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大洋ボート

 本と映画の感想文。詩作も。

閉じ込められた部屋2

  群れのなかでおとなしくしていればよかった。群れの色に白く染まり、冗談や駄法螺を食い散らしていればよかったのに、そろそろ飽きてきたこともあって、運悪くおれは前面に出てしまった。親しくなりつつあった人々がそれまでにはない興味の視線を送ってきた。おれは怯んだ。血のかすかな予感にも脅えた。おれの何処にそれほどのものが貯蔵されていたのか、おれ自身が驚くほどの激情が咽喉元にせりあがり沸騰しかけたが、うろたえて逃亡した。他人事のようにとぼけた。だが激情を全的に否定したのではなかった。
  以前からあった意思には、内容的に急速に興味をそそられなくなったが、土台となる発奮力は余力の形として身体内に残存していた。愚かしくもそれが可愛らしくみえたので、唯一のおれ自身として映ったので、それを生かす場所を空想としておれの片隅に設けようとした。余力を自然消滅させたり生まれ換わらせるためには、別のあらたな目的なり行為なりを発見し没頭しなければならなかったが、そのことにまったく無頓着であった。おれは依怙地であり阿呆だった。おれもまたその場所に居たであろう横断的広がりに無関心であったから、それが見つけられなかったのでもある。余力を無修正にしたまま空想の片隅に解きはなちミミズのように泳がせること、その尻尾が垂れるであろう糞や屁の微細に拘ること、後ろめたさとともにその営為がおれ自身の生の継続であり証明であるかもしれないとの可能性にしがみつき、秘密裡に自画自賛するしかなかった。脱力感と汚辱感の分厚い甲羅に石を投げ落としさらにおれに力を補填するためには、おれには当面はその営為以外に選びようが無かった。おれはそれを他人眼から隠し、何食わぬ顔をして誇らしげに生きようとした。

  記憶は保存されなければならなかったが、実際の局所においては不分明な個所がほとんどであり、推測によって埋められなければならなかった。怯んだことによって行為が中断されたとの仮定を肯うならば、行為の継続線上に見えたであろう風景と感覚もまた想像されなければならなかった。だがそれらの営為には、おれが云うところの空想や捏造と、おれの自由の標榜によってごちゃ混ぜになる危険も孕んでいた。おれはその危険に踏み込んだ。というのも、どうでもよかったのだ。秘密裡の個人的営為に賭けて、安全は約束されていたのだから……。血のかすかな予感も、親しくなりかかった人も、それらにたいする怯みも実際であったが、不明瞭な記憶もふくめて、おれはそれらを神棚から引きずり降ろした。おれは阿呆であり無力であったので、怠慢と不遜によっておれの当面の空想の自由を保障するしかなかった。おれは堕落した。
  おれは空想の小さな浮遊体に乗って中断されたであろう過去に、現在として手に負えないように蒼黒くも醜悪にぶらさがる過去に出発し、引っ掻き回そうとする意志を持つ「もうひとりのおれ」に発破をかけた。これは空想だ空想だ!!と云いつのり断りをつけてから、おれは堰きとめていた血をどっと溢れさせたのか。親しくなりつつあった人を言いがかりをつけて何人も殺したのか。そうであるとしたならば「もうひとりのおれ」は堕落したにちがいない。どちらにしても、強がった濡れた笑いを浮かべた。「もうひとりのおれ」にたいして批判的たるべき手前にいるおれも、当然のように虚偽と悪徳に塗れたにちがいない。ただし、空に描いた落書きのようにも感じられる滑稽さと間抜けさをぬけぬけと告白せざるをえないが、実感といえるほどのものはきわめて希薄だった。おれは本気ではなかった、本気になれなかった。つまりは何もしなかった、できなかったのだ。こんなことして何になるんだろうという思いが、おれの腹の底に執念深くずっと眠りつづけていた。引っくり返った真面目さというべきか。誰にも知られない個人的な時間のなかで暫く停徊したに過ぎなかった。
  過去の映像は少しは鮮明になったのかもしれないが、不鮮明な個所はより不鮮明さを際立たせた。

