夜の雨
06/28/2009 (Sun)
刷毛
たっぷりふくませた卵白と塗料から
濃霧は生れる
その甘さの直方体
針の光
火吹き竹を水平にかざし
白い咳が
聴こえる闇に向かって
わたしは何を告げればよいのか
示し合わせた言語は
蝶の巻き髭
蝋燭の焔のようにか細い
すでに消えてしまった?
板の一枚欠けた桶
側溝に棄てられている
カラコロ
旗
迷子がさまよい出てくるかもしれない
頭髪のような房だけのモッブ
やがて雨
雨の中の女の顔の
猫に
擦れちがう
たっぷりふくませた卵白と塗料から
濃霧は生れる
その甘さの直方体
針の光
火吹き竹を水平にかざし
白い咳が
聴こえる闇に向かって
わたしは何を告げればよいのか
示し合わせた言語は
蝶の巻き髭
蝋燭の焔のようにか細い
すでに消えてしまった?
板の一枚欠けた桶
側溝に棄てられている
カラコロ
旗
迷子がさまよい出てくるかもしれない
頭髪のような房だけのモッブ
やがて雨
雨の中の女の顔の
猫に
擦れちがう
愛を読む人
06/24/2009 (Wed)
転変する人生を歩んできて、五十歳をすぎてようやく大きな結着をつけることができた男がいる。愛や縁と呼ばれるものに対して、人生の目的や意義に対して。だが結着をつけたのは男自身ではなく、彼ともっとも関係の深かった女性である。達成感というにはあまりにも苦く、荒漠としている。
マイケル(若い時代はデヴィッド・クロス、壮年時代はレイフ・ファインズ)は十五歳の時ハンナ(ケイト・ウィンスレット)という年上の女性と知り合い、短い間だったが肉体関係を持った。一緒に旅行にも行った。ハンナは忽然と姿を消すが、これだけなら、マイケルにとってみれば青春時代の甘美な性の思い出となったかもしれない。しかしマイケルは法科の学生となったとき、法廷でハンナと再会するのだ。彼女は戦争中ユダヤ人収容所の看守だった。ナチの戦争犯罪者として裁かれるというわけだ。彼女は懲役二〇年以上の刑を受けて刑務所の人となるが、ここから二人の交流が再開されることになる。
マイケルのなかでハンナへの執着がよみがえる。ハンナにとってはマイケルは一時の遊びの相手だったようである。また文盲でありながら読書欲が人一倍旺盛でマイケルにたくさんの本を読ませた。つまりマイケルを利用したともいえる。また犯罪者に入れあげてどうなるものか、それよりも日の当たるところを歩まなければならない。理性はそういう声を当然マイケルに言い聞かせるだろう。だがわかっていても感覚はごまかしようがない。結婚しても長つづきせず、子供を一人つくって離婚してしまう。そうかといってマイケルのハンナへの思いは一直線ではない。せっかくの面会の機会をあたえられてもどたんばになって拒絶する。
過去が過去そのままではなく困難さをともなって出現してくる。過去への執着は同時に現在のハンナの戦争犯罪者という烙印にも向き合うことでなければならない。マイケルは弁護士となっている身だ。ナチスの残党狩りが盛んでその「巨悪」が追及された時代だ。そういう社会的風潮もある。また、愛しているかどうか自信が持てない。ここまで執着させてしまったハンナへの怨みの感情もあるだろう。マイケルは面会しないまま本を朗読したテープを山のようにハンナに送りつけるのだ。とりつかれたように、また憎々しげにマイク片手に朗読するレイフ・ファインズは何を思うのか。そこへハンナから覚えたてのたどたどしい文字で短い手紙が来る。文面は忘れたが、あばずれ女のような調子で末尾に「坊や」と記されてあった。ハンナは故意にマイケルを突き放すつもりなのか。
身近な他人というものがある。彼女を評価する、どう思うかというのは自分で下さねばならない、自分の感覚にもとづかなければならない。いいかえれば彼女に対する評価や感情が他人と食い違っても、自分のそれを優先すべきではないか。すくなくともそこに親密さの感覚と記憶は残しておくべきだろう。収容所で生き残った女性はハンナを許しはしない。仕方ないだろう。だがそれはそれとしてマイケルはハンナを背負い込むまでに接近するのだ。人生のほとんどを使い果たしたうえの、たいへん長い長い道のりでの結論だ。
前半部のマイケルがハンナと会って帰宅が遅くなった日の家族そろっての食事。ナイフ、フォークと食器がかち合う音が耳障りだ。これはマイケルの、すでに家族に見透かされているのではないかという不安をうまく拾いあげていた。後半部は二人の関係がどう結着するのかという興味でぐいぐいひっぱられる。ただもっぱらマイケルからの視線で描いたので、ハンナの心理がいまひとつわかりづらいのではないかと思う。とくに裁判の場面、かつての収容所の同僚の女性たちに罪を押し付けられてハンナがいちばんの重刑に処せられるのだが、熱意のこもった反論が彼女から聞かれなかったところは腑に落ちない。自分から身を引くことを何回もするハンナであるが。
