2008.07.24
歩いても歩いても
人が人を怨みつづけることが果たして正当なことなのだろうか、そうでないとしても、やむをえないことなのだろうか。是枝裕和監督の巧みで丁寧な日常風景の描写によって、私は映画の内部にどんどん引き込まれていった。そしてこの手に負えそうもない大きな問題に行き当たった。壁のような確かな手ごたえだった。開業医の父の跡を継ぐはずだった長男が若い頃に水難事故で死んだ。溺れかかった子供を助けるためだったが、代わりに自分が波にさらわれて命を落としてしまったのだ。その子供は長男の霊前に頭を垂れるために毎年お盆の季節に長男の一家、この映画の舞台となる元開業医の家を訪ねてくる。長男の死からすでに二十年が経過してしまっているが、毎年欠かさずやってくる。男は自分の身代わりになって死去した長男やその一家に当然義理を抱いているだろう。だが父の原田芳雄や母の樹木希林は、その男のために長男が命を落としたことが悔しくてならない。寂しくてならない。その男が死んで長男が生き残ってくれたほうがどんなにかよかったろうという想いを隠そうともしない。そこから男に対する怨みの念が生じてくる。勿論、それを表面立てて男に突きつけるようなことはしない。長男と深い縁のある客として丁重に遇する。しかし「来年も再来年も来てもらわなきゃ」「忘れてもらっては困るのよ」と樹木希林は家族に愚痴る。こういうことを身をもって経験したことがないからなのか、私にはこの両親の想いがある種凄惨さを帯びて映ってしまう。愚痴でもあり、祈りでもあり、怒りであり、怨みなのだ。そして残された自分たちの日常を平和裡に明るく繰りかえすこととこの凄惨さは同居する。矛盾しつつも同居することができるのだ。生きていくためのいわばマイナスの糧のようなものだろうか。生涯において樹木希林と原田芳雄は、この感情のかたまりを忘れることはない。
私には毎年命の恩人の家へ足を運ばなければならない青年がたいへん気の毒に思えた。彼には遺族(とりわけ両親)の気持ちが毎年足を運ぶうちに、子供から大人へと成長するうちに、ひしひしと伝わってくるのではないか。自分が生きてしまったことに後ろめたささえ感じているようだ。死んだ人のためにも遺族の「期待」のためにも、せいいっぱい生きねばならないという想い。だが就職が思うようにはいかずにフリーターの身分。樹木に問われるままに答えるのも縮こまるようで、ちょっとしたいじめにも見えた。靴下の片一方が黒く汚れているところを発見されて子供にくすくす笑いされたり、正座から立ち上がろうとしてよろける場面など眉をひそめさせる不恰好さだ。彼はほんとうは盆のお参りは、苦しくてもう勘弁してもらいたいのかもしれない。次男の阿部寛も青年を陰でなじることには同調できないようだ。どこでもそうだとはかぎらないが、親と兄妹では長男の死の受け止め方が、この映画の家族の場合は微妙に異なる。
そしてその想いがいちばん強く、ときにこらえられなくなって吐き出してしまうのが母の樹木希林だ。青年への怨みは裏返せば亡き長男への狂ったような追憶の想いだ。前半の部分で、阿部寛が連れて歩いている子供とともに黄色い蝶を見たとき、「白い蝶が一冬を越したとき黄色になるんだ」という言い伝えを教える場面があるが、これがたいへんうまく生かされる。青年が帰っていってやがて夜が訪れたとき、仏壇のある居間にその黄色の蝶がさまよいこんでくるのだ。樹木はそれを長男の霊として見てしまう。「シンイチ、帰ってきたのかい?」口調は静かだが、洒落ではなく鬼気がうっすらただよう場面だ。腰を曲げてにこやかに蝶に近づきやさしく守ろうとする、うっとりする樹木。原田、阿部、YOUやその連れ合いや子供ら家族は制止することもなく見守るしかない。