大洋ボート

『土佐日記』ノート

  承平四年(934)十二月二十一日、5年にわたる土佐守の任を終えた紀貫之は後任者の島田公(キミ)アキという人に引き継ぎを終えて帰京の旅につく。京の自宅に帰りついたのが翌年の二月一六日。この55日間の船旅が大部分を占める旅程のありさまを日記形式で纏め上げたのが『土佐日記』である。もっとも、全文を完成させたのは帰郷してからの承平五年から翌年のことといわれる。乗船中のメモがあったのであろう、また貫之がかつて創作した和歌が他の人のもふくめて、ふんだんに鏤められている。
  いくつかの特徴があげられる。「男もすなる日記というものを、女もしてみむとて、するなり」という有名な書き出しがある。貫之は男性であるのに書き手は女性とされるのだが、何故だろう。船中においては貫之は「船主」という立場で、船の運航に関しては「楫取り」と呼ばれる船員のリーダーに任せるよりほかないが、同行して帰京する人々にたいしては立場上、指図しなければならないこともあったのだろうが、それらを記すことを些事と見なしたのではないだろうか。「守」を解かれても「船主」であり、官職の痕跡を引き摺っているという実感がなくはないだろう。そういうしがらみから逃れたかったのだ。より解放された、より文芸者としての自己にふさわしい観察眼にもとづいて船旅における見聞を記したかったのではないだろうか。もっとも船主の立場がまったく書かれないのではない。例えば、肌のあわない楫取りとのやりとりがあって、書き手の女性が見聞きしたこととして記される。ただ、あげたような理由ならば、書き手は貫之以外の男性でもよいことになるが、貫之にはひらがなを用いての和文散文による文芸を創造してみたいという意欲があった。ならば書き手を男性よりも女性とするほうが、より似つかわしく思えたのではないか。
  船は土佐湾の大湊から四国沿岸をすすみ、室戸岬を回って鳴門へ、さらにそこから一晩で大阪湾南部の和泉へ、さらに大阪湾沿岸を北上し、さらに淀川を北上して京へと上るという旅程だ。逆風であったり、天候不順のために出港がかなわず、立ち寄る港に足止めされることが何度もある。このじりじりするような停滞感が執拗に記される。反対に、沿岸の松林に鶴が群れ集う風景などが記されて、そこにはうつくしさがある。風があり、波音や磯の香が向かってくるようで、航海の臨場感は現在と変わりがないと思える。(船は人力による漕ぎが主で、帆は補助的であったといわれる)
  貫之夫妻は京で生誕した子供を土佐へ連れて行ったのだが、子供はその地で死去し、連れて帰ることができなかった。その悔しさと哀しみもまた全編を貫く主題となる。官職という立場をひきずる貫之が表立った書き手であったならば、こういう個人的事情は記しにくいのかもしれない。十二月二十七日「或人(貫之)の書きて出だせる歌」

みやこへと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける

  「死」という事実を納得できない、受け入れたくない。何処かに実在しているのではないかという強い思いが、どうしようもなく自然に湧き上がってくる。一月十一日「人(貫之?)のよめる」

世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな

  「子を恋ふる思ひ」は無論亡き子への思いで、全身に荷重がのしかかるようないつまでたっても逃れられない思いだ。せつなく痛く、何事も手につかない錯乱の一歩手前の心身ではないか。ならば早くそういう辛さから切り抜けたいという願いも起こりうる。「思ひ」が三度詠まれ、技巧的といわれる歌だ。二月三日「船なる人のよめる」歌と応答歌。いずれも貫之作といわれる。

寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝下りて拾はむ

忘れ貝拾ひしもせじ白玉を恋ふるをだにもかたみと思はむ

  亡き子を思いつづけなければならない心身の負荷から解放されたい、このままだと狂ってしまう。そのために波よ、思いを忘れられるという忘れ貝を打ち寄せてくれ、拾いに行こう。いや、そうではない。忘れ貝を拾いには行かない。亡き子(白玉=真珠)を思いつづける心を生きる支えにし、後生大事にしていこう。今一度、その心に立ち帰ろうというのだ。

  土佐日記は和歌論でもあるが、その広範な言及にわたしは正直ついていけないのだが、その一端にはふれておこう。紀貫之は古今和歌集の撰者であり、歌詠みとしての声名は知れわたっていたであろうから、詠んだ歌を見てもらいたい、認めてもらいたいという欲求によって貫之に直に接しようとした人も少なからず居たにちがいなく、ここにも登場する。折詰料理を持参したその人は満を持したかのように

