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吉村昭『ポーツマスの旗』

>吉村昭
03 /29 2020
  日露戦争終結後、外相小村寿太郎は全権となって講和条約締結のためにアメリカのポーツマスにおもむきロシア全権のウィッテとの交渉に臨んだ。その一部始終を中心とした小村の苦闘が描かれる。
  条約の中身についてはネット上にWikipediaその他で解説されているのでここでは全てをくりかえさないが、日本の要求する十二項目のうち大部分はロシア側に受け入れられた。韓国をロシアの影響を排して日本の保護下に置くことや、ロシアの清国内租借地の遼東半島旅順やロシア所有の東清鉄道南満州支線のおよそ南半分の日本への譲渡という重要要求がかちとられた。これによって朝鮮半島と満州地域でのロシアの支配と影響を排除することができた。上々の戦果であろう。のこった二項目が賠償金支払いとすでに日本の占領下にあった樺太(現サハリン)全土の日本への譲渡であったが、ロシア側は皇帝ニコライ二世や戦争継続派の強固な姿勢のため頑なに拒否しつづけた。もはや交渉を打ち切って戦を再開するしかないかと小村は想定し、闘志をふたたび奮い立たせつつ、本土の桂首相以下の決定を仰いだが、本土ではさらなる財政負担や戦況判断などによって、以降の戦争継続にたいへん悲観的で、二項目要求をとりさげてでも締結するよう小村に指示した。小村も残念ながらそうするよりないとあきらめていたところ、皇帝の方針変換によってロシア側から樺太南半分を譲渡する旨の回答があった。ロシアの悲観派の意見や大衆の広範な反政府デモによる国内政治情勢の不安定、さらにはアメリカ大統領やドイツ皇帝による意見具申がロシア皇帝に影響したものとされる。交渉のはじまりから結末までの過程に息詰まるものがある。
  小村寿太郎はロシアの譲歩によって条約締結にこぎつけることができた。胸を撫でおろしたのだろうか。だがあらたな苦難が本土日本で待ち受けていたのである。二項目要求を貫徹できなかった小村を新聞ははげしく非難し、その影響もあってか「東京騒擾事件」と本書で呼ばれる大衆による大規模な暴動が起こった。日比谷公園での条約締結反対派の集会にはじまり、派出所や警察署が襲撃され放火される個所もあった。警官だけでは押さえきれずに軍隊まで出動するありさまだった。小村の留守をあずかる家族の住む外相官邸も例外ではなく襲撃の憂き目に遭い、小村は国賊呼ばわりされた。
  小村の活躍ぶりは以後も記される。一気に大国にのしあがった日本を警戒するアメリカとの親善に注力する一方では、伊藤博文などと連携して韓国、清国への圧力を着実に強化していく……。
  先にも記したが、わたしが知らないだけで、ほとんどはこれまで知られていることだろう。特色といえば小村と随行団の一行の横浜出航にはじまって十二日後のアメリカ到着、シアトル、ワシントン、それに最終目的地のポーツマスなどの町の風景や交通手段の描写が結構念入りにされていることだ。戦争終結を願うのだろう市民の日本の外交団へ歓迎ぶりも見落とせない。そこかしこで日の丸旗がふられ、読んでいて思わずうれしくなる。交渉会場となったアメリカ海軍工廠や宿泊ホテルでの小村以外の人物の動きも事細かに追われる。やや退屈ではあるが、また百年以上前の出来事でありながら臨場感をあたえてくれる。小村一行とともに旅をしているような。
  満州事変以降の日本の歩みとはちがって桂や小村以下、このときの政・軍中央は戦の行く末について冷静な判断を下すことができ一致団結できた。やみくもに戦争継続を主張する陸軍を政治家がもてあますという体ではなく、吉村昭も当時のこうした国家中央のありように好感を抱きながら書き進めたのではないか。