  糾弾する声は地下室には聴こえてこなかったので、時間は止まった。おれは傲慢だったのか優柔不断だったのか。鋼鉄の直方体のような無音の部屋の退屈さ。罪も罰も実感しえないおれの罪と罰。実感を切実にするためにはおれは「もうひとりのおれ」にさらに発破をかけなければならなかったが、堂々巡りが見え見えで、本気をさらに重ねられなかった。血は退いて行った。塗料と同質になり色もしだいに褪せた。おれ自身の痕跡と認めざるをえない汗や体臭や精液だけが残り、壁や床から塗りたくられたように匂いを突いてきた。おれはぼんやりしつづけた。

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閉じ込められた部屋1

  どうして同じ部屋ばかりに閉じ込められるんだろう。おれ以外にはだれもいないことは当然かもしれないが、またこれ以上探索しても無駄であるとの諦めも自分自身ではっきり断定し納得したわけでもないのに、その結論にごく自然に落ち着いてしまうところがおれにはあって。おれは論理的ではない、感覚的人間だ。同じことを繰りかえすのは、半分以上飽きてしまっているものの中途でその方法を変えることを知らないからで、最初の出発点にもどることをも潔しとしないのか、それとも身に付いた怠慢からか、一つであるかもしれない方法への未練と執着からくるのか、とにもかくにも御破算にして最初の出発点にもどることをあえてしない。同じやりかたによっても何か別の結論や境地がおれにもしかしたら訪れるかもしれないという僥倖を期待するからで、しかもその僥倖であるかもしれないと期待する一息ついた後の結果の内実、舌の上に乗せた種の甘味苦味を感受し測定するのもおれの感覚でしかなく、しかもそれが決まりきって大して変わり映えしない味覚をおれに押し付けてくる。
  おれの部屋にはおれしかいないから、当然おれの汗とわずかな血とおれの体臭が壁や床に染み込んでいる。おれはおれが嫌いだから、何かを為しておれから離脱しようとしたのだが、こういう境地に安住しないまでも、おれの記憶のなかにだけにはこの部屋の実在を認めざるをえないだろう。おれはおれ自身を何も変えることができなかった。無駄とはうすうす直観しつつも、同じことを繰りかえす愚を自覚しつつも、同じ極少の言葉による空想の浮遊体に搭乗することに甘んじてしまった。その少しは堆積したであろう疲労と消耗と馬鹿さ加減もまた、おれの記憶にいっそう後退したおれの自画像として刻みこまれるであろう。
    21:15 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

