FC2ブログ

大洋ボート

伊勢物語・二十三段

  平安期のことはよく知らないが、男女間の結びつきは今日よりも比較的自由だったのかもしれない。無論、両家が認めた正式の結婚はあったが、愛人をつくったり、重婚状態を維持することにも寛容だったのではないか。それを嫌忌する道徳性が、男女二人の感情はともかくも、世間的には薄かったのではないか。この段を読んでそんなことを感じた。
  幼いころから相思相愛の男女がいた。親は別の異性を勧めたこともあったが、二人の結びつきは固く、成人するに及んで結婚にこぎつけた。だが女性の親が死んで窮乏に陥るおそれがでてきたので、男は大和から河内に仕事に通わなければならなくなった。おそらくよい稼ぎがあったのだろう。だが同時にそれは、男にとっては当地に棲む別の女性との同居状態をも受け入れなければならない事態を意味した。詳しくは書かれていないがそう読める。たぶん日帰りをつづけられる余裕はなく、食事や住居等を他人に世話してもらわなければならない環境下だったのだろう。女性の方もそれを知っているものの、快活に見送るのだ。男は自分とのひと時の別離を、女は喜ぶのではないか、別の男ができたのではないかと疑うが、出立するふりをして植え込みに隠れて女の様子を眺めていると、そうではないことが判明する。

(前略)この女、いとようけさうじて(化粧をして)、うちながめて、
  風吹けば沖つしら浪たつた山
   よはには君がひとりこゆらむ(48)
とよみけるをききて、かぎりなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。

 
 「うちながめて」が重要で、物思いにふけってぼんやり眺めるもという意味らしい。こういう表情を男は女に初めてのように見出したのではないか。感動を呼び込むのだろう。それに歌がダメ押しする。「かなし」もいとしいという意味。

  だが男は仕事の事情でか、ときには河内の高安(当地)に赴かなければならず、くだんの女とも同居しなければならない。男は女の振る舞いを見て嫌気がさす。「正妻」にぞっこんなので仕方ないのだろうが、女の下品さが男によって強く軽蔑されることに特徴がある

  まれまれかの高安に来てみれば、はじめこそ心にくくもつくりけれ(奥ゆかしく装っていたが)、いまはうちとけて、てづから(自分で)飯匙(いひがひ=しゃもじ)とりて、笥子(けこ=飯を盛る器)のうつはものにもりけるをみて、こころうがりていかず。なりにけり。



  化粧しなくなった、自分でご飯をよそって食べる、これらのふるまいが下品だとはいえるのかもしれないが、わたし個人としては些事という気がするが、若年時にあっては大事なのだろう。こういう嫌悪がもとで異性への好感が消滅することもありうる。しかしそれだけで離別に至れるのならば、男にとっては身軽な時代背景だったのだ。また男が逆に好感を抱きつづければ重婚状態をながく維持できたとも考えられる。男にとっては「正妻」のもとに帰って行って、「正妻」にとっても日常の安定を取りもどせてめでたしめでたしで、ここで終わってもよさそうだが、作者は去られる高安の女の悲しみをさらにすくいとる。幸福よりも悲しみに執着するのが、日本文学の伝統なのか。

(先の引用からのつづき)、さりければ、かの女、大和のかたを見やりて、
  君があたりを見つつを居(を)らむ生駒山
    雲なかくしそ雨は降るとも
<あの人の住む大和の方を見ていよう。生駒山を雲よ隠してはならぬ、たとえ雨は降っても>(49)
といひて見いだすに、からうじて「大和人来む」といへり。よろこびて待つに、たびたび過ぎねれば、
  君こむといひし夜ごとに過ぎぬれば
    たのまぬものの恋ひつつぞふる
<あなたがいらっしゃると聞いたその夜ごとに、ただ空しく過ぎましたので、もうあなたを頼みとは思わぬものの、やはりお慕いつつ日を送っています>(50)
といひけれど、男、すまずなりにけり。


  男は内心とは裏腹に再訪を口約束したのだろうか。女はそれを信じ、かつ慕っていたので長く待ちつづけた。周囲の人もそれを知っていたので同情しで「大和人来む」と言ったのだ。切ない。
なお、渡辺実は、高安の女のように、相手の男にうちとけて油断することが「最もつつしむべきことであった」とする。普段から化粧することが「心の洗練の一つの姿」である。業平を中心として称揚される「みやび」なのだろうか。しかし、わたしにとっては高安の女の悲恋のほうに印象が傾く。