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森鴎外『青年』

小説・エッセイ・戯曲
03 /15 2020
  小泉純一は作家志望の青年で、Y県(山口県)から上京してくる。大学進学はしなかったが、地元の神父のもとでフランス語を勉強してかの国の小説をはじめとする書物をよむことができる。つまりは知識人たるべき素養を有している。しかも家庭は裕福で十分な仕送りがあるので、あくせく働く必要はなく「高等遊民」の身分でいられる。また彼は美形であり、近づいた女性に好感が持たれることが少なくない。有名作家を訪ねたりしたあと、植木屋が提供する借家に居をかまえて書き物をはじめようとするが……。
  純一をとりまく人物群のなかで大村荘之助と坂井れい子が重要人物である。大村は医学生でありながら文学・思想の造詣が深く、純一は惹かれ友人になる。作家たるもの因習を打破して思想的基盤を築かねばならないという思いの純一にとって大村の意見は大いに参考になり賛同するところが少なくない。個人の自立を確立することを優先するとともにそれが決して利己主義に陥ってはならないとする「利他的個人主義」の主張で結ばれる。親孝行も国家への忠義も盲目的であってはならず「領略」してのちに捉えなおさなければならず、そうすると情死も戦死も「利他的個人主義」の価値の一環として肯定されるという。西洋の思想家や作家について豊富に論じられてあって、教養不足のわたしにはついていけない部分があるものの、厭世主義を排する保守主義というべきか、ことさらの違和感はなかった。勿論、保守主義といっても今日的印象であり、明治という時代の自由の空気のもとで新しく考えられた「利他的個人主義」にちがいない。
  ただ大村という男、二十歳前後にしては不自然に教養がありすぎると思えるのはわたしの僻みだろうか。そうでないならばここには当時四十八歳であった作者森鴎外の知識がありったけちりばめられているのだろう。純一の先導役として不足はないのだ。
  それよりもより興味を惹きつけられたのは純一と坂井未亡人との短い間の関係だ。二人は芝居見物での劇場で隣同士の席になってすぐさま知り合いになる。翻訳劇であったので坂井未亡人が純一に説明をもとめて純一は応答することができた。それがきっかけで坂井れい子は文学全集が豊富にあるからと純一を自宅に誘い、肉体関係が成立する。和服についてはこれも知識不足で映像が浮かばないが、十本の指すべてに指輪がはめられていることひとつとっても生活の潤沢ぶりが窺える。だが純一が惹かれたのは裕福さではなく、れい子の放つ瞳の魔力で、たあいない会話や会話そのものの内容とは無関係にその瞳の暗いかがやきが純一をたえず誘うように思えたからだ。れい子の自宅においても「愛の詞(ことば)」はまったくなくくだんの瞳によってれい子のほうから唐突に関係がつくられる。
  純一は悦んだのだろうか。そうとばかりはいえない。れい子の宅を辞すときラシーヌという作家の文学全集一巻を借りてきたから返さねばならず、そうすると再び関係をもってしまいかねず、今後のれい子との関係をどうすべきか、つづけるべきか、悩む。一種の思考訓練だ。純一は恋愛を当面はしたくないと思っている。無職の身であり創作に打ち込まねばならないからという禁欲的意志だろう。れい子にも「愛の詞」がさらさらないので、そうすると色欲のみの世界になりかねず、純一がそれを望めば好都合だが、そこまで割り切ることもできない。堕落するのではないかという危惧をもつからだ。れい子という女性のフリヴォル(仏語=軽薄)も一方では気に入らず、彼女に見下され籠絡されつづけるのではないかという屈辱感もある。「ヴァニテイ」(仏=虚栄心)「ジグニテイ」(仏=尊厳。品位。正しくはディニテ。注解より)「フイエルテエ」(仏=誇り。自尊心)などという言葉が原語綴りのままふりがなを打たれて記される。自主的に作った関係ではなく、れい子の真意もわからず、魅力を感じながらも十分に好きになることはできない。それならば何も決めずにいたままのほうがむしろこちらの自由を一時的にも確保できるのではないかなどと純一はあれこれ考えてみる。だが結局は頭を悩まされ、ふりまわされることが煩わしくなって「本能の策励」(性的衝動)が思考を上回って再びれい子宅を訪れることになる。「本能の策励」は当面の関係にむかうものの純一を無意識裡にれい子にたいする独占欲を芽生えさせずにはおかないようだ。また独占欲が水泡に帰したとき、その結果が理知であらかじめ予想されてはいても、やはり嫉妬が頭をもたげずにはいられない。性的本能とはそういうものであることを教えてくれる。
  お雪さんという女性も純一に好意を寄せる。植木屋の娵(よめ)の知り合いで、裕福な家の娘さんだ。純一と同じくらいの年齢で、何回か純一の部屋で会話をする。坂井れい子と接するときよりも純一は緊張せずにはいられない。最後の逢瀬の場面では、純一はお雪さんが全くの無防備であることを悟る。