菊池寛「蘭学事始」「入れ札」

  組織のなかならば同僚、組織の外にまたがるならば仕事仲間といえる人がいて、毎日のように顔をあわせる存在である。彼等と比較して自分がどれほどの能力を持ち合わせているか、また彼等に自分がどう思われているか、評価されているか、気になるところである。また、自分が彼等の一人一人をどんな風にみているか、も意識するところだろう。意識しようとしまいと組織と仕事の流れには乗っていかなければならない。うまくしないととり残される恐れがあり、つまりは将来の出世にもかかわる問題であるが、そんな広い範囲に思考を広げなくても、もっと手前にも問題がある。他人との日常的な付き合いだ。優秀であるもののなんとなく打ち解けられそうにない人が傍に居ると、居心地の悪さを感じざるをえない。意識からふりはらおうとしても纏わりついてくる。みみっちいことかもしれないが、本人にとってはおろそかにはできず、延いては出世にも関わってくる。
  「蘭学事始」の蘭方医・杉田玄白にとっての蘭学者・前野良沢がそういう存在である。その碩学は評判で、玄白も認めるところであったが、いつも冷然として威圧感がある。加比丹(カピタン=オランダ商館長)の江戸逗留中の旅籠に医者をはじめ、オランダの学問や風物に興味のある者があつまってくるさいにも、良沢だけは一同が冗談でにぎやかになって打ち解けあうときでも、輪に加わろうとはせず、微笑を浮かべるのみである。玄白は良沢に、ライバル意識というよりも引け目を先に感じてしまい、学問上の疑問を通訳に気軽にすることすら、良沢はとっくに知っているのかもしれないと思うと、硬くなって言い出せないということもある。だがそういう自分を一方で、玄白は恥じてもいて、二つの感情の整理ができない状態だ。玄白は妥協的で、権威主義的にみえる。別のとき、通訳にオランダ語の翻訳は可能かと尋ねると、通訳は不可能と答える。通訳は幼少時から五十歳になるまでオランダ語を学んだので、その答えには玄白は納得してしまうが、同席していた良沢は肯んじない。漢語漢籍も先祖の刻苦によって少しずつ翻訳され積み上げられて理解のもとになり、われらは余沢に潤うている。オランダ語もその例外ではなく、長い時間をかければ翻訳は可能だと正論をぶつ。玄白は良沢の「雄渾な志」に感動し、恥ずかしい思いをしたものの、同時に「挨拶旁々(かたがた)」云ったことに「真剣に向ってきた」良沢に不快を感ぜずにはいられなかった。良沢は弛緩の時間をもたない人であろう。
    玄白は蘭書「ターヘルアナトミア」を購入する。人体内部の内臓や骨格を精緻に描いた図説で、たいへん高額なため、藩の家老に懇願して借金してまでのことだった。本を開いて、それまでの漢籍による曖昧な知識や推測では到底およばなかった人体の実相がダイレクトに描かれていることに玄白は感動し、喜ぶ。それは神秘的でさえある。だがそれは玄白の向学心が基盤にあるものの、良沢を出し抜いてやろうとする下心がないのでもなかった。彼がその本を所持していないならばだ。
  まもなく腑分けの知らせがもたらされる。死刑にされた人が玄白はじめ医師たちへの知識に資するため、目の当たりで解剖を施されるのだ。以前からの医師連の要請があったのだろうが、内臓の見取り図をまったくしらない医師というありようも、今日の感覚からすると奇異なのだが。無論、玄白らの喜びと興奮は、永年の壁がとりはらわれるので、尋常ならざるものがあった。ただ、知らせがあった現場には良沢は居あわせなかった。腑分けは明日であり初更(午後7時~9時頃)を過ぎている。知らせの手紙を出すか出すまいか、またその便はあるか。少しの議論ののち手紙は出されるが、ここでも玄白は良沢を出し抜きたい気持ちが湧き上がらなくはなかったのだが、玄白は悪人ではないことがここで明らかになる。彼は良沢を尊敬してもいて、その自身の気持にしたがわざるをえない。手紙はとどき、良沢は腑分けの現場の刑場に駆けつけてくる。「ターヘルアナトミア」を携行しながら。
  腑分けに立ち会っての滅多にない感動は医師連に共通のもので、以後の「ターヘルアナトミア」の共同による翻訳作業でも彼等の一心同体と挫けぬ意欲がつづく。玄白の良沢にたいする複雑な思いも消え去ったかにみえる。だが今度は学問にたいする両者の姿勢のちがいが鮮明になる。翻訳が不完全でも上梓すべきとする玄白と、あくまで完璧を期する良沢との対立だ。ここへきて、玄白は良沢への引け目やときとしてあった憎しみの感情はほとんど拭い去られている。後進に資すべきとする上梓の方針に、玄白なりに自信を抱いたとわたしはみる。
  「入れ札」は侠客国定忠治の逃亡劇の一場面が描かれる。代官を斬殺した忠治は乾児(こぶん)とともにさらに関所を破り、信州の知り合いの侠客のもとに身を寄せようとしていた。五十人ほどいた乾児もそのときは十一人に減っている。追っ手に捕縛されたり逃亡したりの結果だった。だが十一人でも逃亡をつづけるには人目について多すぎる。といって身一つで知り合いに転がり込むのは<沽券にかかわる>ので、二,三人は連れて行きたい。その人選の腹積もりも忠治にはあるが、命がけでついて来てくれた乾児に感謝こそすれ、好悪や優劣をつけて選別することに踏み切れない。残った乾児全員が親分忠治に同行したいと希望している。忠治はやむなく、全員に残り金を分けての解散を提案するが、乾児たちは納得せず、議論が湧き上がる。はじめは籤引きによる同行者三人の人選がもちあがるが、反対意見がつよく、「入れ札」(乾児による互選)によって決めることになる。乾児の一人一人ははたして自分が選ばれるのか、自信と不安に見舞われるのだろう。以後は忠治から乾児の最年輩の九郎助に視点が移される。
  九郎助は近年働きが鈍くなり、後輩に追い越されたことを自覚していた。<阿兄(あにい)!阿兄!>と立てられても表面的なもので人望が落ちたこと、親分にも軽んじられてきたことをひしひしと感じていた。だがどうしても親分に付いていきたい気持ちは抑えられず、禁じ手を使うことになる。自分の名前を書くのだ。もう一人、九郎助の名前を書いてくれれば二票となり、選に潜り込める可能性がひらける。だが開けてみた結果は九郎助には自分の一票しかなく、選ばれた三人は忠治からも乾児連中からも信頼が厚く、順当だった。さらにおまけがある。仲間の弥助という人が事後、九郎助と同行したさい「お前の名を書いた」と慰めるように語るので、九郎助は憤慨することやりきれないが、自分の卑怯さもあらためて責めさせられる……。
  組織の中で自分がどう思われているか、それほどの評価はされていないのかもしれない。だが結果が明らかになるまでは諦めたくはない、何としてでも這い上がりたいという九郎助の野望である。切羽つまれば、こういうことをやってしまいかねないのが人だと菊池寛は言いたげだ。しかし落ち着くところに落ち着くのだ。それでいいではないかと、わたしは思う。九郎助は入れ札の大きな山を越えて寂しさに暫し浸されたようだが、そこに解放感も自然に付いてくるのではないか。前半は複数の人のなかにある単独の人の秘密めいた心理劇、後半は転換点たる出来事をともに通過しての後のその心理の変化と解放感。そうした過程を巧みに描いた二篇である。