たじろぐのか、あきれるのか、そうでもあるが、母のあまりにも強い長男への追慕の情に直面してあらためて畏怖せざるをえないのだ。母は蝶が長男だという芝居をいっときでもしてみたい、その世界にひたってみたい、そして芝居であるという意識から自由になったとき、母は長男を黄色い蝶のなかに甦らせることができる。また、周囲の目にも少し狂ったような芝居が芝居でなくなる瞬間だ、つまり蝶を長男であるとする意識が母から自然に伝播してきて成立するのだ。これはもう家族としては、母という場所を許すしかない、尊重するしかない。家族という密閉された空間にのみかぎられたやりとりで、あたたかい無言の約束だ。こういうことがあってこそ家族は家族でありつづけられ、時間を乗り越えることができる。
母の振る舞いという点では、もうひとつ重要事がある。いしだあゆみの歌「ブルーライトヨコハマ」のレコード(CDではない!)を大事にしていて、ときどき掛けるらしいのだ。父が浮気相手の女性宅かにいたときに、樹木がその家から漏れてきたのがその歌だ。夫の浮気を夫自身に思い出させざるをえない歌「ブルーライトヨコハマ」。これもまた、母の樹木希林のうちに流れる重要な感情、夫への怨みであり、愚痴だ。この歌は四〇年も前に流行ったもので、夫の原田芳雄の立場ならもういい加減に忘れてもらいたい気持ちにちがいないが、樹木はいまだにレコードでちくちく刺すのだ。盆休みに久しぶりに帰ってきた阿部寛やYOUに事情を話すのだ。「ブルーライトヨコハマ」は独特の軽さをもった名曲で、私はいまだに酔うことができるが、まつわる格別の思い出はない、大部分の人もそうだろう。同じ一枚のレコードをはさんで、ここでも人の想いのちがいが巧みに描かれる。またこういう妻の樹木の振る舞いにも夫の原田芳雄は無抵抗たらざるをえないのだろう。無抵抗だからこそ家庭は維持されるのだ。そうしてレコードを掛けることと先に記したように青年を怨むこと、亡き長男を想うことが一個の人格の樹木希林のなかに同居している、樹木は家族の中で自由にふるまう。だが本人には自由の感覚はない、大事に育てようとした希望や明るさが何回かの事件によって砕かれてしまったという欠損感と苛立ち、それが中心を占めている。樹木以外の家族からすれば、自分には許せないことであっても家族には許す、許さざるをえない、そういう感情で樹木に接しているのではないか。これは「妥協」という言葉は適切ではないと思う。性と血の繋がりというところからくる因果とでもいおうか。
黄色の蝶のことが中断したが、家にまよい込んだ蝶は阿部寛によってやさしくとらえられて夜の闇に放たれる。そしてまだ続きがある。阿部寛の家族が父母の家をあとにするとき、ふたたび黄色の蝶が飛んでくる。子供が言う。「あのチョウチョはおとうさんと一緒に見たことがある」この瞬間、私は泣けた。そして身体がたいへん軽くなった気がした。「おとうさん」とは子供にとっては死んだ実の父、阿部寛からすると妻の前夫である。子供は黄色の蝶を亡き父の思い出と早くも結び付けてしまったのではないか。白い蝶が一冬を越すと黄色くなるという言い伝えとともに、死者を追憶するよすがにすることをこの子供は覚えてしまった。これはいろんな営みを、ひいては生を私たちが子や孫へと引き継いでいくということのすばらしい象徴ではないかと直感したから、私は泣けたのだと思う。つまり、黄色い蝶は樹木希林の長男の亡霊からこの子供の実父の亡霊となった、亡霊をたくす担い手が引き継がれたように私には思えたのだ。