  (略)お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。(略)なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為すに任す心持だと思ったからである。人の為すに任すと云っては、まだ十分でない、人の為すを待つ、人の為すを促すと云っても好さそうである。(略)
  純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆なる物として、これに保護を加えなくてはならないように感じた。今の自分の位置にいるものが自分でなかったら、お雪さんの危ういことは実に甚だしいと思ったのである。


  鴎外は、同じ出来事を純一の日記として微妙に角度をかえて分析させる。巧妙だ。

  そのとき己(おれ)は我自制力を讃美していて、丁度それと同時に我自制力の一角が破壊せられるのに心附かずにいた。一たび繋がれては断ち難い、堅靭なる索(なわ)を避けながら、己は縛せられても解き易い、脆弱なる索に対する、戒心を弛廃させた。


  お雪さんと関係をもてばおそらくは恋愛に発展するだろうし、結婚にもたどりつくかもしれず、そうは純一はなりたくないので「自制力」を発揮する。と同時に坂井れい子への自制心をゆるめる。れい子への執着のほうが強いことを自然に自覚する機会になったのだ。れい子とはいつでも別れられるという思い(=「脆弱なる索」)があるからでもある。
  畏友の大村に対して純一は男が貞操を維持するのは健康に害がありやなしやと問いかける。ここでわたしは首をかしげた。大村はちょっと方向が自然にずれて壮大な応え方をするが、純一の問いが「精神」ではなく何故「健康」でなければならないのか、坂井れい子のことをあからさまにはできないにしても「精神」の害に関してならばもっと問題に近づく応えを大村はしてくれたのではないかと思った。
  純一は冒険の要素は少しはあるにしても安全な橋を渡った。そこに懊悩はあるにせよそれほどの深刻さはなく、わたしは青春の思い出の一ページという以上の感懐を抱くことはできなかった。


森鷗外『雁』

小説・エッセイ・戯曲
02 /16 2020
  恋愛が成立するためには男女の出会いが必要だが、そこで恋愛感情が兆したとしてもなお会いつづけなくては恋愛は発展せずにとぎれてしまう。わずかな出会いがありながら、男の側の事情によって会いつづけようとすること、つきあいを始めることが断念される。そういう話だ。わたしたちにもよくある(あった)ことだろう。男の心にわずかな煩悶をのこしながらも波風をはげしく立たせることはなく、女にとっても小さいながらもうつくしい青春の思い出となるだろうという余韻をのこす。
  岡田は医科大学(現在の東京大学医学部の前身)の学生で、実直な人柄で周囲から信頼されている。ボート部の選手でありながら勉強もおこたらず、規則正しい生活をおくる。そんな岡田の散歩の決まったコースが無縁坂という道で、若い女性が裁縫を習うために集まってにぎやかな仕立物師(為立物師と表記)の家のとなりに、ひっそりした家があって、若い美しい女性が住んでいる。格子戸の前で、岡田の下駄の音に気付いてふりかえったり、「肘掛窓」を開けておもに岡田が道を歩みすぎるのを待っている。岡田はいつしか無意識に女にたいして会釈をするようになる。女はお玉といい、高利貸しの末蔵の愛妾だが、岡田はこの出会いのはじめは勿論その名も身分も知らない。ただお玉のうつくしさが印象に強くのこって幻惑される。
  語り手は同じ大学の岡田の先輩でしかも同じ下宿に住んでいる友人という立場で、岡田の人となりや散歩の話からはじまって、まもなくお玉や末蔵の家庭事情を描く客観描写に移行する。これが中ほどの大部分で、語り手がふたたび登場人物として友人の岡田に接する描写は中ほどより後だが、多くはない。この行ってもどっての語り手(書き手)の移行が巧みであると思った。
  お玉は母を早く亡くして、飴細工を生業とする父に育てられた一人っ子で、周囲から結婚を勧められてそれを果すが、じつは巡査のその男には妻子がいたことが判明して破綻。次には口利きの老婆の斡旋で末蔵の妾になることを承諾する。自分一人の意志よりも老齢の父の生活を楽にしてあげたいという思いやりによるもので、娘を手放したくないという父の心情も分かったうえでのことだ。女中付きの別々の借家をあてがってもらったお玉は、父ともども満足。だが末蔵が高利貸しであることを知って衝撃を受ける。その妾というありかたが世間から蔑まされることに屈辱を覚えるものの、父にはあえて相談せず、末蔵をなじることも普段通りの丁寧な応接ぶりを変えることもなく、上辺の平穏さを維持しつづける。処世術を身につけるのだ。だが一方では末蔵への恩義をしだいに忘れ、妾の身分で生涯をおえることに飽き足らなさを感じるようになる。家の前の道を往来する岡田を意識しはじめるのだ。

