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丸山健二『惑星の泉』
2019 / 11 / 12 ( Tue )
  最後までみだれることなく整然と進行する。舞台は都会からとおくはなれた鄙びた町で、丸山の多くの作品と同じく自然の風景が語り手によって喜怒哀楽を託されて描写される。本作は昭和62年の発表で、丸山健二のデビューからちょうど20年目にあたり、書きなれて久しい時期だろうか、文体が途中で変調をきたすことがなく、さらさらした美文で心地よさはつたわるものの、わたしには不可解さが残った。 
  主人公の15歳の少年は敗戦直後の経済や人心の混乱にもろに巻き込まれて他人から見れば不幸のどん底にたたきこまれるように感じられるが、一人称形式で語られる自分自身はそうでもなさそうで、むしろぼんやりした幸福感さえ漂う。ときどき、章ごとの冒頭で「私は覚えている。」という文が記されて、この話は回想によるものであることがわかるが、回想のために人や物の動きと現在のあいだにフィルターがかかって、そのせいでそういう印象を生み出すということでもなさそうだ。
  戦争が終わって父が南方の島から帰ってくるが、左膝から下を失って松葉杖の姿。母は戦時中から「鳥浜市」の商売人の早川と関係をもってしまい妹とともに面倒をみてもらっている。父は母と面会するが元のさやに戻ることはできず、「鯨町」の森のなかの掘立小屋に住みつき、少年も同居する。つまり家族が半分ずつに引き裂かれる。また、バスのなかで父子の姿を見て同情した「安藤さん」ら5,6人のやくざグループが、少年に仕事の下働きをさせて金品をめぐみ、少年もほとんど彼らの意のままに動き、教師の再三の勧めにもかかわらず、学校に行かなくなる。やくざグループは元売春旅館であった「滄海楼」を拠点に闇物資を流通させて儲け、やがて「滄海楼」再建にまでこぎつける。とこう書くと非行少年そのものだが、すさんだ様子は伝わらず、まるで超然としている。やくざグループにたいしても少年は恐れと有難みをもつが、彼らの芯にあるであろう粘っこいエネルギーには触れたり影響を受けたりすることもない。戦争や家族の離散のためか無口を押し通す父にも、不平不満はあるものの修復不能なほど爆発させることもない。大人びているというか、少年の感情を読み取りにくいのだ。
  少年の幸福感や希望の源泉となるのが、爆撃のために干上がった湖のすり鉢状の底部から滾々と湧き出す泉だ。白砂をしずかに舞い上げ虹色の小魚が気持ちよく旋回するその泉は、少年や町に消滅することのない精気を与えると少年はくどいほど繰り返し記す。しかしどうだろう、『三角の山』であれほど効果的にふりかえられた山ほどの印象がそこからは伝わらない。
  血が出現する場面が2回ある。彼の母が妹を連れて原野で出産を終えたときに、ばったり少年は出会う。妹の手には血の付いた鋏。たぶん臍の緒を切ったのだろう。それから仔細は省くが、少年がやくざから手渡された小さな袋から小指3本を発見して仰天すること。さらさらした川の流れのような、あるいはまどろみのような進行のなかで生々しい現実に引き戻される気にさせられた。

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丸山健二『月と花火』(2)
2019 / 11 / 03 ( Sun )
  丸山健二は一作ごとに主人公を不幸にしたり幸福にしたりすることのできる自在性をそなえた作家だ。わたしたちもそれぞれの局面で幸不幸を味わったり、他人のそれらを聞いたり耳に入ってきたりする。他人の幸不幸については、みずからが非体験であっても想像で触手をある程度までは届かせることができるし、無論できない場合もあるが、丸山の作品の大部分は想像可能な人間の世界が描かれている。また丸山は心理描写において自然や社会の風景を主人公に引き寄せて語らせるのが巧みで、この作者の強みだ。ときには風景描写そのものが作者の目的であって、登場人物の物語が二の次、引き立て役にみえることすらある。
  「雪折れ」は大雪に閉ざされた家で、男が駆け落ちの約束をした人妻を待ちわびるという話。屋根には押しつぶすほどの雪が積もり、家の周りの杉の枝がつぎつぎと折れ雪崩も心配されるさなか、さらに雪は降りやまないから女は来ないのでないかと読者は予想し、実際に来ないのだが、男は一縷の望みを捨てきれない。密通がやがてばれてしまいそうなので一刻の猶予もないと男は焦燥に身を焦がす。荷物をまとめたリュックをかたわらにして、ときには玄関先の積雪に穴を掘って女のためのつもりで道をつくったりする。愛犬は道連れにできないので殺して穴を掘って埋めた。その犬が夢か幻想か、男と一緒に部屋に横たわっていたりする……。切羽詰まった男が狂っていく短い過程がある。丸山健二は長野県大町市に住むというから大雪は身近な光景だろう、雪の描写には迫真性がある。
  「河」は交通事故で奇跡的に助かった男がいいしれぬ幸福感にひたるという話。家族をつれてのドライブの最中、男は居眠り運転をして山沿いの道路のカーブを曲がり切れず、あやうく崖下の河に転落するところだったもののガードレールのおかげで車は停車した。病院に運ばれたがやがてもうすぐ退院という時期になって、男は近くの食堂で腹を満たす。羊の肉と鯉の素焼きにビールというメニュー。山裾からせりだした崖の上の野外のテーブルに落ち着いて腰をおろす男。男の幸福感がどこからくるのか、男自身の分析はないが、心身の核心からやってきて、しかもそれをむやみに否定したくない、長くまどろんでいたいという気分が横溢する。人生の折り返し点で、怪我とはいえ思わぬ休息をえたことからごく自然にやってくる幸福感なのか。わたしも二週間の入院生活をしたことがあるが、身体の軽さを覚えたことを思い出す。そういう暫しの幸福に男は酔いしれたいのだ。食堂は夕刻から夜に移ろうとする。山の稜線が、河が見下ろせる。
  