マイケル(若い時代はデヴィッド・クロス、壮年時代はレイフ・ファインズ)は十五歳の時ハンナ(ケイト・ウィンスレット)という年上の女性と知り合い、短い間だったが肉体関係を持った。一緒に旅行にも行った。ハンナは忽然と姿を消すが、これだけなら、マイケルにとってみれば青春時代の甘美な性の思い出となったかもしれない。しかしマイケルは法科の学生となったとき、法廷でハンナと再会するのだ。彼女は戦争中ユダヤ人収容所の看守だった。ナチの戦争犯罪者として裁かれるというわけだ。彼女は懲役二〇年以上の刑を受けて刑務所の人となるが、ここから二人の交流が再開されることになる。
マイケルのなかでハンナへの執着がよみがえる。ハンナにとってはマイケルは一時の遊びの相手だったようである。また文盲でありながら読書欲が人一倍旺盛でマイケルにたくさんの本を読ませた。つまりマイケルを利用したともいえる。また犯罪者に入れあげてどうなるものか、それよりも日の当たるところを歩まなければならない。理性はそういう声を当然マイケルに言い聞かせるだろう。だがわかっていても感覚はごまかしようがない。結婚しても長つづきせず、子供を一人つくって離婚してしまう。そうかといってマイケルのハンナへの思いは一直線ではない。せっかくの面会の機会をあたえられてもどたんばになって拒絶する。
過去が過去そのままではなく困難さをともなって出現してくる。過去への執着は同時に現在のハンナの戦争犯罪者という烙印にも向き合うことでなければならない。マイケルは弁護士となっている身だ。ナチスの残党狩りが盛んでその「巨悪」が追及された時代だ。そういう社会的風潮もある。また、愛しているかどうか自信が持てない。ここまで執着させてしまったハンナへの怨みの感情もあるだろう。マイケルは面会しないまま本を朗読したテープを山のようにハンナに送りつけるのだ。とりつかれたように、また憎々しげにマイク片手に朗読するレイフ・ファインズは何を思うのか。そこへハンナから覚えたてのたどたどしい文字で短い手紙が来る。文面は忘れたが、あばずれ女のような調子で末尾に「坊や」と記されてあった。ハンナは故意にマイケルを突き放すつもりなのか。
身近な他人というものがある。彼女を評価する、どう思うかというのは自分で下さねばならない、自分の感覚にもとづかなければならない。いいかえれば彼女に対する評価や感情が他人と食い違っても、自分のそれを優先すべきではないか。すくなくともそこに親密さの感覚と記憶は残しておくべきだろう。収容所で生き残った女性はハンナを許しはしない。仕方ないだろう。だがそれはそれとしてマイケルはハンナを背負い込むまでに接近するのだ。人生のほとんどを使い果たしたうえの、たいへん長い長い道のりでの結論だ。
前半部のマイケルがハンナと会って帰宅が遅くなった日の家族そろっての食事。ナイフ、フォークと食器がかち合う音が耳障りだ。これはマイケルの、すでに家族に見透かされているのではないかという不安をうまく拾いあげていた。後半部は二人の関係がどう結着するのかという興味でぐいぐいひっぱられる。ただもっぱらマイケルからの視線で描いたので、ハンナの心理がいまひとつわかりづらいのではないかと思う。とくに裁判の場面、かつての収容所の同僚の女性たちに罪を押し付けられてハンナがいちばんの重刑に処せられるのだが、熱意のこもった反論が彼女から聞かれなかったところは腑に落ちない。自分から身を引くことを何回もするハンナであるが。
武田泰淳「ひかりごけ」
06/21/2009 (Sun)
![]() | ひかりごけ (新潮文庫) (1992/04) 武田 泰淳 商品詳細を見る |
一部の評者から戦後文学の傑作として支持される作品であるが、私が読んだところではそうでもない。問題提起の鋭さは感じられるものの結局は難解に終わっていると受け止めざるをえなかった。主題は人肉食で、そういう野蛮な行為に手を染めてしまったものは大罪に陥る、だが同時にそれは神仏の聖性に近づくことである、その光輝のなかにつつまれることである、というのが作者のいわんとするところらしい。私にはこの主張の是非を論じることができない。問題が大きすぎるから、また私の現在にとって切実さが即時的に感得できないからだ。仏教やキリスト教において、罪人ほど(病者、貧者もそこに入るようだ)神に近い存在だという教義があることは少しは知っているが、その教えをひけらかすだけでなく、身をもって訴えかける切実さがこの短編からは感じられない。武田泰淳という作家独特のそらとぼけた空気があって、ここではマイナスにはたらいている。膜がはさまっている気がする。