平生妻子に対しては、チラン(暴君=仏語、千葉俊二注解による)のような振舞をしているので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられている末蔵は、女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛えて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。


  末蔵の、料理屋でのお玉父子との初対面のときの描写。「地味な歓楽」とは仕事での業績があがっていくときの興奮ではない、美女を前にしてゆったりできるまさに「これまで覚えたことのない」歓びであって、金銭が金銭以上のものを望外にもたらしてくれる結果だ。同時に殺伐とした家庭生活との対比もされている。末蔵から見て、以後お玉はどんどんきれいになっていって彼は満足この上ないが、それはお玉の岡田への恋心が芯になっているからで、この自惚れによる誤解も作者は書かずにいない。
  お玉と岡田が急接近するのは、お玉の飼っていた鳥籠の紅雀が蛇に襲われたときで、岡田は鳥籠に侵入した蛇の首をお玉から借りた包丁で、隣の仕立物師の女性たちに囲まれるなかで切り落としてやる。だがお玉は礼らしいことをできないうちに岡田は去ってしまう。再会の折にはこちらから言葉をかけようと決意するお玉は、末蔵の出張の機会に女中にも実家に帰らせて単独での自由を確保する。

一体女は何事に寄らず決心するまでには気の毒な程迷って、とつおいつする癖に、すでに決心したとなると、男のように左顧右眄しないで、オヨイエエル(馬車馬の目隠し=仏語)を装われた馬のように、向うばかり見て猛進するものである。思慮のある男には疑懼(ぎく)を懐かしむる程の障礙物が前途に横たわっていても、女はそれを屑(ものくず)ともしない。それでどうかすると男の敢えてせぬことを敢えてして、思いの外に成功することもある。
(中略)
きょうはどんな犠牲を払っても物を言い掛けずには置かない。思い切って物を言い掛けるからは、あの方の足が留められぬ筈が無い。わたしは卑しい妾に身を堕している。しかも高利貸しの妾になっている。だけれど生娘でいた時より美しくはなっても、醜くはなっていない。その上どうしたのが男に気に入ると云うことは、不為合(ふしあわせ)な目に逢った物怪の幸いに、次第に分かって来ているのである。して見れば、まさか岡田さんに一も二もなく厭な女だと思われることはあるまい。(中略)それにこっちでこれだけ思っているのだから、皆までとは行かぬにしても、この心が幾らか向こうに通っていないことはない筈だ。