スポンサーサイト



    12:34 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

伊勢物語・二十四段

あひ思はでかれぬる人をとどめかね
わが身はいまぞ消えはてぬめる(54)(出典明示無し)
<私の愛に応じてくれることなく離れてしまった人を呼びとめることができず、わが身は今や死んでいくらしい>「かる」は「離る」で去って行くこと。


  出典不明の歌で、この段の四首目にあたる。作者の創作かもしれない。失愛のどん底につき落とされて今にも死に果てようとする悲痛がにじみ出て、単独で十分鑑賞に耐えられる歌にもかかわらず、さらに追い打ちをかけるように作者は他の歌を借用し背景説明をくわえ物語にする。いっそう悲痛さが深まる。
  三年間、仕事のために遠隔地に赴いていた夫が妻のもとに帰って来た。こういうことは当時では珍しくなく、渡辺実によれば、妻に子のある場合は五年後、子のない場合は三年後、再婚することが公に許されていたという。その日はちょうど既に再婚が決まった相手との逢瀬の約束の日に当たっていた。なので戸をたたく元夫を家に入れずに歌を詠んでさしだす。

あらたまの三年(みとせ)を待ちわびて
ただこよひこそ新枕(にひまくら)すれ(51・続古今集)
<三年の間あなたを待ちわびて、ちょう今夜という今夜、他の男とはじめて枕を交すことになっているのです>


  後の展開を考慮すると、これはきっぱりした拒絶ではなく元夫がよりにもよってその日に帰宅してきたことへの狼狽と混乱を内包していると読むべきだろう。ただ夫は妻の心をそこまで汲みとれたかは心もとない。むしろ用意していたかもしれない遠慮や諦め(別離)の境地を追認したのか。

梓弓(あづさゆみ)ま弓つき弓年を経て
わがせしがごとうるわしみせよ(52・出典明示無し)
<夫は必ずどの男と決めねばならないものではないかもしれず、あなたは別の男とでも夫婦として幸福にやっていけるかもしれない。私が長年あなたにしたように、これからは新しい夫を大切にしていきなさいよ>


  「梓弓(あづさゆみ)ま弓つき弓」はどんな弓でも大差はなく、同じように夫たるべきは私でなければならないということではないのだ、と解釈すべきか。ともかくも内心の寂しさを表に出すことなく、祝福の辞を妻に男は贈ったのである。礼儀だろうか、やさしさだろうか、処世だろうか。そうして去っていく男にたいして、ここにきて初めて女が真情をぶつけるように吐露する

梓弓ひけどひかねど昔より
心は君によりにしものを(53・万葉集その他に類似の歌)
<あなたが私の心を引こうが引くまいが、私の心は昔からあなたひとりを頼りにしてきましたのに>
といひけれど、男、かへりけり。


  男に女の叫びが聴こえなかったはずもないが、決断を動かすまいとしたのか。正式に決まった女の再婚を、以後の幸福を破壊することを怖れたのか。女は自身の真情にぶちあたるまで時間を、それもわずかな時間を要した。恋愛における言葉のやむをない行きちがい、意識しようとするまいと、結婚制度という大きい壁が立ちはだかる。以後は残酷である。

女、いとかなしくて、後(しり)にたちて追ひゆけど、え追ひつかで、清水のあるところにふしにけり。そこなりける岩に、および(指)の血して、書きつける。


  そして、最初に掲げた歌となり、女はそこで死んでしまう。歌では女が自死を推量する形になっているが、説明文では即死として断定される。男はその結末を当然知らない。悲痛の感情の高まりが短時間でここまで人を落としこむのか、ありうる気がしてわたしは少し震えた。急転直下、なんとも壮絶な顛末である。




    08:13 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

伊勢物語・二十一段

  伊勢物語は万葉集以降の歌集に掲載された和歌に簡素な背景的説明がくわえられて再掲載されたものである。主要筆者は在原業平といわれ、初めは業平が自己の歌を中心に据えて編んで成立したものでありながらおそらくは複数の他者の筆写の段階で筆写者によって新たな段が創作されてつけくわえられたという。また短い後註もすでに成立した段にあらたに加えられたようだ。印刷技術のない時代だからこその成立事情といえよう。各段は、今日の本になった状態で長い段でも三、四頁、二首以上の歌が採られた段もあれば、最短なら一行の註と一首の歌で成り立っている段もある。また各段は、まったく独立したものとして読めたり、特に業平関連ではつながりが認められるものもあったりと多彩だ。業平の「悲恋」やそこに込められる恋愛観、皇族や宮中また異国の人々との交流関係が分量的にも多くかつ主要部分であり、伊勢物語を語るならばそこを外すことができないが、今のところわたしの興味はそれ以外の別の作者が書いたであろうと推測される(わたしが勝手に)段に惹かれる。もっともそれらの段も、恋愛中や夫婦の一対の男女関係について描かれた段が大半だから業平関連とまったく相貌を異にするのでもない。以下、渡辺実の校註を参考にしながら感想を記したい。