    15:58 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

菊池寛「藤十郎の恋」「ある恋の話」

  恋愛ともいえない恋愛、恋愛感情の形成やあるいはその持続のみを目的として相手に接するが、それ以上には意図的に進展させない、つまり、性交や同居、結婚などには至らない、そういう特異な男女の恋愛関係が描かれるのが「藤十郎の恋」「ある恋の話」の二篇。恋愛だから対の二人は同時的にその感情を上昇させるものの、二人のうちの一人はその感情の完成だけに満足してしまい、そこに留まる。拒絶するのに等しい。相手にたいしては冷酷このうえない仕打ちで、相手はせっかく燃え上がらせた感情の行き場をうしない、悲嘆に暮れる。
  「藤十郎の恋」は元禄時代を代表する上方の歌舞伎役者といわれる坂田藤十郎(1647~1709年〔正保四~宝永六〕)に題材をとっている。京都や大阪で第一人者としての人気を保っていた藤十郎だが、江戸からやってきた中村七三郎の舞台が好評で、その地位を脅かされる。かねがね自分の芝居に飽き足らなさを抱いていた藤十郎でもあったので、新しい演目を近松門左衛門に依頼する。だが出来上がった本は不義密通を主題とするもので、藤十郎は密夫(みそかお=間男)を演じなければならず、それまで演じたことのない役柄であった。女性を相手にした芝居は「傾城(けいせい)買」と呼ばれる遊女が登場するものが主で、「密夫」のヒントにはなりえない。また藤十郎は女性関係は豊富であったが、不義密通の体験はなく、むしろその品行を自慢のたねにするくらいであった。屈託に沈む藤十郎であったが、不意にその演技開眼の機会に逢着する。 
  宗清(むねせい)という茶屋で舞台の一座で宴会を開いていたときのこと。呑み疲れた藤十郎は宗清の広い敷地のなか離れ座敷にたどりつき休息しようとする。そこへ宗清の主人の女房であるお梶が偶然に入ってくる。お梶は十代の独身の頃「歌妓(うたいめ)」で、評判の美人で、芸能仲間の藤十郎とも交流があり、茶屋の女将であるため今もそれはつづいている。また容色の衰えもない。愛想よく二言三言声を掛け、藤十郎に夜着をかけて立ち去ろうとするお梶を藤十郎は呼び止める。密夫の演技プランに悩んでいた彼にとってお梶の「人妻」というそれまで抑制していた類いの女性が、たいへんな魅力をともなってみえてきて藤十郎に迫ってくる。彼はにわかに恋心を抱こうとするのか。だがここで藤十郎にさらに転換が起る。密夫の芝居をお梶に向って本気でなすのだ。 

その刹那である。藤十郎の心にある悪魔的な思付きがムラムラと湧いてきた。それは恋ではなかった。それは烈しい慾情ではなかった。それは、恐ろしいほど冷たい理性の思付きであった。恋の場合にはかなり臆病であった藤十郎は、あたかも別人のように、先刻の興奮は、丸きり嘘であったかのように、冷静に、
「お梶どの、ちと待たせられい」と、呼び止めた。


