fc2ブログ

『万葉集』巻二・141

万葉集
11 /18 2012

磐代(いわしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへりみむ

  作者は有馬皇子(ありまのみこ)で第36代孝徳天皇の皇子。第37代斉明天皇の斉明4年(658年)、謀反の疑いをかけられて絞首刑に処せられた。冤罪とも皇太子時代の天智天皇の陰謀ともいわれる。ときに若干19歳で、これは辞世の歌である。題は「有馬皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」となっている。もう一首は「家にあればけ笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(142)」。「磐代」は和歌山県日高郡南部町で海沿いの地。草木の枝を結ぶ行為は未来の幸福を祈る儀礼であった。護送中の身でありながら、刑護官のはからいでその行為を許されたのだろうか。生きていられたらこの松の枝をふたたび見ようと思うが、そんなこともないだろうという意味だ。
  死刑の決定がくだされた残りわずかな自分の命を真正面にみすえたたいへん素直に読まれた歌だ。残酷であり、読者をして深い同情にさそわずにはいられない。同情どころか、もしかして同情が深まれば有馬のもとへ行って一緒になってしまいたい、私も運命をともにしたいという気持ちにもなりかねない。歌というものは不思議な効力を持っている。歌にすることで、残酷さはそのままにそこに「美」がくわわるのではないか。魂を呼び起こして揺さぶる効力をこの歌はもっている。軽々しく書くのかもしれない、そういう危うさを抱きつつも、私は死=美という日本人の奥底に眠る伝統的な意識がこの歌にうながされてはじめて芽生えたのではないかと思ってみる。識者はどう認定するのか知らないが、辞世の歌としてはこの有馬の歌が日本の詩史のうえでは最初ではないか。少なくとも万葉集の順番ではそうなっている。有馬への同情は私ひとりのものではないだろう。そこに共同性を同時に感得し、自省にもうながされる。
  古代においては歌人という存在は政治的には無力であった。政治力を持つ勢力は皇族や豪族などにかぎられていた。歌人は有馬の事件にさいし皇太子の天智を疑い、怨んだとしてもそれを表明することなどできなかった。何人かの歌人がのちに有馬を悼み追慕しているが、言下にそういう政治的な思いを読み取ることも読者の自由の範囲だ。
701年か2年に山上億良が読んだ歌。

翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(145)

  別のテキストでは「翼なす」は「天翔(あまが)けり」とある。口語訳は「御魂は鳥のように 行き来しながら 見てもいようが 人にはわからないだけで 松は知っていよう」となっている。「御魂」は無論有馬皇子をさす。「松」も有馬が枝を結んだ当の松。空の広大さを視野に喚起させながら有馬への深い同情を刻みこんでいる。
  [追記]斉藤茂吉『万葉秀歌』によると、引用した有馬皇子の歌が書かれたのは処分が決定される以前の時間だという。それならば私の辞世の歌という解釈は誤っていることになる。見方を修正しなければならないのか。しかし極刑の予感が有馬において大いにもたれていたとも推察される。(2012、11、20)
 [追記2]極刑が言い渡された直後ならば、将来の幸福を祈る行為である草木の枝を結ぶということはしないと考えるのが普通だ。生存に一縷の望みをもったからこその行為であっただろう。「辞世の歌」と受け取るのは不適切と思う。はじめから書き直すのは面倒なので、この追記をもって訂正とさせていただきます。(2012,11,21)
日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)日本古典文学全集〈2〉万葉集 (1971年)
(1971)
不明

商品詳細を見る
関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

Re: タイトルなし

矢部結城菜さん、ありがとうございます。
ふたたび「追記」を書きました。

> いいと思います!

いいと思います!

楽しい!!

トラックバック

まとめ【『万葉集』巻二・14】

磐代(いわしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへりみむ  作者は有馬皇子(あ

seha

FC2ブログへようこそ!