そこかしこでヒグラシが鳴いている。日没を間近に控え、もしくは、一段と活発になってきている。風はそよとも吹かない。しかし、決して蒸し暑くはない。おそらくいつになく凌ぎ易い晩になるだろう。蚊も飛んでいなければ、ブヨもいない。ここでは早くも夏が去りつつあるのかもしれない。あしたから秋が始まるのかもしれない。


  風景は具体性があってかつ穏やかであるが、風景に魅せられて主人公が幸福感にひたるのではなく、逆に、彼の幸福感の反映であるだろう。他の客がやってくる。壮絶な夫婦げんかの最中の若い男女であったり、野良仕事を終えた地元の巨漢の男であったり。その男はものすごい食欲をみせ、主人公を頼もしがらせる。家族の死を知らせに来た子供も相手にせず酒食に没頭するが、べつに主人公を訝しがらせることもない。若い夫婦もやがて元のさやに納まるだろうとの楽観的な見通しを主人公は無根拠に下す。何もかもを笑い飛ばしたいという主人公の幸福感が反映されるのだ。
  「ヒマラヤの青いケシ」の主人公の幸福度は「雪折れ」と「河」の中間くらいで、わたしたちの大部分と相いれる生活が描かれる。
  三十代なかばの主人公は元登山家で、平凡なサラリーマンには成りたくない、自由な生活をしたいとの願いで、一念発起して登山やスキーやリゾートを目的にやってくる客を目当てに山岳地にロッジを開く。金策や土地や建物の問題をやっとの思いでかたづけたものの客足が思うように伸びずあせる。ローンも七年も残っているという状況。同じように宿泊施設をつくった人もいるが、軌道に乗ったところもあればそうでないところもあり、主人公は後者の立場で、その同業者の中には何人か自殺した者もいる。打開策を考えるものの先立つものが、金がない。土地が売れればいい、このままの状態がつづけば夜逃げするしかない、また自分は登山家としての気魄を決して失ったつもりはない、などとあれこれ思案が渦巻く……。他人の備品を平気で盗んで知らん顔をする地元民(主に老人)にも勿論、なじむことができない。
  そんななか、主人公に唯一の希望、希望ともいえない小さな希望を、慰めをもたらすのが、登山家の友人からもらったヒマラヤで採集した題名の「青いケシ」の種で、庭で蕾がほころびかけた時期のその花をバンガローから見下ろす場面からこの短篇ははじまる。
  後悔しても後戻りが容易でない。かといって変節することもできないという男の渋滞した情況が過不足なく描かれる。起伏が少なくエッセイのような感がなくもないが、わたしたちの生活と通じるものがここにはある。運命なるものは向こうからやってきてきびしく、個人の思い入れではどうにもならない局面がある。だが当然「青いケシ」はわたしたちも持たなければならない。