  こういう女性の姿勢と心理の変化、猪突猛進を決意するまでの描写は、わたしたちがすでに知識として繰り込んでいるところかもしれないが、近代の小説として書かれたのはかなり早い時期に当たるのではないか。
  しかし、これ以上に交際が発展することはない。岡田は三人連れでお玉の家の前を通り過ぎて、お玉が声をかけられなかったからだ。また岡田には在日ドイツ人の推薦によってドイツでの就職先がきまりかかっていた。官費留学の道が不確実であるとき、岡田がそれを選択したのは自然だっただろうし、そのためにはお玉のことを諦めずにはいられなかったのだ。
  お玉やその父や末蔵の人物像が緻密に描きこまれていて感心しなくもなかったが、厭味さが粘りつくようにも感じた。とりわけ末蔵の家庭内でのいっこうに動じないある種堅固な生活態度、つまりお玉の存在を知って半狂乱になって食ってかかる妻にたいして言葉巧みにいなしつづける姿勢には共感できなかった。金に物をいわせて美女を愛人にする、そういう欲望がわたしにまったくないといえば嘘になるが、同時にはばかりやためらいもある。しかし末蔵にはそんな気配はまったくなく、金持ちならそれくらいはやってもいいという成功者の傲慢さがありありと見える。しかもこの高利貸しに費やす描写が多く、岡田やお玉がかすむくらいである。


ヘミングウェイ『武器よさらば』

小説・エッセイ・戯曲
02 /02 2020

  第一次世界大戦についてもっとも早い時期に書かれた長編小説のひとつといわれる。
  アメリカ人フレドリック・ヘンリーは対オーストリア戦の前線地域に中尉(テネンテ)としてイタリア軍のなかにいて、四人のイタリア人運転手を部下にして、傷病兵運搬車の差配をする。たとえば、待機地帯を設営し、最前線で負傷した彼等を運び別の車輛(後送車)に引き渡すという任務を遂行する。そんななか、ヘンリーは仲間とともに塹壕で待機している最中に迫撃弾に被弾して両膝を負傷し、みずからが病院に運ばれる立場となる。一方、その以前から病院で知り合い恋仲になった看護師キャサリン・バークレイとの交際がますます深まってキャサリンは妊娠する……。
  一人称・現在進行形で書かれるので、微小といえる個人の立場からは戦争の全貌を俯瞰することができず、そのことは苛立たしさよりも諦めをヘンリーに促すように読んだ。ただ与えられた任務を過不足なしに遂行することに注力し、余暇や休暇は酒や女性(キャサリンと知り合う以前)を楽しむことで過ごす。自然なニヒリズムといえようか。(酒は病床にあるときも欠かさない。たてまえ上は禁止らしいが、大目に見てくれる看護師や兵隊仲間もいる)
  いつ終わるとも知れない戦争は兵士たちに厭戦意識を蔓延させる。イタリア人だからイタリアの勝利を願うことは当然としてもそ
の見通しを持つ者は皆無で、徹底抗戦を主張する者はいず、「愛国主義者」とヘンリーに見なされる者もごくわずかだ。敗北してもいいから早く故郷に、家に帰りたいと願う兵が大半だ。ヘンリーと仲間や友人との雑談にそれらがよく表現されている。戦争のさなかに何年も身をおいていると、それまで体験したことのない実に嫌な気分に支配されるという。ざっくばらんな対話のなかにその気分がいきなりのように放り出される。思想としてまとめられて語られるのではないから、かえって真実味が増す。
  ヘンリーの神父との会話も興味をひく。神の加護を説き、神への愛をすすめる神父にたいしてだれも心からは共感しない。いつ果てる命かもしれないと兵士は諦めているからで、ときには女性に接しない神父をからかって憂さを晴らすのだが、神父の神父ゆえの役回りも兵士たちは理解するようで、ヘンリーもその立場だ。だがキャサリンとのつきあいを深めていくなかで、神父の言葉に惹かれていくヘンリーでもある。

「神を愛すべきです」
「だれかを愛するってことが、ぼくはあまりないんだな」
「ありますよ」神父は言った。「あります。夜の語らいで、あなたが話したこと、あれは愛ではありません。あれは単なる情熱であり、肉欲にすぎません。愛するときは、そのために何かをしたいと思うものです。犠牲を払いたいと思うものです。奉仕したいと思うものですよ」
「だれかを愛せるとは思えませんね、ぼくは」
「いや、愛せます。きっと愛せます。そうすると感じるはずです」
「いまでも幸せですよ。ずっと幸せだったし」
「それとはまたちがうんです。本当に愛することができて初めて、その意味がわかるんですよ」