  藤十郎は二十年来秘めていたお梶への恋心を必死の形相で一気にまくたて、吐露する。だがそれは虚偽であり芝居に過ぎないのだが、芝居という土台のうえで真実にかぎりなく近づこうとするのが役者の業である。藤十郎はお梶に告白しながら芝居の出来が手ごたえがどれほどのものか、自分を冷静に点検するのだろう。また芝居がお梶の深部にまでとどくものか、お梶の反応をも観察するのだ。したがって芝居の完成度に藤十郎が満足すれば、それ以上に踏みこむ必要はない。芝居のための芝居であって、実際の不義密通をあえてなすこともない、ということになる。藤十郎の告白を真実として受け取ったお梶は衝撃的な最期をとげる。
  藤十郎の新作舞台は、お梶にまつわるスキャンダルもあって大当たりする。また藤十郎はお梶の最期に深手を負ったことで、その芸に<罪深い男の苦悩を、ありありと刻んで>ますます磨きがかけられたとある。
  解説によれば、」菊池寛は坂田藤十郎の言行録に刺激を受けてこれを執筆したとある。藤十郎の冷酷さを憎み、相手の女性に同情したようだ。それに反論するのではないが、恋愛における行き違いは小さな事象なら誰でも思い当たるのではないか。ただ取材に刺激されただけではなく、菊池自身の恋愛体験のいくばくかが反映されているのではないかと、わたしは思うところである。
  「ある恋の話」も真の恋愛にはつながらない恋愛感情を主題とする。だまされる側とだます側として二者をわければ、前者があきらかに気の毒である。だが後者がわたしは最初からそのつもりだった、嘘はつかなかったと言われれば引き下がらざるをえないのかもしれない。藤十郎は言葉でもって明確に嘘を語ったが、この篇の主人公はそうではなく、ただ相手がやむなく誤解したという以上ではない。この主人公の「恋愛ではない恋愛」のほうが、どっしりして安定感がある。
  語り手の妻の祖母が彼に昔話を打ち明けるという形式になっている。分限者の商人の家で育った祖母は「蔵前小町」と評判されるほどの美貌の持ち主であったが、家運が傾き、莫大な借金を背負った親による「政略結婚」によって、後妻をさがしていた同じく分限者の商人に嫁がされる。彼は三十歳の年上であり、祖母よりも年長の子供もいて馴染めない。だが一年後に夫は死去し、祖母は生まれたての娘を連れて離縁する。以後、祖母は再婚話をことごとく退けて生涯独身をとおす。
    祖母の唯一の楽しみは芝居見物。染之助という歌舞伎役者にぞっこんになる。彼は家柄もなく人気もない役者で、表情や所作が「質素」で「普通の人」と変わらないが、そこがかえって祖母の恋心に火を着けた。幼い娘の手をひいて毎日のように小屋通いをする。しかし日常の染之助を偶然目にしたとき、たちまち恋心は冷めてしまう。浅草仲見世の「水茶屋」に入る彼をみたときの印象は<役者らしい伊達なところは少しもな>く、美しく凛々しい<舞台の上の染之助とは、似ても似つかぬほど、卑しくて下品で、見ていられないのですよ。>という痛いほどの落胆を抱かされるものだった。そのときの染之助は、遊び人に誘われて賭場に行こうとしていたのでもある。今でもかまびすしく報じられることがあるが、俳優の発散するイメージとプライベートにおける品行との落差の問題だ。不祥事を起こさないまでも、その落差を知ってファンから降りる人も多いだろう。祖母なる女性も最初はそのつもりだったが、やがて祖母は染之助の像を二分して、役者としての染之助に以後も入れあげつづけるという処し方に落ち着く。祖母の語りによる彼のこの「落差」はそれほど鮮明に描かれてはいないが、祖母の選択はきわめて自然に映る。
  祖母はそのころまだ二十代半ばであり、小町と謳われただけに十分うつくしく、毎日のように小屋に通ってくる祖母に、染之助のほうが恋してしまい面会を申し込むが、祖母はにべもなく断る。ただ一度だけ、江戸を離れることになったさい染之介はやっとのことで祖母に会うことができるが、祖母の気持は動かない。その直前、未練たらたらの手紙を祖母に送る染之助。ふられる≒だまされるほうの反応は「藤十郎の恋」の女性とあまりにも対照的である。
  この女性にあてはめるつもりはないが、禁欲を前提とする恋愛や憧れは、男性よりも女性のほうがより長く安定して持続するものなのかもしれない。


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