実際にあった事件に題材を借りている。戦争末期の昭和十九年十二月に軍属『暁部隊』という船団が知床岬経由で小樽をめざして根室港を出航したが、そのうちの一隻の漁船が知床付近で難破した。七名の乗組員は全員陸地にたどり着き無人の漁師小屋に避難することができたが、食糧はなくつぎつぎに餓死していった。その死体を生き残った船員が切り刻んで食べて余命をつないだ。食糧の「死体」が尽きると飢え死にする者が出る、するとまたそれを食糧にするという方式がつづき、最後には船長一人が残って、救助を求めてさまよっているところを地元村民に発見された。そういう話だ。この事件を下敷きにして作者は書き物をものにすべく、事件現場である羅臼へはるばるおもむいて調査する、それが前半部にあたり、後半は事件をやや作り変えた戯曲になる。前半のハイライトは「マッカウシ洞窟」という場所で、名物の「ひかりごけ」を見物するところだろうか。そこは奥深い洞窟というよりも海に面した岩の窪みに近い形状で、地面と岩のいたるところに苔が生えているが、別にめずらしくもない。ところがそこをさまよっているうちに光の反射の具合で苔のある一部が淡い金緑色に光りだす、歩いて位置を変えるとその光は消失し、かわって別のカ所の苔が同じように淡く光る。作者はこの「ひかりごけ」を戯曲において罪人の背光として象徴的に転用するのだ。罪を犯した自身では見えないが、いまだ罪を犯してはいない周りの人からは淡くかがやく背光としてありありと見えるという風に。
戯曲の登場人物は四人で、船長と三人の船員西川、八蔵、五助である。五助、八蔵の順番で飢え死にしていく。八蔵は五助の肉を食わなかったために死期を早めた。西川は食人を強硬にこばんだが船長の説得に負けて食べてしまう。そののち八蔵の目から西川のうしろに淡い光が生じて映る。西川が人の死肉を食らった直後からその行いゆえに罪人となり、罪人であるが故の光輝をまとう。神仏の栄光としてわかりやすく、だが淡く知らしめるためだ。またその「ひかりごけ」の光を無理なく自然化するために戯曲の舞台は漁民の小屋ではなく「マッカウス洞窟」になっている。
船長は極悪人としか思えない。飢え死にするよりも天皇陛下のため国のために死んで奉公すべきではないかと西川を説得する。議論が長くなることは控えたいが、私は生き延びるために人の死肉を食べることはそれほどの罪悪であるとは思えない。だからいろいろと口実を作って人肉を食べさせて船員を生きさせようとする船長の言動はことさら異論をはさみたくはない。それよりも、西川が船長に殺害されることをおそれて逃亡しようとしたところを船長に殺害されることのほうがよほど重要だと考える。海に飛びこんで自殺するよりは船長自身が西川を胃袋におさめたほうがよほど合理的だと船長は見なしたのだろうが、エゴそのものである。作者が書いているように人の死肉を食うよりも、食うために殺すのだからはるかに重罪だ。西川にしてみても船長を殺して食べるということは頭によぎったのであろうが、それはやらずに逃亡をえらんだ。作者はそういう西川や、五助を食わずに死んだ八蔵に同情を寄せながらも、書く中心はやはり船長だ。第二幕の裁判では、裁判長や検事にはげしく糾弾させながらも、船長に茫洋とした、また堂々とした態度をとらせている。彼は罪をあっさりと認めながらも涙を流しての謝罪などしない。船長はただ「我慢している」と繰りかえすのみだ。作者はもっと船長に語らせるべきだと思う。
みずからが生きるために人を殺す、そしてその人の肉体を食べる、そういうことが私たちに万万が一ないとはいえない。それを体験したとしてそののちに自身にではなく、非体験者に示されるのが極悪人=聖人説であり、またそれを拡張したところの全人類=聖人説だ。それをひかりごけの淡いかすかな光で人々に認知させようとするのだ。だがこれは人間が考え出した宗教思想だ。自然の風景が神々しく見えることはあるだろう。また何らかの生理的快感が宗教的感覚につながるものを招き寄せることもあるだろう。だが罪人(非罪人もふくむ)に自然のような背光がみえて、いきなり「思想」を暗示するということが、私にはわかりづらいのだ。思想との距離の変化、つまりはそこに近づいたりとおざかったりすることだが、それをすることによって思想はさまざまな表情を見せるにちがいない。思想と個人との固有の関係のありようによってこそ思想は生き生きと語られるのではないか。体験が何らかの思想につながることはあるが、それがすべてひとつの固定的な思想に収斂されるとは考えたくない。武田は自信家かもしれないが省略的過ぎる。いきなりのように自然=光を借りて思想が提示されるから、引いてしまうのだ。