「引き継ぐ」ということからくる解放感を、私はこの映画ではじめて予感したのかもしれない。だがそこまでに達するまでに私たちは生きねばならないのだ。苦難があろうとも。すると舞台となった海辺の小さな町の変わらぬ山と海のたたずまいや生い茂る緑の中の階段や坂道が、一見平凡そうでたいへんありがたい存在に見えてきた。私たちを生かしてくれる条件という以上に、不可欠な存在として。また樹木希林が手際よく切る大根や、となりでYOUが馬鹿にスローに皮を削っていくにんじんが、ふりかえってみるとたいへん美味そうに見えてきた。詳しくは書けないが、家族同士のユーモラスなやりとりも笑えた。この部分もすぐれていて、これだけ笑いで劇場がにぎやかになった映画も久しぶりの気がする。多面体的な魅力を放つ傑作だ。
私には毎年命の恩人の家へ足を運ばなければならない青年がたいへん気の毒に思えた。彼には遺族(とりわけ両親)の気持ちが毎年足を運ぶうちに、子供から大人へと成長するうちに、ひしひしと伝わってくるのではないか。自分が生きてしまったことに後ろめたささえ感じているようだ。死んだ人のためにも遺族の「期待」のためにも、せいいっぱい生きねばならないという想い。だが就職が思うようにはいかずにフリーターの身分。樹木に問われるままに答えるのも縮こまるようで、ちょっとしたいじめにも見えた。靴下の片一方が黒く汚れているところを発見されて子供にくすくす笑いされたり、正座から立ち上がろうとしてよろける場面など眉をひそめさせる不恰好さだ。彼はほんとうは盆のお参りは、苦しくてもう勘弁してもらいたいのかもしれない。次男の阿部寛も青年を陰でなじることには同調できないようだ。どこでもそうだとはかぎらないが、親と兄妹では長男の死の受け止め方が、この映画の家族の場合は微妙に異なる。
そしてその想いがいちばん強く、ときにこらえられなくなって吐き出してしまうのが母の樹木希林だ。青年への怨みは裏返せば亡き長男への狂ったような追憶の想いだ。前半の部分で、阿部寛が連れて歩いている子供とともに黄色い蝶を見たとき、「白い蝶が一冬を越したとき黄色になるんだ」という言い伝えを教える場面があるが、これがたいへんうまく生かされる。青年が帰っていってやがて夜が訪れたとき、仏壇のある居間にその黄色の蝶がさまよいこんでくるのだ。樹木はそれを長男の霊として見てしまう。「シンイチ、帰ってきたのかい?」口調は静かだが、洒落ではなく鬼気がうっすらただよう場面だ。腰を曲げてにこやかに蝶に近づきやさしく守ろうとする、うっとりする樹木。原田、阿部、YOUやその連れ合いや子供ら家族は制止することもなく見守るしかない。たじろぐのか、あきれるのか、そうでもあるが、母のあまりにも強い長男への追慕の情に直面してあらためて畏怖せざるをえないのだ。母は蝶が長男だという芝居をいっときでもしてみたい、その世界にひたってみたい、そして芝居であるという意識から自由になったとき、母は長男を黄色い蝶のなかに甦らせることができる。また、周囲の目にも少し狂ったような芝居が芝居でなくなる瞬間だ、つまり蝶を長男であるとする意識が母から自然に伝播してきて成立するのだ。これはもう家族としては、母という場所を許すしかない、尊重するしかない。家族という密閉された空間にのみかぎられたやりとりで、あたたかい無言の約束だ。こういうことがあってこそ家族は家族でありつづけられ、時間を乗り越えることができる。
母の振る舞いという点では、もうひとつ重要事がある。いしだあゆみの歌「ブルーライトヨコハマ」のレコード(CDではない!)を大事にしていて、ときどき掛けるらしいのだ。父が浮気相手の女性宅かにいたときに、樹木がその家から漏れてきたのがその歌だ。夫の浮気を夫自身に思い出させざるをえない歌「ブルーライトヨコハマ」。これもまた、母の樹木希林のうちに流れる重要な感情、夫への怨みであり、愚痴だ。この歌は四〇年も前に流行ったもので、夫の原田芳雄の立場ならもういい加減に忘れてもらいたい気持ちにちがいないが、樹木はいまだにレコードでちくちく刺すのだ。盆休みに久しぶりに帰ってきた阿部寛やYOUに事情を話すのだ。