FC2ブログ

宮本輝「泥の河」「蛍川」

小説・エッセイ・戯曲
06 /29 2020
  「泥の河」は宮本輝のデビュー作であるにもかかわらず完成度が高い。満を持して発表された観がある。
  昭和三十年の大阪は中の島西端部が舞台で、堂島川と土佐堀川の二つの川がそこで合流し安治川と名を変えてさらに西へ流れる。その地で小さな食堂を営む一家があり、一人息子の小学二年生の信雄の視線をとおして周囲の人物模様が描かれる。
  喜一という少年の一家が近くに引っ越ししてくる。「引っ越し」といっても小さな舟を住まいとするおそらくは違法の住居で、そのためお上の監視を遁れる必要があり、頻繁に停泊場所を変えねばならなかったようだ。喜一の一家は母と姉がいるが二人は学校には行っていない。また母は後にわかるが売春婦(当時はパンパンとも呼ばれた)であり船の「自室」に客を引き入れて生活を糊塗している。信雄と喜一はすぐに友達になって二つの家を行き来するようになるが……。
  子供の視線がすべて「正常」であるとはかぎらないが、ここでは、貧しくはあるものの人情熱い父母に育てられた信雄は「正常」な視線を有している。子供は大人の世界を即座に理解することができないから、不可解であればあるほど鮮明さをともなってその映像が後々まで印象にのこる。一方、大部分が大人である読者は同じ映像を経験と言葉によって理解できる。また子供時代をふりかえってその不可解さの感触もおぼろげながら手繰り寄せることができる。だから信雄少年の心理描写は未確定であるため不要で、少年の目に映った映像が不可解さとある場合は衝撃をともなって連続的につながれる。そういう仕組みが巧みだ。
  子供にもそれまでの生活からえられたなかば無意識の平衡感覚があって、それが外の世界との接触によって刺激される。喜一の「異常」さについていけなくなる信雄少年の心の世界は当然でありながら、ぎょっとさせられる。一場面だけ紹介すると、喜一がつくった仕掛けによって沢蟹がおびただしく舟の住居にひきあげられ、同室していた信雄に喜一は沢蟹をつかった「遊び」を誇らしげに披露するのだが、これが信雄の目からすると残酷だ。ランプの油に蟹をひたらせてからつぎつぎに火を着けて、火達磨になって走ったり爆発したりする様子を喜一は悦に入って眺め、当然、信雄にも同調をもとめる。だが信雄は喜ぶどころか、ただちに逃げ出したい気持ちに追い込まれる。喜一のこの「異常」さが、母が売春婦であるという生活環境とどこかで深くつながっていることを信雄少年は察知するのだろう。信雄にはまさに不可解な闇の世界だ。
  また、子供が早くから性的興味をもつことも描かれる。信雄はみずからが喜一や姉の銀子よりも、彼らの母にえたいのしれない刺激を受けつづけていることを自覚する。母の部屋に一度だけとおされて会った時の、その甘ったるさのなかに未知の頽廃を隠した匂いを少年は忘れられない。
  当時はまだ馬による貨物運搬ものこっていたようだ。一人で漁をする老いた漁師、これは今でも大阪湾には存在するらしい。それに天神祭り。今と共通するのかわからないが卑猥な部分があって、食堂に来る若い男たちとともに高度成長が始まるころのエネルギーを醸し出す。信雄がポンポン船に曳航されていく喜一の舟を河畔の道をいつまでも走って追いかける場面は涙もの。
  「蛍川」は「泥の河」につづく第二作で、富山県富山市が舞台。宮本輝は富山市にも住んだことがあるそうでそのときの体験や土地勘が生かされているのだろう。住居の近くを流れる俗称「いたち川」のかなり上流の山深くまで遡ると、十年に一度くらい蛍の大乱舞がみられる場所があり、冒頭にそれが記されて、その場面に遭遇することを読者に期待させる仕組みになっている。昭和三十七年で、中学二年生の竜夫が主人公。脳溢血で倒れ、機能障害の範囲を少しずつ増大させ、言葉を失い、緩慢に死に傾斜していく父の姿が、ああそういうことだろうな、と読者を納得させる。死への経過と死。直面したくはないが受け入れるしかない家族の死。生活に行き詰まることでも勿論あるが、むしろ病と死という事実が醜悪さとなってへばりついてくるのだ。繁華街をぶらついたり映画館でスルメをしがんだりする何気なさが「とてもしあわせなこと」に感じられることに竜夫は気づかされる。同級生の友人の突然の死。ほのかだがしだいに頭をもたげてくる同級の女生徒へのあこがれなどが綴られる。
  竜夫とともにもう一つの母の千代の視線によっても物語が進行するが、この部分はやや平凡な印象が拭えない。宮本輝だから乱雑な描き方はされないが。千代は竜夫の実母であるが父にとっては二番目の結婚相手。父の死後における最初の妻と母子との短い交流も描かれる。
  「泥の河」は太宰治賞、「蛍川」は芥川賞をそれぞれ受賞した。単行本発表は一九七八年。