  女が突然家出をした。男にとっては身に覚えがない。浮気などせず愛しつづけていた、睦み合っていたという以外の記憶がふりかえってみても浮かばない。家出の原因を男はつかめないのだが女の意思は固そうで、次の歌を残して去った。

いでていなば心かるしといひやせむ
世のありさまを人は知らねば(35)
<わたしが家を出て行ったら、世間の人は軽薄だと言うだろうか。私達夫婦のことは他人にはわからないのだから>(渡辺実口語訳。以下同)


  まず、奇異な印象を受ける。家出の原因を自分の主張を盛り込まず、世間体は悪いにはちがいないが世間の人には夫婦関係の奥底はわかるはずもない、わたしは決して悪くない、わたしなりの家出しなければならない重大な事由があるというのだ。(渡辺実によれば「人」は世間の人とともに夫も含まれるという)歌の前文に「いささかなることにつけて」とありながら、その「いささか」を妻は語らないのだから夫の男の昏迷は深まるばかりだ。妻であった女をさがそうとはするが、そのあてもなく、心情を歌う。

思ふかひなき世なりけりとし月を
あだにちぎりて我やすまひし(36)
<愛していた甲斐のない、あの女との間柄であったなあ。長の年月をよい加減な心で契って私は暮らしてきたろうか>いやけっしてそんなことはない、私は真心から妻を愛してきたのに。


  妻は暮らしが成り立っていたとしても、夫との生活に解放感がなく息苦しさを感じていたのかもしれない。あるいは単に虫が好かない感情が高じたのかもしれないと、わたしの想像は広がる。やがて男は女の居所をつきとめたらしく、歌を贈る。

人はいさ思ひやすらむ玉かづら
面影にのみいとど見えつつ(37)
<あなたは、さあどうだか、私を思っているのだろうか。幻にばかりいよいよ頻りにあなたの姿が見えはするのだが>「玉かづら」は「面影」の枕詞。


  次の文に「いとひさしくありて」とあるから、元夫としたほうがいいのかもしれないが、なお男は女の愛情の有無を確かめようとする。男の愛情が強いのか、くどいというべきか。それにたいする女の答えは擦れている。

今はとて忘るる草のたねをだに
人の心にまかせずもがな(38)
<今は終わりだと思って私を忘れる草の種を、あなたの心に播かせたくないものです>


  男にとって聞きたいことは、今も私にたいする愛情はあるのか、依りを戻す気はあるのかということで、女はそれをわかるはずでありながら正面から答えようとはせずに、逆に男の愛情如何を問うている。どうもなまくらで、食えない女ではないか。まさか追いかけてきた男の愛情を疑うのではあるまいに。男は「忘るる草」を受け継いで歌う。

忘れ草植うとだに聞くものならば
思ひけりとは知りもしなまし(39)
<あなたが私を忘れるための忘れ草を植えている、とだけでも聞くのなら、それでは私を思っていたのだ、と知りもしようが>


  男はなお女の愛情をもとめて迫り、苛立つのか、そうして女の愛情がついえたことをしだいに知って引きさがろうとするのか。さらに

忘るらむと思ふ心のうたがいに
ありしよりけにものぞかなしき(40)
<もう今は私をすっかり忘れているだろうと思う疑いの心から、別れた当時よりも一層もの悲しいことだ>


  女に元の鞘に収まる気がないのなら、それ以上つべこべ追及しなくてもよい。女の家出の原因が何か、知らないままでもよい。ただ一途な愛情をかけて長く一緒にくらした女だからこそ、その離反が決定的になったことは疑念にまみれた時よりもいっそう悲しく、落ち込むのだろう。生に暗雲が立ち込める局面だ。もう一首、女の歌があるが省略。
  巻末付録によれば、35は古今六帖・なりひら、36は出典明示無し、37は新勅撰集、38は新勅撰集、39は続後撰集、40は新古今集からそれぞれ採られている。それぞれが独立して鑑賞に耐えうる歌でありながら、作者はこういう形で歌をつないで註釈を書きくわえ、逃げる女と追う男の物語をあらたに創造したというべきだろう。女性への怨念や軽蔑、不可解さが滲ませられており、作者にとっては一時の切実な問題であったと想像したい。