ゆく先に立つ白波の声よりも後れて泣かむわれやまさらむ

と貫之を前にして詠んだが、貫之は不快だったようで「しつべき人もまじれど」つまり返歌ができる人もいるにはいたが、しなかった。貫之一行との別れの辛さ、痛切さを「後れて泣かむわれやまさらむ」(後に残されて悲しみのあまり嗚咽するわたしの声は「立つ白波」よりも大きい。それほどわたしの悲しみは大きい)と詠んだのだが、小さな船で旅立とうとする人にとっては「ゆく先(航海途上)に立つ白波」は不吉とされたようで、その言葉(映像)を贈る歌に詠みこむこと自体が無礼だと貫之は直観したので、返歌をしなかった。和歌は自己表現でありながら、それ以前に儀礼としてのツールであることの厳格さを、この歌を持参した人は忘れていたのだ。現代ならば、紙媒体などをとおして和歌や詩は読者に広く届けられるから、あらかじめ贈る人を特定しないかぎり自己表現として受けとめられることが一般的だろう。この「ゆく先の……」という歌も、贈る歌としての限定をとりはずせば、自己表現として何気なく受け入れられる可能性もなくはないのではないか。そうではなく、やはり航海途上の白波はやはり不吉さの印象を拭いがたいのか。わたしはそんなことを頭に思い浮かべたが、にわかに結論を出しがたい。
  先にふれた楫取り(船子と呼ばれる船員のリーダー)についてもう少し書いておきたい。貫之は船主であるから、船を無事に運行してくれれば、それ以上のことをことさら望まなくてもよいように思えるが、人として肌が合わないようで批判的だ。肉体労働者の典型的タイプといえるのだろうか、快楽と実利を第一に追い求めるその姿勢になじめない。十二月二十七日、貫之は、見送りのために停泊中の船にわざわざ訪ねて来てくれた人々への惜別の意をこめて「さをさせどそこひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな」と詠んだ。「君」は見送ってくれる人々で、「深き心」はその厚情。しばし歌とともに人々と詠嘆を共有したかったのではないだろうか。だが「楫取りもののあわれも知らで(人の深い感動を理解しようともせず)」、潮が満ち風も起こってきたので、その時間を断ち切るように、さっさと船に乗ろうとする。貫之にとっては和歌づくりとその余情が第一義であるから、こう書かずにはいられないのだ。
    一月十四日、楫取りが釣った鯛をもってくる。返礼に米(よね)を与えると、後日にも同じことがかさなり、貫之は米や酒を与えると「楫取り気色悪しからず。(上機嫌だった)」貫之は特に鯛を食したいとも受け取られず、楫取りの強引さを描きたかったのだろう。貫之は官吏であるから俸給から食い扶持にあてがうしかないのかもしれず、また貫之は恬淡かもしれない。それにたいして楫取りは、利に敏い。欲しいものが眼の前にあれば、何とかして手に入れようとする。批判のみにとどまらず、自分にはない対蹠的な生活姿勢を楫取りに見出したことを記しておきたかったのだろう。二月五日、船は住江(すみのえ、現在の大阪市か堺市の沿岸部)にある。逆風が起って、漕いでも漕いでも後退を余儀なくされるので、幣を奉る。幣とは絹や紙を細かくしたもので、海の神に風が静まるように祈願してそれを海に投げ入れるのだが、いっこうに効果がない。すると楫取りが「神がもっと喜びそうなものを投げ入れよ」と勧めたので、大切な鏡を投げ入れた。すると風は静まり、海は鏡のように滑らかになり波が消えた。

ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな

  神もまた楫取りと同じく強欲で、幣くらいでは満足してくれないのだ、という皮肉だ。恬淡で、文芸興隆をめざす貫之のような人は少数派たらざるをえない、ということだろうか。また楫取りをはじめとする土佐の地元の人々は伝来の俗謡をリズミカルに歌うことができる。そこには「もののあわれ」は見つけられないが、すっかり定着して、たいへんしぶとい存在であるにちがいない。和歌を高尚とする地点からの軽蔑ではなく、和歌のもつか細さを貫之は一抹の危惧とともに自覚したのではないだろうか。
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久保えーじ『世界まるごとギョーザの旅』