「ブルーライトヨコハマ」は独特の軽さをもった名曲で、私はいまだに酔うことができるが、まつわる格別の思い出はない、大部分の人もそうだろう。同じ一枚のレコードをはさんで、ここでも人の想いのちがいが巧みに描かれる。またこういう妻の樹木の振る舞いにも夫の原田芳雄は無抵抗たらざるをえないのだろう。無抵抗だからこそ家庭は維持されるのだ。そうしてレコードを掛けることと先に記したように青年を怨むこと、亡き長男を想うことが一個の人格の樹木希林のなかに同居している、樹木は家族の中で自由にふるまう。だが本人には自由の感覚はない、大事に育てようとした希望や明るさが何回かの事件によって砕かれてしまったという欠損感と苛立ち、それが中心を占めている。樹木以外の家族からすれば、自分には許せないことであっても家族には許す、許さざるをえない、そういう感情で樹木に接しているのではないか。これは「妥協」という言葉は適切ではないと思う。性と血の繋がりというところからくる因果とでもいおうか。
黄色の蝶のことが中断したが、家にまよい込んだ蝶は阿部寛によってやさしくとらえられて夜の闇に放たれる。そしてまだ続きがある。阿部寛の家族が父母の家をあとにするとき、ふたたび黄色の蝶が飛んでくる。子供が言う。「あのチョウチョはおとうさんと一緒に見たことがある」この瞬間、私は泣けた。そして身体がたいへん軽くなった気がした。「おとうさん」とは子供にとっては死んだ実の父、阿部寛からすると妻の前夫である。子供は黄色の蝶を亡き父の思い出と早くも結び付けてしまったのではないか。白い蝶が一冬を越すと黄色くなるという言い伝えとともに、死者を追憶するよすがにすることをこの子供は覚えてしまった。これはいろんな営みを、ひいては生を私たちが子や孫へと引き継いでいくということのすばらしい象徴ではないかと直感したから、私は泣けたのだと思う。つまり、黄色い蝶は樹木希林の長男の亡霊からこの子供の実父の亡霊となった、亡霊をたくす担い手が引き継がれたように私には思えたのだ。
「引き継ぐ」ということからくる解放感を、私はこの映画ではじめて予感したのかもしれない。だがそこまでに達するまでに私たちは生きねばならないのだ。苦難があろうとも。すると舞台となった海辺の小さな町の変わらぬ山と海のたたずまいや生い茂る緑の中の階段や坂道が、一見平凡そうでたいへんありがたい存在に見えてきた。私たちを生かしてくれる条件という以上に、不可欠な存在として。また樹木希林が手際よく切る大根や、となりでYOUが馬鹿にスローに皮を削っていくにんじんが、ふりかえってみるとたいへん美味そうに見えてきた。詳しくは書けないが、家族同士のユーモラスなやりとりも笑えた。この部分もすぐれていて、これだけ笑いで劇場がにぎやかになった映画も久しぶりの気がする。多面体的な魅力を放つ傑作だ。
2008.07.21
レッド・オクトーバーを追え!(1990/アメリカ)
![]() | レッド・オクトーバーを追え!アドバンスト・コレクターズ・エディション (2007/08/24) ショーン・コネリー 商品詳細を見る |
潜水艦を舞台にした映画は多くあるが、見所はやはり海上の敵艦からの機雷攻撃によって危機にさらされる場面だろう。艦壁に亀裂が生じて水がドドッと流れ込んでくる、もうおしまいだ! という切迫感がある。だがこの映画にはそれがない。大型の原子力潜水艦だからかもしれないが、水の圧倒的な浸入は見たい気は残って、その点では残念かな。模型の原潜やミサイル魚雷の水中撮影がもっぱらなのは無理もないのかもしれないが、肩透かしの感は残る。ヘリコプターから潜水艦に梯子づたいに人が移動する場面は模型ではなく実写で、さすがに迫力があるが。