スポンサーサイト



ゴーゴリ「鼻」「外套」

小説・エッセイ・戯曲
06 /21 2020
  古い世界文学全集には必ずといっていいほど収録されていた作品で、それだけに重要作だと評価されていたのだろうが、率直に言ってわたしには今一つピンと来ないところがある。面白いといえば面白いのだが。
  「鼻」は理髪師ヤーコヴレヴィッジがお客の鼻を切り落としてしまうという話。それも後日の朝食の際、パンを割ってなかの玉ねぎを食べようとしたところ代わりに鼻が出てきた。見覚えがあって、何日か前に髭を剃ったコワリョフ大佐のものではないか。何が何だかわからないまま彼はそれを雑巾にくるんで人目を気にしながら河に捨てに行く。警察に見咎められたらやばいことになるからだ。一方のコワリョフもほぼ同時に自分の鼻がないことに気づき、あわてふためく。
  以前読んだとき、というよりもその時の印象を長い間引きずっていたのでその「深刻さ」が理解できなかったが、本作浦雅春の翻訳では「なんて」「てんで」などの落語口調が散見されて深刻に受け取るべきではないだろう、荒唐無稽の話として受け取るべきなのだろうと納得した。だがやはり「深刻」ではないにしろ理髪師・少佐両者ともに大いなる混乱のただなかに落とし込まれてしまったことは読みとれる。
  鼻の不在に気づくと同時にコワリョフは、その自分の鼻が立派な五等官(コワリョフ自身は八等官)の身なりで馬車から降りて階段を歩いて上る姿を目撃する。自分のものとはっきりわかる鼻が他人の鼻の収まるべき部位にくっついているのだ。それからのコワリョフのじたばたぶりが笑いとともに描かれる。ハンカチでのっぺらぼうになった自分の鼻の部位を隠しながら、「鼻」五等官に言い寄ったり、新聞社に広告依頼をしたり、警察にかけあったり、と。やがて警官が鼻をたずさえてコワリョフを訪ねてきて彼は一安心するものの、どうやって鼻を着ければいいのかわからず、医者に相談してみるが、別に着けなくてもいいのではないかと言い返される始末。……混乱のこれら細部にわたる描写は何なんだろう。正体不明の喪失感といったものの隠喩なのか、そこまで読みとる必要はないのか、読み手によって変わるのか。ただこの「事件」の噂がペテルブルグの町じゅうに広がり「鼻氏」を一目見ようという人々が多く出現することになる。大衆的な共振作用ともいうべきものを見逃すべきではないと思った。
  鼻は何もしなくてもやがて朝目覚めた時コワリョフのもとの位置にもどり、彼にとっても理髪師にとっても何事もなかったかのように事態は収拾する。夢でなければ一時的混乱に過ぎなかったことになる。だが一時的な混乱にせよ、当時のロシア社会の大衆にどこかしら身に覚えのあるもの、共感できるものとして映ったのかもしれない。出口か、奈落の手前なのかはわからないが。「鼻」の発表は一八三六年、ゴーゴリ二七歳のとき。
  「外套」は下級役人アカーキー・アカーキエヴィチが外套を新着するという話。これも長い間ひきずっていたうろ覚えの印象がくつがえされた。