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丸山健二『月と花火』
2019 / 10 / 20 ( Sun )
  丸山健二全短篇集成第五巻『月と花火』には一九七九年から一九八三年のあいだに発表された十四篇の短篇が収録されている。(雑誌号年月による)そのなかから印象に残ったものをとりあげたい。
  「月と花火」の主人公は小さな山村に棲む二十代前半の女性で、都会に移住したがっている。年に一度の花火大会の日、人々は川の土手に集まって花火見物を肴に酒食におおいに盛り上がり、男女関係において度を超す者も出現するというありさまだが、一人女性だけは花火が炸裂する空により近い「二本松」に佇む。花火がまだ知らぬ都会生活を象徴して元気づけてくれるように思える。だが隣には同伴を依頼された親戚のヨネさんという老婆が弁当とお茶を携えられてリヤカーにのせられて居る。その家族は当日温泉旅行に行ったのだが、ボケが進行した老婆が足手まといだから連れて行かなかったのだ。あるいは女性の家族が女性に自由な行動を起こさせないためにその依頼を喜んで引き受けたのか。
  老婆は山村で毎日同じような生活をして一生を終える人の象徴であり、女性はこうはなりたくないと焦る。家族から結婚をせかされることも重荷で、じっとしつづけるならばその運命に呑み込まれることは明らかだ。女性は本を多く読んできて、人生の可能性が田舎暮らしのなかだけにあるのではないことを強く意識するが、明確に目標が整えられているのでもない。女性が故郷で一番好きでたのもしく思えるのが月、とりわけ満月だ。

  月は大きい。何という大きさだ。昇ってからすでにだいぶ経っているというのに、相変わらずあまたの恒星を凌駕する輝きを放っている。これまでわたしはこんなにまじまじと月を見たことがあっただろうか。果たしてほかの土地でもこれに匹敵する月を見ることができるだろうか。たとえ新しい生活へうまく飛びこめたとしても、すべてが順調に運んだとしても、月を口実にしてたちまち舞い戻ってしまうのではないだろうか。同じ盆地で育ったのに、わたしひとりが特別なんてことがあるだろうか。



  女性は自分でも意識できない村人との同一環境下に育ったことからくる故郷への愛着に目を向ける。小さな村への嫌悪と愛着、都会への憧れと不安。「三角の山」や「赤い眼」と同工異曲の感がないでもないが、花火や月やすすき、その他自然描写の巧みさはここでも健在である。
  「夢の火山」と「カラチ」にはこの作者にしてはめずらしくユーモア志向がのぞく。前者は、自然にどっぷりつかりながらの南の火山島での自給自足共同生活という謳い文句に引き寄せられて当地に移住した青年の話。イデオロギーがふりまく幻想と現実生活とのギャップに青年は失望し嫌悪し、脱出願望をつのらせる。組織から粗末な喫茶店の店番にふりあてられて、せめて売り上げをごまかして旅費にあてようとする。観光地の島には若い女性が多く訪れてきて、青年らの生活への素朴な憧れを披露し、青年も同調し得意ぶって説明をしたりもするものの、その無知ぶりに青年は呆れひそかに舌をだす。だが、店に来た一人の女性に「普通の生活とどこが違うの?」と問われてしょげる。酪農や農漁業での自給自足がとうてい不可能で、貧乏に甘んじるか、喫茶店をひらくように都会と変わらない生活を送るしかないことを女性は指摘する。つまり島に行く前にそんなことも知らなかったのかと軽蔑されるのだ。
  「カラチ」はサラリーマンが、飛行機の乗り継ぎが不調で足止めを食ったパキスタンのカラチのホテルで、同乗してきた若い日本人女性に浮気心をくすぐられるという話。その女性には連れはなく、無口で憂鬱そうで、かえって目立つ。ケニアの日本料理店に勤めるためのフライトであるものの、途中で引っ込み思案になった様子。三、四日の足止めの期間中、日本人客は添乗員の引率でバス旅行に出かけるが、その女性だけはホテルに居残り、主人公は添乗員に女性の保護を依頼される。同じテーブルでの食事どき、女性は主人公の足に左足を無遠慮にのせてくる。この大胆さには読んでいて驚き、にんまりもした。丸山健二はこの類のことはあまり書かないからでもある。三十代の主人公は仕事において同僚よりも一歩先んじており、今回の契約に成功すればより上昇できることが確実だ。まして女の問題でしくじった社員を何人も見てきている主人公でありながら、女性に引き寄せられることにあらがえない……。
  女性との交流は多くは書かれない。主人公の順調に推移しつつあるさなかでの動揺と少しの喜びを浮かび上がらせることが眼目とみた。灼熱のカラチ、安普請のホテル、観光客相手にチップをねらってたむろする現地人等の異国の描写がひきつける。
  「夜釣り」は秀作。わたしは釣りをしないが、テレビ映像で釣りのおもしろさはわかるので、実感がまったく伴わないことはない。三十代後半の主人公は野ゴイ釣りに至福を見出す。釣りといっても他人に自慢したり魚拓を見せあったり、つきあいが目的ではなく、むしろ単独者としての充実の短い時間の獲得のため、釣りはある。それどころか本気で人生の頂点にまで位置付けるのだ。野ゴイは食べるために釣るのだから、大きい河のそれは油にまみれていて適しない。釣っても食さず放してやるヘラブナ釣りも性分に合わないなどと主人公の蘊蓄には頑固さがある。生サナギを連日湖の釣り場所近くにばらまいて野ゴイをおびき寄せるのという、こういうことは知らない。で、やはり読みどころは大型の野ゴイを釣りあげる場面だ。人の腕力と魚の全身の筋力との格闘だ。右側の葦の群れに逃げ込まれたら糸がからまっておしまいだから、できるだけ左に誘導しなければならない。しかも姿を見せた鉤をくわえた野ゴイの周囲には仲間の野ゴイが集まっている。たもを片手でもたなければならないが、その時間をまちがえると獲物にひっぱられてしまう。野ゴイは頭を岸ではなく湖に向けているから力を存分に発揮できる。読んでいて心がざわざわする短い時間があって満喫できる。

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丸山健二『赤い眼』
2019 / 10 / 06 ( Sun )
  二十代前半の女性が自由と自立をもとめて小さな山村から家出をするという話。家出ならば「三角の山」の女性の行為と同じだが、ここでは村民から非難されることを女性がしたからではなく、一見女性の意志にもとづいてのことだ。
  酒乱でときには主人公の女性との間で殺し合いにもなりかねない父が死んでから家族に波紋が起こる。家族は父母と主人公と妹の四人で、父の死が家族に解放感をもたらしたことを女性は一人称の形式で素直に語る。家族の死が「悲しみ」では必ずしもないことは納得できる。父は開拓者として村に移住してきたが、思うようには畑を広げることはできず、おそらくは失敗したのだ。住居は丘の中腹にあり最も近い店まで行くのにも長く歩行しなければならず、風呂も野外のドラム缶で済ませるしかない。つまりは貧乏で、このうだつのあがらない状況が父を酒に溺れさせ、またその悪影響が家族にも深く及んでいるらしいことがじわじわ伝わってくる。家族の連帯や助け合いがこの家族の親からはうかがえず、それぞれが同居するものの単独者でしかないという自覚に子は目覚めさせられるのであろう。耕作に未練をもつらしい母は無口で帰宅すると早々に寝に就くだけで、子からするとまるで存在感がなく小さな虫のようだ。
  葬式もひらかないまま、父の遺体は伯父に手伝ってもらって丘に穴を掘って埋めるという有様。
  だがせっかくの!父の死だったものの、今度はそれを契機にしてか妹が奔放な異性関係に走り、姉は後始末のため親代わりにならなければならない。ミシンのセールスマンも主人公に興味を示すが妹の方に乗り換えようとする。主人公は魅力においては妹に劣るという自覚がある。

これまで私が通過してきた日々は、どの一日を例にあげても私のものではなかった。もはや誰のためにも生きたくなかった。もっと早目にこうすべきだったのだ。誰もが自分勝手に生きている。私も私の勝手に生きなければならない。(p151)


  主人公は刹那的に家出を決行する。何のあてもなくポスターで見た海辺の寂れた小さな町に行き、そこで冬を越すことになる。そこで出会った少年との性愛に暫しの幸福を得る女性ではあるが……。このあたりが本編のいちばんの読みどころかもしれない。人の往来がまったくないといっていい町の一軒家での女性と少年との度重なる逢瀬。はじめは両者ともに好奇心にいざなわれるが、よりのめりこむのは少年で、女性はやがて死んだ父から受けたと何ら変わりない圧迫と嫌悪と恐怖を抱かざるをえない。
  自由や自立といっても一定の収入がなければ成り立たないし、人とのつながりもなければならない。結局は主人公はそのことに失敗するのだが、はたしてこの女性は下手だから世慣れていないからそうなるのか。確かにそういう部分はあるものの丸山健二はそれだけを言いたいのではないと受け取った。人には成人するまでの繰り返しの身体行動がって、心にもそれが染みつく。単独者でありつづける寂しさはあっても馴れがあり、じつはそれが本人の自覚の外で心地よさに結び付く部分があるのではないか、早い諦めが介在するとすれば残念ではあるが。主人公の家出は絶対的なものではなかったのだ。果たして女性は捲土重来を期すのだろうか。
  平坦な筆致で「三角の山」にあった高揚感はなく、作者は筆を抑え気味である。「三角の山」では語り手の姉を応援する姿勢が熱っぽかったが、ここでは一人称形式でありながら作者は主人公に対して距離を取ろうとしていて、冷たさも感じられる。故郷との一番の結びつきであるクロという犬との主人公との関わり合いも愚痴っぽく、「三角の山」における女性と山との関係性ほどには劇的ではない。
  (2019、10,13日推敲)