冷戦時代が背景で、ソ連原潜レッド・オクトーバーの艦長ショーン・コネリーが艦ごとアメリカへの亡命を目指して舵を切るというもの。コネリーからの手紙で事態を把握したソ連海軍は阻止すべく原潜の大部隊を動員して包囲をめざす。一方、アメリカは原潜の不審な動きを先制核攻撃の可能性ありとして同じく原潜を動員して撃沈をも視野に入れる。だが軍事アナリストのアレック・ボールドウィン(ライアン博士)は一人ソ連原潜の亡命の意図ありと主張する。アメリカ目指して逃げるショーン・コネリー。追うソ連原潜と迎え撃つ用意万端のアメリカ原潜、アメリカ原潜の動きにブレーキをかけようとするアレック・ボールドウィン、という三つどもえ四つどもえの戦いが大西洋で繰り広げられる。
軍事に興味のある方には面白いのかもしれないが、私にはわかりづらい箇所もあってそうでもなかった。俳優陣については、ショーン・コネリーは貫禄充分だが、アレック・ボールドウィンという人はどうか。なよなよして覇気がなく見えて、軍事アナリストという役にふさわしくない感じがした。
2008.07.15
プラネットテラー(2007/アメリカ)
![]() | プラネット・テラー プレミアム・エディション (2008/03/21) ジェフ・フェイヒーステイシー・ファーガソン 商品詳細を見る |
細胞を壊死させて人をゾンビに変えてしまうウィルスが小さな町で蔓延する。その解毒剤もあるようで、軍人のブルース・ウイルスがそれを手に入れようとして、部下を従えて、地元ヤクザと取引にやってくる。だがヤクザは持ち合わせがなく、冷徹なブルース・ウィルスは部下やヤクザ周辺のチンピラに命じてそのヤクザの睾丸を切り取ってしまうのだ。睾丸と解毒剤と関係があるのかないのか、わからない。投げ出された容器には睾丸が一杯入れられている。そしてどうしてだか、敵味方?入り乱れての銃撃戦が始まってしまう。故意に説明が省略されるため妖しい空気が蔓延してくる。
ヒロインのローズ・マッゴウワンがゴーゴーダンサーを辞めてしけたレストランに行くと、元恋人の男がいる。男は解体業だというが、のちにどういうわけだか逮捕されながら、射撃の名手であるため手錠を解かれて警察と一緒にゾンビと立ち向かう。しかも元恋人ともよりを戻す。マッゴーワンはコメディアンを目指すというが、これにも?マーク。レストランは閑古鳥が鳴いているが、ここのオーナーは何故かバーベキューのソース作りに熱中している。しかも地元警察の刑事とは兄弟。この町では鹿を食する人間が増えたという説明があるから、この店の肉は鹿じゃないかと思ってしまったが、これも不明で思わせぶりだ。こういう店では食いたくないという気にさせる。
病院ではウィルス感染者で満杯の状態。医師は転移を防ぐため、腕を切り取れというような指示を簡単に出す。患者の口をあけさせてピンセットで舌の様子を見るとピュっと血が飛んで医師の顔を汚す。医師の妻は看護師で、指示されると患者ににんまりとして催眠注射をやってのける。しかも医師は妻の浮気を疑っている最中。
こまかく書きすぎたが、こういうごった煮状態の人間関係がやがて感染者と非感染者とに整然と別れて、殺しあうのだ。いったん感染するとゾンビになって人に襲い掛かるしかない運命らしく、感染以前の人となりが善人だろうと何だろうと、殲滅するしかない。ゾンビは火器には無力だが、逃げずに本能として人に襲い掛かる。勧善懲悪というのではない。威力を計測できない自然災害でもない。ただ数だけがおびただしいゾンビを「さくさく」と消滅させるのだ。
ローズ・マッゴウワンは右足の膝から下を食いちぎられるが、そのあとが素晴らしくカッコいい。間に合わせの棒切れを義足にし、次にはマシンガンを義足にして射ちまくる。義足でよたよたの急ぎ足なんてありえないが、ロバート・ロドリゲス監督よく思いついた。