  彼の人となりの描写からはじまる。口数すくなくおとなしく、つきあいにも及び腰で、からかわれてもむきになって反抗するでなく明瞭ではあるものの外見的には弱弱しい抵抗しかできない。仕事は書類の清書で何十年も同じことの繰り返し。それでも飽きもせず「好きな字」にあたったときには内心の喜びを隠せない、といったところ。だが彼にはふってわいた懸案にぶちあたる。寒さの厳しいロシアでは暖かい外套が是非必要だが、彼の外套は痛みがはげしく、行きつけの仕立屋に頼んでも修復不可能なことを告げられる。新調しなければならないのだが、高価である。100ルーブリ以上するそれは年収400ルーブリの身分の彼にとっては迂闊には手が出せない。それでも彼は一念発起して節約生活にいそしみ仕立屋にも負けてもらってついに新しい外套を購入する。ここから彼の人生は束の間一変するかのようで、役所の上司や同僚に新着外套のことを知られて祝福されパーティに招かれる。夜会に人々が集まり、きらびやかな照明や賑やかな会話やふるまわれる酒食に、彼は身に余る幸福感をあじわうのだが……。
  アカーキエヴィチの自己認識がここへきて一変するのではないかとの印象を引きずっていたのだが、そうでもないらしい。外套欲しさにひもじい思いを堪えていた、つまり外套に「従属」していた彼にとってはそれは外套から解放されることを意味し、周囲に剥き出しになった「自己」とは何なのかとのあらためての自問に必然的に導かれるのではないかとわたしは勝手に思い込んでいたが、そういう気配は読みとれない。その代わりというか、わたしが忘れていたストーリーがせわしなく展開される。彼は帰り道、強盗に遭って外套を奪われる。ここからは「鼻」のコワリョフと同じように、警察や「おえらがた」に捜査依頼をするもののけんもほろろに追い返され、ショックが高じてあっけなく息をひきとるのだ。このようにアカーキエヴィチの人生は短く寂しい。
  さらなる展開がある。立派な外套を見つけては次々と強奪する「幽霊」が出現し、これまた町中を騒がせることになる。「幽霊」が実際に外套を強奪したことになっているから、「幽霊」ではなく現実の強盗という解釈も成立するのだが、このあたりからゴーゴリの話の進め方は多分に落語的になってくる。
  ゴーゴリは主人公に対して同情的で、ロシア大衆の主人公への共振作用をもはたらかせて「幽霊」を怪しさと怖ろしさとともに肯定する。彼をないがしろにした者への復讐なのだが、それにしても「幽霊」としてしか復活できない主人公は寂しい。寂しさのなかに主人公の「復活」を表現することが、ロシアの寒風と吹雪を想像させるなかでの灯火のようなささやかな意地を点すことが作者の狙いなのか。
  「査察官」は戯曲形式。小さな町に中央政府から査察官がやってくるという知らせに右往左往する市長以下の住人。行政の不正や怠慢を暴き出されることを怖れるためで、偶然町にやってきた若い官吏が査察官として誤解され、それをいいことに官吏はつぎつぎとホラをふいて搾取するという話。ドタバタ劇だ。
  三篇とも「古さ」を感じさせるが、この「古さ」なるものを別の言葉で適切に言い換えなければならないと思うが、今のところできない。ただ、「外套」にはわたしたちがとおざかってしまった宗教的感情が籠められている気がする。


