の悪さ」。物々交換やら弁当屋などの一時しのぎの仕事。さらに、夫人は40歳代なかばにもかかわらず浅野少将の子を妊娠中で、やむなく堕胎する事態も起こる。
  そうしたなか夫人は「男らしさ」を少しずつ身に着けていく。本名の「志保」をもじって茂三郎は夫人を「塩野」と呼び、夫人も「足立」とお互いに呼ぶようになる。翌年二人は本土に帰還できて、夫人は茂三郎の引率の下、親戚の家にたどり着く。
あらすじを記しただけではこの短編の巧みさを伝えられない。茂三郎は夫人を性愛の対象として見るのではない。そうしたい気持ちが出来心のように湧いて来はするが、失敗する。命令とはいえ女を道連れにするのは足手まといにちがいなく、また一方的に女に頼られることの鬱陶しさもある。自立というにはほど遠く、いっこうに成績が上がらない生徒をみる教師のような不満を女に抱いて、茂三郎は単独の逃避行を夢想することもあるが、それも断念する。命令に背くこわさがあるがそれだけでもない。一年足らずの間、寝食をともにしたことの縁はたしかにできた。しかし「縁」という言葉に封じ込めきれないかけがえのなさが、二人の間の親密さが、ふりかえると一種堅固にできあがっていた。同じ修羅場をくぐり抜けたことによってそれぞれが成長し逞しくなり下品になり、あるいは堕落した。茂三郎が命じ、夫人がおろおろしながら従うという関係がこの共時体験のなかで貫かれた。それがかけがえのないものとして本土に帰還したときに、あらためてふりかえられ、できれば持続させたいと二人に思わせたのだ。
  やがて二人は実質的に夫婦になる。この結末には驚かされたが、恋愛関係の延長と呼ぶには、そうにはちがいない要素もあるものの言葉としてためらわせるものがある奇妙さをもった、しかしこの社会に多くあっても不思議ではない男女関係といえる。わたしは自身の迂闊さを覚えた。「喜劇」(解説・川村湊)と呼ぶにふさわしいのか。
「みごとな醜聞」の初出は「改造」一九四七年一月号。満州の政治と軍事そのものを標的にするのではなく、書いたようにそれは人間関係の劇的変成の舞台装置としてある
  長谷川四郎は実際に兵としてソ満国境付近に配属されたと著者紹介にある。里見トンは旅行のみで大陸に居住したことはない。村上春樹にいたっては戦後生まれだから、旅行はともかくも、戦中における大陸に関する同時代情報に接したことはない。だからというのではないが、アジア・太平洋戦争の固有性へのこだわりは薄く、むしろ作者が感覚する現在という時代の不可解さを戦争のさなかにおける不可解さに置きかえることによって描き出そうとするのではないかと思えた。ただ、やはり両者の連続性がまったくないということでもない。
  一九四五年八月、ソ連軍がソ満国境を越えて大挙押し寄せてくる。敗色濃厚ななか、上海の動物園では虎、熊、象などの猛獣を殺処分することが日本軍によって命じられる。混乱を事前に回避するためで、最初は毒薬を使用する予定だったが動物園には在庫がわずかしかなく、やむをえず日本兵の一斉射撃の方針に切り換わった。上からの命令であるから遂行する以外にない。そのなかの一人の日本兵も同じ思いで、動物を射殺することになんら倫理的なうしろめたさを抱くこともなく、動物にたいする憐みも希薄だ。だが彼は射殺ののちに猛烈な不快感におそわれる。思わず地面に手をついて吐いてしまいたくなるほどの抗しがたい不快感だ。こんなことなら敵兵と射ち合い殺し合うほうがよほど楽だと断定できるほどに。それ以上の反応は彼自身からはうかがえないが、ただ彼は楡の木立の高みから「ねじまき鳥」という鳥の奇怪な鳴き声を耳にするのだ。これは、詩における隠喩にあたるものではないだろうか。世界にたった今印された拭いがたい汚点をかまびすしく知らしめる、しかし日本兵にとっては即座には理解しえない叫びとしての「ねじまき鳥」。無論、村上春樹はこの日本兵を責めるのではない。
  もう一人の動物園での重要人物の日本人獣医。普段は動物の健康に注意をはらい病気の治療をする役目だが、降ってわいたような殺処分命令に彼も混乱する。ただ彼は軍の命令は合理的と思っているようで、背く気配はない。彼は自身の感情を抑制することになかば成功する。銃殺が終わった後も「それほどの驚きも哀しみも怒りも感じなかった。実際のところ、彼はほとんどなにも感じてはいなかった。」彼のなかにあるのはただ「困惑」と「無感覚」だと作者は書く。獣医は理性的で、倫理的かもしれない。彼は愛情をそそいだ動物たちが虐殺されたことによって世界全体ががらりと変わってしまったことを正面から認識するものの、それほどの痛痒を感覚できなくなってしまった自身に困惑する。さらにこの世界は偶然によって成り立っていて、回転扉のどの位置に身を入れるかは個人では選択できない、その区分がどんな性質かは事後になってはじめてわかる、そんなものではないかという思いに突きあたるのだ。個人が世界を選択できないちっぽけな存在でしかないという思いはわかるが、それよりも重要とわたしが思うのは「無感覚」だ。無垢の生が一斉に殺され消滅してしまった。そういうことにかぎらなくてもいい、自分のなかで接する世界ががらりと変わってしまったにもかかわらず、その認識も感覚もあるにもかかわらず、感情が本格的に励起してこない、あるいは次なる行動への意欲が湧いてこないという不可解さだ。これは腹立たしい事態だが、容易には払拭できない心の世界として村上春樹は提示している。この部分だけをとりだせばニヒリズムにちがいない。
  「動物園襲撃」の初出は「新潮」一九九四年一二月号。後に長編『ねじまき鳥クロニクル』の一エピソードとして挿入された。
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