  ユーラシア大陸はトルコ、中国、ドイツ、アゼルバイジャン、ジョージア、韓国、ポーランド、スロバキア、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスの計11か国をめぐる餃子を中心とした料理研究の旅の記録。単なる食リポートというものではない。著者の久保えーじ氏はレストラン「旅の食堂ととら亭」のオーナーで、日本でほとんど知られることのない外国の料理を、現地の味そのままにアレンジせずに自分の店で再現してお客さんに供するという。それも観光客相手のレストランではなく、下町の食堂で広くその国の庶民に食され愛好される料理にかぎられる。そのほうが現地の国(地域)の料理の固有性に忠実になれるからだ。勿論、久保氏夫妻が旨いと感じた料理にかぎってのみの研究・再現対象である。一品の料理に凝集された材料から調理方法までがリポートされ、推測される。味の記憶を確かにするために同じ料理を店を変えて何回も食する。文章はやわらかく読みやすくされているが、食への好奇心旺盛な人ならいざ知らず、そうでないわたしのような人間にとってはかなり専門的なレベルだ。
  餃子というと、わたしは日本で一般的な焼き餃子をもっとも食する。たまに水餃子もいただく。だが焼き餃子は世界的には少数派らしく、それも満州で食した日本人が日本に持ちかえった戦後以来急速に普及した。食に関しては保守的ではなく進取性に富む日本人だから、うまいと感じれば広がりも早い。明治以降の牛肉、戦後のパン、等々。だが、この本に接すると日本人のまだまだ知らない味が外国で君臨していることがわかる。
  小麦粉を水で練った生地を皮にして、なかに肉や野菜を入れて熱を加えたものを餃子と呼ぶにふさわしい。だが小籠包や雲呑とどう区別するのかは曖昧だ。小籠包は皮の肉厚がやや厚く、調理は蒸しにかぎられ、また雲呑はスープに入れるのが決まりということだろうか。だが餃子にかぎっても焼きもあれば、ゆで、蒸しもあり、皿に本体だけが乗せられたものもあり、スープに入っているものもあり、大きさも形もさまざまで、掲載写真をみると小籠包と区別がつかないものもあり、勿論、本書に沿っての肝心事である具材や調味料やタレも国、地域によって千差万別であり、とにかくバリエーション豊富で、餃子とひとくくりにすることが困難なくらいだ。
  いくつか紹介すると、トルコの餃子のマントゥ。<ラム肉を包んだゆで立ての水ギョーザにガーリック風味のヨーグルトとオレンジ色のパブリカバターがかかり、鮮やかな緑のフレッシュミントがちりばめられています。>さらに、スロバキアの餃子ヒロピー。<マッシュポテトを薄力粉で作った柔らかめの生地に包んでギョーザ形に整形してゆでたものに、ブリンゾベ(羊のチーズか・引用者)とサワークリーム、そしてベーコンの脂身のクルトンを添えていただく……いや、いただかねばならないのです!>久保氏によると、ヒロピーは読むからに脂肪分の多さがわかり、胃の不調がつづくさなかにやむなく食することになったので<いや、いただかねばならないのです!>となったそうだ。この二つ、わたしは食したことがないので味はわからない。カルボナーラが連想できるくらいだ。また餃子の皮が白ともかぎらないことがわかるのはポーランドのピエロギ。赤やらうす緑やらが白色の餃子にまじって皿にある。説明がないが、トウガラシやらハーブやらが粉に練りこまれているのだろうか。
  久保氏の洞察に感心した個所がある。ヨーロッパ人の胃袋のたくましさはわたしも聞いていて、その一人前の量は日本人にとってのそれの最低でも1,5倍はあると久保氏はいう。それに加えて料理に使用する油分の多さだ。これにはアジア人の主食の米とヨーロッパ人の主食のパンという違いからくる由来がある。米には塩分を添加する文化が古来からあり、一方のパンには油分を添加する文化がある。後に登場する麺類にもこの文化的先例が受け継がれて、前者ではラーメンなどの塩分の目立つ汁物となり、後者ではパスタなど油分や乳製品が多く、汁気の少ない調理法が主流となったのではないかと久保氏は記している。ヨーロッパ人の胃袋は量の面のみならず油分にも強く頑丈だということだ。
  記述は料理にかぎらない。旧ソ連圏の国々は社会主義から離脱したものの、底辺の庶民層に実施されていた平等政策が廃止されて所得格差が生じ、物乞いの姿が見られるようになったという。(例外があるかもしれないが)パックツアーではなく個人旅行ならではの苦労も記される。アゼルバイジャン入国のビザを取得するのに要する手続きの煩雑さ、ようやく降りるまでの日数の長さ。ウズベキスタンからカザフスタンへ移動するさいの税関や出国管理事務所の人の多さ。警官が少ない人数で、並んで待機する人々を監視するものの、日本人のように整然と列を作るのではなく、前へ前へ行こうとするからぎゅうぎゅう詰めになる。気温も高く、怒号も飛び交うなかでの立ちっぱなしの一時間。著者はふらふらになる。

    14:08 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

夏に聴く

ISLAND MUSICISLAND MUSIC
(1990/10/15)
細野晴臣

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パシフィック・ガーデン夏企画「PACIFIC GARDEN SUMMER COLLECTION」パシフィック・ガーデン夏企画「PACIFIC GARDEN SUMMER COLLECTION」
(2001/06/21)
オムニバスStella Mirus

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  お盆休みも終わって仕事となったが、相変わらず猛暑がつづく。仕事はなんとかこなしているが気力が減退していることは確かなようだ。そんな2、3週間であるが、涼しげな音楽を聴きたくなった。それもインストといわれる歌詞のない曲が聴きたくなって、かなり前に購入したCDを引っ張り出してきた。CDはそれほど手持ちがないので、思い当たる曲といえばこれしかない。細野晴臣作・編曲の「最後の楽園」。おそらく10年以上前に購入したもので、かつ当時の新作ではなくレコードしかなかった時代のCDによる復刻版である。しかし今聴いても電子オルガンと呼ぶのかが、新鮮な音を響かせてくれる。ちょっと幽霊屋敷を思わせる音色でその点が涼しげなのだが、無論それだけではなく、南の島へのあこがれも十分に喚起してくれる。人は涼しさを求めて何故わざわざ熱帯の島を思い浮かべるのか、気温の低い場所ならもっと適当な場所があるはずなのだがと考えてみたが、答えをもとめるのが面倒臭い。
  この「アイランド・ミュージック」というアルバムだが、冒頭に収められた細野さんの曲以外には、私の偏見であることは承知のうえだが、残念ながら心にひっかかる曲がない。私のCDアルバムの聴き方は最初の30秒か、一分くらい聴いてつまらないと感じたら即座に次にスキップしてしまうので、その乱暴さも影響するのかもしれない。
  もう1曲は加藤達雄という人の作・編曲の「モーニング・デュー」。特に涼しげというわけではなく、かえって暑さを感じさせる曲だが比較的気に入っていて、ときどき聴くことがある。この曲が最近なにかのコマーシャルで使われているのを聴いて嬉しくなった。これも新しいアルバムではないのだが。それにこのアルバムも冒頭の加藤さんの曲以外には強い魅力は感じられない。嫌味ったらしいが。というわけで、「涼しげ」なインストゥールメンタル鑑賞の時間はあっという間に終わってしまう。
Genre : 音楽 音楽
    01:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ほほにかかる涙

カンツォーネ~イタリアン・ポップス・ベスト・セレクションカンツォーネ~イタリアン・ポップス・ベスト・セレクション
(1996/11/21)
オムニバスオルネラ・バノーニ

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 歌手のフランク永井さんが先日亡くなられた。フランクさんの歌声も好きだったが、一九六〇年代前半フランクさん同様ラジオで聴いて印象に残った歌曲のことも思い出した。そこでさっそく購入したのが、このコムピュレーション・アルバム。おめあては題名のボビー・ソロの「ほほにかかる涙」である。

 甘い歌声が記憶に刻まれたが、そのほかに外国のレコードの音の素晴らしさにも魅了された。楽器の音色、それに自由にエコーをかけることができる録音技術等、当時はまだまだ日本の音楽業界は遅れていたようだ。

 「ほほにかかる涙」はラジカセで聴くのがふさわしい。記憶に残っている音色に近いからだ。最初DVD再生機(5.1チャンネル)にかけてみたが、音がやわらかく且つ分散してまるで「再生」にはほど遠かった。つまり私にとって「いい音」ではなかった。音源によっては安物の再生機にかけたほうが、より「いい音」を聴けることがわかった。こういうことは音楽評論家も書いているだろう。

 収録曲十八曲をひととおり聴いたが、「ほほにかかる涙」以外にはさして印象に残らなかった。ウィルマ・ゴイク「花のささやき」も覚えている。本人よりも日本でカバーした倍賞知恵子の歌声によって。ボビー・ソロはもう一曲「涙のさだめ」が入っているが、声質がわずかに変わってしまったことで、私にとっては魅力がなかった。全部の曲がヒットした模様だが、大量生産される歌の運命で、すべての曲がファンの心にながく残るものではない、多くは忘れ去られる。そんなことも思った。
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    23:42 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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