  神父の言葉は悪く言えば紋切り型で、誠実さは伴うであろうものの誰にたいしても同じ言葉しか吐かないだろう。だがここではヘンリーはすっとぼける風でありながら現在の心に照らし合わせて神父の言葉にしだいに引き込まれていくように感じられる。キャサリンとの愛の実感はまさしく神父の言う「奉仕したい」気持ちにいちじるしくヘンリーを傾斜させていく。また二人は意見の対立は避けられないながらもいがみ合ったり憎しみを抱いたりするのではなく、率直に意見交換をすることに無理がなく、二人ともそこに快感さえ自覚するので、友人関係にある。別の場面では、当然、戦争の推移にも話題はおよび、神父はイタリア・オーストリア両軍における厭戦意識が発展したのちの終戦に期待する。それはたんなる「終戦」にとどまらず、人類の精神的進化とでもいうべき事態と神父は見なす。そこには神父の宗教家としての少なからぬ情熱と興奮が秘められている。対してヘンリーは敗勢のイタリアはともかくも、勝利目前のオーストリアは決して戦闘を辞めないだろうとの常識的見通しを語る。

「わたしは何かが起きることを期待していたんです」
「敗北ですか?」
「いえ、それ以上のものですね」
「それ以上のものなんか、ないと思うな。勝利は別にして。勝利はもっと始末におえないかもしれないし」
「わたしはずいぶん長いあいだ、勝利を願ってたんですよ」
「ぼくもそうだ」
「いまは、わかりません」
「でも、勝利か、敗北か、どちらかでしょう」
「勝利の価値は、もはや信じていませんね」
「ぼくもそうです。でも敗北の価値も信じていない。そっちのほうが、まだしもマシかもしれないけど」
「じゃあ、いまは何の価値を信じているんです?」
「眠ることですね」ぼくは言った。彼は立ちあがった。


  敗北は戦争を終わらせるには好都合だろうが、勝利は戦争を肯定しさらに戦闘をつづけさせようとする欲望を植え付けるかもしれず、そうなると戦争終結は容易ではない。だが、勝利国にも厭戦意識が定着することを神父は願うように読み取れる。そもそも偶然の結果としての勝敗によるのではなく、戦争終結にいざなうための叡智がどこかに潜んでいるのではないか、という問題意識である。それを知りえれば人類は精神的進化を勝ち取れるだろう。神父もそれをじつは考えあぐねていてヘンリーに答えを求めるかのようだが、ヘンリーにも神父の問題意識は理解するものの神父ほどののめりこみはなく、とぼけた応答をするしかない。ヘンリーは個人として戦争から逃れたいという希望がもっぱらで、キャサリンと一緒にいることがまさにそれに当たるのだが、こういう対話のなかでは照れがはたらいて表には出せないのか。
  後半部分は戦場に復帰したヘンリーの部隊がイタリア軍の総退却に巻き込まれる場面から、ヘンリーの逃避行とキャサリンとの再会を果たしてのちの二人の生活が描かれる。前半部分で、イタリア軍の粛清が雑談でふれられていた。突撃命令に従わなかった兵の部隊十人のうちの一人を有無をいわせず射殺するというものだったが、同質の蛮行がさらに大規模に行われる。つまり、到着地点に待機した憲兵隊によって退却中の混乱のさなか部隊とはなれた将校を同じくつぎつぎに射殺する現場に遭遇するのだ。その前に、ヘンリーは一本道で大渋滞していっこうに進まないことに業を煮やして間道をえらぶが、ここで泥濘にトラックが落ち込んで立ち往生する。後部車輪の泥をかきだし枝を敷いて脱け出そうとするが空回りするだけ。おりしもトラックに便乗していたイタリア兵二人に助力をヘンリーは命令するが、二人はヘンリーが直属上官ではないという理由で命令を拒否し逃亡しようとするところをヘンリーは銃撃する。ごく自然に発生した行為であり、部下の運転手らもヘンリーを咎めることなく、さらにとどめの銃撃を部下が放つ。このあたり行動記述の連続であり、あれこれの考えや迷いがヘンリーによって語られることはなく即断である。戦乱のさなかでは、軍全体においても個人においても人殺しの敷居は自然に低くなる。
  トラックを使えなくなったヘンリーと運転手一行は途中で空き家になった民家に立ち寄りながら徒歩で退却を続行する。一人はおそらくはイタリア軍によって狙撃され死亡し、一人はドイツ軍の捕虜になることを志願してヘンリーらから離れる。ここでもヘンリーはあっさりと許して迷うことはない。そして先に記した憲兵隊が待機する場所に到達し、中尉であるヘンリーは一般兵とは分離されて連行され、そこで問答無用の銃殺場面を目撃して間一髪包囲網を脱け出して河に飛び込む。ここからは暫くはアクション映画を思わせる冒険の連続。木材につかまって漂流し、やがて陸にあがってイタリア兵の目を盗んで貨物列車にとびのりミラノにたどりつく。ミラノにはヘンリーの知り合いがいて、キャサリンの居所を特定できて会いに行く。キャサリンも妊娠中でもあり、看護師を辞めてヘンリーとの同棲生活をはじめ、何か月間かを間借りした部屋で過ごし一冬を超す。だが危機はまもなく訪れる。ヘンリーの逮捕状が出ているという情報をホテルのバーテンが知らせてくれ、ヘンリーはキャサリンを伴ってスイスに逃れるために、その夜大急ぎで湖をボートで数十キロにもわたる距離を延々と漕いで渡ることに成功する。幸せいっぱいのハネムーンをここでも実現させるが、やがてとんでもない悲劇が待っている……。
  ホテルの部屋での会話で、キャサリンが自分の髪を短くすることをヘンリーに提案する場面。この甘さは本物だ。