    09:23 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

『土佐日記』ノート

  承平四年(934)十二月二十一日、5年にわたる土佐守の任を終えた紀貫之は後任者の島田公(キミ)アキという人に引き継ぎを終えて帰京の旅につく。京の自宅に帰りついたのが翌年の二月一六日。この55日間の船旅が大部分を占める旅程のありさまを日記形式で纏め上げたのが『土佐日記』である。もっとも、全文を完成させたのは帰郷してからの承平五年から翌年のことといわれる。乗船中のメモがあったのであろう、また貫之がかつて創作した和歌が他の人のもふくめて、ふんだんに鏤められている。
  いくつかの特徴があげられる。「男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり」という有名な書き出しがある。貫之は男性であるのに書き手は女性とされるのだが、何故だろう。船中においては貫之は「船主」という立場で、船の運航に関しては「楫取り」と呼ばれる船員のリーダーに任せるよりほかないが、同行して帰京する人々にたいしては立場上、指図しなければならないこともあったのだろうが、それらを記すことを些事と見なしたのではないだろうか。「守」を解かれても「船主」であり、官職の痕跡を引き摺っているという実感がなくはないだろう。そういうしがらみから逃れたかったのだ。より解放された、より文芸者としての自己にふさわしい観察眼にもとづいて船旅における見聞を記したかったのではないだろうか。もっとも船主の立場がまったく書かれないのではない。例えば、肌のあわない楫取りとのやりとりがあって、書き手の女性が見聞きしたこととして記される。ただ、あげたような理由ならば、書き手は貫之以外の男性でもよいことになるが、貫之にはひらがなを用いての和文散文による文芸を創造してみたいという意欲があった。ならば書き手を男性よりも女性とするほうが、より似つかわしく思えたのではないか。
  船は土佐湾の大湊から四国沿岸をすすみ、室戸岬を回って鳴門へ、さらにそこから一晩で大阪湾南部の和泉へ、さらに大阪湾沿岸を北上し、さらに淀川を北上して京へと上るという旅程だ。逆風であったり、天候不順のために出港がかなわず、立ち寄る港に足止めされることが何度もある。このじりじりするような停滞感が執拗に記される。反対に、沿岸の松林に鶴が群れ集う風景などが記されて、そこにはうつくしさがある。風があり、波音や磯の香が向かってくるようで、航海の臨場感は現在と変わりがないと思える。(船は人力による漕ぎが主で、帆は補助的であったといわれる)
  貫之夫妻は京で生誕した子供を土佐へ連れて行ったのだが、子供はその地で死去し、連れて帰ることができなかった。その悔しさと哀しみもまた全編を貫く主題となる。官職という立場をひきずる貫之が表立った書き手であったならば、こういう個人的事情は記しにくいのかもしれない。十二月二十七日「或人(貫之)の書きて出だせる歌」

みやこへと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける

  「死」という事実を納得できない、受け入れたくない。何処かに実在しているのではないかという強い思いが、どうしようもなく自然に湧き上がってくる。一月十一日「人(貫之?)のよめる」

世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな

  「子を恋ふる思ひ」は無論亡き子への思いで、全身に荷重がのしかかるようないつまでたっても逃れられない思いだ。せつなく痛く、何事も手につかない錯乱の一歩手前の心身ではないか。ならば早くそういう辛さから切り抜けたいという願いも起こりうる。「思ひ」が三度詠まれ、技巧的といわれる歌だ。二月三日「船なる人のよめる」歌と応答歌。いずれも貫之作といわれる。

寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝下りて拾はむ

忘れ貝拾ひしもせじ白玉を恋ふるをだにもかたみと思はむ

  亡き子を思いつづけなければならない心身の負荷から解放されたい、このままだと狂ってしまう。そのために波よ、思いを忘れられるという忘れ貝を打ち寄せてくれ、拾いに行こう。いや、そうではない。忘れ貝を拾いには行かない。亡き子(白玉=真珠)を思いつづける心を生きる支えにし、後生大事にしていこう。今一度、その心に立ち帰ろうというのだ。