宮本輝「真夏の犬」「力道山の弟」「五千回の生死」

小説・エッセイ・戯曲
06 /13 2020
  子供は少なくとも学校を卒業しないかぎりは親の庇護のもとで生活することを強いられる。稼ぐ手段を持たないからで、自由もない。庇護されることはありがたいといえばありがたいが、成長するにつれて、親をはじめ周辺の大人の世界が垣間見えてくる。うつくしさもあればいかがわしさもある。未知の扉が少しずつ開かれていく。理解できることもできないことも同時にやってくる。やがてみずからも呑み込まれるであろう大人の世界が醸し出す不安と緊張。
  「真夏の犬」は中学二年生の主人公が、父がうまく経営権を手に入れた中古車の野外倉庫の見張り番をさせられるという話で、夏休み期間中の炎天下である。弁当と水筒を携えてダンプカーの影の部分をえらんで彼は時間の過ぎるのを我慢しようとするが、温度はぐんぐんあがり、ダンプカーの影も小さくなる。ダンプカーの下部に潜り込むが、野良犬が集まって来て怖くなって、彼は弁当をくれてやったり、運転席に移動したりするもののそこも灼熱地獄。父が後日野良犬撃退用のパチンコ(二股になった器具の先端部分にゴムを括り付けて小石を挟んだゴムを後ろにひっぱってその反動で標的を撃つ仕掛け)を用意してくれて、一旦は犬を撃退することができるが……。
  主人公をとりまくこの野外倉庫の描写が具体的で、手に取るようにわかる。そこが美点だ。これだけでも読んだ甲斐があるが、あとは子供から垣間見られる、あるいは一時的に誤解される大人の世界が描かれる。夜間には大学生が同じく見張り番をするが、運転席にはウィスキー便とともに扇子が出てきて、父のものではないかと主人公は疑う。化粧のにおいもほのかにする。さらに通い路でみたことのある若い女性が荷台のうえで死体となって発見される……。風景描写と「事件」とが無理なく繋がっている。
  「力道山の弟」は高架工事中の尼崎駅前でインチキ商売をする香具師の話。昭和三十三年とある。小学五年生の主人公も客の一人で、魅せられる。その頃は力道山が国民的スターとして絶頂期にあった。自称その弟は体格・顔とも見た目が力道山そっくりで、空手チョップでレンガを割ったり、五寸釘を指で曲げてみせたりする。さらに客に交じって彼とグルのサクラがいて「弟」であることを主人公や客に信用させ、「力道粉末」なる怪しげな薬を販売し、主人公も買わされる。さらに以外にも主人公はその「弟」に父の行きつけの麻雀屋で出くわす。のちにこの男が女性関係にルーズであることが判明する……。最近は滅多に見かけなくなったが、わたしも子供時代、香具師の路上販売を多くの子供とともに取り囲んだことがある。細部は忘れたが、指を何本も切断した男が、ガマの油か何かを売っていたような。昭和のなつかしい風物だ。作者宮本輝もいろんな香具師に接したのだろう。
  「五千回の生死」の主人公は大学生。父が事業に失敗し一家はすっからかんになり、彼は友人が年代物のダンヒルのガスライターを欲しがっていたことを思い出す。五万円で買い取らせてくれとせがまれその時は応じなかったが、俄然それを思い出して友人を夜中に訪ねていく。電話(公衆電話)を前もってするに越したことはないが、それをすれば片道の電車賃さえ足りなくなるという窮状だ。大阪市福島区の自宅から電車で堺市までいったものの運悪く友人は家族旅行中で、主人公は徒歩で帰宅しなければならなくなる。十キロ以上はあるだろう行程を国道二十六号線に沿って夜中じゅう歩かなければならない。憔悴と疲労のなか、自転車にのった男が乗せてやるといって声を掛けてくる……。わたしは大阪市に住んでいるから二十六号線はよく知っていて、風景が立ちどころに浮かんでくる。小説を読むうえで土地勘があるのはうれしいことだ。宮本輝の小説は関西を舞台にしたものが多く、通り過ぎた場所も多々あって、あああの辺だなと想像させる。逆に東京の地理にはまったくうとく、地名が表記されても映像が浮かばない。
  その男は変なことを言う。一日に五千回も死んだり生きたりする。今も死にたくなったり生きたくなったりと頻繁に繰り返し思うという。変質者ではないかと疑い、犯罪に巻き込まれるのではないかと怖れながらも主人公は彼の好意に甘えて自転車に乗せてもらう。「死にたくなった」と彼が言ったらあわてて飛び降りるということを何回か繰り返す。それは初めは恐怖であるがしだいに芝居じみてくる。冗談のような本気のような男の言を主人公は理解できないが、また疲労のなか理解しようとまで頭をはたらかせられないが、男のなかにぼんやりとやさしさを想像するようになる。朦朧としたなかでの規格外れにみえる男との束の間の接触。芽生えかけてくる交情。ちょっとした幽玄境にさまよいこんだようで、読者もうっとりさせられる。
  小説だからオチがついている。ここではダンヒルのライターに関してだ。だが、紹介した三篇ともオチがなくても、また忘れても主人公をとりまく風景だけでも十分に愉しめる。最初に記したことが無関係とはいわないが。

  