「きみには髪を切ってほしくないな」
「きっと面白いわよ。この髪にはもう飽き飽きしてるの。夜、寝ているときなんか、すごくわずらわしいし」
「ぼくは気に入ってるけどな」
「短くするのはいや?」
「ああ、いまのままのほうがいいね」
「短くすると、もっと素敵かも。それに、わたしたち、お互いにすごく似てくるじゃない。ああ、ダーリン。わたし、あなたを完全に自分のものにしたいから、自分もあなたになっちゃいたいのよ」
「いまもなってるじゃないか。ぼくらは一心同体だよ」
「そうね。夜はそうだわ」
「夜は最高だな」
「わたしね、二人が完全に融け合ってしまえばいいな、って思うの。あなたにはどこにもいってほしくない。また言っちゃった。もちろん、いきたければいっていいのよ。でも急いでもどってきてね。だって、あなたがそばにいないと、生きている気がしないんですもの」
「きみのそばは絶対に離れないから」ぼくは言った。「きみがそばにいないと、ぼくはだめなんだ。生きちゃいないも同然なのさ」


  この幸せの絶頂にある二人の描写はすばらしいのだが、必ずしも艱難辛苦を乗り越えてきてようやくたどりついたという理由ではなく、性愛そのもののもたらす幸せだとわたしは理解した。戦時であろうがなかろうが、性愛の幸福はだれにでもつかめるチャンスがあり、それを獲得した二人の姿に接することができて、ここでこの長編小説は終わってもいいようにも思えたが、作者ヘミングウェイは残酷な結末を用意していた。戦争のさなかの人物や戦争そのものを描こうとした小説なので、二人の生活にもその惨禍を「上書き」したかったのだろうか。作者の自負がはたらいたのか、長編小説としてのバランスを取ろうとしたのか。
  ヘンリーは率直でかつ剛毅でありながらそれを自慢することもなく、負傷を愚痴ることもない。逃亡に成功してからはキャサリンとの会話において戦争の話を意識的に避け、それがキャサリンにさらに好感をもたらす。ヘンリーのこういう人物像は素敵だ。
  わたしの読み込み不足か、当然ながら土地勘がないこともあって、イタリア北東部の戦争をともなう風景描写がなかなか入ってこなかった。また当時は新しいといわれたそうなヘミングウェイの文体の魅力もさほど伝わってこなかったと記しておこう。訳者高見浩の解説によれば、ヘミングウェイがイタリア戦線に参加したことと看護師と恋仲になったことは事実であったという。しかしフィクションの部分も大いにあり、詳しく指摘されている。


seha

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