  土佐日記は和歌論でもあるが、その広範な言及にわたしは正直ついていけないのだが、その一端にはふれておこう。紀貫之は古今和歌集の撰者であり、歌詠みとしての声名は知れわたっていたであろうから、詠んだ歌を見てもらいたい、認めてもらいたいという欲求によって貫之に直に接しようとした人も少なからず居たにちがいなく、ここにも登場する。折詰料理を持参したその人は満を持したかのように

ゆく先に立つ白波の声よりも後れて泣かむわれやまさらむ

と貫之を前にして詠んだが、貫之は不快だったようで「しつべき人もまじれど」つまり返歌ができる人もいるにはいたが、しなかった。貫之一行との別れの辛さ、痛切さを「後れて泣かむわれやまさらむ」(後に残されて悲しみのあまり嗚咽するわたしの声は「立つ白波」よりも大きい。それほどわたしの悲しみは大きい)と詠んだのだが、小さな船で旅立とうとする人にとっては「ゆく先(航海途上)に立つ白波」は不吉とされたようで、その言葉(映像)を贈る歌に詠みこむこと自体が無礼だと貫之は直観したので、返歌をしなかった。和歌は自己表現でありながら、それ以前に儀礼としてのツールであることの厳格さを、この歌を持参した人は忘れていたのだ。現代ならば、紙媒体などをとおして和歌や詩は読者に広く届けられるから、あらかじめ贈る人を特定しないかぎり自己表現として受けとめられることが一般的だろう。この「ゆく先の……」という歌も、贈る歌としての限定をとりはずせば、自己表現として何気なく受け入れられる可能性もなくはないのではないか。そうではなく、やはり航海途上の白波はやはり不吉さの印象を拭いがたいのか。わたしはそんなことを頭に思い浮かべたが、にわかに結論を出しがたい。
  先にふれた楫取り(船子と呼ばれる船員のリーダー)についてもう少し書いておきたい。貫之は船主であるから、船を無事に運行してくれれば、それ以上のことをことさら望まなくてもよいように思えるが、人として肌が合わないようで批判的だ。肉体労働者の典型的タイプといえるのだろうか、快楽と実利を第一に追い求めるその姿勢になじめない。十二月二十七日、貫之は、見送りのために停泊中の船にわざわざ訪ねて来てくれた人々への惜別の意をこめて「さをさせどそこひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな」と詠んだ。「君」は見送ってくれる人々で、「深き心」はその厚情。しばし歌とともに人々と詠嘆を共有したかったのではないだろうか。だが「楫取りもののあわれも知らで(人の深い感動を理解しようともせず)」、潮が満ち風も起こってきたので、その時間を断ち切るように、さっさと船に乗ろうとする。貫之にとっては和歌づくりとその余情が第一義であるから、こう書かずにはいられないのだ。
    一月十四日、楫取りが釣った鯛をもってくる。返礼に米(よね)を与えると、後日にも同じことがかさなり、貫之は米や酒を与えると「楫取り気色悪しからず。(上機嫌だった)」貫之は特に鯛を食したいとも受け取られず、楫取りの強引さを描きたかったのだろう。貫之は官吏であるから俸給から食い扶持にあてがうしかないのかもしれず、また貫之は恬淡かもしれない。それにたいして楫取りは、利に敏い。欲しいものが眼の前にあれば、何とかして手に入れようとする。批判のみにとどまらず、自分にはない対蹠的な生活姿勢を楫取りに見出したことを記しておきたかったのだろう。二月五日、船は住江(すみのえ、現在の大阪市か堺市の沿岸部)にある。逆風が起って、漕いでも漕いでも後退を余儀なくされるので、幣を奉る。幣とは絹や紙を細かくしたもので、海の神に風が静まるように祈願してそれを海に投げ入れるのだが、いっこうに効果がない。すると楫取りが「神がもっと喜びそうなものを投げ入れよ」と勧めたので、大切な鏡を投げ入れた。すると風は静まり、海は鏡のように滑らかになり波が消えた。

ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな

  神もまた楫取りと同じく強欲で、幣くらいでは満足してくれないのだ、という皮肉だ。恬淡で、文芸興隆をめざす貫之のような人は少数派たらざるをえない、ということだろうか。また楫取りをはじめとする土佐の地元の人々は伝来の俗謡をリズミカルに歌うことができる。そこには「もののあわれ」は見つけられないが、すっかり定着して、たいへんしぶとい存在であるにちがいない。和歌を高尚とする地点からの軽蔑ではなく、和歌のもつか細さを貫之は一抹の危惧とともに自覚したのではないだろうか。
小さい文字
    14:57 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
09 ≪│2019/10│≫ 11
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク