父さんの銃父さんの銃
(2007/06)
ヒネル・サレーム

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 著者のヒネル・サラームはクルド人の映画監督。十八歳のときにイラクを脱出し、現在はフランスに居をかまえて創作活動をしているという。有名な人らしいが、日本ではその映画はまだ一本も公開されていないという。この本は主にサダム・フセイン体制下のイラクでの、彼の子ども時代から脱出時までの生活と成長ぶりを手記風に綴ったものである。

 映画監督といえばシナリオライターを兼ねる人も少なくない。また撮影に臨むに当たって事前にノートやメモ類を記しておく人がほとんどだろう。だから逆にいうと、それらシナリオやノートは準備段階としての書き物で、完成体としてはやはりできあがった映画作品に席をゆずると、作り手としては認識するのだろう。映画監督としての力や構想は映画の中でこそ全面的に実現される。この本に物足りなさを感じるとすれば、なにかしら来るべき映画のための材料として、著者によって考えられているのではないか、というあたりにありそうだ。なるほど、事実として書かれていることは残酷さに満ちていたり、私たちがなじみのない外国の文化や生活に接したときの驚きにも欠かない。だがすべてが駆け足調で、事実から事実へ通過する感じがして印象に残りにくい。別の角度からみると、感情表現によってその場の光景を押し広げる、立ち止まるということがほとんどないのだ。このことは「準備段階の手記」であるかもしれないというこの本の性格以外にも理由が考えられる。

 「ぼくはそのころ、まだ子供だった。」という語句が最初の頃、何回も出てくる。たしかに子供は感情表現が未熟である。悲しみや怒りといった感情を子供は充分に維持することができないし、それ以前にそれがいったい何のことやらかもわからないものかもしれない。三十歳の従兄が親イラクの民兵と銃で派手にやりあった後、生け捕りにされる。そしてジープの後部に足をしばられて逆さにされる。

車は、反政府派へのみせしめとして、町の中心を三周した。従兄はもう、血まみれのぼろきれでしかなかった。
 その日、ぼくの一族は七人の男を喪った。一家は故郷をあとにした。
 でも、ぼくはそのころ、まだ子供だった。(p8)


 これ以上を、主人公のアザト少年は語らない。語れないのか。やがて、少年は一家とともに別の町に行くが、川で水遊びをして体じゅうをミミズだらけにして川岸に上がると、母の久しぶりの「狂ったような笑い顔」を見る。だが母の喜びややっとこさのような安堵が少年に伝わったのかは、ここでも書かれない。ただ著者の記憶に残ったことはたしかなようだ。その後、少年の視界はすこしずつ開けていくが、やはり感情表現はほぼ同質に切り詰められる。

 「訳者あとがき」などによると、クルド人はチグリス・ユーフラテス河上流のクルディスタンと呼ばれる地域に住む先住民族であり、人口三千五百万人という規模ながら母国を持たない。その居住地はシリア、イラク、イラン、トルコ、アルメニアに跨っている。独自の言語と文化を持ち、独立を志向する気概は旺盛である。アザト少年の一家や親戚もこぞって独立支持派である。父はバルザーニ大将(一九四五年のクルディスタン独立時の指導者。これは国際的に認知されなかったが、その後も抵抗運動の総大将的存在としてクルド人に親しまれる。一九七八年死去)の私設通信士という職を誇りにする人であり、アザトの長兄ものちに抵抗運動に身を投じる。母も父に対してはまったく従順である。そんななか、アザトはクルドの詩や絵を知り、仲間とも交わって、ごくごく自然にクルド独立志向を身につけていく。アザトの一家はまったく落ち着く暇がない、故郷をイラク人に追われたり、イランの難民キャンプに逃れたりと。また、十八歳で中学卒業資格がないとイラク軍に徴兵される決まりがあって、アザトは成績不良でそのおそれが十分にあった。だがそこは賄賂のまかりとおるお国柄である。父の知り合いが役所で身分証明書の係をやっていて、父はその人に鶏二羽と宝石を押し付けて、アザトの年齢を何と四歳!も下げてもらうのである。

 感情表現が少ないとこの本を評したが、わずかに例外もある。そして私がいちばん好きなさわやかな場面である。父に言われて新しく手に入れた「プリムス」という拳銃を使いこなすため、練習をするアザト少年。

 「おまえはもう子供じゃない、一人前の男だ。そいつを持って好きなだけ撃ってこい」
 プリムスのおかげで、父がはじめてぼくを大人としてあつかってくれたのだ。ぼくは銃を持ってるんだ、もう子供じゃないんだ。ぼくは誇らしかった。父がいったとおり、自分が一人前の男になったように感じた。なにか標的になるものはないかとあたりを見まわす。空には鳥が飛んでいるが、すこしばかり遠すぎる。ウサギもヘビも見あたらない。ぼくはとうとう、その銃を空へ、神様のほうへむけてぶっぱなした。頭が変になったか、酔っぱらったみたいだった。あの瞬間なら、ぼくは人を殺せるかもしれない。こわいものなどなにもなかった。また何発か撃った。銃声が、丘のむこうからやまびこになって返ってきた。火薬のにおいがツンと鼻を突いた。大人の男のにおいだ。ぼくは三十六発の弾をすべて空にすると、プリムスの銃口に鼻先をつっこみ、そのにおいを思いきり吸いこんでから家路についた。(p46〜47)


 戦争のまっただなかではなく、その一歩手前で、その経験の一度もない少年が戦争を空想する。理由は十分にそろっていてあとは身を注ぎこむことだけが残されている。しかも銃という武器が彼をそそのかす。このときの妖しい感覚。あともどりできないという一種うしろめたい感覚。窮屈さと解放感。「正当な戦争」を前にした世界中の少年や青年がこういう感覚を短い幸福として味わうのかもしれない。戦争のまっただなかでは、おのずからまた別の感慨を受けとるにせよ。

(前略)寺岡君の″革命戦士になりたかった″という最後の言葉や山崎君の何度も胸にナイフを突き立てられてからの″早く殺してくれ″という言葉が、我々が、自らの命を賭けて革命戦士になり切るんだ、と語ったあの革命戦争を主導する革命戦士の真に自己犠牲的な謙虚なプロレタリア的誠実さ秘めた言葉であることを考えると、私は自己の誤りの全く非プロレタリア的なごうまんな姿を改めて自己批判せざるをえない。我々の誤った指導と苛酷な暴力の中で、これらの同志が革命戦士になり切ることを自己の使命として持ちつづけ考えられない程厳しい肉体的な苦痛に耐え抜き死んでいった事は文字通り真の革命戦士としての彼らの姿をはっきりと示している。(p83)


 森恒夫は革命のマインドコントロールが解けないまま死んでいった。そのために手のひらを返したように寺岡と山崎に対して「真の革命戦士」だったと言い換えている。痛恨の謝罪と自己批判を込めるためには、当時の彼としてはこういうたむけの言葉しか吐けなかったということは、わからないではないが、あまりにも安易に過ぎる気がする。他の死者に対しても「革命戦士になれずに敗北死した」から「革命戦士になろうとしていた」と一様に言い換えている。革命戦士になんかなりたくなかったんだ、死者は何を置いても生還したかったんだ、とは何故言えないのだろうか。生き永らえていればともかく、この時点では、まだまだ森は参加者の心情を汲み取ることができていない。

 それに革命戦士なるものの明確な像が、ついに森の口から語られることはない。どんな暴力にもびくともしない鋼鉄の肉体と、もしイメージされたとしても誰もなりきることは不可能だし、ついに不明確なまま至上物に祭り上げられて「革命戦士になりきるんだ」という悲愴で狂気じみた決意を参加者全員に強要したのである。革命戦士像が明確でなければ、それを目標とした「共産主義化」も短期であれ長期であれ破綻せざるをえないのではないか。また、逃亡者や脱落者は出るに決まっている。それを一名たりとも許すまいとしたところにもヒステリックで未熟な完璧主義といったものを見ずにはいられない。

 今日において森恒夫を批判することは容易である。また私は安全な場所にもいる。だが連合赤軍の出来事は昔日の私にかさなっている。黒を白と言いくるめたり、情熱さえあれば多少のいい加減さは許されるという、高校生活動家としての当時の私の浮薄や欺瞞は今でも後ろめたいものだ。勢いあまって暴力を不当に振るったこともある。私のなかのそういうものを、想像を超える規模で拡大再生産されたものがあの出来事だったという見方から、私はどうしても自由になれない。だからこの批判は、過去の私への批判にも通じている。批判はしなければ、忘れるまでは、うしろめたさや羞恥心はずっと記憶の中に居座りつづけるものだ。もっともこの一文だけでそれを成しとげられたとは言わないが。
(了)
 「気絶から覚めたときには別の人間に生まれ変わって共産主義化を受けいれるはずである」とはあきれる。現実認識にもなりえないまったくの低脳ぶりで、幼稚だ。気絶から覚めたら共産主義化を受けいれるだって? 森はそんなに簡単に共産主義化なるものを考えていたのか。それに殴打がかならず気絶を到来させるとも限らない。現に永田が危惧したように加藤能敬は気絶しなかったし、そのうえ、気絶という目標は暴行の途中で変更されなかったために暴行=リンチはより激しさを増した。森の言葉では「なし崩し的に拡大した」のである。森のこの気絶目標は加藤、小嶋の他尾崎充男にも、坂口によると進藤隆三郎にも適用されたが、進藤は腹部を集中的に殴打されたため一日のうちに惨殺されてしまった。坂口によると、加藤も進藤もいたいたしくも総括をなしとげようとして必死に踏んばったために気絶しなかった。加藤は起立させられて全員から殴打を受けながら一度も倒れなかったそうだ。「本当に驚嘆すべきことだった。」だが森はまったく倒錯していた。

 ところが森君は、倒れないのは素直に総括する態度ではない、とみなして殴打を続行したのである。加藤君の命がけの総括を己が想定したように気絶しないからとして、これをむしろ総括する態度ではないとみなしたのだ。途方もない傲慢な判定である。(同、p263)


 「途方もない傲慢」どころか、森はベースという密室内で専制君主になりはてたのだ。自分は絶対的に正しい、どんな結果が到来しようとも正しい。語義矛盾だが「間違っていても正しい」のだ。そういう誇大妄想的確信と通常ではない勢いが最初にあって、死者を生み出した新たな事態に対しては「敗北死」のような理論を絞りだす。気絶というリンチ当初の目標も何人目かから引っ込めてしまったようだ。別の角度からみれば客観性や結果よりも意図と主観を絶対的に固守しようとする。その固守において森は専制君主であった。死という衝撃さえも森にとっては「共産主義化」の目標にはまったくダメージにはなりえなかった。

 結果には原因がある。原因がすべてわかるのではないが、この場合の死という結果の原因は言うまでもなく「共産主義化」目標にもとづく総括要求という暴行である。だが森は死という結果を偶然とみなした。賽の目が投げるごとにちがうように。だから賽を何回も投げるように総括要求を繰りかえした、「革命的気概」を引き出すために死を近づけた。彼は尾崎充男が最初に死んだとき、大失態を意識したはずだ。だが、責任を認めて指導部を降りることはしなかった。あるいは彼無しでは「殲滅戦」をたたかうべき組織が瓦解するのではとの危惧を抱いたからかとも思ったが、それだけでもない。森自身が書くように「観念的世界」の倒錯に夢中になってしまったようである。

 考えられない程陰惨な、残虐な行為を私が展開し、又その他のメンバーにさせた原因は何だろうか。私自身が文字通り″狂っていた″とは思わない。(客観的には″狂気″の世界であれ)亡くなった(ということは、私が殺害した)一二名のメンバーに対して、私は当初から彼を殺さねばならないなどと思ったことは決してない。ましてや、そうすることが革命の利益であるなどとは決して思わなかったのである。だが、(自己批判書第一部で述べた様に)軍の共産主義化の問題を″観念″の世界に追いやることによって、死=敗北であるという、それ自身階級闘争に於る死の問題としては正しいが陰惨な拷問に等しい行為を続けたあとの死に対しては詭計的である狂気の世界へ入っていったのである。(中略)私は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思うし自分がそういう世界をつくりだしたと思っているが、常軌を逸する程前後の見境いがつかなくなっていたとか、物事を判断する能力を失っていたとか思わない。逆に非常に多くのことを考え、判断し処理したのである。それ故、この狂気は一般に云われるそれではないことが明らかである。
 それでは狂気の正体は何なのか、どうも私はこの事については自己批判書で書ききれていない気がしていたし、今でもそうである。今の段階で答えは人間に対するべっ視ではないかと思う。(p267)



 「非常に多くのことを考え」誰の妨害も反対もなく「判断し処理」できたのは専制君主だったからだ。専制君主は必ずしも狂人ではない。やったことが狂気にみえても専制君主が冷静に判断しての結果である、というのだ。だがそれ以上のことがここで突っ込まれているだろうか。「敗北死」理論は詭計であったと書いているが、そうだろうか。森は失態を覆いかくすためにデッチあげたその理論を心底から信じようとしたのではないか。「敗北死」という結果は偶然であり、次回はそうともかぎらない、と。専制君主が信じれば、声高に言いつのれば取り巻きも引っ張られる、君主と同体化しようとする。「詭計」とはだまして陥れることだが、何回も繰りかえすと真実に近づくような錯覚が生じてくるのではないか。さらにそれは既定方針となる。その闇に森は専制君主としての権勢で、参加者全員を自分も含めて陥れた。自己保身も大いにあったにちがいないが、君主という地位ゆえに鈍感だった。観念の世界に没入することで忘れようとした。また、この文の日付は七月十五日となっているが、この期に及んでも殺意はなかったなどといわれると、うんざりする。

(前略)そして彼はすでに立直る事をあきらめたかの様に、彼の活動内容をしゃべり、引継ぎが可能な様に事情を説明したりした。この間、我々が見ていて異常と思われる位夢の中でしゃべるような様子であったので、急いで彼の瞳孔を調べると、半分近くに拡大している状態だった。それで我々は、彼が恐らく精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている可能性がある事、それが瞳孔の異常として表われているので彼をこの絶望の状態から何とか引き出さないと駄目だと思って、詰問調の追及を質問調に変えたところ、その時にのみ彼の瞳孔は正常にもどった。こうした事から、我々は一方で彼が精神的に敗北する過程に入っているという判断をすると共に、もう一方逃亡の危険があると考え、彼の手足を力が抜ける程殴っておく事にし肩甲骨の裏を手拳や膝頭で殴り、大腿部を足や棒で殴ったのち、逆エビ状に再び縛ったのである。(p132〜133)



 これは行方正時が緊縛を説かれて森らに追求される以降の場面だ。総括リンチはどれを取り上げても陰惨残酷で、逐一をたどっていくつもりはないが、ここだけは森の倒錯性を顕著にあらわしている場面なので引用しておきたい。食事も満足に与えられないうえ、ベースの柱に三日ほど緊縛されていた行方だから衰弱が著しかった。森らに緊縛中の逃亡の意志のありやなしやを問われて、力なくそれを肯定してしまうのである。むきになって反論する力も、逆にしらばくれる力も残ってはいない。それに逃亡を夢のように望むことはきわめて自然ではないか。哀れだ。だがそういう行方の心的世界を忖度する気持ちは、森にはいささかもない。倒錯観念がこびりついてしまっていて、眼前の現実をあたりまえに見ることすらできなくなってしまっている。肉体のいちじるしい衰弱によるのではなしに「精神的に絶望して」死にかけているというのだ。行方の肉体は森の倒錯の所産たる革命的気概を「探索」するための材料に過ぎないのだ。「詰問調の追及を質問調に変え」るのも、たいへんやらしい。生殺与奪の権利はすべて俺がにぎっていると誇示せんばかりだ。そして死=絶望、敗北、生=逃亡というでたらめな定式が無造作に烙印される。

 総括要求による犠牲者はこのあともつづく。簡単に記しておく。一九七二年一月十八日、寺岡恒一死亡、享年二四。一月二十日、山崎順死亡、享年二一。一月三十日山本順一死亡、享年二一.同日、大槻節子死亡、享年二三。二月四日、金子みちよ死亡、享年二三、妊娠八ヵ月。二月十二日、山田孝死亡、享年二七。先に記した六名とあわせて十二名の死者を出す惨劇となった。なお寺岡と山崎は総括要求ではなく、森によって処刑宣告されての死亡だった。