ドストエフスキー『地下室の手記』

小説・エッセイ・戯曲
06 /07 2020
  もし、この独白体による小説の主人公がわたしの目の前にあらわれたらどうなるだろうか。不愉快にちがいない。彼は孤独で人嫌いであるもののふと気まぐれを起こして、顔見知りに過ぎずつきあいらしいこともしたことのない人物をいきなり訪ねて行って仲良くなろうとする。寂しがり屋の虫が急に疼きだすのだ。だが彼はプライドが高く毒舌家で、彼独自の思想信条を抱いているらしいがそれを披歴することはなく、皮肉や悪口を吐いたりする。ましてへりくだったり胡麻をすることなどできず、出世にも無関心な男だ。実際にこういう場面が中程に出てくる。学生時代の同期生の呑み会に強引に参加したものの身分の高い人物を中心にした仲良し気分になじめず、メンバーからも無視され、つまはじきにされかかる。彼も立ち去りたい気持ちがつのる。だが、彼は意固地を起こして立ち去らない。四人がソファでくつろいでいるさなか、たぶん開け放しになった隣の部屋に三時間も居つづけて、暖炉とテーブルのあいだを行ったり来たりする。自身の存在を他のメンバーに押しつけつづけようとするのだ。このエネルギーの異常さ。なんてへんてこりんな、それ以上に胡散臭く、とおざけてしまいたい人物だろうか。他のメンバーが場所をうつすために売春宿に行く気持ちもわかる。だが勘定を済ますために最後に残ったメンバーに図々しくも借金を申し込むのだ。そうしてさらに彼等を追いかける。
  彼は意地をはるところが大いにあり、それはわたしなら忘れてしまったほうが無難だと思えるほどの些末な出来事にもおよぶ。ビリヤード屋の室内で大男とぶつかりそうになったとき、まるでそこに彼がいないかのように軽々とその男に押しのけられてしまった。彼は根に持って忘れることが出来ず、復讐してやりたいと望むようになって、その男の居場所をわざわざつきとめて、今度こそその男とすれちがったときには絶対に退くものかと覚悟を決め、その男の普段歩く通りで何回も「すれ違う」までにいたるのだが、復讐といっても大男に喧嘩を売るのでもなく、肩がわずかに当たった程度のすれ違いが実現してようやく留飲を下げる、つまりそんな風に執念深い反面臆病者でもあるのだ。
  小説は二部に分かれており、第一部の「地下室」では、男はすでに役所を辞めて久しく、隠遁者になってしまって年齢は四十歳だ。男は屈辱と無力にまみれているといい、多分に露悪的なポーズで思想が語られる。例えば、歯痛にも快楽があるという。唸り声をあげて、ときにはリズムや抑揚をつけて呻き声を傍にいる人に聴かせることが苦痛のなかでの快感になりかわると言ってのける。いじめたり、逆に嫌がられたりすることが好きになる。なぜか自身の矯正しがたい習性としてそうなってしまうというのだ。そして「善行」なるものに食ってかかる。啓蒙思想や社会主義とみられる思想へのはげしい憎悪と否定がここぞとばかりくりかえされ罵倒される。「人間を啓蒙してやり、本物の正常な利益に目を開かせてやれば、人間はすぐさま悪事を行うのをやめ、たちまち善良かつ上品になるはずだ。」云々という主張にたいする反駁だ。それなら人間はピアノのキーみたいに全部その「正しさ」に従属しなければならない。個性は消滅する。それが人間といえるのか。ときには人間は「正しさ」を脇目にみながらそれとは違う方向に舵を切って欲望を果そうとする存在だ。豊かで平等で理想的な社会が実現しても、それに唾を吐きかける、反旗を翻す、ときには悪事に手を染める、それらの権利は維持されなければならない、欲望と権利はどこへ向かうかはわからないが、それが留保されなければ人間ではない、それを放棄してまで「正しさ」に従属することはあってはならないというのだ。主人公は自身を虫けらやクズと言い張り自嘲し、そういう露悪的姿勢の部分には共感を持とうとは思わないが、「正しさ」への「個性」による反駁は、わたしも大いに賛同できる。だがこれだけではなく、主人公の人格の振れ幅は大きい。
  主人公はじつは愛に飢えている。他者による自身にたいする愛のみではなく普遍性を有した愛、不幸であってもそれを上回りすべての人を向上させ、救うことが可能な愛というものだ。作者ドストエフスキーは敬虔なロシア正教信者であったといわれるが、その表れだろうか。第一部ではこれは曖昧な表現のされかたであったとおもうが、第二部「ぼた雪に寄せて」で明瞭になる。主人公の若い時代がふりかえられる。
  第二部は、順としては先に記した出来事がふくまれ、ビリヤード屋で遭った大男、学生時代の同期生、さらに売春宿のリーザという若い女性である。主人公からすればより屈強そうな存在から対等にみえる存在へ、さらには優位が保てる存在へと移行していく。この段階の移行につれて主人公の言葉は比例的に多くなり、饒舌になる。この最後の出会いで、主人公は酔った勢いもあって女に、こんなところにいてはいけない、ボロボロになって捨てられる運命が待っている、ここを脱け出して結婚して家庭をもって子供を産まなければならないとながながと、読者が呆れるくらいにまさにながながと大説教をするのだ。ビートたけしが昔「ソープランドへ行って説教する親父」を揶揄してギャグにしていたが、そんな比ではない。政治的アジ演説みたいといってもよく、一方的でエンジン全開で、しかも心がこもっている。最初は同期生に逃げられた腹いせのつもりだったが、そんなことは忘れて自身でも気づかなかったくらいに熱心になり、のめりこむ。彼は赤面しながらも偉大な自己発見にぶちあたった気になって止めることができない。愛の実現に俺のような人間でも参加できるのではないかという幻想であり希望だ。 
  この長演説がリーザに感動を与える。ベッドに突っ伏して号泣しつづけたのち、晴れ晴れとした純粋な表情で主人公を見つめることになる。「崇高な感情」を目覚めさせてくれた彼はリーザにとって救世主に映るのだ。彼もまた興奮し、自身の住所を教え、訪ねてくるように要望する。実際にリーザは数日のち彼のみすぼらしい住まいを訪ねてくる。このあたりから以降がこの作品の白眉である。
  立場が逆転する。すっかり愛の使徒となったリーザにたいして主人公は先祖帰りさながら、俺は愛の崇高な感情にひざまずく類の人間じゃないと自己嫌悪に陥り、虫けらやクズに過ぎないという言い訳をこれまた号泣を交えながら長演説をするが、リーザはなじったり失望したりするどころか、その正直さに感動し精一杯の同情を寄せて抱擁する。彼もまた感動を同じくして震える。だが、この瞬間の主人公の実に残酷なこと。性的欲望をにわかに覚えてそのまま行為におよぶのだ。自己否定→愛→自己否定という主人公の精神の振れ幅がじつに凄まじく、常人の想像を超えている。彼は売春婦という身分からリーザをいったんは救い出したかったのだが、真逆にここで並の売春婦扱いにして、金を握らせてしまうのだ。リーザは立ち去る。彼が気づかないうちに強引に押しつけられた「五ルーブリ紙幣」を机において。彼はかぎりなく後悔し、何十年経っても思い出さずにはおけない。
  リーザは金を突っ返すことによって、性行為が「商売」であることを拒否した。主人公に反逆したのか、馬鹿馬鹿しくてふてくされた気になったのか、わからない。だが彼にとってはリーザのその行為が引き金となって、リーザという存在が愛の幻想をかぎりなく彼自身に奥深く投射しつづけることになる。リーザにたいするそんなにも酷いまでしなくとも、もっと穏当な会話が可能であった。結婚もできたかもしれない。
  リーザは二度と主人公の前にはあらわれない。だが立ち去られてしまったことによって、リーザは彼の中で愛の幻想を象徴する女性になり、彼を長年痛めつける存在になる。彼は愛にふさわしいかどうかは彼自身大いに悩むところだが、愛の幻想が一方的に彼を責めつづける。この自問自答は普遍性があると思えた。それにしても、主人公のこれほどの露悪趣味や自虐性と愛幻想との一つの人格のなかでの共存という事態は、他の作家の作品には見出しがたいものだろう。青春の一コマに主人公と類似する風景にわたしもぶちあたったことがたぶんあったが、掘り下げないまま、全部とはいわないが細部はかなり忘れてしまった。平穏さを本能が求めたのだろう。屈辱感にたいする異常なまでの神経過敏。今となっては縁遠くありたいが、また主人公ほどでなくても、それは後の人生にヒントを与えてくれる青春期の特権的なアンテナではないか。まだまだ書き足りない気がするがこの辺で。  




コレット『青い麦』

小説・エッセイ・戯曲
05 /30 2020
  フィリップは十六歳半で、ヴァンカはちょうど一歳下。この若い男女の恋愛模様が夏休みのブルターニュ地方を舞台に描かれる。彼等の家族が親しく、フィリップが生まれたころから毎年同じ貸別荘で過ごしたことから二人は仲良くなり、やがて相思相愛を意識するようになる。彼等の家族もそれを知っていて、将来の結婚も許容するようだ。だがほぼ近い場所にダルレーという成熟した女性が現われて、フィリップは魅了されて肉体関係を結んでしまう。ヴァンカはまもなくそれを知ってしまい、憤懣と憔悴の底に突き落とされる。二人のつきあいはなおつづくが……。
  なかなか読み進められなかった。翻訳がぎこちないところが散見されるからなのか、それだけではない。感情の起伏と心理の変遷を細やかに描き出すところがこの小説の狙いであるようだが、わたしはこの年代から随分ととおざかってしまっていて、中断して、彼等と同年齢の自身を思い出す作業にふりむけさせられたのだし、またわたしには彼等に相当するほどの恋愛経験もなく、手が届かない部分が大いにあった。細やかさが頭に届いたと思うと、砂が指の間からこぼれるように忘れてしまう。それに感情と心理の描写に必ずといっていいほど伴う風景描写がわずらわしいのだ。天候とその変化に応じるような海の表情の変化、砂浜や岩、生息する小さな魚介類、別荘の敷地に植えられた花々、野生の草花等。二人の内面の説明とそれにさらに加えて象徴させる意図が作者にあるようだが、もっと省いてもさしつかえないのではないか。だから、作品に密着できなかった者の感想文になる。  
  十代なかばの二人の恋愛はほぼ完璧に仕上がっていて、二人もそれを明瞭に意識する。だが結婚にはまだ早く、とくにフィリップには「バカロレア」(大学入学資格試験)が当面待ちかまえていて、それだけではなく、就職その他、大人になるための関門をいくつも越えなければならないのだ。それに十五、六歳の今が絶頂なら、やがて恋愛感情は少しずつ衰退するのではないかという不安も頭を擡げてくる。ヴァンカが死にたいとフィリップに思わず漏らすのは、本気ではないにしろ、こういう杞憂のせいだろうか。
  フィリップがダルレーに惹かれるのは性的本能が根底にあるからと思われるが、本人にはそうした意識はない。またヴァンカとの関係の重苦しさから逃れたい、充実はしているものの狭く、他の世界ものぞいてみたいという欲求にもつき動かされるのではないか。ダルレーの外観の妖艶さに圧倒されることが予期以上で、なかばわけのわからないまま誘われるままに肉体的快楽を経験させられる。だがその快楽はダルレーへの愛には結びつかない。ヴァンカとの付き合いをつづけたい気持ちには変化はないうえ、ダルレーは快楽を与えてくれるものの、またダルレーへの執着は募るばかりだが、人格としてのダルレーという女性は「謎」だ。謎のままでよく、興味があっても感傷的なものだ。快楽そのものとその神秘性への執着は根強いが、それは自分自身へのたまたま押し広げられた世界への興味であり、それを与えてくれた女性を「愛」によってどうこうしようという意図とは別物だ。成熟した女性との愛は、ヴァンカとの愛よりも途方もなくとおいものだ。性的快楽は神秘であるもののダルレーとをつなぐ部分的パイプでしかなく、この「部分」にのみフィ、リップは執着し、圧倒されるということだ。
  ダルレーは数回のフィリップとの交渉をかさねたのち別荘地を去る。フィリップはダルレーとの仲を清算しなければならないと考えていたので呑み込むしかないが、やはり追憶は断ちがたい。ヴァンカとのつきあいもつづけたいが、それはヴァンカの気持ちしだいであることもフィリップは承知している。それにフィリップは不安定な気持ちをヴァンカに和らげてもらいたいという欲求も自然にある。これはにわかに恋人になった男女の間では図々しいことはなはだしい欲求になるが、子供のころからの友達意識が、励ましあい慰めあってここまできたという土台があって、無意識にそうさせるのだろう。ヴァンカは勿論それをなじるのだが。
  二人の恋愛は成就される。ヴァンカがフィリップを放したくないという強い意志があったからで、フィリップは救われる。だがフィリップはヴァンカを愛するものの、一方では性的本能に囚われてダルレーを忘れることができない。人にとって禁欲的志向を完璧に成就することは困難で、作者コレットもそれを認めている。ヴァンカにとっては「純愛」だが、フィリップにとってはそうではない。だが、だからこそというか、フィリップはヴァンカへの愛をよりいっそう深く刻み込むために「堕ちてしまおう」と念じてセックスを成し遂げる。

ヘミングウェイ『老人と海』

小説・エッセイ・戯曲
05 /23 2020
  二度、三度と読んで爽快な読後感をえられた。
  自由とは何か。やりたいことを精一杯やりつづけることだろうか。勿論、自然や社会やらの環境の制約があり、人の体力にも限界があり、また生活を維持しなければならないので時間は無際限ではないが、そういう限界のなかでも機会にめぐまれればとことんやれるものかもしれない。また、やりたいことがあるからには、人であれ社会であれこの小説のように生き物であれ相手がかならず存在し、その相手と争闘しなければ、言いかえれば対話しなければならない、しかも後退しても余裕といえるものを心身にわずかに残しつつ。そこにはまた相手にたいする澄みきった愛情があるのではないか。そういった自由の空気をいっぱい吸い込んだ気になった。
  老漁師サンチャゴは八十五日間不漁つづきだが、また小舟を漕ぎだす。そこには執念や頑なさがあるのだろうが、それを露骨に感じさせない余裕や微笑が感じられる。何十年と海を相手にしてきて体力は峠を越えて久しいようだが、まだまだ余力がある。若いときには腕相撲の「選手」だったこともあり、また当然、漁師として大魚を釣ったこともある。作者ヘミングウェイは海や釣りが好きで、その知識と経験さらにはその愛情は堂に入ったもので、卓抜な描写力はサンチャゴとともに小舟に同乗している気にさせる。日がのぼり日が沈み、さまざまに表情を変える海の広大さのなかで鳥が舞い近づいてくる。飛魚が舞う。海面近くのクラゲの群れのうつくしさ。サンチャゴの(ヘミングウェイの)海への豊富な知識と経験がそのまま映像となって読者に開かれる。そしてついに嘗て釣ったことのない大魚が釣り縄に食いつく。あまり引きを強くすると大魚は体力に物を言わせて切ってしまうので大魚の衰えと海面への浮上を待って、縄を継いで伸ばし伸ばし、ときには引いて、何処までも大魚についていかなければならない。夜明け前に出港し二晩をやりすごして、大魚の不意の暴れに負傷させられたりしつつ、さんざんの格闘のすえやっとの思いで捕獲に成功し、殺して小舟の横腹に縄でつなぎ止め、さあと帰港をめざす。だが苦闘はこれで終わらず、体力の限界を超えるともいうべき第二の苦闘が待ちかまえている。
  海はサンチャゴにとって恵みをもたらす「女性」であり争闘一辺倒で獲物を捕獲するだけの相手としての「男性」ではない。その感性のほかの漁師とのちがいを彼は誇らしげに自覚する。捕獲した大魚もまた親しみある仲間であり、まるで相手が人で理解力があるかのように独り言ながら会話をつづける。会話は繰り返され、執拗だがくどさは感じられず、そのまま彼が海で過ごす習慣化された時間であるかのようで、これがまた彼に新たなエネルギーをもたらす。だからこそまた彼は大魚を「守る」ことに渾身の力を奮う。ときには気を失いそうになりながらの格闘で、まさに持てる力以上を吐き出すさまは、さもありなんと読者を無理なく思わせ、応援させる。「守る」ためには相手を殺さなければならない。そのありったけの憎しみに没入させられる
  書き遅れたが、彼が海の上でたびたび夢で見るライオン。彼をゆったりといい気分にさせる。
  職業における経験と熟練は大事だ。それがわたしたちを生かせてくれるが、それにもまして、サンチャゴは海への愛情を自覚することで彼自身を無自覚に幸福にする。彼には知識がないが、また人付き合いも上手ではないかもしれないが、それが何だろう。わたしにはこれほどの職業への愛情はなかった。サンチャゴを尊敬してやまない少年が始めと終わりに出てくる。彼が漁村で一目置かれていることを象徴する。

seha

FC2ブログへようこそ!